「マクロスF」の最終回を観た後、先月号のアニメージュの付録「マクロスFトライアングラーBOOK」を引っぱり出してきた。アニメージュを買ったときにはまだ最終回を観ていなかった(スカパー!で一月遅れ視聴のため)ので、未読のまま忘れていたのだ。
その中で河森正治総監督が、あのラストについてこんなことを言っていた。
『−ラストシーンに至るまで、アルトはランカとシェリルのどちらかを選ぶことはありませんでした。
河森「現代は情報が多いせいで、好きかキライか○か×か、なんでも白黒つけたがる時代になっていますよね。ゲームでも、どちらかを選択させるものが増えているじゃないですか。僕は、「マクロスF」のキャラクター達を、表層的な情報だけですぐに白黒つけたがる時代に対するアンチテーゼとして描こうと思った部分があるんです。だから、アルト、シェリル、ランカの三角関係もあえて結論はつけませんでした。アルトが最終的にどちらを選んだかということよりも、その時その時の展開の中で、どのような感情でいたのかというほうを、大事に見ていただきたいのです。」』
監督の時代認識の是非はともかく、気骨ある姿勢だ。
ちょっと思い出語りをさせていただく。
第1作「超時空要塞マクロス」('82)の本放送の時、私は10歳だったが、本作についてあまり良い印象を持たなかったし、良い評判も聞いた覚えがない。今思えばお笑いぐさだが、この時期はちょうど「ガンダム」の劇場版が終わった頃で、「深いテーマ性により大人の鑑賞に耐えるアニメもある」というのが「いい大人がアニメを観ている」言い訳になっていたのだ。「マクロス」は、ファンからポスト「ガンダム」の旗手のような期待を受けていた、と思う。
それが、いざ始まってみたら「軟弱なラブコメ」だったものだから「これはアニメ史に対する退歩だ」的な反発を受けていた。少なくとも私の周り、私の年代にはあれを褒めている人はいなかった。
私も日曜の昼間という時間帯が災いして、本放送はほとんど観ていない。
その風潮の中で、あのラストシーンは結構な驚きを持って迎えられたように記憶している。
優柔不断が優しさと同義だった80年代初頭に、あの「男らしい」結末。
時代に対するカウンターパンチ。上の河森監督のインタビューを読むと、なおさらに感慨深い。
確か河森監督がアニメギガに出演したときに言っていたことだと思うが、「マクロス」では、とにかく「ガンダム」でやっていたことは絶対にやらない、というのが約束事だったのだという。例えば画面分割とか、戦いながらの論争とか。
その「ガンダム」も、スタッフは「打倒ヤマト」の一念で製作していたと伝えられる。
松任谷由実は、「トレンディの女王」と呼ばれることを嫌うのだそうだ。「自分の歌に流行りものは一切入っていない」とのこと。
結局のところ、時代に迎合しないものこそが、時代を超えるということなのだろう。
|