更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2016年8月31日(水)
『シン・ゴジラ』

あんまり皆がネタバレ言うからてっきり、銀のジャケットを着た庵野監督が巨大化してゴジラと戦うのかと・・・・・・すみません嘘です。

観てからだいぶ経ってしまったが、ようやく少しまとまったので、メモ書き。

実はしばらく前から、切通理作の『怪獣使いと少年』を読んでいる(洋泉社、2015年の増補新装版の方)。怪獣映画評論の基礎文献として、今さらながら目を通しておこうと思って。何しろ大著なので途中で頓挫していたが、『シン・ゴジラ』を観たのを機会として再開した。
本書が繰り返し主張するのが、怪獣とは日本の近代化の過程で切り捨てられたもの、踏みつけにされ忘れられてきたものたちの怨念がかたちとなったものだ、ということである。したがってヒーローが怪獣を退治するのは、お祓いというか供養なのである。

今回のゴジラが何を象徴しているかは、言うまでもない。
本作がこれまでのシリーズと大きく違うのは、ゴジラが屍(正確には凍結された姿だが)を晒したまま残る、という点である。たぶんだが、これはシリーズで初めてのはずだ。従来の怪獣映画において、怪獣はまず決まって深海に姿を消したり、火山に落ちたりするものだった。あの巨大な生き物を消し去るにはそうでもするほかないという物語上の要請以上に、近代化の歩みは止めようがなく、弱者は一時の爪痕を残して滅びゆくものだったからだ。

すると、本作の結末の意味もわかってくる(死体の始末をどうするのかなんて議論は、心底どうでもいい)。
シン・ゴジラが象徴する「それ」はもはや、消し去り忘れ去り、見て見ぬふりをすることを許さない。いつも我々の傍らにあり、隙あらば活動を再開する。
われわれは否応なく、「それ」を鎮め、乗りこなし、共存していくほかない。それこそが、本作の真の恐怖である。

本作はまた、「特撮映画」の歴史にピリオドを打つことにもなった。我々は何となく、「特撮映画」の魂だかDNAだかは着ぐるみとミニチュアに宿ると思い込んできた。「思い込もうとしてきた」と言うべきかも知れない。
しかしそうではなかったということを、CGで「本物の」怪獣映画が撮れるということを、『シン・ゴジラ』は満天下に知らしめてしまったのである。考えてみれば、怪獣映画とともに特撮の双璧をなしてきた戦争映画は、すでにCGが主流になって久しい。つまり今後の怪獣映画は、『パシフィック・リム』と同じ土俵で戦わざるを得ないのだ。
だからこそ、怪獣映画がジャンルとして生き残れるかどうか「この次」が重要になる。期待したい。

2016年8月9日(火)
『Re:ゼロ』を駆動する虚無

ますます加速する物語。ここしばらく観るのが辛いほどの展開が続いていたが、18話でどうやら底を脱したようだ。
ただその面白さと裏腹に、一つ不思議に思っていたことがある。それは、主人公スバルが、どんな過酷な体験をしても絶望の淵に落ちても、ホームシックにならない、「もとの世界に帰りたい」と言わないことである。

似た設定の『灰と幻想のグリムガル』は、もとの世界の記憶が曖昧だという設定によりこの点をクリアしていた。
一方、本作は1話の冒頭で、スバルがこの現実世界から何らかの理由で異世界に移動したらしいことは示しているし、記憶もある。ところが、そもそもスバルが現実ではどんな家庭に生まれ育ち、どんな人格で何を望んでいたのか、一切描かない。
そのこと自体が今後の展開に関係してくるのかと思っていたら、18話でスバルがようやく真情を吐露した。

それによると、現実世界のスバルは「何もしてこず、空っぽだった」というのだ。だから彼は、異世界において無力をかみしめながらも、「現実に帰りたい」とは言わない。タイトルからして、『ゼロから始める異世界「生活」』であって、「異世界の冒険」ではないのだ。この点、ゲームをクリアして現実に帰還することが行動原理になっている『ソードアート・オンライン』と、まるで対照的だ。

そこで、ちょっと考え込んでしまった。この現実世界における深い絶望と諦念と無力感が物語を駆動する動力源だというなら、あまりに寂しい話ではないか。これを単に娯楽として消費していいものなのだろうか。
せめて姿勢を正して、スバルの旅の果てを見届けたい。

2016年8月4日(木)
氷れる微笑

最近、アニメを観ていて気になることがある。
とりあえず下の画像を見て頂きたい。この1週間に放送された作品(スカパー!も含む)から適当に抜いてきたものである。

 

 

 

 

 

 

別にほっこりした気分になって欲しいわけではない。
私はこういう笑顔の表現を見ると、神経に障るのである。端的に言ってムカつく。

ポイントは、目と口が両方閉じているところである。これ、不自然だと思いません?

もちろん笑顔のとき目が閉じているという描き方は昔からあるのだが、下図を見て頂きたい。いつぞやの鼻筋表現の研究の際に使った画像である。





厳密に検証したわけではないが、笑顔の時に目が閉じているのは、かつては「爆笑を示す記号」だったと思うのですよ。
解剖学的にもその方が理にかなっている。大口を開けると、頬の筋肉が持ち上げられて下まぶたを押し上げ、結果的に目が閉じるのである。ついでに言うと、あくびすると涙が出るのも同じ理由(涙腺が圧迫されるため)。

せっかくだから三次元の画像も付けておく。

もちろん、アニメ表現なんてものは畢竟記号の集積に過ぎないし、写実的である必要もない。この笑顔でなければ表現できない機微やニュアンス、というのもたぶんあるのだろう。しかし、こうも横並びでどれもこれも同じ表現になるのはやっぱり変だ。とりあえず目と口を閉じ、ついでに小首をかしげれば笑顔のできあがり、というのではあまりに安直ではないか。表現とは改良進歩をやめたとたんに退嬰に陥るものである。

我々が観たいのは、単なる記号の集積が、記号を超えた何かを獲得する瞬間のはずだ。さらなる工夫を期待したい。



蛇足ながら、少し愚痴りたい。
こんなスレ見つけたんですがね。私が鼻筋表現の変遷を公開してから1年半も後に、まだこんなスレができるってどういうことなんだろ。
「研究の蓄積がなされない」って、こういうことか。

2016年7月14日(木)
イチロー復活

超人イチローもさすがに限界か。昨年の成績を見ればそう思わざるを得なかった。しかし今年のイチローは、誰もが驚く復活を遂げた。

イチローはなぜ42歳にして復調できたのか
https://thepage.jp/detail/20160623-00000001-wordleafs

「キャンプ中は(手応えが)なかった。キャンプ終ってからの、マイアミに戻ってヤンキースと試合をしました。あそこはポイントだった」

 キャンプ地でのオープン戦が終ってから、マイアミに移ってヤンキースと2試合、最後のオープン戦を行った。そこでイチローは何かを掴んだのだという。多くの記者が会見で前のめりになったが、それをイチローは制した。

「その先はご容赦願います。願いたいと思います、かな」

 あのとき、1試合目は1打席で無安打。初球を打って二塁ゴロだった。2試合目は2打数ノーヒット。最初の打席が最速106マイル(171キロ)を記録したことがあるアロルディス・チャップマンと対戦してショートフライ。2打席目がレフトフライ。いずれも打ち取られたが、この3打席に何かがあった。

実はイチローははるか昔のオリックス時代にも、似たことを言っている。以下は99年のインタビューである。

イチローは今年(99年)になって、「限界という天井」を突き破る術を見つけたと言うのだ。

「5年間かけてようやく手に入れた感触がある。打つために必要な決定的な感覚。それを知った今、バッターボックスに立つのが嬉しくて仕方がない」

「自分では万全の準備をして臨んだ開幕。なのに、何かが違っていた。自分ではしっかりとやっているつもりなのに、思い通りのバッティングができない。序盤、打率は.230にまで落ち込んだんです。(中略)ところが、ある打席をきっかけに僕の苦しみは終わったんです。それどころか、打者として、探し続けていたものを見つけることができた」

「シーズン中なので、対戦チームとピッチャーの名前は勘弁して欲しいんですが・・・・・・、その打席、最悪のセカンドゴロに終わったんですよ。でも、その一瞬に『あっ、これなんだ』と、はっきり見えた。ボテボテのゴロでアウトになった瞬間も、実は飛び上がりたいほど嬉しかった。頭で理解できた感覚を、そのまま次からのゲームで実証できた。こんなにも明確に具体的な『答え』を手に入れたことは、長い野球生活の中でも初めてですよ」

彼が手中にした新しい打撃法とはいったいどのようなものなのか。
「バッティングの狂いを調整するための体の使い方です。僕にしか理解できない感覚だから、話すことはできない」
そう繰り返すイチローに、とにかくその感覚を言葉にして欲しいと頼んでみた。彼は自分の指先を見つめながら、沈黙し、再び顔を上げ、こう言った。
「・・・・・・むずかしいですね、これは。本当に個人的な感覚です。もともと僕の打ち方は人と違うでしょう。その時点で、解説が不可能なわけですよ。どういうレベルで言えばいいだろうなあ・・・・・・。上半身と下半身にポイントが一点ずつあって・・・・・・、まあ、体の使い方なんですよ。これ以上は、やっぱり説明できない」

「どこまで昇りつめれば自分にとってのピークがあるのか。今はそれに挑んでいるところです」

「独占インタビュー イチロー『ピークは遥か先にある』」『Number PLUS 「プロ野球 大いなる白球の軌跡。」』1999年8月、82-85ページ。

このときと同じように、今年のイチローは40代なりの身体の使い方を会得したのではないか。だとすれば、この好調はまだまだ続く可能性がある。いや、ぜひそうなって欲しい。
そして近年とみに報道されるようになった「50歳現役計画」。これもとっくに口にしている。

常識を覆す-実はメジャー1年目のシーズンのあと、イチローはこんなことを言っていた。
「50歳のシーズンを終えた時にね、こう言いたいんですよ。『まだまだ発展途上ですから・・・・・・』って」
実はこの言葉、冗談で口にしているのではない。イチローは本気だった。
「もし50歳でプレーしていたいと思うのなら、いつの時期に日本に帰るのかというのが大きなポイントになると思います。40歳、50歳になっても野球をやりたいとは思っていますけど、メジャーでやるか、それとも日本にもう一度帰ってやるかはわかりませんからね。僕の中ではメジャーで終わりたいとも、日本に戻らないとも決めてません」
石田雄太『イチローイズム』集英社、2003年、229-230ページ。

ピークは遥か先にある。

2016年7月7日(木)
『ガンダムエース』の出渕裕インタビュー

『ガンダムエース』15周年で、出渕裕のインタビューが掲載されていた。例によって、面白かった部分。太字は引用者による。

よくガンダムはリアルだって言われるけど、実際はそれ以前のスーパーロボットから、いわゆるリアルロボットに洗練されていく過程のデザインなわけです。
ですから、単体のデザインとしてはまだそれほどリアリティを追求しておらず、むしろそれまでのサンライズにおけるヒーローロボットの系譜をきっちり受け継いでいる意匠だったのだと思います。
サンライズのロボット意匠というのは、それまで主流であった東映の主役ロボットデザインは西洋甲冑風であるのに対して、当時新興勢力だったサンライズが日本の武者鎧というアプローチで主役をビジュアル化するというものでした。『ザンボット3』もそうですし、『ダイターン3』もそう。東映の西洋に対して和のテイストで差別化を図ったのは、やはり大河原(邦男)さんの功績でしょう。『ライディーン』に関してはポピーの村上克司さんのベースデザインがあり、それを安彦さんが日本の鎧にエジプト風味を加味してまとめ上げています。

-確かに描き方によっては、それまでのスーパーロボットとして扱っても違和感はないですよね。

とは言え過渡期の作品であるがゆえに、そうやって振り切れていない部分を残していたことが、逆によかったんだと思います。たとえばガンダムには人間と同じに目が二つあるじゃないですか。これはリアルな要素ではなく、キャラクター性であり、スーパーロボットの名残りですよね。当時は(リアル方向に)行くところまで行ってほしいと感じていたんですが、キャラクター性を残していたからこそ、デザインとしてもここまで生き残れたんだ、と今では思うんです。

「ガンダムエース15周年記念スペシャルインタビュー 出渕裕デザインワークス」『ガンダムエース』2016年8月号、13ページ。

私は『めぐりあい宇宙』公開のとき小4で、ファースト直撃世代の下端あたりに位置する。んで、職場の少し上の世代あたりには「『ガンダム』ってのは画期的なアニメでね・・・」とか素人相手のつもりで言い出す人がたまにいる。こういう手合いが言う「画期的」というのは、せいぜいが「宇宙人でなく人間同士の戦争」とか「怪獣でなく兵器として大量生産されたロボット」といった程度に過ぎない。私は竹熊健太郎氏が言うところのオタク密教徒なので、こういう場合はひたすら聞き流すことにしている。「やっぱり星山脚本は違いますよね」なんて言ったところでどうなるものでもない。
実際改めて観返してみると、初代ガンダムのヒーロー性、ワンアンドオンリー感は際立っている(だいたい、兵器があんな目立つカラーリングなわけない!)。

(『逆襲のシャア』の制作で)スタジオに詰めてたとき、自分はコンテでメカがどんな使われ方をするかをチェックしていたんです。そこで驚いたのが、サザビーのコクピットに、クェスが私服のまま飛び移るシーン。宇宙空間ですよ。「これ、死んじゃうじゃん!」って。どうにも納得がいかなかったので、監督部屋の富野さんに「これはまずくないですか?」って聞いたら、「いいのよ、大丈夫なの!」って言うんですよ。口を押さえてれば数秒はNASAだって大丈夫って言ってるんだ、って言うんです。いやいやいや、ほかにも温度とか放射線とか問題でしょ?それでも「いいのよ」というので、「富野さんがそれでいいって言うなら構いませんが、俺は気になったから意見具申はしました」って伝えて奥のデザインしてた部屋に戻ったんです。夜になってひとりで作業をしていたら、富野さんが帰り際にヒョコッと明子姉ちゃんみたいに顔覗かせて「富野です、帰るんだけど」って。「ところで出渕くん、さっきのアレなんだけど、そんなに気になる?」って聞いて来られて、「気になりますね」って即答したら「・・・いじわる」って言って帰っていかれたんですよ。なんなんだ、これは、この人かわいい!って(笑)。

-かわいい(笑)。
いやホントに大好きですよ、富野さん。最初は勢いに任せてバーッてまくし立てるように喋ったりするんで、初対面なんかだとびっくりする人も多いと思うんですが、実はすごく気を使うし、結構気にしたりもするタイプなんですよ。

-実際に完成したフィルムには、どんな印象を持たれましたか?
正直、試写会で初めて観たときは、「なんてアニメに加担してしまったんだ・・・・・・」って思ったもんです。なんていうか、当時は登場人物がイっちゃってるっていうか、初見だとキャラクターの行動原理とか感情移入がしにくい感じがして。MS以外のメカはガイナックスの方たちも携わっていたので、試写会には彼らも来ていたんです。庵野くんなんかも最初はダメだったみたいで、「イカン!」って言ってた記憶がありますね。

-『逆シャア』と言えば現在では人気の高い作品なんですけどね。
でもね、『逆シャア』って何か引っかかる作品なんですよ。気になって見返してみる機会があって、そうしたら演出意図が見えてきて、いろいろ深い部分が分かってくる。見返せば見返すほど、噛めば噛むほど味が出る『逆シャア』はなんていうか、スルメのような映画だったんですよ。以前「イカン!」と言ってた庵野くんにも「見返してみると意外とおもしろいよ」って勧めて。最初はそんなはずはないって言ってたんですが、次に会ったときは見返してみたらしくて「逆シャア最高!」になってたんですよ(笑)。

同16ページ。

伝説の『逆シャア』同人誌も出渕氏のおかげ?

サザビーのコクピットブロックがでかすぎる(いつもどおり胸部コクピットのつもりでデザインしたので)という点が気になっていたのが、ナイチンゲールが巨大MAになった一因とか。

プロデューサーの内田(健二)さんは、富野さんが監督ではない初のガンダム作品である『0080』については子供の目線で見た作品を目指していました。監督は敢えてサンライズで仕事をしたことがない優秀な演出家を探していて、当時アニメ業界から身を引いていた高山さんを探し出して交渉してって感じでした。『マクロス』(『超時空要塞マクロス』/1982年)での仕事の質の高さは僕も知っていたので、内田さんから監督候補で高山さんの名前が出たときは全面支持でしたね。

同17ページ。

当時と言うか、今に至るまでずっと引きっぱなしという気も・・・・・・。

-当時も出渕さんは多数の作品に参加されていましたね。
そうですね。『0080』はちょうど『パトレイバー』(『機動警察パトレイバー』/1988年)と同時期ぐらい。『逆シャア』もちょっとかぶっていたかもしれません。同時進行してるのが『ダンバイン』や『ガリアン』(『機甲界ガリアン』/1984年)のようなファンタジー系だと問題ないんですが、『ガンダム』と『パトレイバー』のような組み合わせでの同時進行は危険ですね。ハッと気づいたら、無意識に手癖が出て、互いに似てしまっていたりするんですよ。ジェガンとイングラムなどはまさにそうですね。自分なりのスタンダードなラインが出てしまうんです。

同17ページ。

あ、やっぱり気にしてたんだ。と言うか、『パトレイバー』と『マクロス』が6年しか離れていないというのも驚き。

『0080』で試したことの次の段階に進んだのが、『0083』(『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORIY』/1991年)でカトキ(ハジメ)くんの試みたアプローチじゃないですか。過去のデザインをブラッシュアップするとき、時代的にある程度のアレンジ幅が許されたのが『0080』。対して完成度や、誰もが納得する最大公約数の中でリデザインしていくスタイルを提唱したのが『0083』と言えるでしょうね。カトキくんが手掛けたザクやゲルググだって、よく見ると昔のデザインとは違うんだけど、でも「この辺までならオーケーかな?」っていう部分に落とし込んでいる。そういう指標的なディファクトスタンダードを確立させていく過程が、『0080』から『0083』への流れの中に見ることができると思います。

(略)磯(光雄)くんに関しては作画をやりつつ、当時デザインもやりたいということで、細かい部分をやってもらったんですが、これが存外に上手かった。サイド6自治軍が使っているヘリとか小型MSのデザインは、全部彼の仕事です。あと連邦軍が持っている銃器関連とかも。あのとき彼がデザインしたアサルトライフルって、その後の『ガンダム』シリーズでも永く使われてたりするんですよ。

同18ページ。

これは機会があれば要チェック。

-(『機動戦士ガンダム MS IGLOO』について)CG作品であるということは、デザインにも影響を与えていますか?
それは当然あります。これまでは実際に人が手で描くという前提がありましたから、アニメーターがイメージしやすいことを意識しました。大量の動画を描くためには(作画用設定では)ディテールを削る必要があるし、面取りも難しくなりすぎたらマズイわけです。だけどCGはモデルさえ作ってしまえば、後はそれを動かすだけだから、省略のデザインに腐心する必要はない。CG用のメカデザインでは図面を起こすほうがオペレーターに伝わりやすいみたいで、それはそれでデザインを固めやすいかもって発見はありましたね。(略)

-手描きアニメとはアプローチから異なっているんですね。
手描きの場合は逆に図面じゃダメなんですよ。パースや角度が見えませんからね。だから手描きアニメでは、あったとしても図面は補足程度の役割で、従来通りの設定画のほうがいいんです。

同20ページ。

なるほど。

-最後に、出渕さんがデザインする際、ご自身の中で決められたルールというのがあれば教えてください。
まず演出家が何をやりたいのか、こだわる点を的確に知ることが第一ではないでしょうか。デザイナーとして自分がこれを描きたいではなく、演出家(監督)の意図を汲み取りそれを具現化する。僕らはプラモデルのデザインをしているわけではなく、大前提として映像作品のデザインをやっているわけです。だから、本来は演出家(監督)のイメージがすべてなはずなんですよ。逆に明確なイメージがないなら、「こういうのはどうですか?」って提案します。たまに余計なお世話ってなることもありますけど(笑)。

-逆にこういうやり方はちょっと危険だなと思うケースはありますか?
演出家にしろ、プロデューサーにしろ、ビジュアルイメージをちゃんと持っているならいいんですが、「あの作品が好きだったから、あんな感じで」って言われると、「これはダメだな」って思いますね。『ガンダム』の世界の中で描く前提なら、「あの作品のあれですよね」と言われるのはまだ分かります。でも違う作品をやっているのに、「『ガンダム』みたいなものがほしい」って言うのはアウト。『ガンダム』に限らずですが、これはやはりオーダーする側の考えとしては失格ですよ。同じサンライズの中で作る作品だとしても、ね。だったら「『ガンダム』を作ってればいいでしょう?」ってことですから。

-デザインを構築する上でほかにはどんなことを考慮しますか?
世界観です。世界観を重視しない作り手もたまにいますが、それはダメですよ。実際には存在しない世界を描くわけだから、その世界のロジックを理論武装してビジュアル化することも僕らの仕事のひとつだと思っています。何より新しいオリジナル作品をやる場合は、今までにないフォルムや世界観を組み立てていくという醍醐味があるのに、それを放棄しちゃったら、創作としては薄っぺらくなっちゃうし、それは誤魔化せないんじゃないかな。ロボットものって、パターンとしては出尽くしている感じは確かに否めませんし、好きな形というのもあるから、どうしても何かに似通ってしまうところはあるんでしょう。ただ最近は3Dが基本ですから、手描き作画では禁じ手だったデザインや表現にも可能性が出てくるとは思いますね。

20-21ページ。

なればこそ、自身も演出家として活動できるということかな。

2016年6月27日(月)
『ハイキュー!!』24話

『ハイキュー!!』観終わった。クライマックスの24話「脱・“孤独の王様”」がこれまた凄い出来。

インターハイ宮城県大会で、烏野は宿敵・青葉城西を後一歩のところまで追い詰める。しかし最後の瞬間、絶対の自信とともに放った影山-日向の神業速攻は、攻撃を完璧に読み切っていた及川の指示によって、ブロックに阻まれ敗北する。

手に汗握る試合展開も素晴らしいが、真に見るべきはその後である。
コートではすぐに次の試合が始まるため、彼らは落ち込むヒマもなく会場を後にする。おそらく原作者の持ち味なのだろうが、本作は敗北した側の表情を優しい目線で丁寧に点描している。これまで積み重ねてきたその描写が、ついに烏野の番になる。

コーチの烏養は、馴染みの居酒屋へ皆を連れ出し食事を振る舞う。疲労困憊のあまり逆に食欲のない日向だが、勧められるままに箸を付ける。すると思ったより美味かったらしく、箸が進み始める。
このときの芝居が、いわゆるアニメ的な誇張のない、いたって自然な動きで実に良いのだ。もしこれがジブリアニメだったらどんな作画になるか想像してみれば、私の言いたいことがおわかりいただけると思う。

食事をしながら、いつしか皆泣いている。無言で涙を流しながら、ひたすら箸を動かす。このシーン、原作では大ゴマ1つで描かれているが、アニメでは細かくカットを割って、選手たちそれぞれの表情や動きを拾っていく。敗北の悔しさを文字通り呑み込み、咀嚼し、明日への糧に変えていく様を表現した名シーンだ。久々に、アニメを観ていて胸が締め付けられる思いをした。

絵コンテ・演出は監督の満仲勧。
ちょうどサードシーズンの製作も告知されて、楽しみがまた増えた。

2016年6月22日(水)
『ビッグデータ・ベースボール』 -『マネー・ボール』の衝撃再び

センス・オブ・ワンダーという言葉がある。

一般的な定義は難しいが、私は「価値観を揺さぶり、ものの見方が永遠に変わるような体験」と教わった。SFの人が専売特許のように使うが、私にとってのセンス・オブ・ワンダーは『マネー・ボール』だった。2004年に日本で発売された『マネー・ボール』の帯には、「今まであなたが信じていたものは野球ではない!?」と書いてある。これは誇張でも何でもない。この本を読んだときから、野球の見方は不可逆的に変わってしまった。
それから12年。

全米プロスポーツ史上最長、20年連続負け越しの弱小チーム、ピッツバーグ・パイレーツがいかにデータを駆使して再生したかを詳述した本がこれである。
今回帯に書かれた惹句は「データ野球はここまで進化している!」。
もうこれに尽きる。以下引用ばっかりで申し訳ないが、本当に面白すぎるのだ。

例えば、キャッチャーの評価に、ピッチフレーミングという技術を用いるようになった。

ピッチフレーミングとは、ボールかストライクかきわどいコースの投球の判定に影響を与える捕手の技術を指す。打者と主審には、時速145キロの速球がストライクゾーンの中を通ったか外を通ったか、見極めるための時間が0.5秒もない。捕手によるボールの捕り方は視覚のトリックで、その巧みなごまかしの技術によって主審にきわどいコースの投球をストライクと判定させることができる。こうしたピッチフレーミングの能力は、これまでも監督たちやコーチたちや選手たちから価値があると考えられていたが、この技術を数値化することができなかったため、分析の世界においてはその価値は過小評価されていた。ボールくさい球をストライクに見せる技術が本当に存在するなら、その技術に計り知れない価値があることに異論はない。カウントが打者に有利なのか投手に有利なのかによって、打率は劇的に変化する。カウントがツーボール・ワンストライクの時とワンボール・ツーストライクの時を比べると、打率に2割近くも差が出てしまうのだ。
トラヴィス・ソーチック『ビッグデータ・ベースボール』角川書店、2016年、100-101ページ。

優れたキャッチャーは、その捕球技術によって、きわどいコースのボールをストライクと判定させる能力があると昔から言われてはきた。PITCHf/xによってあらゆるボールの速度、コース、球種を記録できるようになったため、定量的に評価が可能になったのである。
本書には、ピッチフレーミングという観点から見たメジャーのベスト及びワーストキャッチャーの表が出ている。ワースト5にランクインしているのが、なんとあの人。

ピッチ・フレーミングによる捕手の失点差 104ページ。

ベスト5       防いだ総失点   120試合あたりの防いだ失点
ホセ・モリーナ     73        35
ラッセル・マーティン  70       15
ヨービット・トレアルバ 40       14
ジョナサン・ルクロイ  38       24
ヤディエア・モリーナ  37        8

ワースト5
城島健司       -33     -15
ジェイソン・ケンドール -37    -9
ホルヘ・ポサダ    -49    -25
ジェラルド・レアード -52    -15
ライアン・ドゥーミット -65    -26
マリナーズ時代には投手の信頼を得られず、コミュニケーションがどうの性格がこうのと言われていたが、何のことはない、単にヘタクソだったわけだ。
セイバーメトリクス信奉者やブロガーたちは、主要なマスコミから散々たたかれている。球場を訪れるわけでもないし、クラブハウスで選手にインタビューするわけでもないなどの理由で、野球のことを本当に知っているはずがないというのだ。そうだとしたら、そうしたセイバーメトリックス信奉者やブロガーたちを、メジャーリーグの球団のフロントが次々に採用しているのは、実におかしな話だ。あと、みなさんは気づいているだろうか?野球のことならば自分がいちばんよく知っていると主張し、高度な指標や統計分析を非難し続けている連中が、メジャーリーグの球団に採用されたことは一度もないということを。

NBCの野球解説者クレイグ・カルカテッラのブログ。104-105ページ。


以前にも触れたが、パイレーツの首脳陣はアナリストをクラブハウスに迎え、ミーティングに出席させ、遠征先にも同行させた。首脳陣がアナリストたちを信頼し敬意を払う様子を常に選手たちに見せることで、アナリストたちの一見奇抜な提言が選手たちに受け入れられる素地を作っていったのである。
結果として採用されたのが、あの極端な守備シフトだ。

パイレーツの二塁手ニール・ウォーカーの守備防御点は、2012年のマイナス4点から2013年にはプラス9点に向上した。13点の差は1.3勝分に相当する。この劇的な変化は、処理した打球の数が増えたことと関係している。ウォーカーが2013年に伝統的な二塁手の守備位置の外で打球を処理した数は、2012年より32回も増えている。よりデータに基づいた守備位置に就くことで、パイレーツの三塁手ペドロ・アルバレスは2012年にマイナス5点だった守備防御点が2013年にはプラス3点になったばかりか、出場時間数は同じなのに守備機会が71回も増えた。パイレーツの一塁手ギャレット・ジョーンズの守備防御点は、2012年のマイナス5点から2013年にはリーグ平均のプラスマイナス0点に向上した。負傷及びルーキーのジョーディー・マーサーの台頭により、出場機会が400イニング以上も少なくなったにもかかわらず、2013年にショートのクリント・バームズが通常の守備位置の範囲外で打球を処理した数は同じだったし、守備防御点も変わらなかった。これはより効率的な守備ができたことを意味している。
164ページ。

守備の評価は難しいと言うが、個々の選手の判断力や身体能力以外で決定される要素がこれほどに大きかったのだ。

ビッグデータがもたらしたもう一つの影響は、守備側に有利な状況を作り出したという点だ。これは野球の世界に入ってきたビッグデータのほとんどが、いかにして失点を防ぐかに特化していたことによる。極端な守備シフトの普及と増加、及びスカウティングレポートに含まれる情報の向上が、打撃の低下をもたらした。(中略)
守備シフトの効果を抜き出すために、インプレイ打球の打率を考えてみよう。2006年から2008年にかけて、メジャーリーグ全体でのインプレイ打球の打率は、3割3厘から3割の間で、これは過去の歴史を見ても平均的な数字に当たる。ところが、その数字が2011年には2割9分5厘、2013年には2割9分3厘にまで下がっている。打率が1分下がっても大したことではないと思うかも知れないが、これは伝統的な守備位置ならばヒットになっていたはずの何百もの打球がアウトになったことを意味する。
ビッグデータによって得点が減ったことを示す究極の証拠はスコアボードにある。1試合当たりのチームの平均得点は2006年の4.85点から毎年減り続け、2013年には4.2点になった。これは1992年以降で最も低い数字だ。2014年になると得点はさらに減少し、1981年以降で最も低い1試合当たり4.07点にまで下がった。メジャーリーグ全体の打率も2006年の2割6分9厘から下がり続けていて、2014年は2割5分1厘だった。しかも、メジャーリーグの約4分の1のチームが積極的に守備シフトを採用しているだけで、これだけの結果が出ているのだ。
170-171ページ。

近年のメジャーの投高打低傾向は、単に投手の能力のためではなくこれが一因だったわけだ。なお本書によると、パイレーツは守備シフトを有効に機能させるために相手打者にゴロを打たせるにはどうすればいいか研究した結果、投手陣にツーシームを多投させるようになった。
また、「守備シフトを敷くと相手打者は空いた場所を狙って打つんじゃないのか?」という当然の疑問も、やってみたら杞憂だった。打者とは、シフトを無視していつも通りに強振する生き物だったのである。

近年のトミー・ジョン手術激増の原因について。

負傷の増加の一因として、1つの競技に特化する風潮の中で育ち、酷使されてきた投手の第一世代がメジャーリーグで投げるようになったことがあげられる。今の投手は子供の頃から年間を通じて投げ続け、十代の頃にはプロや大学のスカウトが見守る中で無理をする傾向がある。これはアメリカスポーツ医学機構がトミー・ジョン手術の爆発的な増加を検証した2013年の報告書の中で示された仮説だ。
もう一つの要因は球速だろう。PITCHf/xによると、投球データの測定を開始した2007年以降、メジャーリーグの速球の平均球速は上昇の一途をたどっている。それによって増大する一方の負荷に、体が耐えられないということなのではないだろうか。
(中略)
一世代前と比べると、投手は背が高くなり、体格も向上した。だが、筋肉を鍛えることはできるものの、腱や靱帯を鍛えることはできない。長さ約2センチ、幅約1センチの内側側副靱帯は、繊維の束でできており、ロープのようにほつれる。靱帯は1球投げただけで断裂するわけではない。年月をかけて徐々に擦り減っていくと考えられている。靱帯にこれほどまでの負荷がかかっている時代は、これまでなかったはずだ。
181-182ページ。

2008年には速球の平均球速は145.44キロだった。これが2013年には147.2キロになり、2014年は147.36キロだという。

そして、野球分析の最先端。

2014年3月1日、ボストンのハインズ・コンベンションセンターで開催されたMITスローン・スポーツ分析会議において、メジャーリーグ・ベースボール・アドバンスト・メディア(MLBAM)のジョー・インゼリロがステージ上に姿を現した。
(中略)
2013年にシティ・フィールドで行われたブレーブス対メッツ戦でのあるプレイの映像を用いてプレゼンテーションを始めた。場面は2対1とブレーブスの1点リードで迎えた9回裏のメッツの攻撃。ブレーブスのリリーフエースのクレイグ・キンブレルは2人の打者から三振を奪った一方で、1人に死球を与え、1人を四球で歩かせた。同点の走者と勝ち越しの走者を置いた場面で、メッツのジャスティン・ターナーの打球は左中間に飛ぶ。打った瞬間、同点は確実、おそらくサヨナラ打になるだろうと思われた。ところが、本来のポジションはライトながらその時はセンターを守っていたブレーブスのジェイソン・ヘイワードが、打球をダイビングキャッチしてスリーアウトとなり、ブレーブスの勝ちを守った。素晴らしいプレイだったが、画面上のヘイワードとターナーに添えられた情報はプレイそのものよりも信じられないものだった。
画面上に表示された情報は、その時のヘイワードのリアルタイムのデータだ。打球を追うヘイワードは毎秒4.6メートルずつ加速して時速29.8キロのトップスピードに達した。スタートしたのは打球の落下地点から24.6メートル離れた場所で、25.4メートルを走って打球をキャッチした。打球を追ったルートの効率は97パーセントで、ほとんど無駄のないルートを走ってボールをキャッチしたことになる。ヘイワードは打球への反応でも俊敏さを示し、一歩目を踏み出したのはバットがボールに当たってからわずか0.2秒後だった。しかも、数値を記録されていたのはヘイワードだけではない-あらゆるものの動きが追跡されていた。打球がターナーのバットを離れたときの速度は時速141.3キロ、上昇角度は24.1度、飛距離は95.7メートル、滞空時間は4秒。
(中略)
レーダーをベースにしたトラックマンを使用してボールとその動きを追いながら、スタットキャストはステレオスコープによる3D機能を有するChyronHego社の2台の双眼カメラを使ってグラウンド上の全選手も追う。カメラは全選手の動きを録画し、それをトラックマンのドップラーレーダーからの数値と同期させる。選手とボールの動きはシステムのソフトウェアによって意味のあるデータへと変換される。
262-264ページ。

これも面白い。いわゆるホームチームの有利について。

地元のチームの方が有利になるもっとも大きな理由は、一般的に考えられているものとは異なる。球場の広さでも、移動による疲労でも、馴染みのある環境でもない。審判の判定に及ぼす影響だ。シカゴ大学の行動経済学者トビアス・モスコウィッツと『スポーツ・イラストレイテッド』誌のライターのL.ジョン.ワーサイムは、共著Scorecasting(『オタクの行動経済学者、スポーツの裏側を読み解く』、ダイヤモンド社)の中で、ホームのチームが有利になる理由はストライクかボールかきわどいコースの球で有利な判定をもらっているからで、それは主審が意識的にあるいは無意識のうちに、周囲の雰囲気に影響されているからだと結論づけている。モスコウィッツとワーサイムは、投球のコースを追跡するコンピューターシステムPITCHf/xとQuesTecが測定した何百万もの投球の検証から、この結論を導き出した。
「野球の世界において、ホームのチームとビジターのチームとの間の最も顕著な違いは、ホームのチームはビジターのチームと比べて打席当たりの三振の数が少なく、四球の数が多い-はるかに多いということだ」モスコウィッツは書いている。
モスコウィッツはまた、観客の人数が多いほど、歓声が大きいほど、審判の判定が-意識してのことなのか無意識のことなのか-揺れる傾向にあるという。
301-302ページ。

新戦術には、新戦術で対抗する。

投手がツーシーム・ファストボールを多投するようになると、あるチームが対抗策を講じた。オークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンは、フライ性の打球が多い打者を揃え始めたのだ。2013年のアスレチックスの打者は、打球のうちのフライの割合が60パーセントを記録している。メジャーリーグで次にフライの割合が高かったチームの数字は、全打球の39パーセントにすぎない。
334ページ。

元祖マネーボールの面目躍如。マネーボールとは、貧乏チームが勝利するための手段であり、そのためにはあらゆる常識やセオリーを疑う。送りバントの是非などどうでもいいことである。
保守的な選手やファンや評論家は、ベースにくっついて守る伝統的な守備位置にこだわりを見せる。
だが、100年後の野球ファンはきっと、「知ってるか?100年前の野球では、守備位置はベースに拘束されてたんだぜ」と言うに違いない。

本書は、こんな文章で締めくくられる。

野球は常に進化している。打者と投手の間で、対戦する監督同士の間で、さらには対戦する分析官同士の間で、絶え間ないいたちごっこが続いている。このパンチとカウンターパンチの応酬に終着点はない。これは終わりのない戦いなのだ。
335ページ。

MLBはここまで来た。NPBはどうする。

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