知られざる巨匠たち 4

「世界探偵小説全集」 第1期の月報に連載されたコラム。本邦未紹介の作家や、
過去に邦訳があっても不当に忘れ去られていた作家を紹介。その多くは第2期以降に収録された。
(この頁の原稿は、執筆者および国書刊行会の御好意により再録しています。記して感謝いたします)

グラディス・ミッチェル
クリスティのアンチテーゼ

宮脇孝雄

 日本人がディクスン・カーを語るときに、江戸川乱歩という名伯楽を無視できないように、ある種の作家には 「大読者」 とでも呼ぶべき存在が影のように寄り添っている。グラディス・ミッチェルも、そんな 「大読者」 に恵まれた作家の一人である。その 「大読者」 の名前をフィリップ・ラーキンという。

 ご承知のように、ラーキンは戦後英国の代表的な詩人で、エドマンド・クリスピンの親友としても知られているが(クリスピンの傑作 『消えた玩具店』 はラーキンに捧げられている)、1982年にそのラーキンが発表した 「偉大なるグラディス」 The Great Gladys という書評は、乱歩の 「カー問答」 にも匹敵する名文で、すでに過去の作家と見なされていたグラディス・ミッチェルヘの熱烈なラヴレターでもあった。その結果、以後の再刊本 (たとえば Sphere Books や Hogarth Press のペーパーバック) の表紙や見開きには、ラーキンの名前とその賛辞が刷り込まれるならわしになっている。

 グラディス・ミッチェル (Gladys Maude Winfred Mitchell) は、1901年オックスフォードシャーのカウリーに生まれ、ロンドン大学のゴールドスミス・コレッジやユニヴァーシティ・コレッジで歴史学を専攻したあと、1961年に引退するまで、ロンドンやミドルセックスの学校で国語と歴史を教えていた。つまり、教職のかたわら探偵小説を書いてきたわけだが、処女作『迅速な死』Speedy Deathが発表されたのは1929年で、それ以来、83年に亡くなるまで90冊近い作品を発表している。その中には、マルコム・トーリー (Malcom Torrie) やスティーヴン・ホッカビー (Stephen Hockaby) という筆名で発表された普通小説や9冊の児童物も含まれているが、探偵小説は66冊あり、探偵役としてミセス・ビアトリス・ブラッドリイがすべてに登場している。

 そのミセス・ビアトリス・ブラッドリイ (フルネームは、Beatrice Adela Lestrange Bradley) は、素敵にエキセントリックな名探偵である。精神分析の専門家で、英国内務省のコンサルタントを務めているのだが、17世紀にさかのぼれば、先祖に魔女がいる、というのが変わっている。その風貌にも魔女的なところがあり、『迅速な死』 に初登場する場面では、「ドイツの博物館に飾ってある翼手竜の複製を思わせる」と描写されていた。32年の 『ソルトマーシュの殺人』 The Saltmarsh Murders 【第3期で刊行】や45年の 『月が昇るとき』 The Rising of the Moon 【晶文社ミステリで刊行】が代表作だろう。

 フィリップ・ラーキンが指摘したように、グラディス・ミッチェルの特徴は、扇情主義、メロドラマ趣味をあくまでも廃したところにある。だからといって、地味な作風かといえば、決してそうではない。考えようによっては、めったやたらに派手な (特に発端の状況が) 作風なのだが、それでいて扇情的ではないのである。

1943年の作品、『ソーホーの落日』 Sunset Over Soho を例に取れば、そのあたりの話もわかりやすくなる。この長編の舞台は、ドイツ軍の空襲が行われていたロンドンである。空襲で焼け出された人々は、爆撃をまぬがれた建物で避難生活を送っているが、ある日、衆人環視の中で、その避難所に、突如、古びた棺が出現する。棺を開けてみると、中には死体が入っていた。その死体は明らかな他殺体で、しかも、死後数年が経過していたのである。

 常に人の目がある一種の密室状況で棺が出現するのだから、普通の作家なら、鳴りもの入りの文章で、ここぞとばかりに盛り上げようとするだろう。ところが、ミッチェルは、会話で軽く処理するだけなのだ。「あのお、変なところに棺が落ちてたんですが」 「あら、そう」 という具合に。死体の発見の場面も同じ調子である。「ええと、きのうの棺ですが、中に死体がありましてね」 「あら、そう」 「どうしましょうか」 「ほっときなさい」

 ミセス・ブラッドリイは、避難所の世話役の一人として事件に巻き込まれる。ところが、この他殺体入りの棺は脇筋に追いやられ、読者は、いつのまにかぜんぜん違う話が始まっていることに気がつく。もちろん、最後には棺の謎が改めて解き明かされるのだが、作品によっては、最初の謎が解決されないまま放り出されることもある。腹を立てる人もいるに違いないが、このあたりの融通無碍な感覚、ノンシャランスな書きっぷりがファンにはたまらない魅力なのである。その特徴は晩年まで変わらなかった。

 約10年のずれはあるものの、ミッチェルの作家歴はアガサ・クリスティのそれとほぼ重なっている。クリスティが扇情主義、メロドラマ趣味を上手に取り入れて大量の読者をつかんだのに対して、ミッチェルはまったく逆の道をたどった。いわば、クリスティに反措定 [アンチテーゼ] を突きつけたあっぱれな作家だったのである。

(1995.3)

【books】

  • 『ソルトマーシュの殺人』 グラディス・ミッチェル 世界探偵小説全集28
  • 『トム・ブラウンの死体』     〃  ハヤカワ・ミステリ・絶版
  • 『消えた玩具店』 エドマンド・クリスピン ハヤカワ・ミステリ文庫

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