更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年9月29日(土)
『氷菓』完結

私は、本作の放送開始直後に、たぶん最終話は「遠まわりする雛」になると予想したことがある。予想が当たったのも嬉しいが、京アニらしいよく考えられたシリーズ構成で、良い最終回だった。

第1話を観たとき、Bパートにこのエピソードを持ってきてしまって、この先どうするんだろうと思った。これでは『クドリャフカの順番』ができないのではないか?と思ったのだ。
私は以前、『クドリャフカ』の原作について少々批判的な感想を述べたことがある。しかし不思議と、このシリーズ構成で毎週1話観ていくと『クドリャフカ』のあの展開が腑に落ちた。
小説に比べて、『氷菓』→『愚者のエンドロール』と順番に並べて、定期的に観ることで、奉太郎の心理の動きが自然に映るようになったというのもある。
だがより大きい理由は、映像化に伴う変化、つまりはキャラ立ちだ。
藤津亮太氏の「帰ってきたアニメの門」を読んで、いろいろ勉強になった。

http://www.p-tina.net/animenomon/465

『クドリャフカ』の原作でも語り手を別々にするという工夫はなされているが、正直あまり効果が上がっているようには見えなかった。
しかしアニメ版では、発注ミスでしょんぼりする伊原、山積みになった同人誌(なんたる悪夢!)、千反田の奮闘、そして里志の内心の屈託を画にしていることで、圧倒的な説得力が生まれた。
特に里志の視点から、奉太郎の動向を客観的に見せているのが重要だ(ここは原作からの変更点)。


もちろん弊害もある。それが、最終話の茶髪の扱いである。
文章なら、端役は書き飛ばしてしまえば良い。ところが実際に絵になってしまうと、キャラは必然的にバックボーン-人格やら生い立ちやら価値観やら動機やらを要求する。真相の追求が物足りなく感じる向きがあるのは、このためであろう。

それはそれとして、このエピソードを解釈する上でのポイントは、「遠回りすることになった事件」が、ラストの奉太郎と千反田の会話を導いた直接の原因ではない、という点である。

千反田が生き雛祭に奉太郎を呼んだのは、「自分の属する世界を見せたい」というささやかな願いが理由だった(正規の傘持ちが来られなくなったのは偶然だが)。したがって事件があろうがあるまいが、あの会話はなされたはずなのである。事件は、あの会話の補強材料、彩りを添えるものに過ぎない。神事で旧隣村に立ち入るのは気まずいということを知らなかったのは奉太郎であって、千反田にとっては常識だったことを想起しよう。
そもそも本編は、事件の謎解きにわずか数分しか配分していないし、真相がどうだったかを追求してもいない。作者の関心は、そこにはないのだ。
それに、「満開の桜の下を歩む雛」という画は、小細工を弄してでも見たいと思わせるだけの力があった。それ以上の説明は蛇足というものだ。

なお、ラストシーンの会話は、原作では謎解きをした縁側でそのまま行われている。これが2人きりの帰り道での会話に変更されたことで、情趣あふれる名場面になった。



京アニ関連でもうひとつ。スカパー!で『CLANNAD』番外編の渚編・智代編を連続して放映していた。演出担当がそれぞれ山田尚子・高雄統子である。
ゆるゆるぐだぐだの山田と、緊迫劇的の高雄、とキャラとルートに沿ったキャスティングだった。
持ち味の問題だからどちらが偉いということもないが、私の好みで言えば断然高雄の方だ。

その後『けいおん!』から『日常』へと向かう京アニで、高雄の出番がなくなるのも分かる気がする。その高雄が京アニを出て作った『アイマス』は、むしろ山田が手がけた方がいいようなゆるゆるぐだぐだスカスカな作品だった。高雄は今、何を思っているのだろう。
高雄が『氷菓』に参加していたらどうだったろう、と思わずにいられない。

・・・・・・と思ってたら、劇場『聖☆おにいさん』の監督だと!?

あんまり向いていないような気がするんだが。むしろ積極的に苦手なジャンルに挑戦しているんだろうか。

2012年9月26日(水)
北米版『シムーン』


先日、某所で北米版『シムーン』の話題が出ていたので米amazonで見てみたのだが。

http://www.amazon.com/Simoun-Endless-Collection-Michi-Niino/dp/B007RVUDS4/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1348497498&sr=8-1&keywords=simoun

へー、『シムーン』てPG-13なんだ。

他にはどんな作品がレーティングされるんだろうと思って、ちょっと調べてみたら、
『ストライク・ウィッチーズ』はパンツじゃないのでUnrated*(以下UR)。
http://www.amazon.com/Strike-Witches-Complete-Season-Blu-ray/dp/B007V9EAA4/ref=pd_cp_mov_2

『フリージング』もUR。
地上波の限界を突破しまくった『ヨスガノソラ』は?と思ったが残念ながら未発売。

引っかかってるのは、
『ストロベリー・パニック』。
http://www.amazon.com/Strawberry-Panic-The-Complete-Series/dp/B007RVUDOI/ref=pd_cp_mov_0

『青い花』。
http://www.amazon.com/Flowers-Episodes-Japanese-English-Subtitles/dp/B003053X5G/ref=sr_1_2?s=movies-tv&ie=UTF8&qid=1348497788&sr=1-2&keywords=aoi+hana

『神無月の巫女』はPG。
http://www.amazon.com/Kannazuki-No-Miko-Box-Set/dp/B000QJMCRE/ref=sr_1_1?s=movies-tv&ie=UTF8&qid=1348497988&sr=1-1&keywords=kannaduki+no+miko

これだけ並べると傾向が分かる。
面白いことに、2007年に発売された『シムーン』の単品DVDはUR。
http://www.amazon.com/Simoun-Vol-1-Choir-Pairs/dp/B000VAR0U2/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1348497498&sr=8-4&keywords=simoun

つまり、2009年頃から、直接的な同性愛(ぽい)描写のある作品についてはレーティングが厳しくなったらしい。

当然のように、BLはどうなのという疑問がわくが、『世界一初恋』『純情ロマンチカ』『咎狗の血』『間の楔』いずれもおとがめなし。
『間の楔』なんか結構ハードなことやってた気がするんだが。ていうか、秋山勝仁ってこんな仕事してたんだ。私の中では、永遠に「『ガルフォース』の監督」なんだけど。

特に結論なし。

なお、PGどころかR指定受けてるのがひとつあった。

これだ!

うん、まあ仕方ないかな。
つーかイラストがエグすぎる!何これ公式絵なの?

* 正確には、UnratedとNot ratedの2種類の表記がある。「審査を受けてパスした」と「そもそも審査を受けていない(審査は任意だが、パスしないと劇場公開はできない制度)」との違いかとも思ったのだが、調べてみてもよく分からなかった。

2012年9月25日(火)
『成長の限界』の答え合わせ

渡辺正『「地球温暖化」神話 終わりの始まり』(丸善出版、2012年)を読んだ。

本書の中で、未来予測は大概外れるという言葉が出てくる。
思いついたのが、かのローマクラブが著した『成長の限界』(ダイヤモンド社、1972年)。マルサスの人口論「人口は等比級数的に増えるが、食糧は等差級数的にしか増えない」を大前提として、人類の未来のためゼロ成長を唱えた本である。そこで予言された悲観的な未来がどのくらい当たったか、試しに調べてみた。

まず食料。
『成長の限界』では、世界の潜在的農業適地は開発済み・未開発合わせて32億ha(37頁)と考えられていた。
しかし『世界国際図会2011/12』(以下、現在のデータは本書から)によると、現在の農地面積は耕地 1,526,758(千ha)、牧場 3,356,940(千ha)で、計48億8370万ha。しかも未開発の土地がまだある。

1966年の肥料の消費量は5000万トン(14頁)だったのが、1億6183万トン(243頁)へ。


栄養状態は、『成長の限界』35ページに1970年の世界各地のタンパク質・カロリー摂取量が示されている。



国でなく地域単位で示されているので、比較できる地域だけ見てみる。
1970年のインドでは成人が1日に供給されるカロリーは2000キロカロリーに満たなかった。
2007年現在では、2352キロカロリー。同じくパキスタンでは約1900から2293へ。日本は約2200から2812へ。
ついでながら、図では1日のカロリー必要量を2800キロカロリーくらいとしているが、現在ではこれは多すぎと判断されよう。肉体労働をしない成人男性の1日のカロリー摂取量は2500がせいぜいである。
アフリカの一部には、コンゴ1605、ブルンジ1685、スーダン2282(いずれも2007)など、不足はまだある。だが、ローマクラブの予想した悲惨な未来では決してない。

地下資源としては、石油だけ見ておく。
『成長の限界』によると、
石油の現存埋蔵量 455×10の9乗バレル=723.45億キロリットル
可採年数 31年 等比級数的に増加した場合20年(45頁)

実際には2010年の石油は、
埋蔵量 233.669×100万キロリットル=2336億69万キロリットル
可採年数 55年 (185頁)。

1972年から40年も使い続け、しかも使用量が激増しているのに、推定埋蔵量は3倍に、可採年数は30年も増えている!
これは一義的には、探査技術と掘削技術が進歩したからである。例えば昔は、地下の圧力によって自噴してくる石油しか採取できなかったが、その後ポンプで汲み上げるようになり、現在では産出量の落ちた油井に水を注入して無理やり押し出すという採取法もある。さらには、いちいち地上から掘らなくても、古い油井から横に掘り進めるという技術も確立した。
かつては手の出なかった海底油田も開発できるようになった。
食料と石油という、あくまで一部だけだが、『成長の限界』の予測はまったく当たらなかったと言って良い。


それでも石油はいずれ枯渇するはずと思うだろうが、実は、石油は化石燃料-微生物の死骸が変成したもの-ではなく、地球の内部で合成されて無尽蔵に湧き出してくるものではないか、という説がある。
これが結構信憑性のある説なのだ。
以下は、ロバート・アーリック『トンデモ科学の見破りかた』草思社、2004年から。
炭化水素は、分子式は同じでも鏡像関係にある右旋性のものと左旋性のものに分かれる。石油を生物起源とする有力な証拠のひとつは、石油に含まれる炭化水素には、右旋性の分子と左旋性の分子の数に差があるという点である。生物は右旋性の糖(デキストロース)などを摂取するが、左旋性の糖(レビストース)は摂取しない(山田正紀『最後の敵』でネタになっていたアレ)。
しかし近年の研究により、従来考えられていたよりも遙かに深い地下でも生物が存在していることが判明している。地下から湧き出してきた石油が、こうした生物層を通過する間に、生物の活動の痕跡を取り込んだと考えれば、矛盾はない。また、メタンやエタンなどの炭化水素は太陽系の他の天体からも発見される。
逆に生物起源説では説明しにくい点として、アーリックは、石油のある堆積層には化石が見られない、深部の石油には生物の痕跡がない、石油には地域による化学的特性がある、一度枯渇した油層が自然に満ちてくる場合がある、など15の論点を挙げている。

アーリックは以上の議論から、「石油は生物起源ではなく地球に最初から存在する」との説は「トンデモ度ゼロ」すなわち、そうであってもおかしくないと判定している。

2012年9月11日(火)
南極1号

息抜きの合間の仕事に-

いや仕事の合間の息抜きに、『南極1号伝説』を読んだ。

人呼んでオランダ人の奥さまの歴史・構造・メーカーの苦労、ユーザーの楽しみ、あらゆる面から真摯に調べ上げた労作。
何であれをオランダ妻というのか初めて知った。

17世紀に、当時の世界帝国だったオランダと新興海洋帝国イギリスは世界中で激しく争った。そのため、英語にはオランダ人をけなす表現が多数残っていて、「Dutch」は「けちな」「質が悪い」を意味する接頭語になっているのだそうな。
例えばオランダ人の演奏(dutch concert)は音程の外れた演奏、オランダ人の勘定(dutch account)は割り勘、オランダ人の行為(dutch act)は自殺、オランダ人の勇気(dutch courage)は酒に酔った勢い、といった具合。そういや日航機事件で有名になったdutch rollもそうか。イギリス人を敵に回すと恐いね。
ついでだが、dutch capはペッサリーのことだそうである。なるほど。
以下、印象的だったところをメモ書き。


業界の最古参オリエント工業社長の言。「少女タイプのラブドール」という新市場を開拓した「アリス」について。

『少女といっても、もちろん子供を性の対象にしているわけじゃありません。生身の人間で身長140cmといえば小学校高学年くらいですが、実際にその年令の服を着せてもサイズが合わない。というのも、スケールは小さいけどプロポーションのバランスは大人だから。つまり「アリス」はグラマーな女性のミニチュアなんです。生身の人間をそのままのスケールで再現するのでなく、現実にはないドールならではのバランス、そして愛らしさを追求してみたということですね』

『等身大ラブドールをシリコンで作ろうとすると、数十kgの原料が必要。これを量産するとトータルで大変な量になる。一度にこれほどたくさん使う業界もないので、相手(注:シリコンメーカーのこと)にとっても悪いビジネスじゃないんですね。
(中略)
いまでこそシリコンは、ホビー用の材料として東急ハンズでも売っています。趣味の人が買ってフィギュアや人形を自作したりするらしいですよ。これは要するにシリコンの原料メーカーが、ラブドールみたいにリアルな造形用の素材として提供するノウハウを蓄積したからでしょう。
(その後シリコンラブドールのメーカーが新規参入してきたが、)こうしたこともみんな、うちが最初にずいぶん投資してシリコンの調合などノウハウを確立していったからじゃないかと思ったりもしますよ(笑)』


2007年の商品に採用した、生身の女性を型取りして原型を起こすライフキャストという手法について。

『ただ型取りしてそのまま製品にしているわけではありません。リアルさが求められる反面、生々しいだけの人形は気持ち悪くて逆に敬遠されますから。そこで型取りした原型にまた手直しを加えて、ラブドールとして適度なリアリティを表現するようにしています』

おお、三次元不気味の谷!


オリエント工業に次ぐ老舗のハルミデザインズは、もともとウレタンの商社だった。ある事情でウレタンの大量在庫を抱えてしまい、何とか消化する方法はないかというので思いついたのがウレタン製ラブドールだったんだと。

『地盤沈下で家が傾いたりするでしょう。ウレタンはこれを元に戻すのにも使われています。家の土台が載っている地面にウレタンの原料を注入して化学反応を起こさせると、発泡して体積が大きくなる力で家がぐいぐい持ち上がるんですよ』


写実的な作風の新興メーカー4woods代表。

『これは人に言えない秘密の趣味だからこそ魅力があるのも事実なんです。1人きりでこっそり何かを楽しむ、一種の背徳感のようなものですね。その意味では性的なことに限らず、何かしら似たような秘密の趣味を持っている人は多いんじゃないでしょうか。
これをすっかりオープンにしてしまったら、楽しみも台なしだと思うんです。自分だけの希少価値、周囲から秘密にする背徳感、分かる人にだけ分かる喜び。それがあるから、一層ラブドールが魅力的に見えてくる。もし国家がお墨つきを与えて「さあみなさんやりなさい」なんてことになったら、楽しみも半減して興ざめしてしまうでしょう。
(中略)
いまのリアルなラブドールが現代の特殊な現象だとは思えないんです。昔から何らかの形で「男の秘密」のような趣味はあったわけですから。それがたまたま、現代の技術でこのような表現になっただけ。むしろ本質は、もともと男性が持っている本能のような気がします』


繊細な造形で定評のあるLEVEL-Dの代表は、フリーランスで広告やイベントの美術を担当していた裏方の造形師だった。

『現実の女性なら身長140cmは相当小さいわけですが、あくまで作っているのはドール。例えば米アビスクリエーションのリアルドールは160cmを超えるものもありますが、数字以上に大きく感じられる。つまり同じ身長の生身の女性とドールとでは、存在感が違うんですよ。
(中略)
例えば「綾苗」は、それまでと違って足をかなり長くデザインしました。また全体に細いんですが、部分的にはグラマラスにできている。実際には存在しないプロポーションなんですが、これもドールとしての魅力を追求した結果です。またディテールのリアリティも、抑えるべきところはあえて抑えるよう工夫してみました』

『ファイブスター物語』のファティマの造形を彷彿とさせますな。

創業20年のブルセラショップの先駆け、「アド新宿」店長(ラブドールのレンタルをしているので登場)。

『生き残った秘訣を聞かれたりしますが、別にそんなものはない。ただうちがずっと同じことをやっているうちに、いつの間にか同業者がわあっと増えて、それからまた減っていった。それだけです。相場もその間にずいぶん上がったり下がったりしましたが、うちはよそに値段を合わせたこともありません。
要するにうちは、客商売としてただ普通のことをやっているだけ。これがもし高級ブランド店だったとしてもやることは同じです。ブランド品でも古いパンツでも、お客様はお客様でしょう?古いパンツだからって買いにくるお客様を変態扱いしてバカにしていたら、誰も来なくなるのはあたり前ですよ。普通にちゃんと接客して、要望を聞いてそれに応える。さっき言ったブルマの材質やゴムの形みたいなことも、ブランド品のバッグの留め金がどうのという話と同じ。細かいリクエストにまできちんと対応できないと、リピーターはついてきてくれないですよね』


これが真のパイオニアの言葉というものか。不覚にもちょっと感動してしまった。



ところでもうだいぶ前だが、映画『空気人形』('09)を観た。
ダッチワイフに魂が宿って、という映画なのだが、何ともヘンな作品だった。
と言うのは、本書で書かれるように昨今まともなラブドールというものはシリコンやウレタン製であって、膨らませて使うのは本当にチープなものだけである。ところが本作は、メーカーやユーザーにちゃんと取材しているらしいのに(製造現場を映したり、車椅子で運ぶシーンがある)、ダッチワイフ=風船という固定観念から一歩も出ようとしないのね。
日本語には生き物(=息もの)という言葉があるから、「呼吸するようになった人形」というアイデアを生かしたかった気持ちは解らんでもないのだが、観念ばかりが先走って現実から乖離したら、誰の共感も得られないでしょうよ。
ペ・ドゥナのおっぱいが拝めるのだけが収穫。



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