知られざる巨匠たち 9

「世界探偵小説全集」第1期の月報に連載されたコラム。本邦未紹介の作家や、
過去に邦訳があっても不当に忘れ去られていた作家を紹介。その多くは第2期以降に収録された。
(この頁の原稿は、執筆者および国書刊行会の御好意により再録しています。記して感謝いたします)

ナイオ・マーシュ
楽しい舞台、趣味の味つけ

浅羽莢子

 英米でセイヤーズ、クリスティと並び称されるナイオ・マーシュは、生まれた年も執筆を開始した時期も近く、それだけに日本ではふたりの亜流のように見られ、紹介もおざなりにされてきた感がある。確かに共通点はあるものの、全く違った楽しさを持つ作家だというのに、もったいない限りだ。

 マーシュ作品は謎の種類からいえば犯人当てであり、奇抜なトリックに依存するものではない。セイヤーズ、クリスティとの差がどこにあるのかといえば、32点ある長篇においてさまざまに変わる舞台設定の妙、伝統ミステリの枠の味つけに自分の趣味を巧みに取り入れたこと、そして探偵役のロデリック・アレン警部(のちに首席警視にまで昇進)が配偶者を得、子供を得、またその子が大人になる、シリーズものならではのひろがりだろう。

 作品の舞台は大きく分けて、英国のどこか、演劇の世界、マーシュの母国ニュージーランド、そして (海外とは限らないが) 船旅の4タイプで、特に、ミステリを書く前は紀行文を新聞に発表していただけに、ニュージーランドや旅ものは全てといっていいほど魅力的である。

 演劇の世界を舞台にしたものがあるのは、マーシュ自身が舞台に興味を持ち続け、ニュージーランドの演劇復興に尽力したからで、『ドルフィン劇場に死す』 Death at the Dolphin (1966) などの商業演劇はもちろん、『死の序曲』 (1939) の素人芝居にも、台本選びや配役など、現役の演出家ならではの描写が盛り込まれている。

 旅と演劇に次ぐマーシュの第三の趣味といえば絵画で、画家を志した時期もあったらしい。ここから生まれたのが、のちにシリーズの中で重要な役割を果たすことになる、アレンの妻で高名なな肖像画家のアガサ・トロイだった。

 アレンとトロイ (結婚後も旧姓で仕事を続け、アガサと呼ぶ人はほとんどいない) は旅先で知合うのだが、アレンのほうは以前からトロイの絵のファンであったものの、その時は面識を得た程度で終わる。その後、トロイが数人の若い画家志望を集めて開催した特別講座で殺人事件が発生し、アレンが捜査に派遣されることになる。この 『芸術家たちの犯罪』 Artist in Crime (1938) は、生首が転がったり何だりして道具立てが派手なわりに、アレンとトロイの恋物語のほうに読者の眼がいってしまうきらいがあるが、結局、事件はみごと解決してもトロイが警官という職業にどうしてもなじめず、アレンは失恋してしまう。なんだ、ピーター卿とハリエット・ヴェインのなりゆきかと思っていたらトレントだった、と読者は思い込む。

 ところがすぐ次の作品 『死は夜会服を着て』 Death in a White Tie (1938) でトロイが再登場し、今度こそアレンは、犯人捜査においても恋においても勝利者になる。出版社側はご多分に洩れず、主人公の探偵の結婚がイメージダウンになると案じたらしいが、そんなことはなく、むしろトロイにもファンがつくという好結果になったようだ。

 スコットランド・ヤードの辣腕捜査官という立場柄、アレンは必要とあれば英国の隅々はもちろん、外国にもしばしば派遣される。時には身分を隠して捜査することもある。

 英国が舞台の作品では、公けの立場での正式の捜査であるから、時に事情聴取の場面が延々続き、読む側が疲れたりもするのだが、隠密捜査にはそれがなく、そのぶんびしっと全体が締まって感じられる。

 その一例が 『帆の中の歌声』 Singing in the Shrouds (1958) だ。ロンドンで連続して若い女の絞殺事件が起きている。最新の被害者の身辺を調べた結果、まだ誰ともわからない犯人がその夜にも港を出る船に乗り込んだことのみ判明する。アレンが送りこまれ、身分を隠して乗客にさぐりを入れる。やがて乗客の女性にも危険がおよぶ。直接尋問することができないまま、さりげない普通の会話だけを通して、アレンは次第に犯人像に追っていくのである。

 マーシュは一度作った人物を手放すのがいやだったのか、ある作品で重要な役割を果たした人間を、数年後に別の事件に脇役として登場させたりして、シリーズもののよさを生かしているが、トロイ、そしてやがてふたりの間にできる息子のリッキーのことも、アレンの単なる背景にとどめることなく、積極的に活用した。トロイは傑作 『そこらじゅうに警官が』 Clutch of Constables (1968) を含むいくつもの作品で活躍するし、リッキーは6歳の時に 『ハイミスたちがあぶない』 Spinsters in Jeopardy (1953) で誘拐され、成人したのちも 『最後の溝』 Last Ditch (1977) で事件に巻き込まれている。

 こうして、毎回変化に富んだ作品を読者に提供しようと努力を惜しまなかったマーシュだが、1982年に87歳で亡くなった。絶筆は、究極の 『マクベス』 演出を盛り込んだ演劇もの 『光が澱む』 Light Thickens (1982)。完成したのは死の6週間前だった。

(1995.11)

books】

  • 『ランプリイ家の殺人』 ナイオ・マーシュ 世界探偵小説全集17
  • 『死の序曲』 ナイオ・マーシュ ハヤカワ・ミステリ (絶版)

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