更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2017年3月31日(金)
アニメスタジオ50社アンケート

毎度旬を外した話題ですみません。

『Newtype』2017年2月号に掲載された例の記事、今さらながら読んでみたので、印象的だった部分を抜粋。
今年2017年のアニメ業界はどうなると思うか、という質問に対して。85~89ページから引用。

スタジオディーン 野口和紀(取締役)

OA作品が普通に落ちたり(放送が飛んだり、再放送が入ったり)ちょっと嫌な雰囲気ですね。海外勢の参入により、一見景気はよくなっているのですが、業界的にはますます人材難が予想されます。
クオリティに対しての要求はさらに高まり、2つの相反する要求をどう解決していくかが、悩みどころです。ライツビジネスに移行できない中小の制作会社は正念場になると思います。君は、生き延びることができるか!的な。
セブン・アークス・ピクチャーズ 康村諒(代表取締役プロデューサー)
(前略)
こういったこと(引用者注:スケジュール破綻)が続けて起こっていくと、アニメ業界自体の信用がなくなっていくでしょう。信用がなくなれば、仕事を得るのが難しくなり、産業は簡単に崩壊していきます。でも、だからこそ、業界全体での協力体制が必要だと思います。また、常に注意深くスタッフと協力しあい、全体のスケジュールと品質管理が必要です。プロデューサーの胃が痛い日々が続くでしょう。
WHITE FOX 岩佐岳(代表取締役)
「スタッフを集める」ことと「スタッフを育てる」こと。この違いを制作会社が認識していかないと、手描きアニメは崩壊するでしょうね。今は僕たちも社内の状況改善に努めるのが精いっぱいですが、新人を技術以外も含めて教育していくことの重要性を業界全体で考えつづけていく必要があると思います。(後略)

あくまで印象だけれども、老舗ほど現状をシビアに認識しているように見える。

project No.9 糀谷智司
(略)
業界全体に関しては、日本だけだと出資が集まらない、円盤の売り上げが落ちている、ビジネスとして成り立たなくなりつつある、というのが現状です。これからはアニメ単品で売るより、アニメを宣伝材料として、メインはメディア展開、という形式が増えると思います。ライブでグッズを販売したり、イベントを開催したりして資金を回収するビジネスモデルが今よりも増加するでしょう。また、海外へ目を向けた作品を増やしていくべきだと思います。海外からの出資が増えているのは時代の趨勢で、これからもその傾向は強くなっていくでしょう。円盤も海外展開していかざるを得ないです。アニメを軸に、海外も視野に入れたメディアミックスをいかに仕掛けていくかが課題だと思います。

考えてみれば、TVアニメは元々30分かけたおもちゃのコマーシャルだったのだから先祖帰りと言えなくもない。一方で、海外で売るために内容をあちら向けに調整すると国内でも海外でも売れなくなる、というジレンマの歴史を繰り返しているわけで、悩ましいところだ。

単純に面白かったエピソード。

テレコム・アニメーションフィルム 堀川優子(制作進行)
(略)
原画マンさんによって原画上がりの紙のヨレ具合は違ってくるのですが、小池(健)さんの上がりは製本された冊子のように美しいんです。折れ目がひとつもない。いったいどうやって作業しているのかとても気になりますが、小池さんの作業机は「小池バリケード」と呼ばれるパーテーションで仕切られているんです(笑)。そういった謎に秘められた(原文ママ)ところも、小池さんの魅力だと思います。

希望のもてる話として、最近注目している作家。挙がっているうち、私が知らなかった名前だけ列挙してみた。

アニメーター
今西亨
渋谷秀
佐藤号宙(なおき。CG)
諏訪真弘
満田一
式地幸喜
青木康浩
西位輝実
草間英興
西村理恵
牧野竜一
馬引圭
岡田有章(ともあき)
大沢美奈
渡辺奏
菅野芳弘
三宅舞子
菅原美幸
黒澤桂子
さとう陽

演出家
肥塚正史
倉田綾子
廣岡岳
富安大貴
古川知宏
堤大介
菱田正和
玉木慎吾
宮本浩史
遊佐かずしげ
及川啓
吉平直弘
白井俊行


・・・ところでこのアンケート、Ordetには聞かなかったのかしら。

2017年3月23日(木)
軍隊の階級構成に関する基礎知識

『幼女戦記』を観ながら、ちょっと解りやすくまとめてみた

2017年3月7日(火)
『劇場版ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』(ややネタバレ)

興収20億に届きそうな勢いとかで何よりだ。隣の席で観てた子はマジ泣きしてた。私も、原作ファンでもあるので楽しめた。

まず表現的な部分から言うと、何といっても凄いのが、腹まで響く音響と、土煙の表現。巨大な怪物が暴れている実感があった。
キャラの鼻筋表現も面白い。基本は点鼻なのだが、鼻梁の光が当たっている側にハイライトを入れていて、立体を意識しているのが解る。
また、アインクラッドでのキリトとアスナの私邸のシーンで、妙な長回しのカットがあるのが気になった。テラスのテーブルからアスナが立ち上がって、ティーセットを持って部屋に入るまでずっと固定カメラで映し続ける。異化効果という奴か?

キリトがアスナの日記を読んでしまうシーン(冒頭のシーンでアスナが書いていたのがこれか)。キリトがクロゼットに近づくと自動でドアが開いてしまい、慌ててよけた拍子に机にぶつかって引き出しが開き、中の日記が目に入るという、そこに至る段取りが実に上手い。それに対するアスナの反応も紋切り型でなくて好感。

一方で、物語の点ではちょっと引っかかる部分がある。
いわゆる「博士の娘」問題はまあ置いとくとして、ラストバトルの相手がアインクラッドの第100層で戦うはずだったラスボスだという点だ。「アインクラッド篇」本編では、最終的に第75層で終了してしまった。だから、この戦いがアインクラッドでやり残したこと、忘れてきたもの、置き去られてきたもの、取りこぼしたものを回収する意味合いを持つことは、アインクラッドで命を落とした名もなき人々への想いとうまく結びついていて、素晴らしいアイデアだ。

だがそうであるならば、あくまでSAOサバイバーが、オリジナルメンバーだけで、当時の装備とスキルだけで倒さなければ意味がないのではないかと思うのだ。本作の描写では、「歴代プリキュア勢揃い」的な、ファンムービーとしての賑やかしで終わってしまっている。いやもちろん、ゲーマーでない私も、第75層攻略時の装備やスキルでラスボスを倒せるわけがないということは解る。
そこをあえてドラマの方を優先して欲しいのだ。これが、ゲームというシステムがドラマツルギーに寄与しない不便な点であって、悩ましいところである。そもそも「アインクラッド篇」自体が、人の意志がシステムの限界を凌駕する話だったというのに。
ラスボスの強さ、何より禍々しくも美しいデザインがとても印象的であるだけにやや残念だ。

もう一つの問題は、事件の社会性という点。茅場晶彦を筆頭に、仮想現実の研究者がそろいもそろってアレな人ばかりというのはさすがにどうか。いくらあの世界でも、いい加減法的規制がかかるのではないかと心配になる。
これは、ヒーローもの全般に生じる宿命的な問題である。ヒーローの戦いが社会の影で人知れず行われるものなら問題ないが、その反面スケールが小さくなり、社会的に影響の及ぶ事件は描けない。逆に影響の大きな事件なら、なぜ公権力が関与しないのかという疑問が生じてしまうのである。本作は、監督官庁である総務省にも何やら思惑があるという設定でこれまでしのいできたが、そろそろ限界なのではないか。

ま、最終的にはアスナのおっぱいが全部持って行ってしまうんだけど。

2017年2月28日(火)
最近の読書から

最近、橋本陽介『日本語の謎を解く 最新言語学Q&A』新潮社、2016年をとっかかりに、言語学の入門書をまとめて読んでいた。

前掲書で紹介されていた本から、面白かった部分を抜粋。

ダニエル・エヴェレット『ピダハン-「言語本能」を超える文化と世界観』屋代通子訳、みすず書房、2012年から。

ピダハンは、アマゾンの奥地に住む少数民族である。ピダハンの言語には、数の概念がない。同様に、「すべての、それぞれの、あらゆる」といった数量的概念を表す言葉もない。西洋論理学ではこれらの概念は普遍的で真理に近いものと考えられているが、もしかしたらこれらは普遍的ではないのかもしれないという疑念を生む。
また、ピダハン語には色を表す概念がない。最初は「黒」を指していると思われた言葉は、実は「血は汚い」と言っているだけであり、「白」と思われた言葉は「それは見える」と言っているだけだった。
もちろんピダハンも色を認識できるが、自然界の色は元々多様なものであり、私たちの言葉はそれを分類し、「青、赤、・・・」と名前をつけている。ピダハンはその感知した色を一般化しないのである。

ピダハン語には右・左を表す言葉がない。位置関係を自分の身体との関係から考えることをしないのである。代わりに、常に川の位置を意識し、川との関係で方向を認識する。見通しのきかないジャングル内では、川を基準にした方が絶対的な位置を表せる。

ピダハンには、民話も創世神話も存在しない。彼らの価値観は直接体験したものだけを重視するというものであり、従って歴史も存在しない。

エヴェレットは本来伝道師であり、言語学の研究をしつつキリスト教の布教を行おうとしていたが、どうしてもピダハンに神の概念を教えることはできず(誰も神を目撃しておらず、聖書の挿話を自身で体験していないので)、ついには自身信仰を捨ててしまった。


続いて、呉人徳司・呉人恵『探検言語学 言葉の森に分け入る』北海道大学出版会、2014年から。こちらはシベリアの少数言語の研究書。

日本語を特殊で難解でユニークな言語に仕立て上げたがる「日本語特殊論」などは、日本語を世界のほかの言語と比べてみればたちまち論破されてしまう。
WALS:The World Atlas of Language Structures
というサイトには、「言語構造の世界地図」が掲載されている。
音韻から統語まで200近い項目について、55人の言語学者が世界言語地図を作成し、その地図に示された特徴について説明を加えている。ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所から言語類型論学者ドライヤーとハスペルマートが中心となって作成したものだ。

そこから、世界の言語の基本語順タイプを数えたのが以下の表。

世界の言語の基本語順のタイプ
タイプ   言語数
SOV   565
SVO   488
VSO    95
VOS    25
OVS    11
OSV     4
無優勢   189

日本語を含むSOV型は、数の上では一番多数派であり、珍しくも何ともないのだという(あくまで言語の種類数であり、話者数ではないのに注意)。
何より驚いたのは、世界には無優勢言語というものが存在すること。

無優勢語順型とは、これといって優勢な語順がなく、語順に対する自由度が高いことを示す。主語と目的語が入れ替わったり、動詞と名詞が入れ替わったりはごく普通の現象。
名詞修飾句をなす修飾語と被修飾語が、動詞をまたいで現れたりすることもある。このような語順の自由さは、動詞と名詞の一致システムが発達していることと関係がある。すなわち、名詞、動詞どちらの側にも主語や目的語の人称が標示されるために、文の中で主語と目的語がどの位置にあっても、その特定が容易なのである。

ただし、世界には7000~8000の言語があると考えられているが、WALSで分析対象になっているのは1500程度なので、信憑性にまったく問題がないわけではない。

以上、本書201-203ページ。

日本語及び日本文化の独自性を当然の前提として立論すると、あっさり足下をすくわれる。くれぐれも用心せねば。

2017年2月15日(水)
『虐殺器官』ほか

○ 『虐殺器官』
村瀬修功は優れた演出家でありながら、イマイチ作品に恵まれない感があった。本作は、村瀬の硬質なキャラクターとヘビーな物語とがベストマッチして、ようやく代表作と言えるものを手に入れたのではないか。端正な、良い映画だった。

原作を読んだのは大分前だが、主人公クラヴィスの一人称で書かれている割には、クラヴィスがどういう人間なのかつかみどころがない印象だった。不思議なもので、その点映画の方が、特にラストのクラヴィスの行動に説得力が増している(余談ながら、あの意味が解ってない観客もいた)。

パンフの監督インタビューでびっくりした点。強調は引用者による。

-映画『虐殺器官』はどのような映画になりましたか。
原作を初めて読んだ印象に近い映画を作ったと思います。実は今回、小説の本質だと思っている部分をあえて外しました。というのも、何度も読み重ねていくと、本質的な部分を中心に映画を作ると、多くの人が望んでいる『虐殺器官』にならないのではないかと考えたからなんです。それに、その本質の底にあるものについては、著者である伊藤さんに尋ねない限りは答えが出ないんじゃないかと思うんです。だから、プロデューサーとも話をして、本質を追求するのではなく、小説に触れた多くの人が思い描く「虐殺器官」の世界を映像化しようという方向でアプローチしました。(後略)

あえて作品の本質を外す!そんなアプローチがあるのか!

ところで他人の感想に、「シリーウォークデバイスを使っているのにシリーウォークしてないのがダメだ」という意見を見かけた。
私の目には、問題のシーンは「本人の意思に反して無理矢理歩かされている様子」を表現している、見事な作画芝居だと写る。アニメを見慣れている人ではなさそうなので、その辺が伝わらないのではあるまいか。だいたい、本当にモンティ・パイソンみたいなことをやってたらギャグである。
アニメ表現というものの難しさ、伝わりにくさを思わざるを得ない。


○ 『LUPIN THE ⅢRD 血煙の石川五エ門』
21世紀にもなってルパン3世でもあるまいよ、と思っていたのだが、前作『次元大介の墓標』をスカパー!で観たら案外面白かったので、今回は劇場まで行ってみた。
で、面白かったんですが。
これから小池健は、一体どうすればいいんでしょうね。
『REDLINE』が死ぬほどつまんなかったことからしても、この人の作風・画風で映画2時間を持たせるのって難しいと思うのだ。この才能が生きるのは、PV作りしかないのか?

○ 今期の作品
本腰入れて観ているのは、『幼女戦記』と『クズの本懐』。特に後者は、私イチオシの安藤正臣監督作とあって期待していた。で、5話にしてすでに期待以上の壮絶さなのだが、この作品、血を見ずに終われるのだろうか。

2017年1月16日(月)
『響け!ユーファニアム』完結

私の中学時代以来の親友(もちろん♂)とメールでやり取りしていた折に『ユーフォ』1期の話題になって、奴は「観ながら失った少女時代を思い出して泣いた」と書いてきた。

俺たちになかったよそんな時代は!一瞬たりとも!と全力でツッコんでしまったのだが、今なら、彼の言いたかったことがよくわかる。

『ユーフォ』2期は、全国大会を最終回に置いていない。しかも演奏シーン自体をオミットしてしまう。演出としてはアリだろうが、制作上の都合か何かか、と邪推したくなるほどに正直、意図をつかみかねていた。
しかし最終回を観て、なるほどと思った。

最終回では、3年生を送る送別の曲として『三日月の舞』が演奏される。3年生が抜けた分、厚みが欠けた音色もそのままに。
その演奏に合わせて、この一年の出来事がフラッシュバックする。吹奏楽にすべてを賭けたこの一年。たとえ金賞は取れなくとも、その時間は決して無駄ではなく、とてつもなく貴い、一生ものの宝である。
「結果より過程が大事」とはよく言われる言葉だが、しばしば誤解されている。結果のために全力を尽くしたからこそ、その過程に意義があったのである。

実際に過ごしているときにはあまりにも速く過ぎ去って気づかない、あの時代の輝かしさ、愛おしさが、『ユーフォ』には横溢している。それが、われわれ40男にありもしなかった過去を妄想させるほどに、心の琴線を振るわせたのである。

この実際には描写されなかった全国大会にクロスする形で、4つの想いが描かれる。
あすかの父への想い、久美子の姉への想い、麗奈の滝先生への想い、そして修一の久美子への想いである。
成就したのが前2者、かなわなかったのが後2者だが、その間に貴賎軽重があるわけではない。大切な人に向けてつむがれた想いはすべて等価に価値がある。
ここで特徴的なのは、「ゆっくりと時間をかけて届く想いがある」という価値観であろう。
数年がかりの屈託を解消したあすかと久美子。特に、久美子の姉とのやり取りが、LINEでも電子メールでもなく、古式ゆかしい手紙で行われている点にそれが現れている。

そう思えば、麗奈も修一も悲観することはない。まあ修一の場合、イタリアンホワイトを久美子の好きな花と勘違いしていたり、本妻の堅いガードに阻まれたりで前途多難の感があるが。
さらに言えば、あすかと久美子の想いが届いたのは学校外の人間-麗奈と修一の想いが学内の人間に向けられているのに対してーである、という点も指摘できよう。
すなわち、学校の外にも世界はあり、卒業しても人生は続いていくのである。

タイトルのささやかな種明かしとともに、ユーフォニアムの調べに乗せてあすかの想いは久美子に引き継がれ、満開の桜の下で始まった物語は、小雪舞う卒業式で幕を閉じた。

そしてまた春が来て、新しい曲が始まるのである。

2017年1月10日(火)
79歳の母に『君の名は。』を観せてみた

夏休みに帰省したとき、母(昭和12年生まれの79歳、うお座のO型、無職)が「『君の名は。』を観たい」と言い出してひっくり返った。NHKで特番を観て興味を持ったらしいのだが、結局夏は機会がなかった。
この正月に帰省したら、地元でまだ上映していたので連れて行ってみた。
結果、ストーリーは理解できなかったらしいが、圧倒的な画面の美しさには深く感銘を受けたようだった。
ついでに、「こんなに深く楽しめる趣味があったらあんたが独身なのもしかたないね」という余計な感想も頂戴した。

ストーリーが理解できないのは、年寄りにはアニメキャラの個体識別が難しいからである。私見だが、年寄りがアニメを観ない最大の理由はこれだ。
まして『君の名は。』は、体が入れ替わる上に、作中で服装も髪型も変わるし年もとるし、加えて時制が複雑に入り組んだ構造をとっている。それでも観ている分にはまるで退屈させないのだから、新海マジックは大したものである。

なお私の地元(茨城県ひたちなか市)では、今も1日4回上映。11時の回で7割は入っていた。ファミリー層や若者よりも、年配の客が多い印象だった(そもそも地方都市には若者がいないのだが)。

ところで、私はわりと初見の感動を大事にしたい派なので、観たのはこれが2回目である。驚いたことに、パンフレットのVol.2が発売されていた(今調べたら、10月31日には告知されてた)。私も映画観て長いが、上映期間中にパンフレットの新作が登場するなんて初めて見た。今回はスタッフインタビューが充実していてお勧め。
新海監督自身の解説、安藤雅史と田中将賀の対談、美術監督3人衆の対談など読み応えがある。
その中で一番笑った部分。強調は引用者による。

丹治匠 僕がよく言われるのは「キャラクターを描いてるの?」って(笑)。
馬島亮子 私も言われます。「三葉ちゃんを描いて!」って(笑)。
丹治 そうじゃなくて、美術は雲とかを描いてるんだよって(笑)。
馬島 代わりにビルとか描いても喜ばれないですよね(笑)。

丹治匠の発言でもっとも印象的な部分。

丹治 新海さんの作品では実際にある場所を描くこともありますが、僕の考えとして、それをアニメにすることにはすごく意味があると思うんです。現実には雑多な要素がいろいろあるけれど、アニメーションはそれを取捨選択して理想的な状態にすることができる。そのときに僕自身が何を選ぶかというと、<時間>なんですよね。現実の風景を写真に撮ったときにもひとつの時間の流れは感じられるけれど、その中でさらに一瞬を切り取った感じにしたいなと。しかもそれを美しく描きたいという思いはありました。

さすが新海監督の永年の盟友、含蓄のある言葉だ。

2度目で気づいたことメモ。

前回も触れた、電線で分断された月の描写。2度出てくるのだが、同じ歩道橋の上から瀧と三葉がそれぞれ相手に電話をかけ、通じないというその場面で、同じ月を見上げているのだった。
その瀧が飛騨に向かったときに、着ているTシャツの柄が「HALF MOON」。引き裂かれた半身の暗示である。
こういう小ネタは随所にあって、東京に出てきて瀧を探す三葉の背後の看板に、「検索より、探索」というコピーが書いてあったりする。
クライマックス、父の町長に再び対峙する三葉のシーンには、壁に「不撓不屈」の額が。町長の背後にかかっているのは、三葉目線で彼女を鼓舞する意図か。

そして何度も描写される、ローアングルで真横から撮った引き戸の開閉。未確認なのだが、どうも映画の前半は閉じる描写、後半は開く描写で統一されているようだ

(2017.8.3追記 BDで観返したら全然違ってた。すまん。お詫びにこちらを

その転機になるのが、三葉が瀧に会うために東京に向かおうと汽車に乗るシーンである。つまり、ここで三葉自ら行動を起こして瀧と縁を結んだことが、後々状況を打開するきっかけになるのである。

私はこの映画に、その面白さ、完成度の高さとは別に、やや倫理的な問題を感じていた。すなわち、過去に実際に起きた事件をなかったことにしてよいものだろうか、という点だ(長くなるので詳細は省くが、『Fate』セイバールートにおける士郎の選択を参照)。
細田版『時をかける少女』でも似たことをやっているが、あちらは「ありえたかもしれない未来のひとつ」を改変する話だからまだいい。しかし本作のように確定した過去、それも数百人も死者が出たような大事件を、なかったことにしてハッピーエンド、で本当によいのか?
そこに物語作者としての倫理的な苦悩はないのか?という点がやや引っかかっていたのだが、もう一度観て疑問が氷解した。

三葉が瀧と縁(えにし)を結んだこと。そして宮水家代々が積み重ねてきたもの-それを「功徳」と呼んでもいい-が、この日このときの悲劇を回避するためにあった、と受け取れるようになっているからである。

ここで重要なのは、やり直しが可能になったのは、赤の他人である瀧の懸命な行動が起爆剤になったからという点、そして瀧が選ばれたのが全くの偶然だ、という点である。もしここに理由-例えば前世からの宿縁というような-をつけてしまったら、平凡な、小さく閉じた話になってしまっていただろう。
偶然に結ばれた縁が奇跡を呼ぶ様が、多くの人の心を捉えたに違いない。

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