日本探偵小説界の為めに!

井上良夫


 探偵小説専門雑誌 「ぷろふいる」 の発刊があってから一年半余、その間、新人の種々な作品も発表され、各地に熱心家による探偵小説趣味の会の出現もあったりなどして、ひどく探偵小説熱が高まり、愈々これは第二の華々しい興隆期が到来するかと、読書三昧の傍、大いに期待して喜んでいたところ、周囲からの声援だけは勇ましいのが聞こえているが、さて肝心の探偵小説壇の物淋しいこと、従前と較べ些かも変りがない。も少しなんとかならないものか、としびれを切らして催促したくなるというのが、目下の我日本探偵小説界の情勢である。
 今日までの日本の探偵小説界が、故小酒井、江戸川、甲賀、大下、夢野等、先輩作家の努力により、主としてその短篇の形式に於て達し得たレベルというものは、本場の英米に比して、些かも遜色を見ない。いや、平均して、遥かに彼を抽んでているといっても過言ではあるまい。
 ところが、現在その日本の探偵小説界を背負って立っている人々というと、それは全く十指にも足りはしない。甲賀三郎、江戸川乱歩、大下宇陀児、夢野久作、海野十三、小栗虫大郎――もうこれで大体おしまいではないか。僅かにこれだけの作家が、如何に縦横に奮闘してくれたところで、日本の探偵小説という一つの創作分野を、そうそう繁栄に導けたものではない。
 主脳作家が僅かにこれだけのところへもって来て、探偵小説とは、如何なる種類の読物かの本質論に始まって、探偵小説は本格で行くべきである。変格物は排斥とか、謎々一点張りでは行き詰りは当然である、もっと範囲を広くせよ、変格物こそ歓迎すべし、――等々の探偵小説議論を、むきになって戦わしてみたところで、一体それが何の益を齎 【もたら】 すのか、――と、そんな風に考えずにはおられないというのも、あながち筆者一人の気持でもあるまいと思う。

そこで、探偵小説を愛する者、こぞって、もっと真剣に、親身に、我々日本の探偵小説界の繁栄策、救済策を講じたいものである。策といっても他に有りようはない。前出既成作家の撓まぬ努力と指導に俟つべきは勿論として、要は一人でも多く 「傑れた作家」 に出てもらうことである。一篇でも多く 「光った作品」 を生んでもらうことだ。
 日本の探偵小説界を繁栄させよ!の口火をこと新らしく切る以上、斯界の現状 (主として新しき芽生えの分) についての、忌憚なき私見の一端を、左に述べさせて頂くとしよう。

一般的に云って、近頃は、猫も杓子も探偵小説を安易に書きなぐりすぎる嫌いがある。探偵小説創作熱の敷衍は、双手を挙げて祝すべき現象である。だが。あまりにも安易な探偵小説が続々と発表されることは、一方では日本探偵小説界の非常なる堕落に外ならない。なぜなら、そうした安っぽい、骨組の貧弱な、肉附きの悪い、十把一からげ式探偵小説が、傑れた作家の少ない日本の探偵小説界の大半を、いつのまにか代表して来るからである
 探偵小説なるものは、根本的に云って、主として、より知識的な読者層に迎えらるべき性質の読物である。ところが、そのお得意先である筈の知識階級を獲得するどころか、真先に愛想をつかされている、というのが目下の我探偵小説壇の情勢に外ならない。而も、その事の因たるや、知識階級のファンに向く本格的傾向の作品が乏しいからというのなればさして悲しむにも当らぬが、本格も変格も、殆んどが極く安直な、安ピカ物に過ぎぬからであるから情けないのである。

大体、探偵小説と雖 【いえど】 も、他の文藝作品と同じに、一朝一夕にして誰にも彼にも書き得られる性質のものでないことは判り切った一事である。特殊な小説であるだけに、その特質を理解し、独特の技巧を学ぶことも必要であろう、そのことだけでも既に相当な勉強を要する話である。カロリン・ウエルズ女史の著書 「ミステリ・ストーリイの技巧」 中、マージェリ・ニコルスン教授なる人の言として、左の一節がある。
 「探偵小説の作者たるもの、古臭い、見えすいたトリックでもって、我々百戦練磨の読者の目を眩まそうなどとはもっての外で、況 【いわ】 んや、テクニックを知ること我々以下であるところのアマチュアが、我々に読ませようとして探偵小説をものするとは、全くもって、片腹痛しと申上げるより外に挨拶はない」
 勿論これは主として本格探偵小説に当てはまるべき言葉ではあろう、併し探偵小説一般として、探偵小説家たらんとする者の聞き流しにしておれない批評ではあるまいか。
 尚、右の引文は、探偵小説のトリック、テクニックに就いてのみの話である。それの研究も怠るわけにはいかなかろう、だが、それらをマスターすることだけが探偵小説を書く上での必要な準備でもないことまた勿論である。
 探偵小説のテクニック一つで作り上げられているかに見えるヴァン・ダイン氏の本格物を持って来てみてもいい。成程、ヴ氏自身も探偵小説独自の法則を一とわたり会得したことによってベンスン以下の作品をものし得たかに語ってもいる。然し、あのヴ氏の作品の唯一の魅力とも云うべき謎の構成美の背後には、彼が古今の探偵小説を読破したことによってのみ獲得した知識のストック以外に、それとは較べものにならぬ程多量の、種々なる分野での薀蓄が、実に大きな働きをなしているのだ。
 更に、日本の探偵小説界にとっては、ヴァン・ダイン以上に緊密不離な関係を持ち、その発展の上に大きな影響を与えたところの、英L・J・ビーストンを例に借りて来てもいい。
 ビーストンの作で、当時のファンや作家を主として打ったものは、あの奇想天外から落ちる式の、奇抜な最後の種明しであり、人を食ったトリックの扱い方であった。併し、我々がビーストンの作品を、同傾向のトリック探偵小説に較べ、より高く買いたい所以は、そうしたずば抜けた着想の奇抜さ、トリックの新奇さは勿論であるとしても、それを肉附けするために彼が単なる空疎な拵え物の筋を操らなかったことである。あのはち切れるばかりに緊張した人生ドラマの断片を、探偵小説的形式に於て、一瞬にして我々の眼前に展開してみせた上の手腕の非凡さであった。いや、そうした血肉あるプロットであったればこそ、彼の用いた奇術式なトリックが、拵え物の感じを完全に打ち消して、強く我々ファンの嗜好に投じたのだと云うべきであろう。もう一つ云い変えてみれば、彼の作は、あれ程にトリッキイな探偵小説でありながら、而も尚、トリックだけの面白味に尽きていなかったのである。
 もう一つ明白な例を引こうなら、田中早苗氏の丹念な訳筆で紹介されて、忽ちのうちに無数の愛読者を獲得したフランスのコント作家モーリス・ルヴェルの珠玉の小篇は、ビーストン式な最後の一行の醸し出す魅力によって、取りわけ我々探偵小説ファンを打った。だが、彼ルヴェルの生命は、ファン諸君の周知の如く、その後幾多の模倣者が見せたような、しかく浅薄なトリック式構成の上にのみはなかったのである。(此のことは大体ビーストンに就いても同じである)
 即ち、私がこうした例証により云わんとしていることは、探偵小説としては比較的内容的であるルヴェルやビーストン等だけでなく、(ルヴェルも広義の探偵小説として) 本格探偵小説の骨組ばかりで出来ているかに見えるヴァン・ダインの作品に於てですら、決してそれが小手先の器用や思いつきだけで光っているのではないということである。
 だが、私は此の小論に於て、話をそこまで進めるつもりではない。私の言わんとするところは、もっと根本的な、明白平易な一事を考えてみることによって充分に足りるのである。即ち、
 「探偵小説とは、その根本に於て、人の理知に訴える読物である」
 此の出発の一点に於てすら既に、探偵小説創作の難き所以が、充分に存在していようではないか。
 さて次に、現在のように、安易な探偵小説が多く発表されて、よしそれが、より多くの、低い読者層に受け入れられたとして、(それすら頗る疑わしいのだが) 果してそれが探偵小説として喜ぶべき発達であるといい得るかどうか。
 恐らくそれは、探偵小説の質の下落であり、似而非探偵小説の跳梁に外ならないであろう。いや、その程度では納まるまい。最近の傑れた大衆文藝に接している一般大衆は、恐らくは、そうした安易空疎にして子供だましの探偵小説に屡々 【しばしば】 逢着して、「探偵小説とはかくも低級にして稚戯に類したるものか」 と断じて了うであろうことは、火を見るよりも明かである。(既にそう断じられている、といった方が真実であるかも知れぬ)

 そこで、筆者の希望を述べれば、
 探偵小説なるものを、一般大衆が受け入れ易い平易な読物に砕いてみるもよかろう、また、現在の夢野久作氏のように、豊富な力に恵まれた作家が、探偵小説の固苦しくせせこましい領域を、次々と開拓して行こうとしている努力も、奮わざる我探偵小説界として、大いに感謝さればければならない。が併し、それよりもまず先に、まず探偵小説の独自性を充分に築き上げることに努力して欲しいものである。探偵小説そのものとしては、大衆文藝の末席に割り込もうとする苦心も無用なれば、純文藝にこびてみる必要もない、探偵小説は探偵小説として、独自の存在を主張することにまず努めてもらいたいのである。時日はかかってもそれも致し方はない。暫くは大方の支持が得られないとしても、それもよし、要は、文壇の一角に、探偵小説という一分野の、強固不抜なる根を下すことである。これから探偵小説界に乗出して、明日の創作界を背負って立ってくれる新作家諸君は、日本探偵小説界のため、安易にして骨も身もないていの探偵小説の創作などは一切打切って、一篇でも傑れた労作への苦心を続けてもらいたい。鳥渡 【ちょっと】 した思いつきや、ちっぽけなトリックだけですぐに探偵小説を書上げて発表しようとする傾向の人々は、小栗虫太郎の努力の前に愧死すべきである。
 百の駄作よりも俊英小栗の一篇が、如何に我が探偵小説界を大きく見せてくれたことか、そうした意味から筆者は、日本探偵小説界のため、小栗虫太郎の出現を無上に喜んでいる一人である。

 本格よし、変格よし、探偵小説の真面目な労作が一つでも多く、傑れた作家が一人でも多く出てくれることを希って、此の一文を結んでおきたい。

                  (九・一一・二九)

〈ぷろふいる〉 1935年2月号掲載『探偵小説のプロフィル』 未収録。昭和9年 (1934) 末における日本探偵小説界への批判と提言である。1930年代に探偵小説は再び隆盛期に入り、乱歩や甲賀三郎、大下宇陀児ら先行作家に加えて、大阪圭吉、葛山二郎、渡辺啓助らが本格的な活躍を始めている。31年には従来の日本ミステリにはなかった本格長篇、浜尾四郎 『殺人鬼』 が発表され、33年には小栗虫太郎が 「完全犯罪」 で衝撃的デビューをはたし、翌34年には木々高太郎が登場、小栗の 『黒死館殺人事件』 が探偵小説界の話題をさらった。このように一見新たなる 〈黄金時代〉 を築きつつあるかにみえた日本探偵小説であったが、井上の見方は思いのほか厳しい。その大きな理由は、現在の隆盛がごく一部の作家の活躍に支えられたものであること、安易な創作がはびこっていること、にあった。(「近頃は、猫も杓子も探偵小説を安易に書きなぐりすぎる嫌いがある」 「鳥渡した思いつきや、ちっぽけなトリックだけですぐに探偵小説を書上げて発表しようとする」 という批判などは、あるいは現在にもそのまま通用しそうだ)
 「探偵小説とは、その根本に於て、人の理知に訴える読物である」 という本格愛好者の井上ではあるが、ここでは日本の探偵小説ファンに人気のあったビーストンとルヴェルを例にあげて、トリックさえあれば優れた探偵小説となるものではないことを述べ、プラスアルファの要素の重要性を訴えている。そういう意味で井上がとりわけ大きな感銘を受けた小栗虫太郎については、『探偵小説のプロフィル』 収録の 「『黒死館殺人事件』を読んで」 「『白蟻』 を読んで」 で詳しく論じられている。なお、文中で触れられているマージェリー・ニコルスンの探偵小説論は、『推理小説の詩学』 (研究社出版) に 「教授と探偵」 がおさめられているので、こちらも一読をお勧めしておく。


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