知られざる巨匠たち 10

「世界探偵小説全集」第1期の月報に連載されたコラム。本邦未紹介の作家や、
過去に邦訳があっても不当に忘れ去られていた作家を紹介。その多くは第2期以降に収録された。
(この頁の原稿は、国書刊行会の御好意により再録しています。記して感謝いたします)

キャメロン・マケイブ
1937年の新本格


 キャメロン・マケイブの 『編集室の床に落ちた顔』 のことは、宮脇孝雄氏の名エッセイ 『書斎の旅人』でも1章を割いて紹介されているので、ご記憶の方もいることだろう。1937年に発表されたこの作品の作者は、当時謎に包まれていたが、70年代に復刊されたときに、本名エルネスト・ヴィルヘルム・ボルネマンという亡命ドイツ人であったことが明らかにされた。ナチズムの台頭を嫌ってイギリスに亡命したボルネマンは、覚えたての英語で、わずか22歳にしてこの傑作を書き上げたのである。

 名著の誉れ高いミステリ史 『血まみれの殺人』 (1972) で、ジュリアン・シモンズが 「めくるめくような、おそらく幸いなことに二度と繰り返しえないトリックの宝庫」 と絶賛したこともあって、『編集室の床に落ちた顔』 は、探偵小説黄金時代の古典としての地位を獲得した。しかし、これは 「探偵小説」 というジャンルへの大胆きわまる挑戦であり、90年代日本 〈新本格〉 を先取りしたかのような、特異なミステリでもあった。

 語り手はキャメロン・マケイブ、ある映画製作会社の編集主任である。マケイブは新作の編集中に上役から、すでに撮影済みのフィルムから、ある新人女優の出番をすべてカットするようにとの理不尽な指示を受ける。そして、その翌朝、編集室の床に血を流して横たわる問題の女優の死体が発見される。タイトルの「編集室の床に落ちた顔」とは、何らかの理由で編集中にカットされてしまった俳優をあらわす映画界の言葉だが、ここでは、それが二重の意味で実現されてしまうことになる。

 夢やぶれた女性の自殺なのか、それとも殺人か。背後には、俳優たちや撮影所スタッフのからんだ複雑な男女関係があり、死んだ女優にも隠された過去があった。現場には新開発の自動カメラがひそかに設置されていたが、事件を撮影していたと思われるフィルムは紛失していた。登場人物は誰もがみな探偵を気取り、次から次へと新しい推理を披露しては、他者の推理を否定する。事件は何度も繰り返し異なる視点から描かれ、重層的な語りの中で、何が本当に起こったかは、ますます曖昧なものとなっていく。

 第1次大戦後隆盛を誇った長篇探偵小説は、19世紀的な小説の規範を破壊したモダニズムの文学でもあった。ヘミングウェイ、ジョイスなどの新しい文学の洗礼をうけた新世代作家 (作者自身、故郷喪失者の多言語作家であり、いわばナボコフの精神的兄弟であった) であるマケイブは、メタフィクション的自己言及、意識の流れ、ハードボイルド・スタイルを自在に駆使し、映画、車、ジャズ、ナイトクラブなど、時代のトレンドを取り入れながら、30年代西欧知識人の喪失感と閉塞感を鋭く描き出していく。

 そして、「どうせ、本当に重要なことは探偵小説の中には書かれてはいないのだ」 とうそぶき、「どんな探偵小説においても、無限の終り方が可能である」 という作者は、物語の最後に付されたエピローグで、ある登場人物の口を借りて、堂々たる探偵小説論を展開しながら、読者を唖然とさせるような、とんでもないことをやってのける (どうとんでもないかは、読んでからのお楽しみ)。あるいは 『虚無への供物』 も 『ウロボロスの基礎論』 も、すでにこの1937年に発表された作品の中で用意されていた、といってもいい。これぞ 「探偵小説へのレクイエム」 ともいうべき、黄金時代ミステリ最大の問題作である。 

(1999.31)

【books】

  • 『編集室の床に落ちた顔』 キャメロン・マケイブ (世界探偵小説全集14)
  • 『書斎の旅人』 宮脇孝雄 (早川書房)
  • 『血まみれの殺人』 Bloody Murder ジュリアン・シモンズ →『ブラッディ・マーダー』 として新潮社から刊行された。

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