ワトソン年代学の問題

S・C・ロバーツ 植村昌夫訳


 最近 1928年] 『シャーロック・ホームズ短編全集』 とR・A・ノックス師の 『諷刺論集』 が刊行された。この機会に筆者は、後者に収録された 『シャーロック・ホームズ文献の研究』 と題する論考に短評を加えたい。

 ノックス師によるこの分野の先学 (バックネッケ、ザウヴォッシュ、ピフプフ、パピエ=マシェおよびラッツェガー) の業績の検討は、いささか表面的な嫌いはあるもののさすがに水際立ったものであり、das Watsonischenchronologieproblem (ワトソン年代学問題) へのプロレゴメナ (序説) として十分に価値を有するものと評価することができる。ただ少々驚かざるを得ないのは、1911年に書かれたこの論考に何ら補訂がなされていないことである。その後の研究について、せめて脚注でなりとも言及することはできなかったものであろうか。たとえば、『三人の学生』 に内在する矛盾については、ヴァーノン・レンデル氏が1917年に著書 『ベルサイズのロンドンの夜』 の中できわめて興味深い (しかし必ずしも説得力のあるとは言えぬ) 説を発表しているが、これさえも無視されているのである。

 それよりも深刻な問題は、ノックス師による 『冒険』 と 『思い出』 の事件年表の、実に言語道断の不正確さである。これは「明示的黙示的な内的証拠」に基づいて作成したという触れ込みなのだが。ここでは、ノックス師が 「証拠」 をいかに乱暴に扱っているか、例を挙げて検討したい。

(1) ノックス師はこう書いている。

 1888年のある時期に (12) 株式仲買店員、……、(14) 赤毛連盟があったと推定できる。

 しかし、この二事件の年月日に関する限り、推定の余地などないのである。『株式仲買店員』 の冒頭の第二節で、ワトソンは 「六月のある朝、私が 『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』 を読んでいると」 ホームズが訪ねてきた、とはっきり書いている。『赤毛連盟』については、ワトソンの記録はさらに正確である。連盟に欠員ができたという広告は 「1890年4月27日付けのモーニング・クロニクル紙」 に載ったものであり、「赤毛連盟は解散した」 という張り紙は1890年10月9日付けである。ノックス師のいわゆる 「1888年のある時期」 については、これ以上論ずるまでもなかろう。

(2) 『青いガーネット』 については、ノックス師は 「クリスマスから8日間のうち」 のことであると言われる。いかにも教会流のあいまいさである。これは (1) ほど深刻ではないが、学問研究は何よりも正確を尊ぶのであって、やはり批判は免れない。ワトソンは冒頭の第一文で、友人シャーロック・ホームズを訪ねたのは 「クリスマスが済んで二日目の朝」 であったと、はっきり書いているのである。

(3) 『ぶな屋敷』 は、ノックス師によれば 「明らかにワトソンの結婚前」 の事件であるという。師の論考ではこの 「明らかに」 が乱用されているが、我々に 「明らか」 なことが一つある。『ぶな屋敷』 の中で、ホームズは過去の事件として 『唇のねじれた男』 に触れている。ところが 『唇のねじれた男』 は1889年、すなわちワトソンの結婚の翌年六月のことなのである。

 あながちにノックス師を非難できないのは、ここでは問題自体が錯綜を極めているからである。カイボッシュやポーヴルミュッテのような碩学でさえ、最も重要な問題を避けている。すなわち、「ワトソンはいつ結婚したのか」 という問題である。ここで証拠全体の検討に入ることはできないが、後学のために二、三の問題点に触れておこう。

(1) 『四つの署名』 によれば、ワトソンは1888年に婚約している。

(2) 『背の曲がった男』 はワトソンの結婚の 「数ヶ月後」 であり、『海軍条約事件』 は結婚の 「すぐ後の七月」 のことである。

 ところが

(3) 『ボヘミアの醜聞』 では、1888年3月20日と年月日がはっきり書かれているが、また結婚によって 「私たちは疎遠になった」 とある。いつからいつまでどのように疎遠であったのかは書かれていないが、この間にホームズはオランダ王室から依頼された使命を見事に果たし、トレポフ殺人事件に絡んでオデッサに旅している。これらの事件について、ワトソンは新聞を読んで知ったに過ぎなかった。

 『ボヘミアの醜聞』 の日時について、ノックス師の一覧表では (9) 背の曲がった男、(10) ボヘミアの醜聞、(11) 海軍条約事件となっている。「明らかにこの順序である」 と師は言われるのだが、何を根拠としているだろうか?

 ノックス師はさらに原典批判の領域に踏み込んでいるが、その結果は必ずしも成功とは言えないようである。『帰還』 に収録された作品は正典とは認められないというバックネッケ説を支持して、師はこう書いている。

 『空き家の冒険』 では、ホームズの人形に「古いねずみ色のガウン」 を着せている。しかし読者は忘れていないはずだ。『唇のねじれた男』 の謎を解くためにシャグ煙草を一オンス吸って徹夜したとき着ていたは、「青いガウン」 だったのだ。

 なるほど仰せの通りではある。しかし、ガウンについては、ノックス師もお忘れのことがある。『青いガーネット』 では、ソファーにもたれたホームズが着ていたのは 「紫色のガウン」 だったのである。しかも 『青いガーネット』 は 『帰還』 ではなく 『冒険』 に収録されている。正典と認められるか否かの基準として、ガウンの色を持ち出しても無意味なのである。

 ノックス師の労作は、文芸批評としてはなかなか興味深いものであるが、学問的には今ひとつ信頼性に欠けると言わざるを得ない。肝心の本文が少々怪しいからである。たとえば、研究者の間ではシャーロキスムスとして知られるホームズ独特の言い回しの例として、ノックス師は二つの作品から二つの節を引用しておられる。第一の例は 『シルバー・ブレイズ』 から、あの有名な会話である。

 「あの晩の、犬の不思議な行動にご注意なさるとよいでしょう」
 「あの晩、犬は全然何もしなかったはずですよ」
 「それが不思議な行動だと申すのです」 とシャーロック・ホームズは言った。

 ノックス師には独自の典拠があるのかも知れない。しかし我々には、これはどう見ても異本を合成してしまったものとしか思えないのである。我々もワトソン本の各系統をすべて網羅的に検討したわけではないが、現時点までに参照できた版ではすべて次のようになっている。

 「そのほか何か、私の注意すべき点はないでしょうか?」
 「あの晩の、犬の不思議な行動です」
 「あの晩、犬は何もしなかったはずですよ」
 「それが不思議な行動だと申すのです」 とシャーロック・ホームズは言った。

 ノックス師は 「全然 at all」 という余計な語句を加え、「言った」 に生彩のある remarked に代えてごく平凡な said を用いておられる。これによって言語的に正確になったか、音調がよくなったかと言えば、答えはいずれも否である。

 第二の例は、さらに重大である。ノックス師は次の一節を 「引用」 しておられる。

 「尾行したのです」
 「誰も見えなかったが」
 「もちろん見えるはずがない、私が尾行したのですから」 とシャーロック・ホームズは言った。

 ノックス師は出典を示していないが、これは 「明らかに」 校訂の杜撰なことで悪名高いラッツェガー版選集から校合もせず孫引きしたものである。そして、もし我々の間違いでなければ、『悪魔の足』 の 「引用」 (というよりもむしろ改変) である。しかし、ノックス師の説では、『悪魔の足』 は正典とは認められないはずではなかったのか?

 『最後の挨拶』 と 『事件簿』 の刊行は1917年と1927年であるから、ノックス師の論考でその構成上の問題が取り扱われていないのはやむを得ない。しかしここでは、もう一つ年代学上の問題点に触れておこう。『覆面の下宿人』 では、シャーロック・ホームズが23年間現役として活動してきたとある。さて、ノックス師は 『緋色の研究』 は1879年のことだと言われる。1879年から23年間といえば1902年になる。ところが 『這う男』 は1903年に起きた事件だとはっきり書いてあるのだ。さらに、ワトソンが負傷したマイワンドの戦いは1880年7月だということも分かっている。従ってワトソンがホームズと知り合ったのも、1880年の後半よりも早いはずがないのである。

 最後に 『短編全集』 について一言付け加えておけば、ごく基本的な地名の表記が不正確なのは、まことに遺憾である。ホームズがストランド・マガジンに最後に登場した事件は、序文では The Adventure of Shoscombe Abbey であるが、本文ではこれが Shoscombe Old Place となっている。本文校訂の初心者はこのような些事に興味を持つかも知れない。しかし本格的な研究者は、ワトソン年代学の主要問題に取り組んでいただきたい。本稿はその複雑性の一端を示そうと試みたものである。


※S. C. Roberts, Holmes & Watson (Oxford University Press, 1953) 収録。著者S・C・ロバーツについては、「トスカ枢機卿の死―ワトソン博士の原稿断片」 も参照されたい。

(2005.8.3掲載)

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