更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年7月24日(水)
『PSYCHO-PASS』と『ガルガンティア』

かたや極限まで行き着いた管理社会を舞台にしたSF刑事ドラマ。
こなた超未来の水没した地球を背景にしたロボットアニメ。
しかしこの両作は、虚淵玄作品として同じテーマを内包した双子のような作品である。平たく言えば、『PSYCHO-PASS』を超わかりやすく語り直したのが『ガルガンティア』だ。
この2作に共通するテーマとは、「非人間的な体制に組み込まれた個人はどうするべきか?」である。

以前も書いたとおり私は『PSYCHO-PASS』を高く評価しているのだが、その理由は「理念あるディストピア」を描くことに成功したからである。絶望的な未来社会を舞台とした作品は数多いが、そのほとんどは似たり寄ったり、退屈で凡庸なものになる。その主因は社会や人間への理解が浅いからだ。ディストピアが生まれるにはそれなりの理由があり、できあがった社会にはそれなりのメリットがあり、そこで暮らす人々にはそれなりの生活と幸福がある。
その視点を持たない未来社会描写は、薄っぺらく稚拙である。『PSYCHO-PASS』はこの点を見事にクリアしていた。

『PSYCHO-PASS』の主人公・常守朱は、社会を支えるシビュラシステムの欺瞞に気づいてしまう。誤った社会は正さなければならない。
もしこれが80年代以前の作品だったら、革命によって体制を打倒するという物語を語れたかもしれない。しかし時代はもはや21世紀。一個人の力で社会を変えられるなどという脳天気な幻想を紡ぐことはできなくなってしまった(中東のジャスミン革命はあのていたらくだ)。それに、シビュラが犯罪を抑止し、人々のストレスを軽減するという側面は決して否定しきれない。警察官たる朱はそれを知りすぎている。だから彼女は、シビュラの力に決して屈服しないと宣言しつつ、自らの手の及ぶ範囲で正義をなすことしかできない。

論理として大変正しい。しかしこれも既述のとおり、物語としてのカタルシスに欠けることも事実である。

では『ガルガンティア』はこれをどう解決したか。
『ガルガンティア』のレドは、人類銀河同盟に属する兵士だったが、戦闘中の事故で地球に漂着し、ガルガンティアで新しい生活を始めることになる。
レドの生まれた銀河同盟は、人工的に子どもを生産し、軍務に耐えられないとみなされた者は廃棄される。社会の存立目的はヒディアーズとの戦争であり、すべてが戦争を中心に回っている。グロテスクな社会、と呼んでいいだろう。
冷静に考えれば、戦争という莫大な消費行為を支えるには莫大な生産が必要であり、それら生産活動に従事する人材はどうするのだろう、とかいろいろ疑問が生じるが、まあそれはいい。さらに意地悪く言えば、銀河同盟の描写がほとんどない(レドの兄弟らしき少年を除いて)のはそうしたツッコミを避けるためでもあろう。

レドはガルガンティアに来たことでそのグロテスクさに気づくのだが、「わかりやすい」のはまずこの点である。
ガルガンティアは平和で豊かでおおらかな理想郷として描かれており、登場人物の誰一人としてその無謬性を疑わないのが、私には実に気持ちが悪い(ピニオンはどうなのか、と言われるかもしれないが、私には物語上の要請だけで、必要以上に軽薄で愚かな人物として描写されているように見える。こういうやり方は大変に苛立たしい)。

さて、レドが改心するだけでは物語としてインパクトが弱い。
そこで作者は、クーゲル中佐とストライカーを登場させ、銀河同盟の一部がガルガンティアを襲う、という展開を用意した。すなわちレドが捨ててきたディストピアが出張してきて、理想郷を犯すのである。
レドとチェインバーはそれを撃退する。つまり、プチ亡命してきたレドは、プチ革命を果たしてプチ平和を得る。しかし本来レドが対峙すべきは、銀河同盟の体制そのもののはずだ(作中で物理的に帰還が不可能とされているのは、この際問題ではない)。
レドが、このように極めてミニマルなかたちで問題を解決したことにしてしまう、これが私が感じる不満の第一。

第二は-まあこれは無い物ねだりだが-レドに漂泊者の哀しみが感じられないということ。
レドは、心ならずも故郷を捨てた者である。
20世紀前半に活躍したドイツの大女優マレーネ・ディートリッヒは、ナチスの支配を嫌って、1939年アメリカの市民権を取得した。以後ハリウッドを活動の舞台としつつ、第2次世界大戦中は連合軍の兵士の慰問活動に従事した。ディートリッヒ自身は祖国を想い続けたが、戦後ドイツを訪れた彼女に「裏切り者」の罵声を浴びせるものもあったという。人道的にも政治的にも正しい行為だったとは言え、祖国がもっとも苦しく悲惨な時代に平和な外国で暮らしていたという事実は変わらない。ディートリッヒ自身の心中も決して穏やかではなかったろう。1992年、パリで客死。後に遺体はベルリンへ移送され、遺言通り母の墓の横に葬られた。
2002年、ベルリン名誉市民となる。長く、数奇な旅路だった。

人はそんなに簡単に故郷を捨てられるものではない。レドにもまた、銀河同盟の体制が過酷なものであればあるほど、故郷への断ちがたい想いがあってもよいのではないか、と思うのだ。

理想郷など、この宇宙のどこにも存在しない。人間は、今自分の住むこの場所を少しでも理想に近づけていくしかないのだ。だから私は、『ガルガンティア』の明朗さよりも『PSYCHO-PASS』の苦さを、好ましく思う。


2013年7月10日(水)
『メリエスの素晴らしき映画魔術』('11)

WOWOWで鑑賞。
ありそうでなかった、「トリック映画の父」ことジョルジュ・メリエスの伝記映画。『月世界旅行』(1902)の着色版の発見・復元・公開に伴って上映された。何気なく('02)と表記して、これでは誤解を招くことに気づいた。そう、『月世界旅行』が創造されてすでに100年が経ったのだ。

着色版とは、カラーフィルム発明以前のカラー映画で、名の通り一コマ一コマに手作業で着色したという気の遠くなりそうなものである。今回発見された着色版は、スペインのコレクターが保管していた。保管状態の悪いフィルムは、いずれこうなる。



幸い『月世界旅行』は、変質していたのはフィルムの縁の部分だけだったという。
数ヶ月間水蒸気を当てて固着したフィルムをはがし、一コマ一コマデジカメで撮影し、10数年の歳月をかけてコンピュータ上で復元していった。

公開当時、『月世界旅行』は大ヒットしたが、メリエス本人の収入はさほどでもなかった。原因は、大量の海賊版と盗作である。プリントが盗まれて、アメリカでは大量の海賊版が流通し、メリエスには一銭も入らなかった。かのエジソンも、それで儲けた一人である。映画史のほとんど最初からこの問題はつきまとった。

極地探検や飛行機が現実のものとなり、映画が普及し洗練され、大衆の好みが変化していくにつれてメリエス作品は受けなくなり、やがてスタジオは倒産した。その際、メリエスは自作のネガ500本をすべて焼却処分してしまった(『ヒューゴの不思議な発明』では溶かしてハイヒールのかかとになった、としているが、これはメリエス自身が靴職人の息子だった史実からの創作ではないかと思われる)。現存するメリエス作品は、世界各地で保管されていたプリントから復元されたものであり、破棄を免れたごく一部である。

後半生のメリエスは、玩具店を開いていた。現在残っているメリエス映画のイメージボードは、実際の映画制作に使われたものではなく、晩年のメリエスが仕事の合間に往事を思い出して描いたものだという。メリエスの心中を思うと、涙なしには見られない。


2013年7月4日(木)
雑記

書きそびれていたこと、いろいろ。

『まおゆう』と『パーム』
『まおゆう』を観ていてなんだか釈然としない感じがずっとあったのだが、伸たまきのマンガ『パーム』シリーズと共通するということに突然気がついた。



『パーム』の舞台は1980年代だが、連作の第7作『愛でなく』は地球環境問題に言及している。現実の80年代には、地球温暖化やオゾン層破壊や熱帯雨林の減少などは、さほど問題視されていなかった。つまりですね、作者は90年代の知識を主人公に持たせることによって、「主人公サイドの80年代における先見性」を担保しているのだ。
これってなんか卑怯じゃない?
『まおゆう』は世界史レベルでこれをやってるわけでさ。まあその手法の是非はさておいても。高校生の世界史ならこんなんでいいかもしれないけど、学部生はマクニールとダイヤモンドくらい読まなきゃ。

  

それから、見せ場の一つであるメイド姉の大演説。
や、言ってることは大変に真っ当なのだが。それ、魔王の姿で言っちゃ駄目じゃん。
人間、人からどう見られているかは大事だ。と言うか、それこそがすべて。周囲から見えているのがその人の真の姿である。「村人に慕われ、不当に異端審問にかけられた楽士」の姿で何を言ったって、たとえその言説が正しかろうが説得的であろうが、それはメイド姉の言葉ではない。メイド姉として己の言葉を伝えたいなら、「元農奴で虫だった、今は人間になった」メイド姉の姿で言わなければ意味がないだろう。
原作ではどうなっているのか知らない(「二の腕がぷにぷに」あたりで読み続けられなくなった)が、これ映像化に伴う失敗ではないか?

ついでだが、評判のいい『はたらく魔王さま!』観逃した。魔王やら勇者やらが出てくるアニメもういいやと思って。
失敗だった。


○ 『絶園のテンペスト』完結
最後までたるみなく駆け抜けた至福の24話。
「死んでるのに全編出ずっぱり」という前代未聞のヒロイン愛河。

タイムスリップで過去に戻った葉風が愛河と出会う第二十幕。
愛河と葉風が並ぶと、「愛河の方が背が高い」というのが、意外というかちょっと意表を突かれた。2人の役回りと力関係から考えれば、確かに正しいのだけれど。

最終幕、エピローグの件。そういえば、全裸をお見せしているのは愛河ちゃんじゃなくて葉風さんの方だった。


○ 先日の数井浩子さんのワークショップに出席したとき、そういや印象的な横走りから始まるアニメが何かあったなあと思っていたのだが、やっと思い出した。『うろつき童子』の2話だ。
『うろつき童子』と言えばながらく「関東大震災アニメ」の最高峰だったのだが、その座は『風立ちぬ』に奪われた感がある。
その『風立ちぬ』のキャッチコピーを見ると、「もう十分生きただろう」と言い返したくなる。山寺宏一の声で。


○ 『惡の華』
最終回のサブタイトルは「覚醒!邪王真眼」でお願いします。
冗談はさておき。第二部へ思い切り引きつつも、春日君が本性に目覚める場面をラストに持ってきて収まりの良いところで終わったのでは。
ふと思ったが、松本大洋の『ZERO』によく似ている。なぜボクシングマンガが?と言えば、あれも「孤独な異能者が同類を見つける」はなしだから。
正確に言うと、「同類を見つけたと思ったらやっぱり違ってた」という話。だから『ZERO』の主人公は最後に、「哀れな人」と評される。
果たして『惡の華』はどうなるか。

ところで、あのキービジュアルは鬼太郎でなくルドン。
ということは想像していたのだが、知らなかったことが2点。
あの絵は、ルドン自身が『悪の華』の1890年版の挿絵として描いたもの、というのがひとつ。
そしてもうひとつは、今は日本にある。らしい。群馬県桐生市の大川美術館が所蔵している(本作が桐生を舞台にしているのはそのため?)らしいのだが、ネット検索だけではどうも確認が取れない。詳報求む。

作画の話もちょっとメモ。
ロトスコープなのに、目を見開いたりつばを呑んだりといった芝居づけがアニメの文法に則っていて面白い。
動きは生々しいのに、口パクが妙に合っていないのが不思議な効果を生んでいる。
犬の作画もロトスコープ?
自転車は作画で動かすのがもっとも難しいものだと聞いたことがあるけど、「人がまたがったまま」「向きを変える」って、気が狂いそうなほど難しいのでは。


○ 『ガルガンティア』
いろいろと瑕疵はあると思うんだけど、チェインバーの男気に泣けたから全部許す。
もう少し考えがまとまったら、『PSYCHO-PASS』と絡めて何か書くかも。



たまたまハードディスクに保存したままだったので、思わずやっちゃったよ。


○ 『BROTHERS CONFLICT』の監督が松本淳だった件について
なら観ないと。

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