ジャック・リッチーの小宇宙



 ジャック・リッチーをご存知だろうか。

 小林信彦が編集長をつとめた伝説の雑誌 《ヒッチコックマガジン》 日本版の読者なら、あるいはその名前を懐かしく思い出されるかもしれない。リッチーは同誌の看板作家のひとりだった。《マンハント》 《ミステリマガジン》 《EQ》 などのミステリ専門誌でも相当数の短篇が紹介され、エドガー賞を獲得した 「エミリーがいない」 や、『37の短篇』 (早川書房) に選ばれた 「クライム・マシン」 をはじめ、アンソロジー収録作も数多い。『世界ミステリ作家事典/ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇』 (国書刊行会) によれば、112篇もの邦訳があるのだが、そのわりに知名度は (不当なほど) 低いようだ。

 ジャック・リッチーは短篇ミステリのスペシャリストだ。1950年代から80年代初めにかけて、職人芸ともいうべき簡潔なスタイルで綴られたクライム・ストーリーを、さまざまな雑誌に毎月のように書きつづけた。その数、350篇にも及ぶ。しかし、生前に刊行された著書はわずか1冊。アメリカ本国でも、軽いタッチのひねりのきいた短篇を量産した器用な職人作家、バイプレイヤー的存在とみられていたのだろう。

 しかしその一方、専門家のあいだでのリッチー短篇の評価は高い。たとえば、ハリデイ、バウチャー、ヒュービン、ホックらが歴代の編者をつとめた年刊ベスト・ミステリ・アンソロジー 《Best Detective Stories of the Year》 では、1961年からリッチーが亡くなる83年までの23年間のうち、なんと18冊がリッチー作品を選出している (しかも2作収録の年が3回)。まさに 「リッチーの短篇なくしては完璧なアンソロジーとはいえない」 という状態。サスペンス映画の巨匠ヒッチコックのお気に入りで、《Alfred Hitchcock's Anthology》 の常連作家でもあった。

 とりわけその簡潔きわまる文体は、多くの同業作家を魅了した。アメリカ・ミステリ界きっての目利き、アントニイ・バウチャーはその無駄のない適切な言葉づかいを称賛し、犯罪小説の巨匠ドナルド・E・ウェストレイクもまた熱烈なリッチー・ファンのひとりだった。

 プロの殺し屋の前に自称発明家が現れ、自分はタイム・マシンであなたの犯行を目撃した、と告げる 「クライム・マシン」、冤罪で四年間獄中にいた男が釈放され、自分を有罪に追いやった人々を訪ねてまわる 「日当22セント」、英国の旧家に伝わる伝説の毛むくじゃらの怪物が荒地に出没、殺人事件に発展する 「デヴローの怪物」 など、魅力的な発端から読者はたちまち引き付けられてしまう。ところが、巧みなストーリーテリングによって、いつのまにか物語は意外な方向へと展開していく。そのねじれ方、はずし方になんともいえないユーモアがあり、オフビートな味がある。

 また、ほとんど会話だけで成立している 「旅は道づれ」 「罪のない町」 の素晴らしい技巧、極度に切り詰められたスタイルが静かな凄味にまで到達した 「殺人哲学者」 など、ショートショートの切れ味も抜群である。

 350篇にも及ぶ短篇のほとんどが単発作品だが、リッチーは二人のユニークなシリーズ・キャラクターを創造している。

 「こんな日もあるさ」 「縛り首の木」 に登場するヘンリー・S・ターンバックル部長刑事は、ミルウォーキー市警察の名探偵。相棒のラルフ刑事をワトスン役に、毎回、その鋭い頭脳で素晴らしい推理を披露するのだが、なぜか事件はしばしばターンバックルの考えとは違うかたちで解決してしまう。クライム・ストーリーの名手の印象がつよいリッチーだが、些細な手がかりからエラリイ・クイーンばりの華麗な (ただし、結果的に間違っている) ロジックを展開する本シリーズでは、本格ミステリ作家としての優れた資質もうかがうことができる。没後、2篇の番外篇を含むターンバックル物全29篇が 《The Adventures of Henry Turnbuckle》 (1987)にまとめられている。

 もうひとりのシリーズ探偵、私立探偵カーデュラの設定はさらに独創的だ。ミルウォーキーで探偵事務所を開くカーデュラは、ヨーロッパ某国の伯爵家の出身ながら、体制が変わると人民政府に領地や財産を没収され、アメリカへと流れ着いた。そこで私立探偵事務所を開業したものの、あまり繁盛している様子はなく、いまや日々の生活費にも事欠くありさま。

 しかし、その探偵としての能力はずば抜けている。途方もない怪力の持ち主で、銃に撃たれてもへっちゃら。尾行の名人で、どんな場所にもやすやすと忍びこむ。頭だって抜群に切れる。しかし、この超人探偵にも、ひとつだけ弱点、というか風変わりなところがあって、営業時間は午後8時から午前4時まで。依頼人の身に何が起きようと、夜明け前には家に帰ってしまう。

カーデュラ(Cardula)という名前は、実はある有名な人物のアナグラムである。もちろんカーデュラの正体は読者には一目瞭然なのだが、リッチーは直接的な言及を極力おさえることで、絶妙なユーモアをかもしだすことに成功している。「カーデュラ探偵社」 「カーデュラ救助に行く」 などは結末の意外性の点でも申し分なく、本格ファンも満足するだろう。

没後にまとめられた短篇集 《Little Boxes of Bewilderment》 (1989) に付された編者フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアの序文をもとに、リッチーのプロフィールを紹介しておこう。

1922年2月26日、リッチーはアメリカ中西部ウィスコシン州の中心都市ミルウォーキーに生まれた (リッチーの作品は、ほとんどがミルウォーキーか、その周辺を舞台にしている)。父親は仕立屋、母親はささやかな文学的野心の持ち主だった。高校卒業後、ミルウォーキー教員養成大学に進学。しかし、教師になるつもりはまったくなかったという。

第二次大戦が勃発すると陸軍に入隊、太平洋の島々を転々とするが、駐屯地のひとつクワジャリン島で、リッチーは初めて探偵小説を手に取る。リッチー自身の回想によれば、「当時、クワジャリンにはビールも、女も、何もなかった。そこに私は11ヶ月駐屯することになったが、読書よりほかに何もすることがなかったのだ」。

軍のライブラリーには約200冊の本があったが、リッチーはそのうちの160冊を読破してしまう。あとはもうミステリしか残っていなかった。当時のリッチーは、探偵小説嫌いで有名なエドマンド・ウィルソンを気取っていて、その手の本を一冊も読んだことがなかったのだ。しかし、読むものがなくなり 「やけになった私はついに降参して、その一冊を手に取った。私はたちまちその虜になった。中毒になった。以来、今日に至るまで、私は “ストレートな” 小説をほとんど読んでいない」。しかし、そのときのリッチーは、夢中にこそなったが、自分で探偵小説を書いてみようとは思わなかった。

 戦争が終り、帰国したリッチーは、とりあえず部屋代と食費を稼ぐために、父親の仕立屋で働くことにする。しかし、父の店を継ぐつもりはなかった。

 1952年頃、母親が地元の作家クラブに加入し、文芸エージェントのラリー・スターニグの知遇を得たことが契機となる。そのとき、ある考えがリッチーの頭にひらめいた。「ママに書けるんだったら、自分に書けないわけがない」 彼は机に向かうと、両手利きのピッチャーを主人公にしたスポーツ物の短篇を書き上げた。そして次にスターニグが母親を訪ねてきたとき、原稿を手渡した。そのとき、スターニグの顔には 「やれやれ、みんな、自分には書けると思ってるんだからな」 と書いてあったという。しかし、翌日、スターニグは微笑をうかべて再び彼の前に現れる。それがすべての始まりだった。

 創作活動に乗り出すにあたって、リッチーは自分に厳しい試練を課すことにした。「私は50篇の短篇を書くことに決めた。週に1作ずつ。仕立屋で働きながら。そして年内にひとつも売れなかったら、望みはないとあきらめる。8作目が売れ、問題は解決した。結局、あとの7作もほとんどが売れた」

 最初に活字になった作品は、ニューヨーク 《デイリー・ニューズ》 1953年12月29日号に掲載されたショートショート “Always the Season”。当初はスポーツ物やロマンス物など、おもに新聞向けの軽い読物が中心だったが、その年創刊されたハードボイルド・マガジン 《マンハント》 54年7月号に “My Game, My Rules” で初登場を果たす。50年代の彼の犯罪小説は、《マンハント》 編集者の好んだ、凄味を利かせた簡潔なスタイルで書かれている。

 1954年、女性作家リタ・クルーンと結婚すると、ミシガン湖に浮かぶ小さな島、ワシントン島に移り住む。最初の2年半は丸太小屋ですごし、自然の中の生活を満喫しながら、ジャックは短篇、リタは子供向けの歴史冒険小説を書きつづけた。その後、リタが妊娠すると4エイカーの土地つきの家を買い、そこで二人の娘と二人の息子をもうけている。子供たちが大きくなると、ジェファソン近郊の農家を借りて移り住んだ。

 1956年12月、《アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン》 が創刊。リッチーは創刊2号目の57年1月号に “Bullet Proof” を発表、同誌は以後四半世紀にわたって123篇もの作品を買い上げる、リッチー最大のお得意先となった。ヘンリー・スレッサー、ロバート・アーサー、C・B・ギルフォードらと共に、《ヒッチコック・マガジン》 を代表する作家のひとりと言ってもいいだろう。

60年代にはいると、ひねりのきいたプロット、クールなユーモア、無駄のない語り口といった、リッチー・タッチともいうべき作風を完全に確立。やがてリッチーはマーケットを拡大し、スポーツ小説、ロマンス、メンズマガジン向けの軽読物、ときにはウェスタンまで手がけて、当代きっての多才な短篇作家であることを証明した。

1971年には短篇 “The Green Heart” を原作とする映画 《おかしな求婚》 A New Leaf (ウォルター・マッソー主演) が公開され、それにあわせて生前唯一の著書である短篇集 《A New Leaf and Other Stories》 も刊行されている。76年からはミステリ専門誌の一方の雄 《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》 にも発表の場をひろげ、「エミリーがいない」 (81) でMWA(アメリカ探偵作家クラブ)最優秀短篇賞を獲得した。

 しかし、私生活の面では順風満帆とはいえず、78年にリタと離婚、フォート・アトキンスンの小さなアパートに移って一人暮らしを始めている。やがて健康状態が急速に悪化し、唯一の長篇 《Tiger Island》 (1987、死後出版) を完成させるとまもなく復員軍人病院に入院、1983年4月、心臓発作のため死去した。61歳だった。

著書リスト
A New Leaf and Other Stories (1971)
※短篇集
The Adventures of Henry Turnbuckle (1987)
※短篇集。フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニア&マーティン・
  H・グリーンバーグ編

Tiger Island (1987)
※長篇
Little Boxes of Bewilderment (1989)
※短篇集。フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニア編


『クライム・マシン』 解説を抄録、改稿。(2005.9.29)

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