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私の唐牛(かろうじ)健太郎の世界
 「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふわしいものだった」。 
               加藤紘一・元自民党幹事長。
 唐牛健太郎さんは、東高6回生(昭和31年卒)。1937年に函館市温泉街の湯の川に生まれ、湯の川小学校、湯の川中学校を経て東高に入学し、北大に進学。北大学生の時に、請われて全学連委員長となりました。
 「唐牛健太郎追想集」(発行1986年12月10日編集唐牛追想集発行会(代表 島成郎)、発行所 唐牛健太郎追想刊行会)を基に、その人柄の断片を紹介しました。
 東高OBの中で、もっともマスコミを賑わした卒業生でありましょう。
 この追想集の中で「私の中の唐牛健太郎-序にかえて」を記した島書記長でさえ、「私の中の唐牛健太郎の虚像を記す以外にはありえない」と述べてます。
 1984年直腸がんで他界。享年47歳。その実像を明らかにすることは至難のことでありましょう。けれども、100人を超える人々の追想の中から、唐牛さんの断片をあえて無謀にも探ろうとしました。函館東高資料集として、彼こそ、東高を代表する卒業生の一人と思ったからです。
                         2007.8.19 改定 管理人
2007年8月にブログにリンクのお知らせをした。その回答が2009年11月に寄せられている。2011年4月に発見。追記した。
☆全学連委員長の誕生 - 東京から三顧の礼で迎えられる☆

 この時も昼間からビールを飲みながら話だった。
 「東京には偉れえ人がウジャウジャいるじゃねえか、なんで俺みてえ田舎者が委員長にならなければいけねえんだ」と最初からゴネていた唐牛も、「うんというまでは俺は帰らないよ」という私に面度くさくなったのか、最後は「とにかくやってくれ」という私の懇願に「しゃあないな、(札幌から東京に)行くことにするよ」ということで決着した。

 その1ヶ月後1959年6月、全学連14回大会でブント(共産主義者同盟)は革共同、日共との争いを経て執行部多数を獲得、唐牛健太郎は中央執行委員長に選出される。

 この時、唐牛、22歳。
 
 唐牛が全学連委員長となって東京に移り住んだのは、あの安保闘争の真中であった。七面倒な議論を嫌い行動によって決断する唐牛のスタイルはブント全学連の新しい魅力を作り出し、大衆支持を拡げる発条となったのだ。                                                      
                                                     島成郎ブント書記長
*写真は函館東高時代の唐牛健太郎さん。
    
☆少年時代 - いつもリーダー格☆
 
 小さいときに父を亡くし、母(私の姉)一人子一人であったせいか、とても淋しがりやでした。その反面とても我慢強く、茶目っ気のある、にくめない子でした。
 姉が働くようになってから、仕事の都合で遅くなる日が多く、健太郎が学校(中学校)を終わって遊ぶ時はいつもリーダ格でしたが、日暮れになると、一人帰り、二人減りして、母の帰るまで一人で外で遊んで待っていることも、しばしばでした。

☆東高時代 - 
「 賀正、今年のモットー!  『品行不良たるべし』」 ☆ 
 
  〔写真は市立北海道函館高等学校校舎〕

 高校を進学した時、東大のことを話題にしていた彼が突然、2年生になってすべてをほうり投げて、無頼の生活を送るようになった。たばこ、酒、教師に対する反抗等等、突然の変身にただ驚き、遠くから眺める状態になってしまった。原因はどこにあったのか。そんなカロ(あだな)が生徒会長に立候補して学校中のひんしゅくを買ったりした。(落選) 
 (その後)以前のように付き合い、彼の思い切りの良さに憧れもしたし、恐ろしい気もした。ぼくの母が彼との付き合いを心配していて、親子ゲンカになったが、恐ろしく感じる時期を除いて長い付き合いであった。      
                     小学校時代からの友人

 「勉強はしないがよくできる」という評が私のクラスにまで伝わっていた。後に彼は言ったものだ。「俺はガキのころから勉強は密かにやった。もっとも高2のころから勉強しなくなったので成績は下がった。3年の2学期に偶然職員室に入ったら先生方が『唐牛が北大に現役で入るか否か』で賭けをしていた。以後俺は必死に勉強した。今に思えば先生に『してやられた』かもな。」   
                     同期生

 1956年3月、現役で北大に合格。

☆北大時代 − その片鱗を見せた時代、やがて全学連委員長誕生へ☆

 (北大教養部自治会執行)委員長に成り立ての頃の唐牛は、けして演説がうまくなかった。むしら、アジベタと言って良かった。それが1年半後には、「楽しくストをやろう!」の名言をものするに至ったのである。その間の彼の活動家としての成長は著しいものだったわけだが、そのきざしは、委員長になって1ヶ月後に早くも現れていたように思う。ちょうどその頃、北大では文学部の問題教授の罷免をめぐって大揺れに揺れていた。このとき彼は教養学部自治会を率い、学生と教職員との結合を警戒する学校当局の処分警告にもかかわらず、全学集会で職員組合と共闘を決議させた。

 北大時代の唐牛語録

1.「頼むからこの学級の補助金を増やしてくれ。俺、学級の連中と約束したんだ」。これには皆呆れたが、不思議と腹が立たなかった。
2.「どうして授業のない日にデモをしないのか? 」という学生の質問に答えて「授業のない日にデモをしても皆集まらないから」と言ってクラスの意見をデモ参加に集約した。

 (ブント書記長島氏が突然やってきて、道委員会書記局会議に出席し、思いもかけず、次期全学連委員長に唐牛を立てたいと申し出た。この会議には唐牛を含め6人か7人参加。唐牛は自分のことであるから始終沈黙。一人を除いて賛成する者はなかった。)

 これに対して、島氏はとつとつした熱弁をふるった。唐牛の明るさ、スケールの大きさ、そしてなによりも学生運動ずれしていない、変な政治主義に染まっていない新鮮さ、それがいい、これからの学生運動の指導者にはそうした要素が必要で、今の東京の学生活動家にないものだ、というのであった。「おれは、唐牛にかける」と言った。会議は深夜に及び、次第に島氏の熱意に圧倒されてきた。・・・・・・・・最後に、「それじゃ、唐牛本人の意見をきいてみようじゃないか」ということになった。それまで部屋の片隅で膝小僧をかかえてじっと議論を聴いているだけだった唐牛は、「みんな賛成するなら、自分としてはやったみたいと思う」と、ぽつりと言った。
 かくして、全学連委員長・唐牛健太郎は誕生した。その後も、マスコミの話題を集め、終生、そして死後も尽きることはなかった。

 しかし、どれも本当のカラベコさんこと唐牛健太郎さんの実像を見出していないような気がする。ほんのちょっと調べただけで、とても唐牛を語られるものではない。
 最後に、島氏の言葉をもって、人間・唐牛健太郎の紹介を締めくくりたい。この紹介も「私の唐牛健太郎の世界」と題した函館東高資料集管理人の虚像にしかすぎないかもしれない。
 そのエピソード集として掲載させていただいた。

←宝島文庫「日本アウトロー列伝」に、30人の一人として5頁にわたって、「60年安保闘争のカリスマ 唐牛健太郎」として記載されている。        
(そのレッテルが唐牛の生涯についてまわった。唐牛は、父の知り合いで、先輩の会社に3年余勤めた。それで右翼への転向、と左翼諸党派やマスコミの悪意ある攻撃を受けたという。)
 終始一緒にいた私は、あの攻撃の中におかれた唐牛が少なからぬ衝撃を受けていたことも認めないわけにいかない。
彼が真剣に心をいためたのは「たかが20歳の若造が東京に出てきて、1年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ何度か豚箱に入った位のこと」が何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルにとなって一人歩きし自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。
 ・・・・・後にも先にも一度たりとも私に見せたことのない苦渋の色を露にしながらも、ここでも彼は男らしく、優しかった。
 かつての盟友をも許容し、また私にもついても「島まで巻き込まれるとヤバイからな」と一切を自分の所で引き受けて過ごしたのだった。
                                             島成郎医師                             
管理人さん

 Tora1938と申します。久しぶりにmixiの函館東高を覗き、さらに函館東高資料集のホームページも見させてもらいました。
 そこでは、唐牛健太郎さんの資料を懐かしく拝見しました。
 私は昭和31年卒で唐牛さんと同期ですし、北大にも一緒に入りました。
 一緒に入学した連中は、最初の1ヵ月位は、お昼頃にクラーク像の後の芝生に集まり雑談を交わしていました。唐牛さんも来ていたはずですが、その後ははるか遠い人になってしまいました。
 昭和50年代に東京での同期会(関東六東会)が開かれるようになり、唐牛さんとも2回ほど一緒になったことがあります。医療法人を立ち上げようとしていましたが・・・・。
 青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子さんが、唐牛さんの好きであったという「知床旅情」を歌われました。
 私ども六東会は、昨年秋、50周年の会を湯ノ川温泉で持ちました。記念誌も作成されました
                                               2007年10月15日 15:40
写真:函館にある唐牛健太郎の墓、DVD「我が心の青雲台」より引用
インターネット上には、唐牛健太郎さんの資料がさまざな出回っております。その一部のリンクを紹介しました。
■ 60年安保闘争-1960 ビデオ(10分39秒)・・・・・・・・・当時のニュース映像が見られます。
■ 時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎 ・・・ 時代背景と全学連時代の唐牛さんのを紹介
■ 風のたより、唐牛健太郎氏の墓へ ・・・・・・・・・・・・・・・ 函館にある唐牛さんの墓を紹介
■ 往年の全国学連委員長に恋する・・・・・・・・・・・・・・ 別所アキさんのプログの紹介後の反響

2009/11/20 12:11 from:tora

 放置されてずいぶん経つので、もう見ていないかも知れませんが・・・。
私の恩師が唐牛と幼なじみの後輩で、中学時代は一緒に新聞配達をしていたそうです。
 本来ならば全学連委員長は東大か京大でなければならないと暗黙のうちに決まっていたのですが、両校は線の細い人材ばかりで、大衆運動を展開するにはナタのような豪快な面を持つ唐牛が最適だとブントの指導者、島成郎が抜擢したのです。
 近年の証言で明らかになりましたが、中核派の清水丈夫や北小路敏に乞われて、一時は同派を支援していたようですね。
最高幹部が内ゲバで殺された際の追悼集会では「報復を!」とアジっていたそうで、相談役的なポジションだったのかと。
 左右不問で人望を集めており、新右翼の鈴木邦男やアナーキストの牧田吉明(一時、小樽市長を噂の真相誌上で告発していた)なども唐牛を尊敬していました。
 元盾の会の阿部勉は、亡くなる直前に函館まで墓参に訪れていたそうです。
葬儀には大島渚なども駆けつけたそうですね。
 そういえば、グリコ森永事件を扱った「闇に消えた怪人」によれば、その多彩な人脈によってかい人21面相のフィクサーとして疑惑を持たれたようですね。あと、3億円事件の際も犯人候補だったようです(笑)。
 私は気が向くと墓参に行きます。
 たまに花が供えられているのを見て、誰が訪れたのだろうと考え耽ることがあります。

2010/06/17 01:08 from:別所アキ

函館東高資料集管理人さま、toraさま
toraさんのご指摘の通り、放置状態で長らく何のお返事もせず申し訳ありません。

管理人さま
 お知らせありがとうございます。
toraさま
 貴重なお話ありがとうございます。
「闇に消えた怪人」私も読んであらら!と思いました。思いもよらないところで不意に名前が出てきたりするのも唐牛さんの魅力でしょうか。
 おかげさまで別所の度重なる放置の間も、唐牛さんの情報を求める方達のアクセスが沢山ありました。せっかくはるばるいらっしゃってこんな妄想を読まされる皆様には大変申し訳なく。

2010/10/19 20:38 from:mitsu

 2007年10月、日経新聞の「私の履歴書」のコーナーで、経済学者の青木昌彦先生が、ご自身の半生を語られました。
 その中で、恥ずかしながら、私は唐牛健太郎、という名前を初めて知りました。私も、おそらく別所さんと同世代の人間です。
 青木先生ご自身は、東大のご出身で、ブント(共産主義同盟)創立時メンバーであり、全学連の情報宣伝部長だったそうです。
 この青木先生の半生も、凄い人がいたもんだ〜、と感服することしきりでした。
そして、その中で「唐牛はランボーやカミユ、マルローなどの書に親しみ、ヌーベルバーグという言葉は彼のためにあるというような男だった。彼の演説には人の心を揺さぶるものがあり、「石原裕次郎より男前だ」と、男女を問わず人気があった」と書かれている、唐牛健太郎という人物のことが、なんとなく頭の隅に置かれるようになりました。
 話は、それから3年近く立った、今年の初夏のこと。
 都内のとあるジャズ・バーで、ライブとお酒を楽しんでいた時のことです。隣に座られてリズムに合わせて指でテーブルを叩いていた、おしゃれないでたちの年配の男性と、私はなんとなく話し始めました。
 話していくうちに、私の大学の大先輩にあたる方とわかりました。
そこから、話はジャズからアングラ演劇や学生運動のほうへと、流れていきました。そのうちに、その男性の口から、「当時、カロウジケンタロウという男がいてね」と出てきました。
 「カロウジ、カロウジ・・・・どっかで聞いたような・・・」と、私。
 「いやね、難しい字を書くんだ。遣唐使の唐に、牛、と書く」
 「あっ、もしかして、ヌーベルバーグのあの人!」と、私の頭にヒットしました。
 その男性の方は、直接、唐牛さんとは繋がりはなかったそうですが、当時はそれはそれはかっこよくって、カリスマ性のあった男だった、と話されました。
 そんな男って、どんな男?。。。。
そう思って、早速、私の場合は、インターネットではなく、図書館で検索をかけてみました。そうしたら、「唐牛健太郎追想集」という本があることが分かりまして、早速借りて読んでみました。
 いや、まぁー時代も凄かったですけれども、また桁外れな男もいたもんだなぁ〜、と感慨ひとしきり。それで、さっき、あんまりインターネット上の情報を信用しない私は、初めてgoogleで検索をかけて、このページにヒットした、というわけです。
 私の場合は男性ですので、恋するというわけにはいきませんが(笑)、こういう日本人が、それもほぼ自分の父親と同じ世代の生まれで、いた、ということを知って、なんとなくですが、心持が変わったような気がしました。
 おなじように唐牛さんに興味を持っている方を見つけて、少し嬉しくなったので、拙文ですが、書き込んでみました。

 

2010/10/31 17:50 from:山田 晋筰

 函館の同窓生による手作り懐古展、愉しみにしていました。友人、地域の方たちの唐牛さんへの愛情が小さな会場に満ちており、見る方も幸福感を感じ、なかなか良かったです。同行した予備知識ゼロのワイフ(60歳)が、今の70才台の人たちの若いときの元気なデモ姿と、あの時代の雰囲気を、会場のビデオで見て、呆気にとられ、驚愕し、感心していたのが、愉快でした。勿論、拙い解説をさせられました。企画の皆さまにお礼申し上げます。1年上に函館西に学んだ北島三郎さんがいらっしゃるのも不思議な感じでした。北島記念館が、会場のすぐ傍で、昭和30年代の函館の記憶、深めて帰札しました。

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