更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2008年11月28日(金)
性懲りもなく

こんな文章書いてしまいましたよ。
もうじき1年になんなんとするというのに。

こだわっていること自体、敵の手のうちという気もするがまあ仕方ない。
ご用とお急ぎでない向きは、お付き合いください。

この文章を書いていてふと思いついたのだが、「コードギアス」って、ピカレスクロマンとして始まりながら、そこを突き抜けて世のため人のために我が身を犠牲にするという境地へ達してしまったわけで、ひょっとすると世界史的に希有な作品かもしれない。


末筆ながら、30000ヒットありがとうございます。
今後とも精進します。

2008年11月24日(月)
「日本のアニメーションに見る日本人の分」

某A大でこういうタイトルの教養講座があったので、聴講してきた。

講師の先生は人間文化学科の方で、言語文化論と異文化コミュニケーションがご専門。留学生の日本語教育にも力を入れておられる。

この講座はいわゆる授業ではなく公開講座的な扱いで、先生も専門に研究しているのではなく半分趣味とのこと。もちろん単位にはならない。

時間にして1時間ほどで、学術的な研究ではないが、日本のアニメーションの歴史、米国のいわゆるカートゥーンとの比較から、そこに見える日本人の「分」という考え方に持っていくなかなか面白いものだった。以下、『 』内は聞き書き。斜体字は私の感想。

『 日本のアニメーションの大きな特徴は、長期TVシリーズを中心に発達したことで、それゆえにシリーズを支えるテーマ性を持つことができた。
例えば、このようなテーマが挙げられる。

使命感・目的意識
@ 正義 アトム、ウルトラマン
A スポーツ 巨人の星、エースをねらえ、アタックNO.1
B 防衛 ガンダム、ヤマト、マクロスとか
C 修業・訓練 魔法少女もの
D 未来・将来 銀河鉄道999
E 愛 タッチとか
F 意地 宇宙海賊キャプテンハーロック

「正義」の例として「六神合体ゴッドマーズ」が出てきたのにはびびった。

一方、使命感のない作品群も当初から存在する。
特に「うる星」は、何年連載しても主人公は高2のままで、年中行事が何度もやってくる。

使命感なし
@ ギャグ 赤塚不二雄の諸作品、Drスランプ
A 非現実 うる星、ポケモン
B H くりぃむレモン以降のエロアニメ

さすがに亜美ちゃんの画像はちゃんと服着てました。

ところが、長期シリーズのストーリーものであっても、使命感の希薄な(又は使命に疑念を抱く)作品群が次第に増加している。

使命感の希薄化
 ウルトラセブン 正義への疑い(ベトナム戦争)
 ガンダム なりゆきでMSに搭乗
 マクロス 何となく入隊
 エヴァ 「みんなが乗れって言うから」
 CCさくら 何のためにクロウカードを集めているのか不明

目的意識の時代的変化は、魔女っ子ものに如実に表れている。
魔女っ子ものはフォーマットが同じでしかも長期続いているため、比較しやすい。

初期の作品群
 サリー 魔法の修業
 アッコ 大人に変身
 メグ 次期女王になるための修業
  ↓
後期の作品群
 クリーミィマミ 歌手に変身
 マジカルエミ マジシャンに変身

成長願望 → 憧れ・個人的夢の実現 へ、目的が変化


こうした変化の原因としては、以下のような事情が考えられる。
 正義感の変化
 絶対的正義の喪失
 民主主義・資本主義の勝利感の薄れ
 将来の希望の喪失
 「高学歴者=勝者」の図式の崩壊
 報いられているという感覚の消失

これらの結果、「過去の価値観への回帰」現象が見られる。
 終戦直後へ 「地下鉄に乗って」
 高度成長期前へ 「ALLWAYS 三丁目の夕日」
 伝統的な「世間」への回帰 「たそがれ清兵衛」「武士の一分」「トトロ」「千と千尋」

このあたり、以前に私が指摘したこれと通底する。

この「伝統的価値観」には、以下の特徴がある。
・勤労の義務
・働けば報われる
・顔見知り、縁故による関係の成立
・貧しいが夢と希望がある
・頑張れば報われる

日本の伝統的タテ社会は、おおむね「家長−家族」という関係を基本にする。
これは企業にも当てはまる。

「リーダー−構成員」の間には、疑似血縁関係が存在し、年功序列・終身雇用に支えられる。

これに対して、欧米では職種ごと、企業を横断して組合を形成
企業間の移動は比較的自由 かわりに資格・ライセンスを重視

日本では「リーダー−構成員」の関係が強固であり、他の企業=共同体との間は排他的。

ただし、「紹介者」があれば、比較的自由に企業(共同体)間の移動が可能

土居健郎「甘えの構造」によると、日本では同心円構造の人間関係がある。

甘え=好意をあてにできること
自分からの距離を基準に、次のようなヒエラルキーが存在

  家族 
   │
  近しい友人 義理、遠慮により維持される 血縁以外はそれなりの対応を要する
   │
  遠い知り合い
   │
  他人 無関係、路傍の石と同じ

このような社会では、
和を保つこと・最大公約数的であること・調整・単一のリーダーより集団指導・平等意識 を重視する。

この社会で求められる誠実さには、「分」という概念が重要
・分を尽くす
 仕事を完遂しようと努力する(完遂するかどうかはあまり問わない)
 全力を尽くす
 能力以上は要求されない
 失敗しても誠意があれば許される
・分を守る
 責任以上のことをしてはならない
 自分の職分を果たさないうちに人のことに手出しをしない
 上の人に口を出さない
 上に世話され、下を世話する

いみじくも、「武士の『一分』」て言ってるしな。

「千と千尋の神隠し」には、「分」の存在が典型的に見られる。

分を尽くす
 湯屋で働く → 勤労の重視
 一生懸命であれば失敗も許される
分を守る
 両親の変身 → 分を超えたための罰
 カオナシから金品を受け取らない → いわれのない報酬は受けない

作中で、ハクは「紹介者」として機能している
千に釜爺を紹介 
千が釜爺にアピールするシーンで、「働きたい」だけでは駄目で、「ハクに言われて来ました」がポイント
「紹介者」としてハクが介在するため、釜爺は依頼を断れない。
釜爺→リンの関係でも同じように、釜爺が「紹介者」として機能する 』


家長を中心としたタテ社会とはよく言われることだが、「紹介者が介在すると比較的自由に共同体間の移動が可能」というのは目新しい概念で、面白かったです。

2008年11月18日(火)
水兵リーベ

さる筋に教えていただいたもの。

文部科学省様謹製、1家に1枚元素周期表。

ファイルがバカでかくて重いけど、頑張って開いてみてください。

拡大してよく見てみると、各元素が一体どんなところに使われているのか、逐一解説してある。

そのおかげで、原子番号59番のランタノイド系元素プラセオジムが溶接ゴーグルに使われているとか、「イッテルビーーーーム!(c竹易てあし)」で(一部で)有名なイッテルビウムがスウェーデンのイッテルビーに由来している、といった貴重な知識が得られるのである。

しかし何と言っても、一番笑ったのがヨウ素。

千葉県が世界一の産出地」。


あの最低限文化的な授業のヨウ素が。
千葉県のヨウ素は世界一ィィィィィィィィィィィィィィ!

2008年11月14日(金)
マクロスというカウンター

「マクロスF」の最終回を観た後、先月号のアニメージュの付録「マクロスFトライアングラーBOOK」を引っぱり出してきた。アニメージュを買ったときにはまだ最終回を観ていなかった(スカパー!で一月遅れ視聴のため)ので、未読のまま忘れていたのだ。

その中で河森正治総監督が、あのラストについてこんなことを言っていた。

『−ラストシーンに至るまで、アルトはランカとシェリルのどちらかを選ぶことはありませんでした。
河森「現代は情報が多いせいで、好きかキライか○か×か、なんでも白黒つけたがる時代になっていますよね。ゲームでも、どちらかを選択させるものが増えているじゃないですか。僕は、「マクロスF」のキャラクター達を、表層的な情報だけですぐに白黒つけたがる時代に対するアンチテーゼとして描こうと思った部分があるんです。だから、アルト、シェリル、ランカの三角関係もあえて結論はつけませんでした。アルトが最終的にどちらを選んだかということよりも、その時その時の展開の中で、どのような感情でいたのかというほうを、大事に見ていただきたいのです。」』

監督の時代認識の是非はともかく、気骨ある姿勢だ。

ちょっと思い出語りをさせていただく。
第1作「超時空要塞マクロス」('82)の本放送の時、私は10歳だったが、本作についてあまり良い印象を持たなかったし、良い評判も聞いた覚えがない。今思えばお笑いぐさだが、この時期はちょうど「ガンダム」の劇場版が終わった頃で、「深いテーマ性により大人の鑑賞に耐えるアニメもある」というのが「いい大人がアニメを観ている」言い訳になっていたのだ。「マクロス」は、ファンからポスト「ガンダム」の旗手のような期待を受けていた、と思う。

それが、いざ始まってみたら「軟弱なラブコメ」だったものだから「これはアニメ史に対する退歩だ」的な反発を受けていた。少なくとも私の周り、私の年代にはあれを褒めている人はいなかった。
私も日曜の昼間という時間帯が災いして、本放送はほとんど観ていない。

その風潮の中で、あのラストシーンは結構な驚きを持って迎えられたように記憶している。
優柔不断が優しさと同義だった80年代初頭に、あの「男らしい」結末。

時代に対するカウンターパンチ。上の河森監督のインタビューを読むと、なおさらに感慨深い。
確か河森監督がアニメギガに出演したときに言っていたことだと思うが、「マクロス」では、とにかく「ガンダム」でやっていたことは絶対にやらない、というのが約束事だったのだという。例えば画面分割とか、戦いながらの論争とか。
その「ガンダム」も、スタッフは「打倒ヤマト」の一念で製作していたと伝えられる。

松任谷由実は、「トレンディの女王」と呼ばれることを嫌うのだそうだ。「自分の歌に流行りものは一切入っていない」とのこと。

結局のところ、時代に迎合しないものこそが、時代を超えるということなのだろう。

2008年11月10日(月)
眼鏡男子映画としての「LAコンフィデンシャル」

突然ヒドゥン」('87)が観たくなって(笑)DVDを買いに行ったら、「LAコンフィデンシャル」のDVDが再発売されていた。昔発売されたものはLDの方がマシという位の画質で、がっかりしていたのだ。今回はHDマスターから落としていて、DVD時代の最後を飾るにふさわしい出来栄え。

ところでこの映画すでに10数回は観ているが、今回初めて気がついたのがガイ・ピアース演じるエドの眼鏡の扱い。エドはインテリのスーパーエリート警官だが、刑事部を希望する。荒っぽい刑事部に眼鏡は似合わないと助言され、映画の前半では外している。
出世の鬼である彼は、ある凶悪事件の捜査で犯人グループを単身射殺し、一躍英雄になる。しかし彼らは、その事件に関しては無実だった。エドは自分が警官になった動機を思い出し、出世も体面も捨てて真犯人を探り始める。
そしてこのときから、再び眼鏡をかけるのである。

キャラ造形において眼鏡は知性を示す記号だが、この映画の中でエドの眼鏡はまさしく「正義と真実を見据える目」として機能している。

クライマックスで真犯人を倒したエドは、再び事件を出世に利用し勲章を手にするのだが、この叙勲式ではまた眼鏡を外している。作り手が非常に自覚的に、眼鏡という小道具を用いていたことが解る。


・・・・・・ところで、「ヒドゥン」は「ヒドゥン」でB級SFアクション映画の傑作なのだが、この映画にダニー・トレホが出演しているのに初めて気づいた。「ヒート」でデ・ニーロの強盗グループの一員を演じていた人。宇宙人に寄生された警部が留置場を襲撃するシーンで、警部に余計なことを言って射殺される容疑者、というどうでもいいような役。ヤクの売人一筋30年、という感じの役者だが、少し作品選んだ方がいいんじゃ・・・・・・。

2008年11月6日(木)
雑感いろいろ

毎日欠かさず読んでいるサイトの記事から。

と言ってもだいぶ前の話なんですが、まずはこちら。

ある日突然現れたヒロインと同棲し始める作品をあえて中二病批判しないテスト

簡単に言うと、いわゆる落ちもの話は、「世界から与えられた恵み」の話形を原型にするのではないか、という考察なのだが、私がこれを読んで連想したのが、今川版「ジャイアントロボ」だった。

この作中でのジャイアントロボは、大作が父から訳も分からず与えられた巨大な力である。
大作はひたすら父の遺言に従って、その力を行使することになる。

「鉄人28号」ではさらに進んで、鉄人は正太郎にとって父の遺産である上に、戦争という過去の負債まで背負っている。しかも初登場では、文字通り空から落ちてくる。

ここで、「天から落ちてきたもの」は完全に、「恵み」ではなく「呪い」として機能している。
福音か呪いかは、それが「天の恵み」か「人の所産」かで別れるのかもしれない。

なんか簡単すぎてつまらないが、とりあえずここまで。


もう一件。竹熊健太郎氏のブログより、

「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」(2)
宮崎アニメに関する講義のレジュメだが、こんなくだりがある。

『宮崎によれば、自分が作品の中で「落下と上昇」にこだわるのも、上下移動は平面移動と違って「登っているのか下りているか、観客は直感的に理解する」と言うのだ』

私は以前、細田守監督の「時をかける少女」についてこんなことを書いている。
「上昇と転落」は、「時かけ」で繰り返し描写される重要なモチーフだ。これが細田監督の作品全般に通底するものかどうか、私には判断つかないが、宮崎監督が細田監督に目を留めたのは、もともとこの辺に共通するものを感じたからかもしれないなあ、などと考えてみた。

2008年11月4日(火)
サトジュン

去る11月3日、早稲田大学での佐藤順一監督講演会を聴いてきた。
題して、「サトジュン流素敵なアニメの作り方」。以下はその内容のメモ書き。斜字体は、私の感想。


−佐藤監督作品は、音楽の使い方が物語の流れとよくマッチしているが。
「自分の出身である東映は、伝統的に各話演出が音響演出もやるので、そのときに身に付いたものだと思う。絵コンテの段階で、音楽に合わせて作りこんでいく。劇場作品だと音楽と絵コンテが同時進行になることがあるので、そういうときは後で編集をいじったり苦労する」

−声優に新人を起用することが多いのは。
「作中での主人公の成長と合わせる意図もあるが、子供向け作品では、主人公は『新しい友達』と認識される。そうすると、以前聴いたことのある声よりも耳新しい声の方がよい」

−「カレイドスター」の演技指導の厳しさは有名だが。
「本当は鶴岡陽太音響監督に任せるつもりだったのだが、鶴岡監督に別の仕事が入ってしまい、特に居残りでリテイクするような場合は自分でやる羽目になった」

−声優の重要性は。
「キャラクターは、声優が決定するまで完成しない。作品がスタートしてからも、何話かをかけて出来上がっていくもの。事務所的、タレント的な事情で主役が先に決まっている場合でも、事前に相談してもらえれば、その声に合わせてキャラを作っていくので問題ない。最悪なのは、声はこの人、キャラはこんなの、と決まってしまっている場合」

−キャラクター作りの秘訣は。
「『意外な部分』を作ること。ただし、『ありえない』と思わせてしまっては駄目なので、バランスが肝心」
「主人公のヘタレ具合の許容度は、時代によって変わる。『セーラームーン』をやっているころ、主人公にギャグをやらせたらベテランのプロデューサーに『主人公にあんなことやらせたら駄目だよ!』と注意された。ところが、つい先日『しゅごキャラ!』で主人公が変態呼ばわりされているのを見て、ぎょっとした。あの時のプロデューサーは、こういう気分だったんだろうな、と」
「『セーラームーン』は作品自体が戦隊もののフォーマットに則っているが、変身シーンのバンクは、実はロボットアニメの文法に沿ったもの。頭部、胸、腕、脚、と順番にガシーンと変型合体していくのと一緒」
大きなお友達に受けたのは、案外これが理由なのかもしれませんな。

−原作ものを手がけるときの注意は。
「必ず、原作者と直接会って打ち合わせをすること。マンガとアニメは根本的に違うメディアで、決して同じにはならない。アレンジが必要になるが、そのハンドリングはいくらでもできる。しかしその作品の『芯の部分』、原作者がどこに対して愛情を注いでいるかを決して見誤ってはならない。それを押さえておけば、『この作品では何が絶対にNG』かも解る。何と言っても、作品に一番愛情を持っているのは原作者。自分はいわばお子さんをお預かりしている立場。一番は無理だが、二番目くらいに愛情を注いでいる立場でありたい」
「監督として、この作品をこんなに愛しているんだ!という姿勢を見せないと、誰もついてこない」

−他の監督の作品に参加するときの気持ちは。
「絵コンテのみの参加の場合、その監督がどこに一番愛情を注いでいるか、が解っていないと困る」

−演出について。
「例えば、コップの持ち方一つ、横から持つのか上から掴むのか、それだけでも感情移入の入り口になる。仮に男女3人が話しているシーンがあるとする。これを、3人とも突っ立っているだけ、喋っている者にクローズアップ、みたいな絵コンテを平気で描いてくる奴がいる。そういうのは、何かを放棄している。腕を組んでみたり横を向かせてみたり、それだけで空気感というものが変わってくる」
「何かを放棄している」という強い言葉を使われたのが印象的でした。

−昨今の萌えキャラについて。
「記号化が悪いとは言わない。反応が予測できるというのは、観客がキャラを理解した気分になれるのでキャラを立たせるのに有効な手法ではある。しかし人間はそれだけではない。現実へのフィードバックがなく、記号だけで完結しすぎるのは窮屈」

−近年のアニメの傾向について
「『失敗しない方向』を意識しすぎ。きちんとお客さんの方を見ていない。なぜ受けるかを分析せずに表層だけ真似るから、似たような作品ばかりになる」
「かつてのTVアニメはオモチャの宣伝媒体だった。今はDVDを売って利潤を出す、というモデルになっているが、その方式も限界に来ているのではないか」
「TVアニメに多様性がないため、子供がアニメから一度離れると戻ってこない。将来の客層を開発できずに縮小再生産に陥っている」

−作品作りで大切なことは。
「観る人に楽しんでもらうこと。自分の好きなものに全力投球すれば、自分だけが楽しいものにしかならない。自分はマイナーな存在であることを自覚すべし」
「人形劇は子供の反応がダイレクト。例えば舞台右手で芝居をしているときに、左手から誰かが入場しても気がついてもらえない。だから、「あれは何だ!」とセリフやアクションを入れて注意を惹いてやらねばならない。ベタなように見えても、そういう工夫は大切」
「魔法少女ものは、『魔法との訣別』が結末であるものだと思う。卒業と言ってもいいし、成長であったり進路の選択であったり、あるいは振り出しへ戻るでもいい。それがドラマの中での決着になっていればいい」
「子供に対しては、堂々とキレイゴトを言うべき。いずれは現実に気づくだろうが、その矛盾を抱え込んでいけばいい。現実がそうだからと言って理想を捨ててしまうのは、かえって安易」

−これからアニメ作りを目指す人に一言。
「失敗を恐れて、『叱られないコンテ』を切ってきたり、細かな指示をほしがる人が多い。失敗を恐れず何でも挑戦すればいい」


学生イベントなので進行にイライラするところもあったが、内容の濃い2時間半でした。
しかし何と言っても一番面白かったのは、誰も聞いてないのに延々と自分語りを始めた司会に対して、「恥ずかしいセリフ禁止」と切って捨てたとき。痛快でした。


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