
はじめに
「21世紀の日本は文化技術の向上が発展の基礎」との認識に立ち、わが国の文化技術を多面的な視点から検討し、文化技術振興の課題と方策を探る。なお、研究の成果は、「文化技術の比較制度分析」に取り纏め、本コーナーに掲載する。
第1部.文化技術の比較制度分析
第1章.文化技術とは about liberal arts (14.09.11更新)
第2章.文化技術の方法 theory (10.03.31更新)
第3章.三木清と文化技術 K. Miki & liberal arts (14.11.25更新)
第4章.文化技術の史的展開 history (以下・予定)
第5章.文化技術の現状分析 current situation
第6章.文化技術振興の政策課題 political issue
第7章.国別各論 selected countries
第2部.現代に生きる日本の美と文化技術(リンク)
Japanese sense of beauty &
liberal arts (link)
@ 日本の原風景 http://sugikei55.exblog.jp/
東京の桜−cherry flowers in
Tokyo
比叡山延暦寺・坂本・日吉大社−
Enryakuji
Temple・Sakamoto・Hiyosi Taisya Shrine
京都・皇居の桜−cherry
flowers in Kyoto & the Imperial Palace 他
A 「日本語亡者の繰り言」
http://www13.plala.or.jp/nihongomoja/
−権威ある日本語についての検証−
文章読本=日本語教則本について考証。併せて、「朝日新聞」も取りげる。
朝日新聞
谷崎潤一郎 『文章読本』
吉行淳之介・選 日本ペンクラブ・編 『文章読本』
川端康成
『新文章読本』 たちばな出版
三島由紀夫 『文章読本』 中公文庫
中村真一郎 『文章読本』 新潮文庫
丸谷才一 『文章読本』 中公文庫 2006年
他
B 反面教師として読んだ「文章読本」 原不二夫著 鳥影社 2019年3月28日発行 
長年かかって積み上げた文章論を世に問うため、個々の文章の添削を書き連ねるのでなく、そこから浮かんでくる真に規範となる文章の姿をあぶり出し、「一般則」をまとめられないか、と改めて思った。以下はその努力の跡である。(はしがきから抜粋)
第3部.雑記
随想 「恒産なき者は如何にして恒心を持ち得るか」(15.01.30 記)
昨年、今年と相次いで同期会に出席した。一つは、麻布小学校6年2組のクラス会であり、もう一つは、東大経済学部 大内力ゼミ42年卒のゼミ会である。共に出席率は良好であった。齢70を超え、古希ともなると誰しも若いころが懐かしく思えるのであろう。久しぶりに再会すると忽ちのうちに昔にタイムトリップし、思いで話や近況報告に花を咲かせて、楽しい時間を過ごした。
特に小学校のクラス会は、出席者が男女混成であり、また、卒業後の経歴も様々であることから、色々と面白い話が聞けてたいへん興味深いものがあった。
世間一般では老後の男性は女性に比べて元気がないと言われるが、このクラス会は男性陣も自営業などで仕事を続けている人が多いせいか、女性陣に負けず劣らず意気軒昂であり、元気のお裾分けに預かることができた。
私はまだ現役のころからリタイア後の生活を心待ちにしているところがあった。一つには、愛読書であった夏目漱石の「道草」や「それから」などに登場してくる、日ごろ何をしている風にも見えないのに優雅に暮らしている「高等遊民」の世界に一種憧れを抱いていたからである。また、ドイツでは社会保障が行き届いていることから60歳でリタイアすることを待ち望む人が多いと何かで読んだことも影響している。
一方、仕事から解放され全く自由になることに何がしかの不安も感じていた。狂気としか言いようのないヒットラーのナチズムに当時のドイツ国民が歓呼の声をもって迎え入れたのは、自由であっても精神的に不安定な状況から逃れて束縛を望んだからだと、エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」で記述している。自由であることは不安のもとでもある。
加えて、老後には経済的な不安もある。若いときの貧乏は何とでもなるが、年とってからのそれは惨めである。ある時のゼミで大内先生が「恒産なき者は恒心なし」と言われた。マルクス経済学者らしからぬ言葉と多少違和感を持って聞いたが、その言葉が頭から離れず、今では座右の銘のようになってしまった。
それでは、「恒産なき者は如何にして恒心を持ち得るか」。この大命題にリタイアして10年近く経過した現在、私がどのように対応してきたか、またその因って来る由縁は何であったかを、思い出すままに書き連ねることにする。
最近のはやり言葉に、「老後はキョウイクとキョウヨウが必要である」というのがある。初めてこの言葉に接した時、まず頭に浮かんだのは「教育」と「教養」である。それが実は、「老後は、今日・行く(処)と今日・用が必要」の掛け言葉と知って、うまいことを言うものだと感心した。
古来、小人閑居して不善をなすと言われる。また、過ぎたるは及ばざるがごとしとも言う。仕事から解放されるのはありがたいが、とにかく暇がありすぎては困る。そこで各自、己の才覚で、「今日行く」ところを探し、「今日用」を作ることになる。私の場合は、「ラテン語学習」、「囲碁」、「ホームページ作成」の三大イベントが強い味方になってくれた。
朝ドラの「花子とアン」で全国的に一躍有名になった東洋英和女学院の生涯学習センターラテン語コースに通い始めて3年経つ。「ラテン語を勉強しています」と話すと、「何でラテン語なのですか?」という質問が帰ってくる。その心は、「いまさら死語になったラテン語を勉強するなんて何と物好きな人」というところであろうか。
ところがラテン語愛好者は決してマイナーな存在ではない。現に、島創平先生(国際社会学部教授)のご指導で購読しているカエサル「ガリア戦記」のクラスは20名を超え、教室は満席状態にある。生徒はほぼ男女同数で女性が50〜60歳代、男性が60〜70歳代というところであろうか。この年代がいかに文化的生活に関心が深いかがわかる。
ラテン語と東洋英和女学院は中学生(麻布学園)頃からの高嶺の花であった。ラテン語はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」で知り、そこにヨーロッパのロマンを感じた。また、東洋英和女学院は姉妹校と聞かされ、その楓の記章と臙脂色のスカーフは憧れの対象であった。麻布学園は江原素六が1895年に東洋英和女学校(東洋英和女学院の前身)の隣接地にあった同じメソジスト系の東洋英和学校(男子校・後に廃校)内に東洋英和学校尋常中学部として創立したのが前身である。
たまたま、70歳を越えたこの年を迎えて、この二つの高嶺の花にお近づきを許され、時間・空間を飛び越え、ヨーロッパ地図を片手に河や沼に足を取られ、森に行く手を遮られ、解読に難儀しながらもカエサルの世界に身を置くのは将に至福の時である。さらには、学習仲間と一緒に「ガリア戦記ツアー」を組もうとか、ラテン語をベースに同じロマンス語系のフランス語・イタリア語・スペイン語へ挑戦しようとか夢は無限に広がる。
囲碁は東大駒場時代に覚えた。一時は囲碁部に所属し、天井板が碁盤に見えるほど、のめり込んだこともある。社会人になってからはたまに同好会で打つ程度であったが、リタイアした後、学士会の囲碁部に所属し六段で対局している。ここ3年余りは神谷町近くのホテル37階にある「空(=天国?)に一番近い」を売りにしている囲碁サロンに通っている。
会員の多くは年配者であるが、米寿を越えたご高齢の方が自分の曾孫にも相当するような若いインストラクター相手に囲碁に熱中し、その間は同世代に若返ったように見える。これは学士会の囲碁部にも共通するのだが、日課のように通ってくる人もいる。囲碁サロンが立派に居場所(「今日・行く」)の役割を果たしており、囲碁ほど高齢化社会に適したゲームはないと思えてくる。
囲碁は感性・感覚を司る右脳を刺激することからその教育効果や認知症の予防効果が注目されている。東大教養学部でも単位取得可能な講座として組み込まれており、石倉9段(麻布高校・東大法学部・興銀経由でプロ棋士に転向)他、プロ棋士が指導に当たっていると聞く。
囲碁サロンでは、院生(日本棋院のプロ養成教室)出身で女流アマ選手権に優勝経験のあるお二人にご指導頂いている。たまたま揃って長期休暇に入られるため当分はパソコン囲碁ソフトで棋力向上を図り、お二人の復帰を待とうと思っている。最近の囲碁ソフトはモンテカルロ法を導入して以来一昔前とは比較にならないほど進化した。私が使用しているソフトは武宮9段に4子で白星をあげたと言われる。最強ランクの4段には滅多にお相手して頂けずいつも副将格の3段止まりで悔しい思いをしている。囲碁ソフトの良いところは、自分の好きな時に好きなだけ対局できることである。時として打ち方に偏りのあるのが難だが、とにかく早打ちで攻め・死活の強さは無類である。
ホームページの作成はリタイア後に株式会社文化技術を設立したことでスタートした。株式会社とは名ばかりで、僅かな不動産収入で賄う、福沢諭吉が「西洋事情」の中で言及した非営利型株式会社である。(渡辺清「非営利型株式会社の資本市場構想」経済セミナー2007.1)
文化技術の研究と内外経済・鉄鋼データーをインターネットで提供することが目的で、微々たるリピーターの存在がホームページ運営のインセンティブになっている。統計データーは毎日のように発表されるので、必然ホームページもほぼ毎日更新する。これを始めたお陰でその日にやるべきこと(「今日・用」)が準備されているのが助かる。毎週月曜日に掲載される日経新聞の統計欄をデーターベースにグラフ化したものが基本である。最近は日米の株価・為替・長期金利の動向に注目しオリジナルデーターから作成したグラフも発信している。
私のグラフ好きは元を辿ると大内先生に行き着く。先生は当時精力的に日本経済を分析し著作を公刊されていた。ある時のゼミで「経済分析は方向さえ決まれば、後は単純作業で営々とデーターを計算してグラフ化するだけです。」と言われたことがある。以来このことを実践し現在に至っている。
経済データーを日々追うことは、内外を問わず社会の動きに接点を持ち続けることに通じ、大きな効用の一つと考える。近年は「朝活」と称して土日を除く毎朝、日経新聞とラテン語のテキストを持って近くのコーヒーショップに通うのが日課である。経済面を中心に30分ほど新聞に目を通すと、後は1時間ほどラテン語の予習をする。1日の始まりに身体と頭脳を動かすことでその日をスムーズに過ごせる。
ここで、リタイア後のライフスタイルを考えるに当たって私が大きな影響を受けたお二人、故丹沢一延氏と佐々木喜朗氏についてご紹介させて頂きたい。
まず、丹沢氏は旧制四校・東大経済学部・同大学院を卒業され、商工組合中央金庫に入社された。氏が調査部長当時に仕事をご一緒させて頂いたのであるが、アイデア豊かな異色の金融マンで、エコノミストとして優れていたばかりでなく実務にも強く、役員・関係会社社長を歴任された。
退任後はビルの1室に小さな学房を構えて執筆活動に専念され、時には小規模な勉強会を催された。私もタイ工業省に2年出向して戻ってきたおり、講師として呼んで頂いたことがある。クラッシク音楽と囲碁・ゴルフをこよなく愛し、しばしばご夫妻同伴でサントリーホールにコンサートを聞きに行かれる。失礼ながら我が憧れの「高等遊民」を地で行くライフスタイルには敬服もし、また羨ましくも感じたものである。
もうお一方の佐々木氏は旧制一校・東大法学部を卒業され、富士製鉄に入社された。新日鉄では副社長を勤められた後、系列電炉メーカー会長に就任され、電炉団体会長として業界再編に指導的役割を果たされた。私は協会事務局の立場でご一緒させて頂いたが、大病治癒された直後で長身痩躯の英国紳士であった。
氏は副社長当時、後に経団連会長に就任された今井敬氏と最後まで社長ポストを競ったと言われる超大物であったが、「自然体」と「平明であること」をモットーにされ、全く偉ぶるところがない。年何度か総会や理事会の前に伺って、時にはハイエクやケインズを引用される話をお聞きするのが楽しみであった。普段は春風駘蕩としておられたが一旦、協会保証債権の保全を巡ってある都銀と鍔迫り合いの交渉になると、切迫した状況下にも関わらず相手の立場を尊重しつつ、こちらに有利な解決策に導いていく手腕は流石と思わせるものがあった。
また、新日鉄では労務・人事畑が長いこともあって、独自の労使観と資本主義観をお持ちで、ロナルド・ドーアの著書に自分の見解が紹介されていたと楽しげに話をされていたのが印象的であった。海外ジャーナリストのインタビューを受けられることもあり、ご高齢にも関わらず定期的に英会話レッスンを受けられるなど、その知的好奇心を持ち続けられる生き方には強い感銘を受けた。
そろそろ枚数もつき、「恒産なきものは如何にして恒心を持ち得るか」の大命題に回答を提出しなければならない。牽強付会に過ぎるが、やはり「老後は教育と教養が必要」ということに立ち返るのではないか。大内先生の言われた「恒産」とは、不肖の弟子たる私が見誤った物質的なものではなく、精神的なものではないかと思い至って何となく得心した。
私が在籍した頃の経済学部は、文科2類からほぼ自動的に経済学部に進級していた。現在は増員された分、進級が難しくなり、他科の経済学部進学希望者と枠入りを競わないといけないと聞いている。そのこと自体は生徒の緊張感を高め、レベル向上に資することは間違いない。ただ、経済「学」には経済「楽」(経済を楽しむ意)の側面もあることを先生方の頭の片隅に置いて頂けると幸いである。
最後に締まらない文章を締める常套手段を用い、小林秀雄のエッセイ「ガリア戦記」(抜粋)で締めさせて頂く。
「政治もやり作戦もやり突撃する一兵卒の役までやったこの戦争の達人にとって、戦争というものはある巨大な創作であった。知り尽くした材料をもってする感傷と空想を交えぬ営々たる労働、これは又大詩人の仕事の原理である。ガリア戦記という創作余談が、詩のように僕を動かすのに不思議はない。サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る。」
(本文は東京大学経友会「経友190号」<2014.10発行>に掲載されたものです。)
小林秀雄名文選 他
「ガリア戦記」 (14.11.18 記)
シィザアの記述の正確さは、学者等の踏査によって証明済みだそうだが、彼等が踏査に際し、地中から掘り起して感嘆したかも知れぬロオマの戦勝記念碑の破片の様に、戦記は僕の前にも現れた。石のザラザラした面、強い彫の線、確かにそんな風に感じられる。昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。
「ガリア戦記」は、兵馬倥偬の間に、驚くべき速さで書かれた元老院への報告書に過ぎないそうである。而も、何故、僕は、紛う処のない叙事詩の傑作を読むのだろうか。政治もやり作戦もやり突撃する一兵卒の役までやったこの戦争の達人にとって戦争というものはある巨大な創作であった。ガリア戦役という創作で、彼は通暁しなかった一片の材料もなかったであろう。知り尽くした材料をもってする感傷と空想を交えぬ営々たる労働、これは又大詩人の仕事の原理である。ガリア戦記という創作余談が詩のように僕を動かすのに不思議はない。サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る。
「無常という事」 (09.11.22 記)
「或云、御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にし問われて云、生死無常の有様を思ふに、此の世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」(注)
これは、一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細けいな描線を辿る様に心に染みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。(以下略)
確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やら、一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かび上がった文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事はわからない。わからぬ許りではなく、そういう具合の考え方が既に一片の洒落に過ぎないかも知れない。僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出してたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。(以下略)
上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
(注)「一言芳談」小西甚一校注 ちくま学芸文庫 から引用
ある人のはなし。比叡の山王権現で、わざと巫女の姿をした若い女性が、十禅師の前で、夜がふけ、人音がしなくなったころ、テントントンと鼓を打ち、心の澄みきった声で、「どうでも結構でございます。どうぞどうぞ」とうたった。その意味あいを人から無理にたずねられて、「生死定まりないありさまを思いますと、この世はどうでも構いませんから、どうぞ後世をお助け下さいませと申しあげたのです」と答えたよし。
「大内 力 先生 お別れの会・偲ぶ会 」に出席して (09.07.24 記)
7月23日、先生のお別れの会が約200名の列席のもと学士会館で催されました。
多くの方々が心のこもったお別れの言葉を述べられた後、節子夫人からご挨拶いただきました。先生の病床でのご様子や家庭人としての日常生活のお話は、時にはユーモアを交えながらも先生への尽くせぬ愛惜の思いが感じられました。
ロナルド・ドーア教授は、懇篤な弔文の中で、先生を「しっかりした人」、自己の思想を確立し他人の意見に惑わされない人と評し、経済学のみならず思想史においても大きな足跡を残されたと称えておられました。
また、献杯の労をとられた若井恒雄氏(一高同窓会長)は、リベラルアーツと後進育成にかける先生の熱き思いをご披露されました。
先生は齢い90を過ぎて書下ろしの「大内力経済学大系全8巻」を完結されました。最終巻「日本経済論下」の中で独自の見解を展開された注記や「農林水産業の消滅」など未完の章は、先生が解決すべき課題として後世の自分たちに投げかけられたのではないかと、校正を委嘱された柴垣和夫氏(東大名誉教授)が述懐されていました。
この先生の志を深く受け止め自分なりに精進して行くことが、後に残された我々の最低限の努めと、想いを新たにしました。
桜前線は北進中 (09.05.07 記)
平安時代以降、花といえば桜を意味するほど、桜はわが国を代表する花として親しまれてきました。また散り際のよさから武士道の象徴ともされるなど、桜ほど日本人の美意識に適うものはありません。反面、その人を惑わす美しさは怖さも秘め、古来多くの化身が物語に彩りを添えています。何れにせよ桜の知るところではなく、ただひたすら春になれば花を開きます。只管開花。
夕 桜 藍 甕 く ら く 藍 激 す (杏子)
ま さ を な る 空 よ り し だ れ ざ く ら か な (富安風生)
桜 ち る 南 八 男 児 死 せ ん の み (漱石)
見渡せば 柳さくらを こき混ぜて 都ぞ春の 錦なりける (古今和歌集)
追悼 大内 力 先生 (09.04.23 記)
去る18日、大内力 先生がご逝去されました。先生は類まれなる明晰な頭脳と他の追随を許さぬ学識を以ってマルクス経済学に大きな足跡を残されました。
その学恩は専門の農業経済学に止まらず宇野経済学の嫡流として原論・段階論・現状分析の多方面に及び、なかんずく国家独占資本主義論や日本経済分析は確固たる地歩を占めています。
先生は、晩年においても大内力経済学全集の完成を目指しその健筆は衰えることを知りませんでした。また先生は、名代のエッセイストでもあり、やや辛口の中にも温かみのある文章から巧まずして人生のヒントを伝授されたように感じたものです。
春深きこの月、彼岸に旅立たれた先生のご遺徳を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
玉藻さん (08.11.11 記)
先日、紀尾井ホールで久しぶりに玉藻さんの演奏を聴きました。今回はパリ国立高等音楽院教授イヴ・アンリ氏とのデュオリサイタルです。玉藻さんの演奏は、いつもの力強さの中にバッハ「無伴奏パルティータ」で示された深い精神性やラヴェル「ツィガ−ヌ」の華麗な弓使いは十分に聴衆の心をとらえたようです。
この日の圧巻はベートーヴェン「クロイツェル」でした。そのダイナミックで力感溢れる演奏は、とかく意気消沈しがちな昨今、明日への元気をプレゼントして貰ったように思いました。
ただ一人日本人の演奏者として招待された ライプツィヒ 「バッハフェスティバル」での活躍が期待されます。(09.03.16
記)
外国人記者クラブでのコンサートで、玉藻さんがバッハのシャコンヌを演奏中、何の前触れもなくG線が切れてしまいました。馬の尾が鋼を断ち切る集中力の凄さもさることながら、張りなおした弦で前にもまして力強く弾ききった精神力に驚かされました。心技ともに着実に成長しているようです。
高尾山 (08.11.13 記)
日本の魅力は、四季折々に趣を異にする季節と起伏に富んだ地形にあります。特にバンコクのような hot-hotter-hottest
の世界で暮らすとこのことが痛感させられます。わが国の自然の美しさは高尾山が国際的なガイドブックに掲載されるなど世界にも知られるようになりました。地球温暖化が懸念される中、後世に引き継ぎたい最大の遺産です。
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