更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2017年9月18日(月)
高山文彦 劇中劇の系譜

『0080』をBD-BOXで観直したのをきっかけに、以前書いた記事を加筆の上、独立させた。

高山文彦 劇中劇の系譜

高山作品の大きな特徴である劇中劇を、順番に拾ったもの。

2017年9月14日(木)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』BD-BOX
『0080』をBD-BOXで観直した。本編も恐ろしく色鮮やかになっているが、ブックレットのボリュームが凄い。このまま市販されていてもおかしくないくらい。

まず目を引くのが、高山文彦監督自身の描いたイメージラフ。これが上手いのだ。ブックレット収録のインタビューで、美樹本晴彦も高山監督の絵を褒めている。

下はサイクロプス隊のイメージ。



ズゴックのイメージ。



『0080』と言えば磯光雄の手がけた北極基地襲撃シーンが代名詞のようになっているが、あの印象的なロケット弾も高山監督のアイデアなのか。
そのロケット弾。腕から発射しているのは大型の1発だけで、後は本体のランチャーから発射しているのが今回初めて解った。
試しにコマ送りしてみたら、ロケット弾に描き込みが。





「BAD」と読める。アンディの最期にかけたシャレかもしれないが、爆弾やミサイルに落書きを描き込むのは現実にもよく行われるので、楽屋オチではないかも。

基地に潜入するズゴック。今回初めて気がついたが、右に潜水艦が停泊している。シュタイナー隊長らが潜入してくる穴は排水口だとばかり思っていたので、何でモビルスーツが通れるほどでかい穴が必要なのか不思議に思っていたのだ。潜水艦の出入り口だったのか。



ロケットを見送るハイゴッグ。拡大してみると、



足下に倒れた兵士の姿が。



3話から、連邦軍基地に忍び込んでガンダムを発見し、撮影するアル。夢中になって連邦軍の兵士が近づいてくるのに気づかない、というシチュエーション。



よく見ると、自動販売機の中の缶に描かれたイラストが、左手に注意を促している。



チェーンスモーカーに見えるシュタイナー隊長は、実はタバコを吸っておらず、くわえているだけ。



確かに火がついていない。



ブックレットの高山監督インタビューによると、これは出番の少ないサイクロプス隊の面々を印象づけるためのアイデア。ミーシャはスキットル、ガルシアはバンダナ。
そのシュタイナーがただ一度、タバコを吸うのが4話の出撃前夜のシーン。



出撃前のジンクスなのか、何か予感するものがあったのか。「滅びゆくもののために」というセリフが重く響く。



4話のアクションシーン。正体をあらわしたNT-1アレックス。腕の仕込みバルカンを撃つ前、ビームサーベルを捨ててる。





6話、クリスマス前の街並み。



拡大してみると、70年代風の人の行列が。



「ひとつ言いたいのは、これを月1回のペースでリリースしてたってことです(笑)。その後のビデオシリーズなんかの発売ペースを見ても、それがどれだけすごいことだったか。そこは本当にわかってほしいところですかね(笑)」とは、出渕さんの弁。

同じシーン、別アングルから。こちらはちゃんと描かれているように見えるが、中央の金髪の男性2人に注目。



同一人物だ。
同じ絵を裏返して、前列と後列として使っているのである。

最後の対決シーン。
突撃する時、クリスとバーニィともに「うおー」とか「とりゃー」とか言わないのがカッコいい。
何となく、こういうシーンはパイロットが雄叫びを上げるのが定番のような気がしていたが、そうでもないんだな。

制作進行を務めた中山浩太郎のインタビューから、一番ウケたくだり。
中山:昭和から平成にまたがって作っていたわけですからね。当時、大喪の礼を控えて検問が多くて、夜中に進行車で走っているとよく止められました。「なにやってるの」って聞かれて「ガンダム作ってます」って言うと「頑張ってね!」と言われて。その時は、あらためて「『ガンダム』ってすごい!」と実感しました(笑)。
おまわりさんもすごい。


おまけ。
5話で、バーニィがサイド6を脱出するために訪れた宇宙港の案内板。



一番下に上井草行きの便がある!
2017年8月29日(火)
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

新房昭之監督、初の劇場オリジナル作品(原作付きとは言え)。監督のインタビューでは、TV作品との違いは特に意識しなかったということだが、できあがった作品は堂々たる映画だった。

ざっくり印象だけ言うと、既存の作品で一番近いのは『グラスリップ』ではないか。海辺の町とか、「あり得たかも知れない未来」というモチーフとか。むしろ、『グラスリップ』がそもそも原作『打ち上げ花火』の影響下にあると言うべきか。

作品すべてに説得力を与えている、なずなの圧倒的ヒロイン力。
知人に、『傷物語』のキャラクターデザインがTVシリーズと変わったのを怒っていた人がいた。私自身は、もちもちで柔らかそうな羽川さんも好きだが。渡辺明夫デザインの美少女を大画面で堪能できるという点で、本作はお勧めかも知れない。特に個人的には、口角がきゅっと上がった描き方がツボ。

そう言えばこの映画も、携帯電話が出てこない
考えてみると、新房監督の作品にはあまり携帯電話が出てくる印象がない。調べれば出てくるだろうけれども、私が思い出せる範囲では『物語』シリーズに何回か登場したくらいか。
「○○には2種類ある。○○と○○だ」的な言い方をすれば、「映画監督には2種類ある。携帯電話を使う監督と使わない監督だ」と言えるかも知れない。
前者の代表が新海誠、ということになる。新房は1961年生まれ、新海誠は73年生まれ。

序盤はごく普通の画面作りなのだが、ループに入ると、突如として超クローズアップが多用されて新房タッチになるのが面白い。
未確認だが、ループを繰り返すと花火を打ち上げる発射筒が一つずつ移動しているようだ。

ところどころ微妙にピントがボケてるような画面が気になった。まさか今どき、劇場のせいではないと思うのだが。

作画について言うと、クロールが凄い。特にクイックターンのシーン。

高低差のある駅のホーム、工事中なのか足場の組まれた灯台、円形の学校など、舞台装置がとにかく工夫されていて面白い。
学校が上から見ると丸いのは、花火になぞらえているのだろうな。モデルがあるのかも知らんが。

パンフの岩井俊二×新房昭之×大根仁の対談から。

岩井
 (略)
今回アニメならではだな、実写ではできないなと思ったのが、眼球の芝居なんです。寄りが出てくるじゃないですか。その目がすごくキラキラしていて、芝居をしているんですよね。実写じゃ役者さんの目だけ切り取って芝居しろと言ってもできないわけで、アニメならではの表現ですよね。
“まどマギ”は顔芝居を消去したというか、割愛してしまったことで観たことのないものになっていたわけですが、今回は逆に寄っても寄っても表情があって、瞳まで寄っても表情があるというところで勝負しているんじゃないかな、と。アニメは絵で動かないので、アップにたえられないってよくいわれるんですよね。でもそこが新房さんのオリジナリティで、その中にさらにディテールがあって、もしも玉や花火も丸いですが、瞳の丸い印象もあって、これはまなざしの映画だったのかなと思いましたね。

実写だと、セルジオ・レオーネの映画など目元の超アップがよく出てくるのでアニメオンリーの表現というわけではないと思うが、アニメは顔の情報量が少ない分、瞳のディテールに凝る傾向があるのは間違いないところだろう。
そう言えば『花とアリス殺人事件』は、瞳の描き込みはさほどでもなかった。

岩井
 『打ち上げ花火~』の登場人物も明らかに漫画というくらい凸凹していて、同じ6年生のグループなのに一番小さい子は小3で、一番大きい子は中3という本来ありえないキャスティングにわざわざしていて、それってたぶん漫画っぽくしたかったからで、いろんなところでアニメの影響を受けながら作っていた気がします。

原作『打ち上げ花火』を観たのはもうずいぶん前で、細かい部分は覚えていないが、「奥菜恵がとうてい小学生に見えない問題」が20年ぶりに解決した!わざとだったんだ。

しかしまあ、町の名前が茂下(もしも)町ってさすがにやり過ぎとちがうか。

あのラストの展開について。都合のいい夢を見せるもしも玉は、青春時代を終えるに際して必然的に失われるべきアイテムである。だから物語を締めくくるには、典道にもなずなにも利害のない第三者の手で破壊されなくてはならなかった。花火師が打ち上げることで破壊されるという展開それ自体には、大した意味はない。

ぶっきらぼうな終わり方が実にクールで映画らしい。良い物を観せてもらった。
公開一週間目に観に行って、入りは7割程度。チケットも苦労せずに良い席が取れた。あえて言うが『君の名は。』のようなわかりやすい映画ではないので、大ヒットとはいかないかも知れない。
しかしこれは、間違いなく2017年を代表する映画である。『まどか☆マギカ』を終えた後燃え尽きたように見えていた新房監督、いよいよ本格的に再始動、いや新境地だ。

2017年8月3日(木)
『君の名は。』BDで再見

BDで観直した。通算では3回目。
まず最初にお詫びを。以前、この映画に頻出するドアの開閉の描写について、「前半は閉まる描写、後半は開く描写になっているのではないか」と推測したのだが、もう一度観たら全然違ってた。
すみません。

で、今回は最初から注意して観ていたのだが、改めて恐ろしく論理的に作られた映画であることに感じ入った。
まず問題のドアの開閉。
基本的には開く描写なのだが、2回だけ閉まる描写がある。
一度目は、瀧が三葉に会いに行くために新幹線に乗る時。
二度目は、三葉が電車内の瀧を見つけて乗り込む時。

閉まるのは電車のドアだけなのである。普通、ドアが開くことは事態が展開、前進することを意味する。しかし、こと鉄道は、ドアが閉まることで動き出すことになる。新海映画において、決められたレールの上を走る鉄道は、運命の象徴である。
だからこの映画でも、鉄道が介在して事態が大きく動き出す。しかも、瀧が新幹線に乗るのは46分目、三葉が車内の瀧を見つけるのは1時間15分目と、ぴったり2時間の映画における節目に位置する。
こうして観客の感情をコントロールしているのである。

これは以前触れたことだが、瀧のTシャツの文言「HALF MOON」は引き裂かれた半身を暗示する。



それが観客の目に明らかになるのは、ラーメン店で糸守の真実を知る直前。

三葉の背後の広告「検索より、探索」が写るのは、電車の中に瀧を見つける直前なのだ。この徹底ぶり!



2度写る、電線に貫かれた月。月を引き裂いているようでもあり、円の両端を結んでいるようでもある。



歩道橋の上で知らずにすれ違う二人。コンクリの線が中央でくっきりと二人の間を分断している。



それが再会のシーンになると、



階段の手すりが二人の間を分けているが、振り返った瀧が意を決して声をかけると、手すりの間に途切れ目が生じ、しかも感情の高ぶりを示すかのように上下に波打っている。



下の歩道橋のシーンと比べると歴然としているが、



新海は、「同一平面上にいる男女は結ばれない」と考えているらしい。だから再会は階段の上でなければならなかった。この点、『言の葉の庭』のクライマックスと同じである。

今回、一番グッと来たのはこれ。



クライマックス直前、市長である父親の説得に走る三葉だが、注目は脇に写っている石碑のようなもの。
これは道祖神である。道祖神とは、集落などの境界線を示すものだが、旅人の安全を守る神ともされており、しばしば一対の男女の姿で表される。
すなわち、孤立無援で傷だらけの三葉は、決して一人ではないのだ。作者が意図してここに配したのかどうかはわからないが、そうであってほしい。

’17.9.11追記
特典ディスクにビデオコンテが収録されているのを思い出して、確認してみた。このとおり。



やっぱりだ!

2017年7月18日(火)
『閃光のナイトレイド』第1話再見

1話を観返してみた。
主要登場人物を紹介しつつ、特に葵と葛の違いを対比してみせることに注力している。とりわけ、初見では気がつかなかったその見せ方が、実に巧みで改めて感心した。

互いに相手をなめて映すショット。





一騒動終えた後、船上で対峙する葵と葛。



性格も能力に対する考え方も異なる二人の間は、荷物で遮られている。
船は左へ進んでいくが、謹厳実直で計画を遵守しようとする葛の背後は石壁で閉ざされている。



一方、自由奔放、臨機応変な葵の背後は石壁が途切れ、川面が広がる。



なぜ力を使わない、と迫る葵に対し、必要なら使うと答えた葛はこの直後に右へ移動し、あくまで壁の中にとどまってしまう。

クライマックスの降下作戦を前に、飛行機の機内で話す二人。



窓の反射を使うことで狭い機内の空間に広がりを持たせつつ、直接対面していない二人の視線を自在に操る手練の技。





葛の実像と虚像、そのいずれもが力に頼るべきではない、と言う。その間に、実像の葵が割り込む。これが、強い反発を意味している。






見事だ。
松本淳監督、どうか新作を。

2017年7月11日(火)
記号的表現ということ

前回、『エマ』の記事で瞳のうるうるはもう要らんのではないかということを書いた。その他にも、気になる記号的表現はまだある。
例えば、これ。意外と大きな画像が見当たらなかったのだが、





身体の前で、両手で学生鞄を持つポーズ。立ってるだけならいいが、このまま歩くのは、膝に当たって無理だろう。

同様に、身体の前で手を組んでノートを持つポーズも。





立ってるだけでもかなり気取ったポーズに見えるが、このまんま歩いたり走ったりはもはやあり得ないと思う。

もちろん、いずれもしとやかさの表現であることは解る。
解るが、十年一日のごとく同じ表現に頼っているのもどうか、と思うのだ。


3つ目に、画像はないが、「走ってきて急に止まる瞬間に身体が沈み込む」という芝居付け。これ見ると、無性にイラッとくる。

そういえば、世に「忍者走り」という表現がある。上半身を倒し、両手を後ろに伸ばして下半身だけで走るアレだ。かねがね、これいつ頃からある表現なのだろうと思っていたのだが、先日『忍風カムイ外伝』('69)を観たらすでにやってた。忍者もののそれこそ最初期からあるわけだ。

ちなみに、アニメには「女の子の走り方」ってありますよね。ヒジを体側にくっつけて、ヒジから先だけを左右に振るという動作。
私は子供の頃から、「こんな人間いねーよ」と思っていたのだが、つい先日本当にこうやって走っている女性を見てしまった。40年来の疑問が氷解した。アニメーターって偉大だ。

2017年7月3日(月)
2000年代TVアニメ回顧 その6

英国戀物語エマ』('05~'07)。

言わずと知れた国民的メイドマンガ、森薫の『エマ』のアニメ化。
原作未読で観て、第一幕のエンディングに呆然としたのをよく覚えている。また、特に第二幕の展開が原作とかなり違うので、結構賛否両論だったのではないか。ついでに私の知人は、タイトルの「英国戀物語」の部分が余計で許せないと言っていた。
いずれも、私はさほど気にならない。このアニメ版は、物語の本質をよくつかんでいる。作画・演出ともに丁寧で繊細な佳作である。
ただ原作にせよアニメ版にせよ、皮肉な結末だとは思う。だってメイド萌えマンガとして始まったのに、エマがメイドでなくなってしまうのが結末ではないですか。

ところで、私はかねがね、アニメキャラの目を動画2枚でうるうるさせる描写はもういらんのではないかと思っている。今の観客は、もうアレやんなくても解るだろう。
その点、圧倒的に優れているのは『エマ』第1話終盤のこのシーン。





ウィリアムとの出会いを経て、夜。私室で就寝前にウィリアムを思うエマ。初めて髪を下ろした無防備な姿を見せるのもなまめかしいが、注目はこのカットだ。







瞳のうるうるの代わりに、ロウソクの炎の揺らめきを映すことで、心のざわめきを表現している。しかも、エマのアイデンティティの重要な部分を占める眼鏡のレンズを通している(かつ眼鏡を外している)、という念の入りよう。

私は、本放送の1度しか観ていないのだが、このシーンはいまだに覚えている。よほど強烈な印象だったらしい。


  

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