加藤幹郎著、中公新書、2006年。
映画黎明期から今日までの映画の上映形態をたどり、映画の見方が本来極めて多様だったことを明らかにした本。
前史としてのパノラマ館に始まり、キネトスコープ、ヴォードヴィル、ニッケルオデオン、ピクチャー・パレス、ドライブイン・シアター、そしてシネマコンプレックス、アイマックスへと至る、映画史ならぬ映画館史を、アメリカを中心に俯瞰できる労作。
通常、映画の定義とは、「スクリーンに拡大投影された動画像を不特定多数の人間が同一の場所で視覚的に共有するというもの」である。
著者はこの定義を、リュミエール兄弟による映画の発明と興業を中心とした映画館史に偏りすぎたものとして否定する。
そもそも映画館とは何か?
映画を上映する場所であり、不特定多数の観客が参集して鑑賞する、というのが通常の定義であろう。ところが、
映画史最初期において映画は映画館で見るものではなかった。映画を見ることが映画館へ行くことを意味するようになるのは、後述するように遅くとも一九〇五年ころまで待たなければならない。それまでの一〇年近く、映画はもっぱらヴォードヴィル劇場などで他の演し物(ライヴ・パフォーマンス)とともに添え物的に上映される存在にすぎなかった。通常ニッケル(五セント硬貨)一枚で映画が見られるニッケルオディオンと呼ばれる常設映画館がアメリカで流行しはじめる一九〇五年ころまで、映画は今日言うところの映画館とはほぼ無縁の存在であった。
ではそれ以前、1894~1903年ころの前映画館期にはどうしていたかというと、
キネトスコープと呼ばれる、映画館とはいっさい無縁の箱形映画装置がデパートやドラッグストアやホテルやパーラーなどに設置されていた。これは実質的に映画を見る世界最初の装置のひとつだった。この箱形映画装置が映画館(の暗闇)を必要としなかったのは、それが観客がひとりで木箱のなかを(成年男子ならかかえこむようにして)覗きこむ非投影式の映画装置だったからである。(46-47ページ)
『続・エマニエル夫人』でシルビア・クリステルが見てた奴だ。
私は、映画はなるべく映画館で観る主義だが、それは単になるべく良い環境、優れた画質・音質で観たいからであって、不特定多数の観客と体験を共有したいという欲求は全くない。
むしろ、他人の感想を聞きたくないので、上映後は館外に出るまで耳栓するくらいである。
先の映画の定義から、長い間、私は映画の観客としてふさわしくないのではないかという恐れを内心抱いていたのだが、本書を読んでそんな心配は全然必要ないということがよく解った。
その後、ニッケルオデオン期を経て1920年代には、アメリカ経済の躍進とともに豪華絢爛なピクチュア・パレス(映画宮殿)の時代に入る。
世界中の多くのピクチュア・パレスが往時エキゾティシズムを強調した。映画を見ることが日常生活からの一時的逃避であるとすれば、映画を見せる場所(映画館)もまた顧客の逃避願望を満足させるために、徹底して無責任なエキゾティシズムを用意しなければならなかった。
(112ページ)
アカデミー賞の授与式会場が何で「チャイニーズ・シアター」なのか初めて知った。
1950年代に入ると、自動車の普及と戦後のベビーブームとが相まって、ドライブイン・シアターが登場する。
ベビーシッターを雇う余裕のない若い夫婦でも、車の中にいることで赤ん坊の泣き声を周囲にはばかることなく娯楽に興じることができるからだ。
とりわけなるほど、と思ったのが、ドライブイン・シアターは公共空間の中に私的空間を持ち出すものであり、テレビ時代への過渡的現象だったという指摘。
ドライヴ・イン・シアターは公的空間を部分的に私物化し、映画館をいわば自家用化する、テレヴィ期にいたる過渡的存在として人気を博した屋外映画館である。それゆえそれはテレヴィ産業の普及拡大とともに衰退の途をたどるしかなかった。(139ページ)
私がドライブイン・シアターと聞いて思い出すのは、ジョン・トラボルタとオリビア・ニュートン・ジョン共演のミュージカル映画『グリース』('78)である。小学生のころ家にテレビ放送を録画したビデオがあって、繰り返し観た。
作中ドライブイン・シアターで、トラボルタがオリビアを押し倒そうとしてフラれ、傷心で歌うシーンがある。そのシーンのバックで写っているアニメにご注目。ホットドッグのパンが、ソーセージをくわえ込む!



この後の展開を暗示しているわけだけれど、イミシン・・・いや露骨すぎるわ。なお、このシーンでオリビアが力任せに閉めた車のドアで、ある部分をぶつけたトラボルタが悶絶するのだが、当時はなぜあれが痛いのかわからなかったのであった。
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