更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年3月29日(金)
『グスコーブドリの伝記』再掲

以前、表題作を観たとき私はこんなことを書いた。

『私は、一ついやーな想像をしてしまった。
作中で、ブドリの妹ネリはコトリ(子盗り、だという)なる謎の男にさらわれる。ということになっているが、どう見てもこれは餓死のアナロジーだ。
コトリを追ったブドリは森の中で倒れ、てぐす工場のエピソードを経て家に戻ってくる。引っかかったのはここ。

まずブドリの目線で室内の様子が映る。テーブルの上に、ネリの使っていたスプーン。ネリが座っていた椅子には、ネリの大事にしていたぬいぐるみがある。こ のぬいぐるみは、妹の身代わりとして以後ずっとブドリが持ち歩くことになるのだが、続いて、カメラは俯瞰で室内を映す。すると、テーブルを挟んでネリの反 対側、ブドリの座っていた椅子にもぬいぐるみがあるのだ(私の記憶では、このときネリの椅子はカメラから切れている)。

これはどういうことか?
レイアウトのミスでないならば(劇場作品で、このスタッフでそんなことはないだろう)、その意味は一つしか考えられない。
イヤな想像とはこのことなのだが、この時点で、ブドリもすでに死んでいるのではないか?

作品中盤で、コトリはブドリを「境界を侵犯する者」として糾弾する。通常ならこれは「黄泉に踏み入って死んだネリを取り戻そうとする行為」を指していると 解釈できる。だが、もしもそうでないとしたら話は逆で、「死んだことに気づかずに生者の世界に干渉しようとしているブドリ」を責めている、ということにな る。
つまり、山を下りて以降のブドリの人生はすべて、死の間際に見た夢なのではないか。そう考えると、個々のエピソードの現実感のなさに納得がいくと思うのだ』。


DVDが出たので、改めて調べてみた。

まず、ネリがさらわれる直前の2人の位置関係。



てぐす工場から戻ってきたブドリの視点で、ネリの座っていた椅子が写る。卓上の食器とフォーク(スプーンじゃなかった)に注目。椅子の上には、ネリのぬいぐるみが。

 

ところが、ここでカメラが俯瞰になると、



テーブルの反対側、ブドリの椅子にもぬいぐるみがいる。解釈はそれぞれに任せる。


ついでに、作品の後半、クーボー博士の教室。



恐竜の骨格標本が、昔ながらの直立型の復元なのが大変よろしい。

2013年3月24日(日)
『PSYCHO-PASS』完結

この作品がこんなに面白くなると予想した人間はどれほどいたのだろうか。私は全く期待していなかった。『踊る大捜査線』の本広克之が総監督。押井ファンだというのは知っているが、アニメ監督は初。神山健治以外まともな演出家のいないIG制作。亀井幹太が希望の星だったが、『俺の彼女(以下略)』でつまづいてるし。脚本が虚淵玄。私はファーストコンタクトが『ブラスレイター』だったので、あまり信用していない。

ところがふたを開けてみれば、捜査と証拠を軸とした知的な推理ものとして、新米とベテランの衝突と成長を描く重厚な刑事ドラマとして、シビュラシステムに支配された世界のディストピアSFとして、近年まれにみる傑作となった。
私が常々思っていたことに、「なぜアニメで描かれるディストピアは、どれもこれも同じように陳腐で薄っぺらで退屈なのだろうか」という疑問がある。最近だと『No.6』とか『トワノクオン』とか(余談だが、雑魚の戦闘員がバイザーで顔を隠すデザインはもういい加減やめてほしい。こういうのが出てくるだけで観る気が失せる)。『PSYCHO-PASS』がこの退屈さを免れたのは、「理念あるディストピア」を描くことに成功したからである。いかなる社会にも、それが生まれるには相応の理由がありメリットがある。その社会なりの平和があり、幸福に生きる人がいる。だから、本編の主人公・常守朱はシビュラの正体に激しい怒りを覚えながらも否定しきれない。偶然だろうが、『新世界より』にも同じことが言える。同時期に、こうした歪ながらも必然性のある社会を描こうとした作品が現れたのは、アニメ界の成熟を示すものとも思えて喜ばしい。

だがそれゆえに、最終話は控えめに言ってカタルシスに欠けるものになってしまった。作品のテーマからしてもドラマの成り行きからしてもああなるしかないのだが、私は、もうひとひねりあって朱がシビュラを出し抜いてくれないか期待していた。だが当然のように、システムの中にいる者が体制を覆すことなどできず、世界は変わりばえせずに続いていく。ささやかな幸福と痛みとを抱えながら。

ところで最終話で、ある意味予定調和な咬噛と槙島との決着より衝撃的だったのが、あのサプライズ描写である。私もしばし呆然としていたのだが、少し考えて合点がいった。そしてぞっとした。合点がいったのは、あの世界においては当然、性的嗜好も犯罪係数の構成要素になることを示す描写だから。ぞっとしたのは、潜在犯ばかりの刑事課の中ですらそれを隠さなければならないから、である。改めて考えると、あの2人は作中一度も直接会話していない。ことさらにビッチな言動をしていたのもそれを隠すためだったわけだ。
同時に、作家・虚淵玄についても我々は誤解していたのかもしれない。最終話の弥生の台詞を思い出そう。本作の女たちは、みなしたたかに立ち回り生き残っていく(公安局長すら女性だ!)。妄執にとらわれ滅びていくのは男たちばかりだ。前作『まどマギ』は女性しか出てこない作品だったし、『Fate/Zero』でも、生き残ったのはもっともマチズモから遠いウェイバー君である。「銃と暴力のハードボイルド作家」という虚淵評価は、作中での女性の描写という観点から再考すべきなのではないか。

最後にスタッフについて述べておくと、増井壮一が絵コンテで多数参加しているのが嬉しかった。この人、私にとっては『スクラップド・プリンセス』(これも忘れられた名作である)の監督なのだが、近年監督作が少ない。何より、『キルミンずぅ』の監督があの衝撃の11話「聖者の晩餐」を担当しているのが驚き。「キッズアニメを作っていた人がハードな描写をしたがる」件については、最近追いかけている金澤勝眞に絡めて項を改める。
もう一人、監督の塩谷直義。『劇場版 BLOOD-C The Last Dark』のときはハードなシーンと軽い場面とのミスマッチが目立ったが、本来『PSYCHO-PASS』のような作風が向いていたのだろう。シリアスよりコメディ描写の方が難しいことをさっ引いても、水を得た魚のような仕事ぶりだった。

2013年3月11日(月)
『宇宙戦艦ヤマト2199』第四章

社会復帰しました。

本業が大詰めで忙しかったのだが、それ以前に年明け早々パソコンがクラッシュしまして。修理に丸々2ヶ月かかった。今度買うときは絶対国産機にする。結局、工場出荷時まで初期化して戻ってきたので、環境を元に戻すのが大変。ゲームのセーブデータが飛ぶのはかなり心が折れるということを初めて知った。
ついでに、なければないで大して困らんということも実感した。閲覧だけなら職場のパソコンでもできるし。

とはいえ、ようやく修羅場を脱したのでぼちぼちと再開いたします。
で、手始めに『宇宙戦艦ヤマト2199』第四章を観た。残念ながら劇場には行けなかった(さすがにその度胸はない)のでBlu-rayで。
いよいよドメル登場で盛り上がってきたところだが、なかでも第12話「その果てにあるもの」が素晴らしい出来だった。ここでわざわざアクションのないエピソードをプッシュするあたりが我ながら小賢しいと思うが、良いものは良いのだからしょうがない。

このエピソードは、地球とガミラスの開戦の真相が明らかになったことでいさかいを起こした古代と島が仲直りするまで、の小編である。会議中に衝突した古代と島は、沖田に一喝され、罰として艦内の清掃を命じられる。ユーモラスな描写(清掃が終わると、そこの責任者に確認印をもらうのだが、ラジオ体操の出席簿みたいなデザインで妙におかしい)だが、この仕掛けのおかげで古代と島が艦内のいろんな場所を訪れ、いろんな人と話をするという段取りをごく自然に描写できている。そこで唯一、自分から古代に会いに来るのが雪、という隠し味も。
冷静に価値観を相対化できる古代と、思い込みが激しく激情家の島というそれぞれに意外な一面を見せつつ、ヤマト側とガミラス側、多くの人間の思惑が交錯して次々に結節が生まれていく様子は、群像劇のお手本のような見事さ。メルダのエピソードを必要以上に引っ張らないのも上品。ドメルと妻のエピソードも見応えがある。たったあれだけのやりとりで、ドメルの人となり、家庭の事情、妻との距離感まで過不足なく表現しきってしまう演出の辣腕ぶり。
ドラマの起伏とは、絵面の派手さとは何ら関係ないのだ。

スタッフは誰かと思ったら、脚本:出渕裕、絵コンテ:片山一良、演出:うえだしげる。絵コンテの片山一良に納得。何度でも言うが、私この人の『いばらの王』が大好きなのよ。出渕氏がこんな脚本を書くようになった、というのも感慨深い。
このシリーズ、先へ進むにつれてどんどんハードルが上がっていく。だってガミラス側の事情をここまで描き込んでしまったら、旧作みたいに「火山帯に波動砲ブチ込んだらうっかり星ごと滅ぼしちゃいました」てな展開にできないだろう。この先どうする気なのか、楽しみ半分不安が半分。ぜいたくな悩みではあるが。

バックナンバー