「それでも」。
それが、『ガンダムUC』作品中で何度となく繰り返されるキーワードである。
世界の残酷さに絶望しても。
理不尽な悪意にさらされても。
悲しい記憶に押しつぶされそうになっても。
それでも、「なぜ」と問い続ける。
先人から託された想いを胸に、前へ進み続ける。
世界中でたった一人でも、NOならNOと言い続ける。
それだけが、世界をもっとよくする唯一の方法だから。
もはや正気の沙汰とも思えないモビルスーツ戦の凄まじさだけでもお腹いっぱいだが、正直言うと不満はないでもない。
私は原作未読だが、福井晴敏作品なので何となく想像のつく「ラプラスの箱」の正体とか(『Twelve Y.O.』とほぼ同じネタである)。
盛りだくさんな割に意外と平板なストーリー進行とか。これには理由がある。実はバナージのドラマは、とっくに終わってしまっているからだ。バナージがユニコーンガンダムに乗り事態に関わったのは、「オードリーに頼られたい」という動機だった。だから、episode5でオードリーに「頼みます」と言われたとき、願いは成就してしまっている。代わりに、この最終話でドラマ部分を担うことになったのがリディである。
マリーダにここまでの業を負わせてしまって本当に良いのか、という気もするのだが、これはまだ私自身気持ちの整理がついていないからかもしれない。
もう一つこの作品らしいのが、必ずしも因果応報という形で終わらないこと。どこか消化不良感が残るが、これはおそらく「人の善意を信じる」という作品のテーマに照らしてのことだろう。とりわけアルベルトの描き方に感心した。バナージの異母兄にして父殺しの罪を負ったキーパースンの一人。自我の肥大した小悪党として描くのは簡単だったと思うのだが、シリーズの進行に伴って陰影を加え、「愚かしくも決して憎みきれない人物」として描写することに成功した。これは、『ガンダムUC』という作品に奥行きを与えることに大いに貢献したと思う。
何にせよ、本作が成し遂げたことに比べれば小さな瑕疵である。
作中で、宇宙世紀の歴史として歴代ガンダムの戦いがインサートされるが、それらは初代『ガンダム』、『Zガンダム』、『ガンダムZZ』そして『逆襲のシャア』のものである。ニュータイプ論を切り離して自由になったスピンオフOVAや、全部リセットしたエセ続編とは志が違うのだ、という覚悟のほどが存分に伝わってきた。
『ガンダムUC』は新たにガンダムシリーズの正史を紡ぐという使命を見事に果たし、堂々の完結を迎えた。
それがすべてだ。
|