更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年8月14日(金)
眼鏡

「とらドラ!」を観ていて気になっていた表現。



横顔のアップのとき、眼鏡のつるを省略してしまうという技法(と、言って差し支えないだろう)。
もちろん、瞳がちゃんと見えるようにという配慮だ。

同じJ.C.STAFFの新作「青い花」でも踏襲されていた。



キャラクターデザインは別の人だから、カサヰケンイチ−長井龍雪ラインの特徴なのかもしれない(念のため書いておくけど、この技法そのものはもっと昔からあるんだろうと思う。あくまで私が意識して観始めたのが「とらドラ!」ということだ)。

再確認しよう。

ひとつ。アニメにおけるリアルとは、写実性ではない。
ふたつ。必要ないものは描かなくても良い。

日常的なアニメ(ロボットやら魔法少女やらが出ないという意味で)を見ると、「なぜ実写でやらないの?」と言う者が今でもいる。
これがその答えだ。

アニメにはアニメでなければできない表現がある。

2009年8月8日(土)
「鋼の錬金術師」3話ほか

本日小ネタをまとめて。

その1
「ハガレン」3話「邪教の街」でやっていた、ちょっと変わったカメラワーク。教会の中で語るエドとロゼ。



画面分割自体は別に珍しい技法ではないが、このカットは下図のように



右のエドはフィックスで左側のロゼにだけズームしていくのだ。左右ともにズームする、又は片方はズーム片方は引くというのは時々あるけど、一方だけにズームしていくのはあまり見た覚えがない。
このシーンは一見ダイアローグに見えながら、エドの言葉はロゼの心に刺さるのに対して、心身共に鋼の鎧をまとうエドにロゼの言葉は届いていない、という表現なのだろうと思うが。
こんな簡単な工夫で味のある画面が作れるものなのだなあ、と。


その2
「ダークナイト」のちょっとした伏線
「ダークナイト」の中盤、バットマンことブルース・ウェインは地方検事ハービー・デントに後を託してバットスーツを脱ぐことを決意する。しかしその後、デントは「実は自分がバットマンだ」と爆弾発言、逮捕される。護送中のデントを、ジョーカーが襲う。そこへ現れるバットマン!

私は、この一連のシークエンスが急ぎすぎだと思っていた。
さっきバットマンをやめると言っておいて、すぐまた登場してしまうんだもの。もちろん物語上の要請ではそれが正しいというのは解る。上映時間もまだ半分だし(いわゆる折り返し点、ミッドポイントだ)。
しかし、バットケイブを閉鎖する描写までしているのだから、もう一度バットマンを演じようと決意するための葛藤が必要なはずだ、と感じていたのだ。

ところが、観返してみて気がついた。これ、ちゃんと伏線が張られているのだ。

この映画で執事のアルフレッドが初登場するシーン。DVDで13分目。
昨夜の首尾を語り、自分で傷口を縫うウェインに、アルフレッドは「限界を知るべきです」と諭す。

ウェインは「バットマンに限界などない」と返す。
アルフレッド(A)「でももしそのときが来たら?」
ウェイン(W)「そのとき、君は『だから言ったのに』と言うだろうな」
A「本当にそのときが来たら、言いませんよ」

というやりとりをする。

で、バットケイブ閉鎖のシーン。1時間10分目。

W「今日こそ、『だから言ったのに』と言ってくれ」
A「そういう気分では・・・・・・」
で、少し間を置いてから
A「だから言ったのに!」

つまり、逆説的に「今はまだバットスーツを脱ぐべきときではない」と言っているのだ。
だから、「もう一度バットマンになろうと決意するシーン」なんて必要ないわけ。

ついでに原語も確認してみた。最初のやりとりは、

A : And what's gonna happen on the day that you find out?
W : We all know how much you like to say "I told you".
A : On that day, Master Wayne, even I want do that.

バットケイブ閉鎖時のやりとりはこう。

W : Today, you get to say "I told you".
A : Today, I want to・・・・・・But I did bloody tell you.

日本語字幕ではどちらも「だから言ったのに」だが、言い回しが違う。bloodyは単なる強調の意でいいのかな?この辺のニュアンスの違いは私の英語力ではくみ取れない。語学力のある方にご教示頂きたい。


その3
毎週楽しく観ている「佐武と市捕物控」の実写合成。

背景が実写だったり



実写画面上でセルが動いたりするのは別に驚かないが(カニが歩く。上の図は止め絵)、



キャラクターの脚まで実写にしちゃうというのは大胆だ!



斬られた血の表現。



水槽に絵の具を落としたのを撮影している。
日本のTVアニメ表現の原点はここにある、というのはこういう実験精神を指しているのですな。
「絶望先生」はまだ甘いぞ。がんばれシャフト。

なお、この回は小林清志と井上真樹夫がゲスト出演していて笑った。


おまけ。
「青い花」第3話から今週の山節。

「送ってくれて、ご苦労様」。

「ありがとう」じゃなくて。
これが許嫁に対するセリフなんだもの。ただこれだけで人間関係が解る。

山文彦脚本で、1話絵コンテ・演出がカサヰケンイチ。2話が長井龍雪。
残念ながら長井の担当はこれだけらしいが、それでも幸せすぎます。

2009年8月1日(土)
アニメと人形と死体

「ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢」を観てきた。

アードマンだしニック・パークだし、作品そのものは某有名SFアクション映画のパロディも含めて安定的に面白いんだけど、パンフレットに三谷幸喜が寄稿していて、ちょっと面白いことを書いていた。

『僕は人形に関わっている人たちにとって、人形を殺すことは実はすごく魅力的な事のような気がしています。例えば文楽は心中モノが多いですが、目の前で人形が死ぬのを見ると、ものすごいショックなんです。黒子の人たちが人形を置いてすっといなくなる。するともう、まったく動かないなきがらになってしまうというのが、怖い。ドラマや舞台で人が死んでも、それは役者さんだから怖くないんです。ただ「死んだ芝居をしているな」と思うだけで。でも目の前で人形が死ぬと、本当に死んでいるんですよ。さっきまで動いていたのが、ただの塊になってしまう。それはやはり人間では絶対にできません、人形の持っている“凄み”のようなものです。』
 スタジオジブリ発行「熱風」6月号より抜粋

プロの演出家も、あれは死体らしくないと思ってたんだ。
この実写映画における死体の問題については、私も以前こんなことを書いている。死体を演じるには、何か具体的なノウハウがあるんじゃないかと思っていたのだが。

そこで思い出したのは、押井守のこの発言。

『「攻殻」では、骨格と筋肉と皮膚をね、リアルに感じられるようなキャラクターで、戦車の上で自分の体をぶっ壊しちゃうっていう、あの芝居をどうしてもやりたかった。自分の体を破壊するというのは、凄く官能的な匂いがしたんです。エロティシズムを感じた。で、やってみたら、やっぱり凄い事になった。僕は、あのシーンが一番気に入ってる。
(中略)
筋肉の芝居ができてるんです。あそこをやった原画マンも優れているけど、作監をした沖浦も大したもんだと思ってる。掴んで振り回したときの体の重さの表現とかね。あの場面は、素子の体がもうコントロールできなくなって、モノになってるんだよね。モノになってる人間の体を、アニメーションで表現したのは、自慢じゃないけど、おそらくあれが初めてだと思うよ。何故なら、アニメーションは死体が描けないから。死体も生きてる体も、アニメーションの絵柄から言えば、同じものだからね。だから、死体を表現したアニメーションは存在してない。あの場面でやりたかったのは死体なんです。』
「押井守のアニメスタイル」『アニメスタイル第2号』81頁。


三谷が「動いていたモノが静止するのが死」ととらえているのに対して、押井は「絵柄=表現様式が同じである以上、生命と死の描きわけは(それだけでは)できない」と言っている。
この2つの見解は、「人形劇とコマ撮りアニメの差違」とか「生命感を感じさせるのは何か」とか、なんか凄く本質的な問題に触れてるような気がするんだけどうまくまとまらない。
とりあえずメモしておく。


ところで、「熱風」というのはジブリが発行している非売品の小冊子、だそうだ。

 →http://www.ghibli.jp/shuppan/np.html

たかがアニメスタジオの雑誌に三谷幸喜が寄稿してくれるなんざ、いい時代と言うかさすがジブリ様と言うか。



見返してみたら、7月は3回しか更新してなかった。
ここのところ忙しくて、10月くらいまではこんな感じですが、気長にお付き合い頂けると幸いです。

・・・って「ヱヴァ破」の公開からもう1ヶ月も経ってる!

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