塑 像

大阪圭吉


 考古学者兜山博士の特別古物蒐集室は、N美術研究所から公園へ通ずる山の手の静かな道路に面して、美しい秋楡の繁みに三方を包まれながら、古風な、そしていとも陰欝な姿を横えていた。
 毎日夕方が来て、道路に面したその二重張りの高い厳重な硝子窓に、仄白い室内の灯がボンヤリと映え渡る頃になると、美術研究所の生徒達は、一日の精進に疲れた足を引き摺って灯の街の娯しい休息を求める為めに、静かな道路を公園の方へ下って行った。そして年若い彼等は、博士の蒐集室の前を通る度毎に、言い合した様にその高い窓を見上げるのだ。――重苦しい曇硝子には、薄暗い室内の灯に照らされて、均斉的【シムメトリカル】な女人の彫像が、大きな影を映していた。
 兜山博士は、恰度三年前の五十歳で、十九歳の処女と結婚した。そして博士は、その若く美しい花嫁を、蒐集室に安置された上古時代の埴輪類にもまして、吾が子の様に愛していた。けれども茲に悲しい事には、結婚後二月三月と日を経るにつれて、生来余り丈夫でなかった美しい彼女は、次第次第に痩せ細って行った。そして、到頭、限りない博士の愛惜の内に、花嫁の魂は、天国へ登って了ったのだ。――それからと言うものは、博士は再び結婚前の独身に戻って、ひたすら考古学の研究に没頭し始めた。そして何日の頃からとなく、夜が来て、その部屋に仄白い灯の点く頃になると、窓の曇り硝子には、均斉的【シムメトリカル】な女人の裸像が、大きな影を映すようになっていた。
 N美術研究所の生徒達は、だから、堪え難い寂しさへのせめてもの慰めとして、早世した美しい花嫁の塑像を、貴重な古物と共に飾り立てたのであろう兜山博士の気高い愛情の具現を忍び仰いでは、藝術家らしい感激に浸っていた。
 が、暫くする内に、若い多感な生徒達の間に、世にも不思議な噂が、水の様に湧き拡ろまって来た。
 ――花嫁の塑像が痩せる!
 勿論、始めの内は、誰もこの馬鹿気た噂を信じようとはしなかった。
 が、日を経るにつれて、それが動かし難い事実である事に、彼等は気附いて来た。毎日夕方になると、帰り途の生徒達は、前よりも熱心に、なかば猜疑となかば恐怖の眼を以って、あの老いたる考古学者の陰気な蒐集室の窓を仰ぎ見る様になった。
 確かに花嫁の塑像の影は痩せて来た!
 二月三月する内に、追々に美しい均斉【シンメトリー】は破壊されて、恰度死の直前に置かれた嘗つての博士の花嫁がそうであった様に、恐ろしい迄にゲッソリと醜く痩せ衰えて来た。
 博士の愛情が激し過ぎるのだ!――内心恐怖に顫えながらも、生徒達は、この不思議な塑像に対して、無理にもそんな風に解釈をつけて見た。そして、花嫁の塑像の痩せ細るに比例して、生徒達の博士に対する気持は、ひとつの「美術への汚損」に対する言い様のない焦燥と共に、尊敬から疑惑へ、疑惑から非難へと変って行った。
 間もなく花嫁の塑像の最後が近附いて来た。
 硝子窓に映った黒い塑像の影は、骨と皮ばかりに痩せ衰え、身長は無気味な迄にちぢこまって来た。
 そして到頭或る晩の事――
 糸の様に細められた花嫁の首は、音もなく折れ落ちて、高い窓ガラスから、その影を消して了った。
 若い美術家達の焦燥は、亢奮の絶頂へ吹き上げられた。博士の愛情の盲目性を批判し、藝術品に対する愛護の情を喚び起す為めに、――とは言え、内心「痩せる塑像の秘密」への押え難い好奇に馳られながら、到頭彼等は無遠慮にも玄関のドアを打ち開いて、兜山博士の特別古物蒐集室に躍り込んだ。
 黒染んだ,或は樺色の、見るからに古びたさまざまの古物に満たされたその部屋の高い硝子窓の内側には、木乃伊の様に痩せこけた首のない花嫁の塑像が、灯に白くギラギラと輝きながら、氷柱【つらら】の様につッ立っていた。
 思わず馳けつけて、その前に落ち砕けた花嫁の首に手を触れた――と、彼等は、しかし、フと何処かで嗅ぎ覚えのある、甘い、痛々しい、刺戟性の香を、鼻頭に鋭く感じて、不意に立竦んで了った。
 ああナフタリン――
 ナフタリンの匂いだ!
 見れば、美しい花嫁の塑像と思ったのは、部屋一面の古物から防虫する為めに、特別に造られた粗雑な人形型のナフタリンではないか!

 兜山博士は――呆気にとられて立竦んで了った若い美術家達には眼も呉れず、薄暗い部屋の片隅で、「虫の垂れ衣」や「綾藺笠【あやいがさ】」を熱心に手入れしていた。


『ぷろふいる』 昭和9年 (1934) 8月号、「ぷろふいる・こんと」 欄に掲載された掌篇である。この年、大阪圭吉は同誌4月号に 「花束の虫」、9月号には傑作 「とむらい機関車」 を寄稿している。アンチ・クライマックスのユーモア・コントではあるが、それにもかかわらず、若妻を喪った老博士の蒐集品にむかう後ろ姿には、「とむらい機関車」 「人間燈台」 「幽霊妻」 などにも通じるペーソスが漂っているように思われる。(国書刊行会版創元推理文庫版の傑作集には未収録)

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