トスカ枢機卿の死――ワトソン博士の原稿断片

発見者 S・C・ロバーツ
訳者 植村昌夫

この1895年は忘れがたい年であった。この年、実に奇怪で突飛な事件が続発して、ホームズは多忙を極めた。まず、あのトスカ枢機卿の急死をめぐる有名な捜査にホームズが取り組んだのは、ほかならぬローマ法王が名指しで所望されたからである。
        ―― 『ブラック・ピーター』

……このようなホームズの性格を考えるにつけても惜しまれてならないのは、かつてリウィウスの著作が散逸したように、多くの事件の記録が失われたことである。中でも、ホームズがローマ法王直々の要請を受けて取り組んだ事件については、誰もが知りたいと思うだろう。ところが最近、なんたる幸運か、私はワトソンの原稿の断片二編を発見したのである。これはかの 『トスカ枢機卿の死』 の草稿の一部に違いないと思われるので、以下に原文のまま紹介する。
         ―― S・C・ロバーツ 『シャーロック・ホームズ: その性格』


 我が友シャーロック・ホームズとの長い交際の間、宗教の教義の根底にある問題が我々の話題に上ったことはほとんどない。この宇宙が偶然に支配されているはずがないという彼の考えは私も知っていた。しかし、教会という組織に対しては、ホームズは一向に関心を示さなかったのである。
 ある朝、私はやや遅く朝食の席についた。そのときホームズは何も事件がなかったので、憂鬱そうに無言でアームチェアに座って、ぷかぷかと煙草の煙を吹き出していた。私も黙ってコーヒーを注ぎ、デイリー・テレグラフを読み始めた。五分ほどして、ホームズが沈黙を破った。
 「うん、ワトソン、僕も同じ意見だ。確固たる信仰を持ってカトリック教会に属するのは大変なことだと思う」
 「おい、ホームズ、いったい何のことだ?」
 「君が考えているのと同じことだよ」
 「しかしホームズ、どうして分かったんだ。僕は朝刊を読んでいただけだぜ」
 「そう、朝刊だよ、ワトソン。僕も君が起きてくる前に目を通したが、今日はまた格別につまらないね。開いて右の頁の四段目だけだ、見るところは。一分前まで君の目もそこに釘付けになっていた。それから君は何か考える様子で目を上げた。右手がチョッキの右下のポケットに伸びて、時計の鎖の端に付いている小さな十字架に触った。敬虔な女性だった母上の形見だ。単純な動作から、僕の方も同じく単純な推理をしたまでさ。昨日のトスカ枢機卿の劇的な死の記事を読んで、君も僕と同じように、しばらく考え込んだのだ。あのカトリック教会という組織に属するのは大変なことだと」
 「全くその通りだ、ホームズ」 と私は答えた。「それにしても、あの枢機卿ほど崇高な死に方は考えられないね」
 「そうかね」
 「そりゃ、君や僕や大多数のイギリス人には関わりのないことさ。しかし、ここに一人の老人がいて、長い立派な生涯の終わりに、ミサを執り行おうとしていて、突然、苦痛もなく、平生から心を寄せていた来世に旅立ったのだ」
 「ワトソン、君はどうしようもなくロマンティックだね。苦痛がなかったと、どうして分かるんだ? 彼が現世を超越していただなんて、君に分かるかい」
 「おい、おい、ホームズ。僕は新聞を読んだだけだよ。こう書いてある。『昨日、恐ろしい死の手は前触れもなく劇的にトスカ枢機卿を襲った。先週初めに来朝した枢機卿は、高名な説教家カスバート・ジェームスン神父の賓客であったが、昨日はナイツブリッジの無原罪懐胎教会において聖体降福式を執り行う予定であった。六十八歳にしてなお壮健に見えた枢機卿は、祭壇に額づこうとして突然崩れ落ちるように倒れた。会衆が手を貸して、枢機卿の体は恭しく教会の戸口まで運ばれ、忠実な従者によってベイズウォーターのジェイムスン神父宅に移された。発作は当初一時的なものかと思われたが、枢機卿はついに意識を回復しなかった』」
 「それで?」 とホームズは言った。
 「悲劇的な、美しい死じゃないか」
 「確かに悲劇的ではある。しかし美しいかね。ところでワトソン、今朝君がひげを剃っているときに、革砥が切れてしまっただろう?」
 「そうだ。しかしホームズ、いったいどうして分かったんだ?」
 「なに、簡単なことだよ。毎朝、君が革砥でカミソリを研ぐ規則正しい音が聞こえてくる。今朝は、突然鋭い音がして、しばらく間があった。それからまた研ぐ音がしたが、今度は一回ずつがかなり短くなっていた。明らかに、革砥が三分の一ほど使えなくなったからだ」
 「その通りだ、ホームズ、しかし……」
 「うん、僕が言おうとしたのは、枢機卿の死は美しいだけではない、それ以外の要素もあるかも知れんということだ」
 「犯罪の疑いがあるというのか?」
 「疑いがあるとは言わないよ、ワトソン。データがない。枢機卿の経歴だけなら、僕の索引にもある。Cの項だ。しかし、それが手がかりになるかどうか」 ホームズは言葉を切って憂鬱そうに窓から外を見ていたが、突然声を上げた。
 「おやおや、これはどうしたことだ。マイクロフトのお出ましだぜ。しかもかなり急いでいる。何か面白いことが持ち上がったんだ。よほどのことがなければ、兄貴がこんな朝早くから出てくるはずがない」
 まもなくマイクロフト・ホームズの巨体が部屋に入ってきた。
 「シャーロック、お前の助けが欲しい」 彼は単刀直入に言った。
 「誰か他の人の事件だね、マイクロフト。自分のことだったら、そんなにエネルギーを使うはずがない」
 「その通りだ、シャーロック。今朝は起き抜けからひどく急かされておるのだ。まず、外務省から使いが来てすぐに出てこいという。急いで次官と会ったが、彼の言うには、トスカ枢機卿の死について直ちに捜査を開始するよう、外務大臣が直々の要請を受けたというのだ」
 「ローマから?」
 「そうだ。法王は詳しい事情を調べねばならぬと考えられて、捜査はぜひともお前に頼むよう、直々の依頼があったのだ」ホームズの目がきらめいた。彼は何年も前に私に言ったように、謙遜を美徳の一つに数える男ではなかった。
 「どうも、虚名は恐ろしいね、ワトソン」 とホームズは言った。
 「そうです、ワトソン先生」 とマイクロフトが言った。「しかし、ここはどうかひとつ、あなたの記録が有名にした探偵の、哀れな兄の立場も考えてやって下さい」
 私が答える前に、ホームズが割り込んだ。
 「しかし、法王は枢機卿のことをどう言っているんだ? 何かデータを持ってきてくれたのか、マイクロフト」
 「それが、ほとんど何もないのだ、シャーロック。新聞に載っただけのことは知っておるだろうな。私は知らんがね、新聞など読まんから。これは、外務省にある枢機卿のファイルの抜き書きだ」
 彼は弟に一枚の書類を渡した。ホームズは熱心に読んだ。
 「うん、いくつか新しい事実はあるようだ。しかしほとんどは僕のファイルにもあることだ」
 「ともかく、これで私の役割は終わりだ」 とマイクロフトは言った。「私はふだんは物をねだったりはせんのだが、今朝は何しろせわしくて朝飯もろくに食べられなかったのだ。コーヒーが残っていないかね?」
 私が疲れ切ったマイクロフトのためにコーヒーを注ごうとしていると、また窓から外を見ていたホームズが言った。
 「もう一人客があるぞ。マイクロフト、こちらに来てごらん。この男も急いでいる。明らかに召使だ」
 「むろん召使だね」 とマイクロフトはのんびりした口調で言った。「それにカトリックだ」
 「ほんとうだ。兄さんの言うとおりだ。これは面白くなってきたぞ」
 「ホームズ、一体どういうことだ」と私は尋ねた。
 「なあに、例によってマイクロフトの方が僕より観察が鋭いというだけのことさ。あの男の黒服の仕立ては召使のものだが、これはすぐ分かる。しかし時計の鎖に付いているペンダントには、兄貴の方が先に気づいたのだ」
 やがてドアの外にあわただしい足音がして、客が入ってきた。きれいにひげを剃った、恭しい様子の小柄な男である。かなり興奮している。
 「どなたがシャーロック・ホームズさまで?」 と彼は息を切らせて言った。
 シャーロック・ホームズは一歩前に出て、小男に椅子を勧めた。「私だ。こちらは兄のマイクロフト・ホームズ、こちらは友人のワトソン博士。早速話を伺いましょう」
 「私はグッドウィンと申します」 と客は話し始めた。「ジョゼフ・セバスチャン・グッドウィンです。ジェイムスン神父さまの従者を務めさせて頂いております。もちろん、トスカ枢機卿の恐ろしい事件のことはご存じでしょう」
 「もちろん知っているが」 とホームズは言った。「しかし新聞に出ていることだけではどうしようもない。もっと詳しく知りたい。あなたはちょうどいいところに来てくれた。何が起きたのかを、落ち着いて話して下さい」
 「落ち着けとおっしゃる。しかし、これが落ち着いておられますか、死体がなくなったというのに」
 マイクロフトさえ驚いて、太ったチョッキの腹にコーヒーをこぼした。しかし彼はすぐに立ち直った。
 「ほかに何かなくなったかね?」
 「おっしゃることが分かりかねますが」 とグッドウィンは言った。
 「分からんでよろしい。私はこれ以上質問などせんが、弟が根掘り葉掘り聞くだろう」
 「さて」 マイクロフトは弟の方に向き直った。「私は戻らねばならん。さよなら、シャーロック、コーヒーをありがとう。どうやらもうかなりデータが集まったようだな。後で会いたければディオゲネスにいるから……」

                 * * * * * * * * *

 ライムストリート駅で客車に腰を落ち着けてから、私はホームズに何が最初の手がかりだったのかと尋ねた。
 「ワトソン、マイクロフトが実に鋭いことは前にも言っただろう。彼があのグッドウィンという小男に、死体のほかには何かなくならなかったか、と聞いただろう。あれで僕にもピンときたね。後でグッドウィンに聞いてみると、死体がなくなった翌朝、従者の着ている服が替わっていたと言った。これで疑惑が強まった。前の服は一体何に使ったのだ? もちろん、教会から運び出されたときには、枢機卿は意識がなかったのだ。しかし君が適切にも言ったように、死亡証明書はなかった。一々証拠を挙げて君を煩わせる必要はないと思うが、彼がまだ生きているという仮説を採用してみると、すべてがぴったりする。少なくとも矛盾はない。僕の知識に大きな空隙があったのは、枢機卿の若いころについては僕の索引にほとんど何も記載がなかったからだ。しかし、ローマ警察の旧友に電報で問い合わせて分かったのだが、彼は若いころにごく短期間だけ、ナポリのある秘密結社に属していたのだ。これはアナーキストの反教会主義の結社で、裏切り者は絶対に許さないという掟がある。それから、あの手紙にあった暗号の脅迫だ。ああいうのには、他の事件でも出くわしたことがあったね。あれを見て、まず間違いないと思った。枢機卿は従者の服を借りて逃げ出したのだ」
 「しかし、リバプールから出航することは、どうして分かったのだ?」
 「分かったわけではないよ、ワトソン。しかし彼としてはイギリスから出て行きたい、ヨーロッパからも出て行きたいのだろう。それなら当然西に向かうはずだから、サウサンプトンよりもリバプールということになるじゃないか。ともかく、今ごろ枢機卿は、友達がたくさんいるケベックへの途上にあるわけだ。そして僕らは、この列車が遅れなければ、シンプソンで食事をしてからアルバート・ホールで何か気持ちの休まる音楽を聴く時間があるだろう」

訳者より

 上に訳出したのは、シドニー・カースル・ロバーツ (1887-1966) が発見した医学博士ジョン・H・ワトソンの原稿の断片である。これは、“Sherlock Holmes: His Temperament” の一部として、雑誌Sherlock Holmes Journal に発表され、その後単行本 S. C. Roberts, Holmes & Watson, Oxford University Press, 1953 に収録された。
  ロバーツ氏はケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジの学寮長を務め、ジョンソン博士研究の権威であった。著書にThe Story of Dr. Johnson (1919), Doctor Johnson (1934), Samuel Johnson (1944), Doctor Johnson and Others (1958) などがある。
 この 「ワトソン博士の原稿断片」 の入手経路や真正性等については、すでに発見者が故人となっていることもあり、訳者はつまびらかにしない。しかし、ロバーツ氏がこれらの業績によってサーの称号を得ているくらいであるから、たぶん信用できるのであろう。
 ロバーツ氏の上記の Holmes & Watson はシャーロキアーナの古典の一つとされ、全137頁の小冊子であるが、古書市場では非常な高値がついている。目次に沿って内容を簡単に紹介しておく。

シャーロック・ホームズ
(1) ホームズの創造
「『最後の事件』を締めくくるワトソンの言葉は、(ソクラテスの最期を語る) 『パイドロス』 の最終行をほとんどそのまま訳したものである。」 「1903年になって、ドイルはホームズを復活させることに渋々同意し、彼がバリツの心得のおかげでモリアーティ教授との決闘から生還した次第を説明することにした。」

(2) ホームズの伝記
「ホームズの祖母はフランスの大画家オラス・ヴェルネ (1789-1863) の妹であった。C・ブランの 『フランス絵画史』 第3巻によれば、ヴェルネは……」 「ホームズは家庭で教育されたから、フェンシングはフランス人の親戚が教えたのであろう。ボクシングの基本は村の子供たちと手合わせして覚えたに違いない。」

(3) ホームズの性格
「現代の文学、哲学、政治についてはホームズの知識は皆無に等しいとワトソンは記録しているが、これはやや早計な判断であった。」

●付録――新発見の 『トスカ枢機卿の死』 の草稿の断片
(4) 女性に対する態度
「これまで研究者は、女嫌いホームズというワトソンの断定をあまりにも無批判に受け入れてきたのではなかろうか?」

(5) ホームズと音楽
 ホームズの 『ラッススの多声部聖歌曲』 に関する論文 (『ブルース・パーティントン設計書』)、『マザリンの宝石』 における蓄音機の使用などについての考察

(6) ジョンソン博士との親近性
「ボズウェルが傍にいてくれないと、僕は途方に暮れてしまう。」 (『ボヘミアの醜聞』) 「『膝、指、肩を見れば、ある男が何の職人かを見分けるのは簡単だ』 というのは、『緋色の研究』 の引用ではない。ジョンソン博士の言葉なのである。」

ワトソン博士
(1) 年代学の問題
 シャーロキアーナの濫觴であるロナルド・ノックスの有名な Studies in the Literature of Sherlock Holmes (シャーロック・ホームズ文献の研究) への批判。

 (2) 伝記
 正典の各編から多数の引用あり。この章は1931年に発表され、長らく標準的な伝記とされた。

べーカー街の情景
(1) 回想の221B
 221Bの位置を論じ、パロディ、舞台のホームズ、映画のホームズなどに及ぶ。

(2) 最後の言葉
「1903年10月に 『空き家の冒険』 がスランド・マガジンに載ったとき、書店の店頭はバーゲンセールのように大混雑になった。」

未発表の冒険二編
(1) 戯曲 『クリスマス・イブ』
 ハヤカワ文庫 『シャーロック・ホームズの災難 [下]』 に翻訳あり。

(2) 短編 『メガテリウム・クラブの盗難事件』
「私が友人シャーロック・ホームズの言行を記録するようになって久しいが、彼がディオゲネス・クラブに愛着を覚えていることには触れる機会があったと思う。これはロンドンでも特に人嫌いの男ばかりを集めているクラブで、談話は外来者室以外では一切厳禁になっている。私の知る限り、彼はこのほかにはクラブなどに関心を示さなかった。そのホームズがメガテリウム・クラブの盗難事件という異常な謎の解明を依頼されるに至った経緯は、いささか奇妙なものであった。……」

(2005.2.11掲載)

 書斎の死体INDEX