怪盗小説の系譜

ハウダニット・ミステリの魅力


怪盗小説の濫觴
 ドロシイ・L・セイヤーズ編の 『探偵・ミステリ・恐怖小説傑作集』 (1928) は、探偵小説の歴史を概観した長文の序文とともに、わが国における欧米短篇ミステリの紹介に大きな影響を与えた重要なアンソロジーだが、その巻頭にセイヤーズは「探偵小説の濫觴」として、4つの古い物語を収録している。聖書経外典から「ベルの物語」と「スザナの物語」、ウェルギリウスの 『アエネーイス』 から 「ヘラクレスとカークスの物語」、そしてヘロドトス 『歴史』 から 「ランプシニトス王の物語」 の4篇である (最初の3篇は、『名探偵登場1』 ハヤカワ・ミステリ、所収。「ランプシニトス王の物語」 は、岩波文庫 『歴史』 で読める)

いずれも難問に直面した主人公が、論理的な思考法によってこれを解決する物語で、セイヤーズはそこに探偵小説の萌芽をみているわけだが、ここで問題となるのは最後の1篇、紀元前5世紀ギリシアの歴史家ヘロドトスが記した古代エジプトの物語である。名探偵の原型ともいうべきキャラクターが登場する他の3篇とはちがって、この話の主人公は泥棒なのだ。ランプシニトス王 (ラムセス3世を指すといわれている) の宝庫の壁に穴をあけて、莫大な財宝を抜き取る泥棒と、さまざまな策略をもちいて彼を捕らえようとする王の知恵比べを描いたこの物語は、王の裏をかきつづけて追及を逃れた泥棒の勝利に終わる。セイヤーズの考えるように、聖書や神話伝説にまで、探偵小説の起源を遡ることができるとするならば、怪盗を主人公とした物語もまた、同じくらい古い起源を持つといってもいいだろう。

というより、近代以前においては、探偵よりも犯罪者のほうが、はるかに多くの物語でヒーロー役をつとめているのは間違いない。法の正義や秩序というものが確立して初めて、探偵役を物語のヒーローとすることが可能になる。そうでない社会では、たとえば義賊ロビン・フッドのようなアウトローのほうに、人々はむしろロマンティックな共感をおぼえたのである。18世紀のイギリスでは、処刑を前にした犯罪者の告白(といっても、実際にはかなり創作がまじっていた)を集めた 『ニューゲイト・カレンダー』 と呼ばれる出版物がベストセラーになり、やがてそこから泥棒や追いはぎを主人公にした多くの小説が生まれた。しかし、こうした小説は、犯罪者の生態を描くことには熱心であっても、そこに探偵小説的な興味を見出すことは難しい。

その中でとくに注目しておきたいのは、のちに治安判事としても活躍した文豪ヘンリー・フィールディングの 『大盗ジョナサン・ワイルド伝』 (1743)(集英社)だ。主人公ジョナサン・ワイルドは実在の人物で、ロンドンの泥棒を組織してその首領となり、盗品を売りさばく店を開いて莫大な利益をあげる一方、従わない人間は容赦なく警察に売り渡した、ロンドン暗黒街の帝王ともいうべき人物である。地下世界を組織し、ロンドン中に張りめぐらされた蜘蛛の巣の中央に位置して、配下を自在にあやつり悪事をおこなうという大犯罪者像は、遠くモリアーティ教授やフー・マンチューにまでこだましている。

かたや19世紀のフランスには、元泥棒で、逮捕された後に密告者となり、警察のスパイとして功績を上げ、1817年に創設されたパリ警視庁犯罪捜査課の初代課長にまでなったフランソワ=ウージューヌ・ヴィドックがいる。蛇の道は蛇というべきか、犯罪者出身であるがゆえに彼らの手口も習性も熟知していたヴィドックは、有能な探偵となった。その波乱万丈の生涯を記した 『回想録』 (1829) (作品社) は大評判を呼び、ディケンズ、ポー、ガボリオ、ドイルらの探偵小説に少なからぬ影響を与えている。デュパンやホームズが、経験則で物を考える旧式な探偵の典型として、ヴィドックの名をあげているのを、探偵小説ファンならご記憶のことだろう。「悪に強きは善にもと」 と黙阿弥のせりふにもあるように、改心した泥棒が転じて探偵となるというパターンは、その後、〈ブラウン神父〉 シリーズの怪盗フランボウや四十面相のクリークなど、探偵小説においても何度も繰り返されることになる。

怪盗小説――ハウダニット・ミステリ
 犯罪者を主人公にした短篇ミステリを集めたアンソロジー 『完全犯罪大百科』 (1945) (創元推理文庫) の序文で、エラリイ・クイーンは、探偵小説は3つの要素から成り立っていると述べている。その3つとは、@探偵小説には探偵がいなくてはならない、A探偵は主人公でなければならない、B探偵はほとんど常に勝利を収めなければならない、というものだが、その上でクイーンは、「悪漢小説は 〈探偵小説の逆〉 である」 と言う。つまり、この3つの要素の 〈探偵〉 を 〈悪漢〉 に置き換えてみれば、そのまま悪漢小説の必要条件となるというのである。

悪漢=怪盗と名探偵がいわば裏表の関係にあることは、クイーンの指摘を俟つまでもない。古くからこの二つのキャラクターは、時と場合に応じてその役割を交換してきた。たとえば、シャーロック・ホームズは 「恐喝王ミルヴァートン」 で、卑劣な脅迫者からある女性の書いたラブレターを取り戻すためとはいえ、明らかな不法侵入と盗みを働いている。逆もまた真なりで、ルパン、ラッフルズをはじめ、有名な怪盗たちは、しばしばその素晴らしい頭脳を駆使して探偵役をつとめている。『八点鐘』 (新潮文庫) におけるルパンの名探偵ぶりなど、凡百のぼんくら探偵など足元にも寄れない鮮やかさだ。

怪盗小説の読みどころの1つに、ハウダニットの興味があることは言うまでもないだろう。通常の探偵小説におけるフーダニットのかわりに、ここでは、厳重な警戒や難攻不落の金庫を如何にして打ち破り、財宝を盗み出すか、という興味が物語のポイントとなる。何が行なわれたか、ではなく、何が行なわれるか、に力点が置かれてはいるが、そこに論理的思考が介在することにおいては、探偵小説と何の径庭もない。不可能を可能にする怪盗たちには、密室の謎を解く名探偵と同じような推理能力が求められている。ジャック・フットレルの名作 「13号独房の問題」 (創元推理文庫『世界短編傑作集1』 所収) を思い起こしてみよう。この作品で、賭けに応じて監獄から脱出を試みる 〈思考機械〉 は、探偵ではなくむしろ犯罪者の立場に立っている。彼は一見不可能に見えた脱獄を、あくまで論理的な頭脳の働きによって実現してしまうのだが、この物語の興味のあり方は、あきらかに怪盗小説におけるハウダニットの興味と同じものなのである。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、出版印刷技術の進歩と、新しい読者大衆の出現とがあいまって、雑誌や新聞は飛躍的に部数を伸ばし、そこに小説の新たな市場が生まれていた。『ストランド』 のシャーロック・ホームズの成功を目にした各誌は、それぞれ独自の名探偵の冒険譚を呼び物として載せはじめる。かくしてホームズのライヴァルたちが輩出したこの時代は、同時に、その好敵手たる個性豊かな怪盗が次々に出現した時代でもあった。この時代の代表的な怪盗たちを紹介しておこう。

怪盗ルパンのライヴァルたち
 何はさておき、フランスの国民的ヒーロー、怪盗の代名詞にもなっているアルセーヌ・ルパンをあげないわけにはいかないだろう。神出鬼没の怪盗紳士、恐れを知らぬ冒険者にして愛国者ルパンの冒険譚は、たちまちフランス国民の熱狂的な支持を得た。初登場は1905年の 「アルセーヌ・ルパンの逮捕」。以後30年以上にわたって書き継がれたこのシリーズは、長短あわせて56篇にも及ぶ。作者モーリス・ルブランは優れたトリック・メイカーでもあり、独創的なトリックを多数考案している。ただし、ロマンティックな冒険活劇の味が濃い長篇よりも、『怪盗紳士ルパン』 (1907)、『ルパンの告白』 (1913) などにおさめられた短篇のほうが、ハウダニットの興味は強い。また、連作短篇集 『八点鐘』 (1923)、『バーネット探偵社』 (1928) では、ルパンは見事に名探偵を演じきっている (ルパン・シリーズは創元推理文庫、新潮文庫で。偕成社から 『ルパン全集』 も出ている)

そのルパンが生まれるきっかけになったのが、イギリスを代表する紳士泥棒ラッフルズである。当時、大陸でも人気を博していたラッフルズ物のフランス版を書かないかと、ルブランが知人の出版者に勧められたのが、ルパン誕生に結びついた。クリケットの名選手でもあるラッフルズの名は、日本ではあまり知られていないが、イギリスではいまも絶大な人気を誇る有名な怪盗だ。作者E・W・ホーナングはドイルの妹コンスタンスと結婚しており、イギリスで最も偉大な名探偵と最も偉大な怪盗の創造者は、義兄弟だったことになる。第1短篇集『素人泥棒』(1899)は、そのドイルに捧げられている (かつて、創元推理文庫の名シリーズ 〈シャーロック・ホームズのライヴァルたち〉 で、『ラッフルズの事件簿』 が予告されていたことは、年季の入ったファンならご記憶だろうが、どうやら幻に終ってしまったようだ)

アメリカ産怪盗小説の先駆者といえば、グラント・アレンが創造した変装の名人、クレイ大佐だ。その冒険譚 『アフリカの百万長者』 (1897) は、大佐が南アフリカの百万長者チャールズ・ヴァンドリフト卿を標的に、あの手この手で狙い続けるというユニークな構成。ちなみにクレイ大佐の雑誌初登場 (1896) は、ラッフルズに先んじること2年、一説には探偵小説に登場した最初の怪盗ともいわれている。

クレイ大佐に続いてアメリカに登場したのが、20世紀初頭のニューヨーク雑誌界の人気作家、フレデリック・アーヴィング・アンダースンの生み出した怪盗ゴダールである。その素晴らしい頭脳はあらゆる可能性を計算し、不可能を可能にする。大胆かつ科学的なその犯行は、すでに1つの芸術だ。侵入不能の邸宅から神秘の宝石を盗み出し、政府の施設からタンク1杯の黄金を奪取するハウダニットの魅力に満ちたゴダールの冒険譚は、『怪盗ゴダールの冒険』 (1914) にまとめられた。

アメリカ産の怪盗をもうひとり。40の顔を持つという変装の名人、四十面相のクリークの冒険譚は、戦前、日本でも盛んに紹介されている。一目瞭然、江戸川乱歩の怪人二十面相のモデルである。もっともサーカス出身の二十面相とは違って、ハミルトン・クリークの出自は相当にロマンティックなものだ。東欧の小国の女王とイギリス人男性の道ならぬ恋によって生まれた彼は、亡命先のフランスで孤児となり、やがて悪の道へ入る。長じて、顔の筋肉を自在に動かして他人になりすます 「四十面相の男」 と呼ばれる大盗賊となった。しかし、あるとき美しい娘エルザの気品にうたれて改心し、以後、スコットランド・ヤードを助けて名探偵として活躍することになる。作者トマス・W・ハンシューはアメリカの大衆作家。80篇以上のクリーク譚が書かれたが、代表作 「ライオンの微笑」 (ハヤカワ・ミステリ文庫 『シャーロック・ホームズのライヴァルたちA』 所収) の奇抜な犯行方法には、誰もが思わずうなってしまうだろう。

意外な作家も怪盗小説に手を染めている。ソーンダイク博士の生みの親ロバート・オースティン・フリーマンが、作家活動の最初期に、知人と合作のクリフォード・アッシュダウン名義で書いたのが、怪盗プリングルの冒険譚で、短篇集 『ロマニー・プリングルの冒険』 (1902) は、きわめつけの稀覯本として知られている。また、のちに倒叙ミステリ 〈迷宮課事件簿〉 シリーズで有名になったロイ・ヴィカーズにも、『フィデリティ・ダヴの功績』 (1935) がある。アンダースンの悪名高きソフィ・ラングと共に、淑女泥棒の双璧といってもいいフィデリティ・ダヴは、妖精のような小娘ながら、何人もの手下を使って大胆不敵な犯罪計画を実行する。

 他にもバートラム・アトキーの愉快な食いしん坊スマイラー・バンや、エドガー・ウォーレスの 〈調整者 【ミキサー】〉 アンソニー・スミスなど、まだまだ挙げるべきユニークな怪盗は数多い。興味のある方は、前記の 『完全犯罪大百科』 や同じくクイーン編 『犯罪の中のレディたち』 (創元推理文庫)、あるいは押川曠編 『シャーロック・ホームズのライヴァルたち』 全3巻 (ハヤカワ・ミステリ文庫) などに、多くの怪盗小説が収められているので、ぜひご一読をお勧めしたい。

二度の大戦後も怪盗小説の系譜は途切れることはなかった。パルプ・マガジンに様々なキャラクター物を書きまくっていた頃のE・S・ガードナーは、レスター・リースエド・ジェンキンズなどの怪盗を創造しているし、レスリー・チャータリスが生んだ現代のロビン・フッド、〈聖者【セイント】 ことサイモン・テンプラーは、長く幅広い人気を誇った。しかし、ハウダニットに重きをおいた怪盗ミステリの現代における継承者を1つあげるとすれば、エドワード・D・ホックの怪盗ニックシリーズ (ハヤカワ・ミステリ) にとどめを刺す。報酬は2万ドル、価値のないものしか盗まないというニックのもとへは、動物園の虎や大リーグの球団、プールの水、山の斜面の雪など、途方もない盗みの依頼が次々に舞い込む。如何にして盗むかというハウダニットに加えて、依頼人の真の目的は何かというホワイダニットの興味が、このシリーズを独自のものにしている。

【note】

F・I・アンダースン『怪盗ゴダールの冒険』解説の前半を改稿。冒頭にあげたセイヤーズのアンソロジー序文は、『ピーター卿の事件簿U/顔のない男』 (創元推理文庫) に新訳が収められた。