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 函 館 東 高 応 援 歌 
↑2006年青雲同窓会、還暦の応援団長

 「♪栄えある学舎 青雲の 丘に自由の鐘を聞き 希望に燃える若人が・・」に始まる第1応援歌は、1946年2月16日に誕生した。ちょうど日本占領軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥が活躍していた時代である。作詞歌の竹富紀雄さん(市中3回生)の「第1応援歌の思い出」を紹介した。それから60余年、今も東高の同窓会、同期会で歌い続けられている。
 応援歌の歴史はどうやら応援団の存在と密接につながっているようだ。函館東高最後の校長先生(現函館市立高等学校長)森武先生のお話では、先生が国語の先生として東高で教鞭をとっていた1988年から1995年の頃さえ、応援歌は歌われていなかったそうだ。応援団の存在がなくなり、第2、第3応援歌は「忘れられる寸前だった」。
 2001年4月、1960年に卒業した「青雲10期の会」が卒業40周年を記念して、自分達で歌った校歌と応援歌(第1~4)をCDに作った。いつの間にか歌われなくなった応援歌を「記憶にたどってメロディーを作った」という。東高放送部はその様子を「東高応援歌よ 永遠に」と題するラジオドキュメントを作成している。12に、その録音を紹介した。
 ある11回(1961年卒)生から次のようなメールをもらう。
 「この歳になっても、入学間もない時期に当時の体育館に集められ何回となく歌唱指導されたり、千代ヶ台球場で当時は弱かった野球部の応援で喉をからした思い出がが蘇ります。
 不思議なもので歌詞を眺めていると、数分も立たないうちに口すさんでおり2番辺りからは恐らく、精度の高いメロディーを再現しているような気がいたします。最近老人世代の脳細胞機能活性化が話題になっておりますが、古い記憶はCPUから意外と簡単に情景と共に復元できるのだそうで、成る程と納得した次第です」。

 今もその思い出は多くの人々の心にあるのだ。

 応援歌の思い出をMixiという会員生のインターネット・コミュニティに募集したところ、次のようなメッセージをいただいた。ありがとうございます。下記に引用させていただきました。
 「いや~ 懐かしい! (1978年の)写真は、青雲祭の行灯行列の先頭を行った応援団。大門広小路での一コマ。なんと私が写っています。間違いないはず もちろん第1応援歌もいまだに歌えます。」 Hosyケンさん。
 「覚えてます。 伴奏なしで歌っていたためか微妙に音程やリズムが違いますが歌えます。学校祭やらスポ大で歌っていました。
ちなみに88年卒です。確か特別応援歌というのもありました。学生手帳にものっていたような…。」  cellocueさん
 「83年春に卒業していますが 入学してから卒業まで 応援歌、といえば特別応援歌と言わんばかりにこればっかり歌っていた記憶があります。 生徒手帳にも楽譜が載ってましたよね。」  かりんとう さん
 *特別応援歌は、昭和40年から昭和42年に青春学園テレビ「青春とはなんだ」「これが青春だ」の主題歌「貴様と俺」。
 「特別応援歌 77~80年の時には歌ってました。ちなみに私は、第4応援歌が一番印象に残ってます。 」 ericoさん
 「応援団は確かにありました。特別応援歌も本当に良く歌いました。」  きむ・さむすん さん
 「28期生です。 るんるん空に燃えている でっかい太陽 の後に「それ~それ~それ~」って掛け声がありませんでしたか? 何だか印象に残ってるのですが・・・。 」 アイマイミーマインさん

卒業記念のレコード3種

左上:28回(1978年卒)には、第1、第4、特別応援歌が収録。

中央右:31回生(1981年卒) 校歌のみ収録、

左下:32回(1982年卒)には、校歌と特別応援歌が収録されている。
(↑佐野秀一郎さん提供)
尚、2007年の廃校式で配布された学校作成のCDには、校歌、第1応援歌、第2応援歌が収録されている。 (写真は校歌の項参照)
                        2008.1 管理人

1 第1応援歌楽譜・歌詞 PDF
2 第2応援歌PDF 第2応援歌歌詞について
3 第3応援歌 PDF
4 第4応援歌楽譜・歌詞 PDF
5 第1応援歌 歌 10回生編
6 第1応援歌 吹奏楽部編
7 第2応援歌 歌 10回生編
8 第2応援歌 吹奏楽部編
9 第4応援歌 歌 10回生編
10 校歌・第1&第4応援歌歌詞 PDF
11 第1、第2、第4応援歌楽譜 PDF 
12 東高校応援歌よ、永遠に!
(6分59秒)
平成13年度第48回NHK杯高校放送コンテスト
ラジオドキュメント部門全国大会出場作品
第一応援歌の思い出

 生まれて初めて私に自力で“マネー”を稼がせてくれたのは、母校が募った応援歌の一等賞金である。額は三拾圓也、時は1946年二月十六日のことであった。
 完膚なきまでにたたきのめされた戦争のつけであるインフレという化け物が、すでにのさばり出していた。それでも、三拾圓は、十六歳になったばかりの私にとって、目眩く大金であったし、大金になるはずであった。
 になるはずであったというのは、ならなかったということに他ならない。私にとってずしりと重くしてしかるべき三拾圓を軽くしたのは、インフレ以上の絶対者として君臨していた”日本占領連合軍総司令官”ダグラス・マッカーサー元帥である。
 もともと応援歌の表彰は、私もその片割れである四年生の修了式ないし卒業式に——三月四日——に行われる予定であった。それがにわかに、二月十六にくり上げられることになった。
 マッカーサーがインフレ退治のために、いきなり二月十七日を施行日として”金融緊急措置令”なるものを布告したからである。経済事典はこの措置を次のように解説する。『新圓(新日本銀行券)の発行とともに、従来の五圓券以上の旧圓の通用を停止し、凍結(強制預金)した』。
 母校はあわてたにちがいない。大枚の懸賞金をはずんだには、二月十七日以降に授与したのでは画にかいた餅になってしまう.....。
 ということで当選者たちは——応援歌と”市中健児の歌”の一等から二等までが、表彰された——の使途裁量権がぎりぎり保留される十六日に急遽、日程がくりあげられたのである。
 どかんと目減りしたものの、とにかく三拾円は楽譜とともども、一九四六年二月十六日の朝令の席上、一千余の全校生徒の見守る中で岡村威儀校長先生の手から、しかと私の手に渡された。
(省略)
 話を応援歌そのものに戻す。私の詞に曲をつれてくれたのは高嶋巌先生である。「楽譜は、学校に出したのと君に贈られた分と私の手許に残す三部あるんだが、君にいちばん気を入れて書いたのをあげたのだよ。」これが表彰日の昼休み、職員室に私を呼んで打ち明けてくれた先生の言葉である。
 楽譜用紙が底をついていたうえに、コピー機など影さえなかった当時にあって、三部も楽譜をつくるということはなみたいていの苦労でなかった筈である。
 しかし、そのかけがえのない、まるで印刷機にかけたように端正な楽譜をまことにうかつながら、私は行方不明にしてしまったのである。
 その年の四月、私が早稲田に進学したことと、それから三年後に家をあげて東京に引越したというどさくさが貴重な楽譜を消息不明にしてしまったのであるが、いずれにしても弁解の余地はない。
 高嶋先生に対して申し開きの立たないことがまだある。先生の名前をいつのまにか忘却の淵にしずめてしまったことである。先生はすでに彼岸の人だと聞く。楽譜の紛失と名前の失念に対するおわびを言上しようにも、もはやそのすべはない。職員室での初めてで最後だった、先生とのたった一回のあのふれあいを想い返すたびに、”足ずり泣ければ陽も白むなり”の想いが胸板をよじるのである。
 思い出そうにも出せない先生の名——同期の誰に聞いても首をひねるばかりだった先生の名を言下で教えてくれたのが、ワシントンから十年ぶりで国際交流基金の東京本部にもどってきた渡辺央充君(市中4回)である。持つべきはものおぼえのよい友の感に打たれたものだが、同君はその後、パリ支所長をみごとにこなし、現在、財団法人国際ファーラムの理事におさまっている。
  なおも作曲にもつわるエピソードを披露する。一期か二期上だからといって先輩風を吹かせていたら、どえらい後輩というのがかならずいるものである。広瀬量平君(市中5回)がその人である。ここでは一応の風を吹かせて君づけで呼んでみるが、彼は京都市立芸大教授という肩書きもさることながら、武満徹をおびやかす位置にいる押しも押せれぬ作曲家である。
 かれこれ十年にもなるであろうか。一夜、同期の久保雄三君(竹中工務店常務(市中4回生))、広瀬君、私の三人で函館にゆかりの深い数寄屋橋の”ニュー・トーキョー”でジョッキを傾けたことがあった。
 早稲田グリーンクラブ上がりの久保君が、ほろ酔い気分に誘われて「武富の応援歌を唱おう」と『栄えある学舎....』を口ずさみはじめた。音痴である私は同調はさしひかえて、「久保は設計もうまいが、歌もうまいな」と彼の声に耳を傾けていた。
  ところが『希望にもゆる若人が』のくだりを久保君がやらかしたとたん、量平君がたなごころをふって制止した。「ちがいますよ、久保さん、武富さんの歌のここはですね....」、言いも終わらず目の前のペーパー・ナプキンをつまみみると、ボールペンで引いた五線紙の上に、オタマジャクシの数々をさらさらと散らしてみせたのである。久保君の歌唱指導をするとともに、私が絶版にしてしまった楽譜を復刻してくれた彼を以来、量平さんとさんづけで呼ぶようになった。
 応援歌募集に寄せられた作品が何点だったか、まったく記憶にない。ただ、三等に輝いたのは同期入学で四年の時、石垣福雄先生クラスで鉢合わせし、友を結ぶようになったヤクルト本社専務の宮田隆君(市会4回)であったことだけは、鮮明に覚えている。五圓、これが彼のポケットに入った賞金のだったはずだ。なぜなら「なんで武富が三拾圓で、俺がたったの五圓なんだ」と口をとんがらした彼の姿が、いまなお目にやきついているからである。
 ずうっと後のことだが「どう始末した? あの時の賞金」ときいたら、いかにも彼らして答が返ってきた。「俺がもらったっけ? そうだったかなぁ」
 六十という年齢からふり返れば、応援歌は若気のいたりの産物でしかない。よくもまあ、臆面もなく.....と身が宿んでしまう。  だが稚く拙い代物ながら、市中、市高、東高と三度も名を変えなければならなかった母校の風雪を越え、いまなお第一応援歌として唱い継がれていることは事実である。
 かくして耳にするたびに頬が染まり、冷や汗が流れるのだが、応援歌のほうが作者よりずうって健気に生きているなぁという想いに揺さぶられて、じーんとなるのである。

                           武富 紀雄(市中3回生)・元日本大学教授・初代関東地区青雲同窓会副会長
                             平成2年発行「関東せいうん」創刊号より

☆第2応援歌の歌詞についての論争、時か、鬨か、その決着は、プログを参照ください。
 1946年は終戦の翌年である。50周年誌の沿革略年表によると、1945年11.30「進駐軍クルーがー中尉の講演、12月7日には職員との座談会」 1.22「生徒に終身・地理・歴史の教科書を持参させ処理する」 3.4 「懸賞当選歌(市中建児の歌、市中応援歌)発表」とある。この市中応援歌が現在の第1応援歌だ。市中建児の歌は、「戦後社会情勢が急変し、函館市立中学校校歌の歌詞が時代との感覚にそぐわなくなったため、校歌の代わりにうたわれたものであります。後に6.3.3制の学校制度の改革があり校名が函館市立高等学校と改められても、校歌に代わるものとして広く生徒の間にうたわれたものであります。しかし残念乍ら戦後の混乱期のため一番しか知られておりません」(50年誌より)。  
☆第三応援歌の謎  1995(平成7)年7月24日発行青雲時報 第141号より
☆市中建児の歌   作詞 しょうじ よしちか  作曲 酒井 武雄
 青雲台の春めぐり
  いま目覚めたる 若草
  萌え出る意気を 慕いつつ
  建児一千 気負い立つ
  潮時告ぐる 大太鼓
  轟きわたる 朝ぼろけ 
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