センス・オブ・ワンダーという言葉がある。
一般的な定義は難しいが、私は「価値観を揺さぶり、ものの見方が永遠に変わるような体験」と教わった。SFの人が専売特許のように使うが、私にとってのセンス・オブ・ワンダーは『マネー・ボール』だった。2004年に日本で発売された『マネー・ボール』の帯には、「今まであなたが信じていたものは野球ではない!?」と書いてある。これは誇張でも何でもない。この本を読んだときから、野球の見方は不可逆的に変わってしまった。
それから12年。
全米プロスポーツ史上最長、20年連続負け越しの弱小チーム、ピッツバーグ・パイレーツがいかにデータを駆使して再生したかを詳述した本がこれである。
今回帯に書かれた惹句は「データ野球はここまで進化している!」。
もうこれに尽きる。以下引用ばっかりで申し訳ないが、本当に面白すぎるのだ。
例えば、キャッチャーの評価に、ピッチフレーミングという技術を用いるようになった。
ピッチフレーミングとは、ボールかストライクかきわどいコースの投球の判定に影響を与える捕手の技術を指す。打者と主審には、時速145キロの速球がストライクゾーンの中を通ったか外を通ったか、見極めるための時間が0.5秒もない。捕手によるボールの捕り方は視覚のトリックで、その巧みなごまかしの技術によって主審にきわどいコースの投球をストライクと判定させることができる。こうしたピッチフレーミングの能力は、これまでも監督たちやコーチたちや選手たちから価値があると考えられていたが、この技術を数値化することができなかったため、分析の世界においてはその価値は過小評価されていた。ボールくさい球をストライクに見せる技術が本当に存在するなら、その技術に計り知れない価値があることに異論はない。カウントが打者に有利なのか投手に有利なのかによって、打率は劇的に変化する。カウントがツーボール・ワンストライクの時とワンボール・ツーストライクの時を比べると、打率に2割近くも差が出てしまうのだ。
トラヴィス・ソーチック『ビッグデータ・ベースボール』角川書店、2016年、100-101ページ。
優れたキャッチャーは、その捕球技術によって、きわどいコースのボールをストライクと判定させる能力があると昔から言われてはきた。PITCHf/xによってあらゆるボールの速度、コース、球種を記録できるようになったため、定量的に評価が可能になったのである。
本書には、ピッチフレーミングという観点から見たメジャーのベスト及びワーストキャッチャーの表が出ている。ワースト5にランクインしているのが、なんとあの人。
ピッチ・フレーミングによる捕手の失点差 104ページ。
ベスト5 防いだ総失点 120試合あたりの防いだ失点
ホセ・モリーナ 73 35
ラッセル・マーティン 70 15
ヨービット・トレアルバ 40 14
ジョナサン・ルクロイ 38 24
ヤディエア・モリーナ 37 8
ワースト5
城島健司 -33 -15
ジェイソン・ケンドール -37 -9
ホルヘ・ポサダ -49 -25
ジェラルド・レアード -52 -15
ライアン・ドゥーミット -65 -26
マリナーズ時代には投手の信頼を得られず、コミュニケーションがどうの性格がこうのと言われていたが、何のことはない、単にヘタクソだったわけだ。
セイバーメトリクス信奉者やブロガーたちは、主要なマスコミから散々たたかれている。球場を訪れるわけでもないし、クラブハウスで選手にインタビューするわけでもないなどの理由で、野球のことを本当に知っているはずがないというのだ。そうだとしたら、そうしたセイバーメトリックス信奉者やブロガーたちを、メジャーリーグの球団のフロントが次々に採用しているのは、実におかしな話だ。あと、みなさんは気づいているだろうか?野球のことならば自分がいちばんよく知っていると主張し、高度な指標や統計分析を非難し続けている連中が、メジャーリーグの球団に採用されたことは一度もないということを。
NBCの野球解説者クレイグ・カルカテッラのブログ。104-105ページ。
以前にも触れたが、パイレーツの首脳陣はアナリストをクラブハウスに迎え、ミーティングに出席させ、遠征先にも同行させた。首脳陣がアナリストたちを信頼し敬意を払う様子を常に選手たちに見せることで、アナリストたちの一見奇抜な提言が選手たちに受け入れられる素地を作っていったのである。
結果として採用されたのが、あの極端な守備シフトだ。
パイレーツの二塁手ニール・ウォーカーの守備防御点は、2012年のマイナス4点から2013年にはプラス9点に向上した。13点の差は1.3勝分に相当する。この劇的な変化は、処理した打球の数が増えたことと関係している。ウォーカーが2013年に伝統的な二塁手の守備位置の外で打球を処理した数は、2012年より32回も増えている。よりデータに基づいた守備位置に就くことで、パイレーツの三塁手ペドロ・アルバレスは2012年にマイナス5点だった守備防御点が2013年にはプラス3点になったばかりか、出場時間数は同じなのに守備機会が71回も増えた。パイレーツの一塁手ギャレット・ジョーンズの守備防御点は、2012年のマイナス5点から2013年にはリーグ平均のプラスマイナス0点に向上した。負傷及びルーキーのジョーディー・マーサーの台頭により、出場機会が400イニング以上も少なくなったにもかかわらず、2013年にショートのクリント・バームズが通常の守備位置の範囲外で打球を処理した数は同じだったし、守備防御点も変わらなかった。これはより効率的な守備ができたことを意味している。
164ページ。
守備の評価は難しいと言うが、個々の選手の判断力や身体能力以外で決定される要素がこれほどに大きかったのだ。
ビッグデータがもたらしたもう一つの影響は、守備側に有利な状況を作り出したという点だ。これは野球の世界に入ってきたビッグデータのほとんどが、いかにして失点を防ぐかに特化していたことによる。極端な守備シフトの普及と増加、及びスカウティングレポートに含まれる情報の向上が、打撃の低下をもたらした。(中略)
守備シフトの効果を抜き出すために、インプレイ打球の打率を考えてみよう。2006年から2008年にかけて、メジャーリーグ全体でのインプレイ打球の打率は、3割3厘から3割の間で、これは過去の歴史を見ても平均的な数字に当たる。ところが、その数字が2011年には2割9分5厘、2013年には2割9分3厘にまで下がっている。打率が1分下がっても大したことではないと思うかも知れないが、これは伝統的な守備位置ならばヒットになっていたはずの何百もの打球がアウトになったことを意味する。
ビッグデータによって得点が減ったことを示す究極の証拠はスコアボードにある。1試合当たりのチームの平均得点は2006年の4.85点から毎年減り続け、2013年には4.2点になった。これは1992年以降で最も低い数字だ。2014年になると得点はさらに減少し、1981年以降で最も低い1試合当たり4.07点にまで下がった。メジャーリーグ全体の打率も2006年の2割6分9厘から下がり続けていて、2014年は2割5分1厘だった。しかも、メジャーリーグの約4分の1のチームが積極的に守備シフトを採用しているだけで、これだけの結果が出ているのだ。
170-171ページ。
近年のメジャーの投高打低傾向は、単に投手の能力のためではなくこれが一因だったわけだ。なお本書によると、パイレーツは守備シフトを有効に機能させるために相手打者にゴロを打たせるにはどうすればいいか研究した結果、投手陣にツーシームを多投させるようになった。
また、「守備シフトを敷くと相手打者は空いた場所を狙って打つんじゃないのか?」という当然の疑問も、やってみたら杞憂だった。打者とは、シフトを無視していつも通りに強振する生き物だったのである。
近年のトミー・ジョン手術激増の原因について。
負傷の増加の一因として、1つの競技に特化する風潮の中で育ち、酷使されてきた投手の第一世代がメジャーリーグで投げるようになったことがあげられる。今の投手は子供の頃から年間を通じて投げ続け、十代の頃にはプロや大学のスカウトが見守る中で無理をする傾向がある。これはアメリカスポーツ医学機構がトミー・ジョン手術の爆発的な増加を検証した2013年の報告書の中で示された仮説だ。
もう一つの要因は球速だろう。PITCHf/xによると、投球データの測定を開始した2007年以降、メジャーリーグの速球の平均球速は上昇の一途をたどっている。それによって増大する一方の負荷に、体が耐えられないということなのではないだろうか。
(中略)
一世代前と比べると、投手は背が高くなり、体格も向上した。だが、筋肉を鍛えることはできるものの、腱や靱帯を鍛えることはできない。長さ約2センチ、幅約1センチの内側側副靱帯は、繊維の束でできており、ロープのようにほつれる。靱帯は1球投げただけで断裂するわけではない。年月をかけて徐々に擦り減っていくと考えられている。靱帯にこれほどまでの負荷がかかっている時代は、これまでなかったはずだ。
181-182ページ。
2008年には速球の平均球速は145.44キロだった。これが2013年には147.2キロになり、2014年は147.36キロだという。
そして、野球分析の最先端。
2014年3月1日、ボストンのハインズ・コンベンションセンターで開催されたMITスローン・スポーツ分析会議において、メジャーリーグ・ベースボール・アドバンスト・メディア(MLBAM)のジョー・インゼリロがステージ上に姿を現した。
(中略)
2013年にシティ・フィールドで行われたブレーブス対メッツ戦でのあるプレイの映像を用いてプレゼンテーションを始めた。場面は2対1とブレーブスの1点リードで迎えた9回裏のメッツの攻撃。ブレーブスのリリーフエースのクレイグ・キンブレルは2人の打者から三振を奪った一方で、1人に死球を与え、1人を四球で歩かせた。同点の走者と勝ち越しの走者を置いた場面で、メッツのジャスティン・ターナーの打球は左中間に飛ぶ。打った瞬間、同点は確実、おそらくサヨナラ打になるだろうと思われた。ところが、本来のポジションはライトながらその時はセンターを守っていたブレーブスのジェイソン・ヘイワードが、打球をダイビングキャッチしてスリーアウトとなり、ブレーブスの勝ちを守った。素晴らしいプレイだったが、画面上のヘイワードとターナーに添えられた情報はプレイそのものよりも信じられないものだった。
画面上に表示された情報は、その時のヘイワードのリアルタイムのデータだ。打球を追うヘイワードは毎秒4.6メートルずつ加速して時速29.8キロのトップスピードに達した。スタートしたのは打球の落下地点から24.6メートル離れた場所で、25.4メートルを走って打球をキャッチした。打球を追ったルートの効率は97パーセントで、ほとんど無駄のないルートを走ってボールをキャッチしたことになる。ヘイワードは打球への反応でも俊敏さを示し、一歩目を踏み出したのはバットがボールに当たってからわずか0.2秒後だった。しかも、数値を記録されていたのはヘイワードだけではない-あらゆるものの動きが追跡されていた。打球がターナーのバットを離れたときの速度は時速141.3キロ、上昇角度は24.1度、飛距離は95.7メートル、滞空時間は4秒。
(中略)
レーダーをベースにしたトラックマンを使用してボールとその動きを追いながら、スタットキャストはステレオスコープによる3D機能を有するChyronHego社の2台の双眼カメラを使ってグラウンド上の全選手も追う。カメラは全選手の動きを録画し、それをトラックマンのドップラーレーダーからの数値と同期させる。選手とボールの動きはシステムのソフトウェアによって意味のあるデータへと変換される。
262-264ページ。
これも面白い。いわゆるホームチームの有利について。
地元のチームの方が有利になるもっとも大きな理由は、一般的に考えられているものとは異なる。球場の広さでも、移動による疲労でも、馴染みのある環境でもない。審判の判定に及ぼす影響だ。シカゴ大学の行動経済学者トビアス・モスコウィッツと『スポーツ・イラストレイテッド』誌のライターのL.ジョン.ワーサイムは、共著Scorecasting(『オタクの行動経済学者、スポーツの裏側を読み解く』、ダイヤモンド社)の中で、ホームのチームが有利になる理由はストライクかボールかきわどいコースの球で有利な判定をもらっているからで、それは主審が意識的にあるいは無意識のうちに、周囲の雰囲気に影響されているからだと結論づけている。モスコウィッツとワーサイムは、投球のコースを追跡するコンピューターシステムPITCHf/xとQuesTecが測定した何百万もの投球の検証から、この結論を導き出した。
「野球の世界において、ホームのチームとビジターのチームとの間の最も顕著な違いは、ホームのチームはビジターのチームと比べて打席当たりの三振の数が少なく、四球の数が多い-はるかに多いということだ」モスコウィッツは書いている。
モスコウィッツはまた、観客の人数が多いほど、歓声が大きいほど、審判の判定が-意識してのことなのか無意識のことなのか-揺れる傾向にあるという。
301-302ページ。
新戦術には、新戦術で対抗する。
投手がツーシーム・ファストボールを多投するようになると、あるチームが対抗策を講じた。オークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンは、フライ性の打球が多い打者を揃え始めたのだ。2013年のアスレチックスの打者は、打球のうちのフライの割合が60パーセントを記録している。メジャーリーグで次にフライの割合が高かったチームの数字は、全打球の39パーセントにすぎない。
334ページ。
元祖マネーボールの面目躍如。マネーボールとは、貧乏チームが勝利するための手段であり、そのためにはあらゆる常識やセオリーを疑う。送りバントの是非などどうでもいいことである。
保守的な選手やファンや評論家は、ベースにくっついて守る伝統的な守備位置にこだわりを見せる。
だが、100年後の野球ファンはきっと、「知ってるか?100年前の野球では、守備位置はベースに拘束されてたんだぜ」と言うに違いない。
本書は、こんな文章で締めくくられる。
野球は常に進化している。打者と投手の間で、対戦する監督同士の間で、さらには対戦する分析官同士の間で、絶え間ないいたちごっこが続いている。このパンチとカウンターパンチの応酬に終着点はない。これは終わりのない戦いなのだ。
335ページ。
MLBはここまで来た。NPBはどうする。
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