アリバイの話

井上良夫

注意 文中で、S・S・ヴァン・ダイン 『カナリヤ殺人事件』、アーサー・リース、ロジャー・スカーレット、アガサ・クリスティー、クリストファー・ブッシュの作品のトリック、犯人に触れています。

 一人物が同時に異った二つの場所にいることは絶対に不可能だ――ここにアリバイの価値があるわけだが、いかに狡猾な探偵小説の悪人連にしても、一つの体を同時に二個所に現わすことが出来る程狡猾ではないものだから、探偵小説に扱われるアリバイは悉く偽物アリバイである。驚歎に値する巧妙なのもあれば、奇抜なばかりで馬鹿々々しいのも多い。欧米の探偵小説の中から、苦心の偉物を三四選び出してみることにしよう。

 アリバイ捏造の手段の一つとしては、先ず、「犯行の時刻の推定を誤らせる」 ことである。実際は午後十時に殺された者が十一時までは生存していたように思わせることに成功すればよいわけで、この点に詭計を設けることによって作られた偽物アリバイが探偵小説では一番多いように思われる。

 このトリックに最もよく用いられるのが蓄音機、口授蓄音機 【ディクタホーン】、電話 (兇行後被害者と電話で話を交わすように見せかける)、それからタイプライター (電気仕掛けでさも人がキイを叩いているように聞えさせる) などである。

 蓄音機を使って最も秀抜なのは、これは紹介済みのヴァン・ダインの 『カナリヤ殺人事件』。女優カナリヤの部屋から助けを求める叫び声がするので駈けつけてどうしたのかとドアの外から訊ねると、中から 「イエ、なんでもありません、御心配なく、帰って下さい」 というカナリヤの返事があるので安心して帰ると、後刻カナリヤの絞殺屍体が部屋に発見される。

 ストーリイの一番仕舞い頃に、ヴァンス探偵がカナリヤの部屋に蓄音機をみつけ、レコードの中からベートオベンの第五シンフォニイのアンダンテを一枚抜き出し、自分でかけてみる。するとどうしたことか、ちっとも鳴り出さない。再三再四かけ直しては不審がっていると、やがて針がレコードの終りに近づいた所で、不意に女の叫び声が聞こえ、吃驚している一同の耳に 「なんでもありません、御心配なく、帰って下さい」 という言葉がレコードの中から聞えて来る。実は最初にカナリヤの叫びを聞いて駈けつけた男が犯人であったのだ。

 蓄音機による偽アリバイの秀逸にまだこんなのがある。二人の男が夜分アパートの友人を誘いに行く。ノックしてドアをあけようとするが閉ざれている。と間もなく中から蓄音機が鳴り出す。二人は邪魔をするのをよしてそのまま出掛ける。後刻この部屋の主が中で殺されているのが発見される。ドアの右手にある壁に接して、蓄音機が据えつけてあり、蓋は開かれた儘で、アームはレコードの最後の溝の上でとまっていて、ゼンマイは伸び切っている。制動機に紐の切れはしが結びつけられてあって、アームには指紋が一つもない。廻転盤の外に水が小量こぼれており、尚、蓄音機のすぐそばに一脚の花台が置かれてあって、その上に鉢植の花があり、これに水がかけてあって、あたりにも滴がこぼれ落ちている。被害者は昨晩部屋を閉め切りレコードをかけて聞いていたものと信じられていたのであるが、この蓄音機をよく観察するとどうも不審な点が多い。制動機は離れた所からでもその紐を引張れば動くだろうし、レコードの廻転は始まるものの、アームに指紋はなし、どうしてレコードの上におろしたものか、昨晩ドアの外で聞いた二人はレコードの廻転が始まってから普通にアームがおろされたらしく、曲は順調に聞えて来たようで、最初からアームがレコードの上に載せてあったとは思われないという。

 結局犯人は夜分被害者を訪れたこの二人の男のうちの一人で、彼のアリバイのからくりはこんな風に判明する。犯人は兇行後、自身製【つく】って来た氷の塊 (これは約何分で解ける、と大体の時間も考慮されている) をレコードの上に載せたアームの支えとして挟み込み、ゼンマイを一杯に巻いてから、制動機に紐をつけ、これをドアの鍵穴から外へ垂らしておく。こうしておいて友人一人を連れ、被害者の部屋を訪ねて、暗い中でこの紐を引張って制動機を動かし、レコードを廻転させる、すると、かの支えの氷片は跳ね飛ばされて、アームはレコードの上に落ちる。ゼンマイの力が強いので一寸聞くと曲が普通に鳴り始めるように聞こえる。氷はすぐ解けて了って水になるが、彼はこの水の存在を怪しまれぬよう、傍の鉢植の花に水をかけておき、その飛沫のように思わせることにする。

 兇行時間が実際よりも後であったように思わせて作るアリバイには、またこんなのがある。これは英国のアーサー・リイスの小説にあるトリックだが、兇行の部屋に実弾のこめてないピストルを備えつけておいて兇行後しばらくして爆音を立てさせ、殺人がこの時に行われたように思わせる。リイスの小説では、旧式のピストルの打金と引金に細い紐をかけて後方に引き、ある長さの燈心を一本ピストルの柄にくっつけておいてこれをこの紐で柄と一緒に縛っておく。犯人はこのピストルを殺人現場の部屋の煖炉の上に据えつけ、別のピストルで音を立てぬように兇行を終るとすぐ、燈心の一端に火を点けておいて立去る。燈心は徐々に燃えて行ってやがて上の紐に燃えつき、これが間もなくフッツリ切れると、同時に縛られていた打金が前方を打って、轟然と音を立てる。ピストル自体は反動で火炉の煙突の間に落ちて見えなくなって了う。驚いて一同が駈けつける時、犯人も一緒に走って来るのである。

 またスカーレットの小説の一つでは、一老人の誕生日を祝って集まった青年達が、老人の部屋に面した庭園で夜分花火を打ち上げて見せることにするが、その折り青年の一人が、下から老人の部屋に向って声をかけて呼ぶと、二階の老人の部屋の窓のカーテンが左右に開いて、椅子に掛けてこちらを向いた老人の姿が見える。実はこの老人はこの時既に殺害されていたのだが、件の青年は己れのアリバイを作っておくため犯行の時間を誤らせんとして、老人の椅子を窓際に引き寄せ、カーテンを開閉する紐に更に長い紐を結びつけ、これを下に垂らしておいたのを、声をかけて引張ったのだ。

 兇行の時間はその儘で作られるアリバイには、多く共犯者がいる。

 即ち探偵小説に頻繁に取入れられる代役、二人一役トリックの登場である。アガサ・クリスチイの小説では、非常に人真似のうまい女優を使って、殺人当日、一婦人が自分に仕立ててこの女優を自分が招かれている晩餐会に出席させる。自分はその時刻に夫を殺害して来るのであるが、犯行直前、晩餐会の席へ電話をかけて偽物の自分を呼び出し、電話を取次いだ者は勿論、会食している者に一層自分がその場に来ていたことを信じ記憶させる。この犯人は後に大体前と同じ顔触れの晩餐会の席上で、たまたま前の身代り女優がこの前得意に談じたギリシヤ芸術の話が再び出たところ、この本物の女はそうした方面の教養がなかったので頓珍漢なことを喋り、二人が全然同一人でなかったことが現われるのである。

 ブッシュという人の書いた探偵小説にこういうのがある。他の諸点から見て殺人嫌疑の最も濃厚である一容疑者が、ロンドンでその殺人事件の起った際には、明かにフランス南部の一地方を旅行していたというアリバイを持っている。探偵が怪しんでこの男をつれ、宿泊したというホテルなどを次々と確かめて廻ると、この男の申立てとホテルの者の云う所とが、一つとして異る所がない。珈琲をこぼして出来た染【しみ】までホテルの女がその男の着ているオーバーにみつけ出して一々その時の細かい話さえ符合する。警察は困り果てて匙を投げる。後にこの男の持っていた時間表にこの地方まで出かける細かい時間の計算の記入がしてあるのをみつけ、探偵が何喰わぬ顔でその時間表の借用を申出ると、犯人がこの記入をスッカリ消し去って持って来ることなどから段々尻尾が出始めるのだが、この男のアリバイというのは、自分によく似た男を探し出し、この男を欺いて、さも秘密探偵部の一員として仕事をするのだと思い込ませ、その行く先々の出来事を細大漏らさず記録を命じて、フランス南部へ旅行させる。

 あとで自分が殺人を終えて出掛けた際、出来事を残らず復誦させ、記録を貰い受け、衣服を取り代えた上でこの男を殺害する。こうして途中から本物の自分が旅行者となり、うまくアリバイを作って了う。この男は数学の教授で、「一つの物に対して等しきすべての物はまたお互に相等しい」 という定理から思いつき自分が某なる俳優に似ているところから、この俳優の某に似た男を求めたものである。

《新青年》 昭和11年2月増刊号掲載。《シュピオ》 昭和12年5月号に再録。『探偵小説のプロフィル』 未収録エッセイ。

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