ヴァン・ダインなんか怖くない

アントニイ・バウチャー


アントニイ・バウチャー、別名H・H・ホームズ (1911-1968) は、アメリカ密室派の一人として、『ゴルゴタの七』 『密室の魔術師』 などのフーダニットの佳作を残しているが、ミステリ界における彼の最大の功績は、なんといっても優れた批評家としてのそれだろう。1940年代から60年代にかけて、《サンフランシスコ・クロニクル》 や 《ニューヨーク・タイムズ》 《EQMM》 といった新聞雑誌に発表された彼のミステリ書評は、読者の良き指針となり、また作家への真摯な励ましとなった。作家としてはパズラー派であったが、その批評は本格ジャンルに偏らず、ロス・マクドナルドの本格的評価の先鞭をつけ、外国語の才能をいかしてボルヘスやシムノンの紹介に尽力したり、マイクル・イネスのような英国ファルス・ミステリに理解を示したりと、その筆は多方面にわたった。世界中のミステリ・ファンや作家が集う大会 〈バウチャーコン〉 が、彼の人柄と功績をしのぶ集まりから出発したことは、よく知られている。

 没後、1973年のバウチャーコンを機に、その業績を顕彰するために、彼の書評や序文を集めた 『増殖する悪事』 (Multiplying Villainies; Selected Mystery Criticism, 1942-1968) が、500部限定の私家版で刊行された。マイクル・イネス 『ダフォディル事件』 の書評や、J・D・カー 『盲目の理髪師』、ウールリッチ 『黒衣の花嫁』、レオ・ペルッツ 『最後の審判の巨匠』 英訳版に寄せた序文、「オペラとミステリ」 「ヘンリー・カットナー論」 など、興味深いエッセーがたくさん収録されているが、今回は、《サンフランシスコ・クロニクル》 に連載された書評コラム 〈犯罪捜査課〉 から、痛烈なヴァン・ダイン批判 (というよりほとんどこき下ろしに近い) を展開した1944年6月25日の記事を紹介しよう。


〈犯罪捜査課〉
《サンフランシスコ・クロニクル》1944年6月25日


《クロニクル》紙読者のほとんどは《グッド・ハウスキーピング》誌を購読してはいない、という前提のもとに、本欄では(先月に引きつづき)同誌掲載のエラリイ・クイーンの「最重要」リストの検討を続けよう。同誌6月号で、クイーンは次のような「10冊の最も重要な長篇探偵小説」を発表している。

 エミール・ガボリオ『ルルージュ事件』(パリ、1886)
 ウィルキー・コリンズ『月長石』(ロンドン、1868)
 アンナ・キャサリン・グリーン『リーヴェンワース事件』(ニューヨーク、
   1878)
 サー・アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』(ロンドン、1887)
 E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(ロンドン、1913)
 フリーマン・ウィルズ・クロフツ『樽』(ロンドン、1920)
 アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』(ロンドン、1925)
 S・S・ヴァンダイン『ベンスン殺人事件』(ニューヨーク、1926)
 ダシール・ハメット『マルタの鷹』(ニューヨーク、1930)
 フランシス・アイルズ『犯行以前』(ロンドン、1932)

 リストは今日の目でみた面白さよりも、歴史的重要性に重きをおいて選ばれている。つまり、「最上」よりも「最初」ということだ。そうした基準によるものとしては、おおむね議論の余地がない選択といえるだろう。しかし、私はここに二つの異議を表明したいと思う。ひとつは穏やかなもの、もうひとつは断固たる抗議である。

穏やかな異議 『犯行以前』は、クイーンが云うような「これまで書かれた最上の〈倒叙〉探偵小説」ではない。これは「倒叙」探偵小説ではなく、看破を免れる幸運な殺人者の物語である。彼が自分のことをずっと疑っていた人物を(彼女自身の同意のもとに)殺害することに成功しようとしている場面で、小説は結末を迎える(私が云っているのは、もちろん、オリジナルの小説のことで、ヒッチコックの映画化《断崖》に付け加えられた莫迦莫迦しい結末のことではない。素晴らしい作品ではあるが、それは犯罪小説としての評価であり、探偵小説では断じてないのである。もし、このリストに「倒叙」探偵小説の見本を一冊入れるのであれば、私はR・オースティン・フリーマンの『ポタマック氏の見落とし』を推したいと思う。

断固たる異議
 S・S・ヴァン・ダインは断じて「重要な」作家などではない。これがきわめて異端的見解であることは承知している。しかし、そろそろ誰かが「王様は裸だ」というべき時だ。1920年代のヴァン・ダインの爆発的流行(僧正殺人事件』はなんと7万部もの予約を集めたという)は魅力的な現象ではあるが、探偵小説の歴史と発展にはまったく関係のないものであった。

ヴァン・ダインの初期作品に対する大衆的人気以上に不可解なのは、批評家たちの審美的称賛である。いま、ヴァン・ダインの作品を(最近、私がしたように)再読してみれば、ファイロ・ヴァンスがとんでもなく鼻持ちならない男で、かつてオグデン・ナッシュが言明したような扱い(お尻にひと蹴り)にまさに相応しい人物であるというばかりでなく、登場人物は木偶同然、プロットはアンフェアで、テクニックは拙劣、おまけにその散文ときたら、げんなりするほど勿体ぶった衒学趣味の専門用語を混ぜ合わせて(これはすべての登場人物にあてはまる、それを英語として押し通そうとしている代物であることに気づかざるをえないだろう。

ところが、英米の批評家たちは声をそろえて快哉を叫び、ついに探偵小説は「文学」になった、と褒め称えたのである。シカゴ《ポスト》紙は、フーダニットを見下していた人々も「この種の小説が高等芸術の高みに達しうることを認めることになるだろう」といい、ハリー・ハンセンは、ヴァン・ダインは「探偵小説の貴族階級に属する」と述べた。大方の批評はこのようなものだったのである。

この溢れんばかりの歓喜の声も、もしヴァン・ダインがもっと早くに探偵小説界に登場していたとしたら理解できないこともない。しかし、彼の第一作が出版されたとき、ドロシイ・セイヤーズ、アントニイ・バークリー、フィリップ・マクドナルド、ノックス師、フリーマン・ウィルズ・クロフツ、アガサ・クリスティーといった面々が、既にミステリ作家を生業としていたのである。ミルンの『赤い館の秘密』は4歳になっていたし、『トレント最後の事件』は13歳。アノーはもう16年も探偵の仕事をしており、ソーンダイク博士の経歴は20年近くに達していたのだ。

これは推測するしかないのだが、ヴァン・ダインの法外な気取りは、あのスノブス・アメリカヌス【アメリカ産俗物】という恐るべき種を魅了したのだろう。スノブス【俗物】の行くところブーブス【間抜け】がついていく。たしかに奇態な眺めだ。しかし、どこが「重要」だというのだろう。ヴァン・ダインよりも先に活動を開始していた上記の作家たちは、いまなお大きな影響力をもっている。しかし、ヴァン・ダインの影響はどこへ行ったのだろう。20年代には、彼は多大な影響力をもっていたが、有難いことにそれはすみやかに消え去った。ヴァン・ダイン風の気取りをはっきりと示した唯一の重要作家は、ほかならぬエラリイ・クイーンであった。そして彼はその足枷をさっさと振り払った。『災厄の町』以上に〈ヴァン・ダイン風〉から遠いものはないだろう。

長いあいだ私は、もっぱら記憶に依ってこう発言してきた。「たしかにヴァン・ダインは次第に低迷していったし、『ドラゴン殺人事件』はこれまでに書かれた最悪のフーダニットかもしれない。しかし、『グリーン』と『僧正』は素晴らしい作品だった」と。もしあなたもそんなふうに感じていたとしたら、これらの本を読み返してみるといい。さあ、やってみたまえ。

というわけで、どうか、クイーン君、ヴァン・ダインを君のリストから抹消してはいただけないだろうか。そしてその空席には、ぜひともドロシイ・セイヤーズ(代表作はおそらく『ナイン・テイラーズ)を据えてほしい。後期の作品では、探偵小説と普通小説の融合をめざして行き過ぎてしまったかもしれないが、その作品は少なくとも当代一流の作家たちすべてに影響を与えているのだから。

というわけで、まさにボロクソである。代表作 『グリーン家』 『僧正』 すら認めていない。ヴァン・ダインの人気は、彼の晩年にすでに急落していたのだが、このコラムを読むと、40年代にもミステリ界でのヴァン・ダイン崇拝は依然根強いものがあったらしい。バウチャーのコラムの影響がどのくらいあったかはわからないが、この頃からアメリカ・ミステリ界におけるヴァン・ダインの凋落は決定的なものとなっていったのだろう。やがて版も途絶え、作品を読むことすら困難になっていく。現代のアメリカでヴァン・ダインの影響を公言する作家は皆無といっていい。20世紀末に至るまで、全12作が版の絶えることなく読み継がれてきた日本の事情と比べると、その違いは驚くべきものがある。(作家に対する影響も絶大であり、同時代の小栗虫太郎や浜尾四郎にとどまらず、たとえば笠井潔、二階堂黎人など、現代作家にも色濃くその影響をみることができる。なにより、日本では、ヴァン・ダインの作品があるべき長篇探偵小説のモデルとして、ながく受け止められてきたように思える)

もちろんこの劇的な転落には、20年代に一世を風靡した流行作家に対する反動もあるのだろう。ヴァン・ダインの出現は、たんなる文学界の出来事ではなく、一種の社会現象でもあった。彼の金ピカ主義的なスノビズムが、未曾有の経済好況に沸き、文化的にも世界の一流の仲間入りを果たしたと自信を持ち始めた (しかし、依然としてヨーロッパに対するコンプレックスに取り憑かれていた) アメリカ人の嗜好にぴたりはまったことは間違いない。バウチャーが云うように、彼が批判する軽薄な気取りや見せかけの博識ぶりこそが、成り上がり国家アメリカの新しい読者大衆に強烈にアピールしたのである。あるいは彼らは、ヴァン・ダインを読むことで、自分たちが一段高いところに上ったと感じたのではないだろうか。

なお、この6月25日のコラムでは、つづいてハルバート・フットナーの新作に触れた部分と、シャーロッキアーナ関連の記述があるのだが、ここでは割愛した。


参考文献

  • Anthony Boucher, Multiplying Villainies; Selected Mystery Criticism, 1942-1968 (A Bouchercon Book, 1973) ※500部限定で制作され、バウチャーコンで頒布されたもの。ヘレン・マクロイの序文つき。編集にあたったのはR・E・ブリニーとフランシス・ネヴィンズ・ジュニア。手元にあるのはNo. 123。こういう珍しい本を入手できたのはもちろん、森英俊さんの 〈Murder by the Mail〉のおかげである。
  • 森英俊 『世界ミステリ作家事典/本格派篇』 (国書刊行会)

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