更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年6月30日(土)
京都アニメーションの演出家育成方針

『氷菓』を観ていてふと思いついたこと。
以下の話は、あくまで私の推測に過ぎない。なんら京アニ自身の見解とは関係ないので、誤解のないように。

京アニのTV作品では、絵コンテ・演出を同じ人が手がけることが多いように感じたので、調べてみた

2012年6月26日(火)
『ベルフラワー』

町山氏のポッドキャストで前評判を聞いてたので、観に行った。
場内は秘宝系のボンクラでいっぱい。これがまた、メデューサ号のポスターを見て『デスレース2000』みたいにマッドカーがガッツンガッツンクラッシュしまくる映画だと思い込んでる奴ばっか。
酔っぱらってる(後述)せいもあってどうでもいいところで笑い出すし、鬱陶しいことこの上ない。

んで肝心の映画だが。
ガンと車と女。園田健一のマンガみたいな世界だった。
観ていて、ジョン・ウェインの『マクリントック』という西部劇を思い出した。東部エスタブリッシュメントと生意気な女への憎悪が横溢した、まことにもってジョン・ウェインらしい不愉快極まる映画である。ちなみにこの場合の生意気は、自分の意志があって意見を表明できる女というほどの意味。
女と見ればナンパするのが礼儀、侮辱されたと思ったら殴らなきゃタマなし。私はこんな文化圏に生まれなくて本当に良かった。

ところでパンフに真魚八重子女史が解説を寄せていて、この映画には主人公ウッドローとその火炎放射器仲間エイデンの、男同士の友情という魅力があると言っているのだが、私はもっと恐ろしい想像をしてしまった。
それは、エイデンは、本当に実在したのか?という疑問である。エイデンは実は、ウッドローのオルターエゴ、イマジナリーフレンドではないのか?
そう考えるといろいろつじつまが合いそうに思う。

ついでだが、本作の公開日は劇場でビール飲み放題というアホみたいなサービスをやってて、場内が安い居酒屋みたいな匂いになってた。おまけに酔っぱらいはひっきりなしにトイレに行くから落ち着かないし。
2度とこんな企画やらないで欲しい。

2012年6月25日(月)
エロ小ネタ集

まとまった文章にするほどでもない話題いくつか。

○ おっぱいの揺れを表現するのに、「乳首の軌跡を描く」という技法は、誰が発明したのだろう。私は初めて見たのは『ベルセルク』9巻(94年)だから、かれこれ18年の由緒正しい表現だ。

○ 精液と精子という用語は、ちゃんと区別して使った方がいいと思う。

○ 初めてのときは後背位の方が痛くないという迷信は誰が広めたのか。

○ 「いずれ読む本・観る作品のリスト」がもうかなりの長さになってしまっているが、なぜ『交淫天使 背徳のリセエンヌ』が入っているのかどうしても思い出せない。

○ エロ同人誌見てると、ほとんどが着衣エロ(特に男)なのだが。あれ野郎の裸なんか描きたくないという気分もあるだろうけど、裸にするとデッサン力がばれるという理由がほとんどだよね。

○ アニメにおけるテクスチャ貼り付けのもっとも先鋭的な使い方は、最近のエロアニメの陰毛表現だと思う。

○ NTRもののアニメは、妙に作画レベルが高い気がする。
少し真面目に考えてみるに、「嫌いなはずなのに感じちゃう」というアンビバレントをちゃんと表現しようとすると、作画芝居に頼らざるを得ない、という理由ではないかと。
それだけのやる気と技術があれば、の話だが。

2012年6月19日(火)
『BLOOD-C The Last Dark』

観てきた。
真っ先に出てくる感想が、サーラットのシーン全部いらん。しかもいらんシーンに限って無意味な作画芝居をさせるので、観ていてイライラする。ここをまるまるカットして三分の一くらいの時間に収めたら傑作だったかも知れない。

純愛ものという要素はみな言及しているので少し違った観点で。
面白かったのは、「血の呪縛」というモチーフ。人は(小夜は人じゃないから生き物は、というべきか)何かに生まれつくのか何かになるのか。TVシリーズ中、モノローグで繰り返し問われていたのがこの問いだ。「古きものを狩り、喰らう存在」として生まれついた小夜が、己の出自を忘れ、血の呪縛を逃れ、人として生きられるか。
文人は逃れられない方に、生き物は生まれついたそのものでしかいられない方に賭けた。その文人こそが、誰よりも「何かになりたかった存在」だったという哀しさ。
これこそが、本作の最大のどんでん返しである。

○ 冒頭の電車のアクション
倒した亜人にコートを掛けてやり、そこにヘリからの照明が、という描写まで含めて第1作へのオマージュ。
と思いきや、「よかれと思ってしたことが悲劇を招く」という真奈のエピソードと対応して、それが後々ちゃんと意味を持つあたりはうまい。

○ ハッカー描写
そろそろ「キーボードをえらい勢いで叩く」以外のハッキング描写を考えなきゃ、というのは最近各所で言われているが、足でも叩くというのは確かに初めて見た。ただ画期的というほどかどうか。
私が見聞したうちで面白いと思ったのは、伊藤伸平『ハイパー・ドール』のハッキングシーン。電脳空間にダイブして、というパターンではあるのだが、それを当事者視点ではなくて第三者目線で描いているのがポイント。パソコンの前で踊ってるようにしか見えないという。

○ 監督の塩谷直義は、『BLOOD+』第3期オープニングを手がけて注目された人だそうだ。言われてみれば、あああれかと思い当たる。が、残念ながらPV作りと映画監督とは別物なのであった。

○ ちょっと気になるのが、『東のエデン』『図書館戦争』と近年のIG作品に目立つ社会派指向。まさか「オトナムケ」アピールでもあるまいが。しかし、神山健治ほどの知性と技術を兼ね備えた作家はそうそういないわけで、本作も浅薄な時事ネタという以上のものではない。「塔」というのは「党」の音あわせだろうが。
ときに、優れたフィクションは予言の機能を果たしてしまうことがある。そういえば先日、最後のオウム指名手配犯がついに捕まった。奇しくも、『輪るピングドラム』完結から半年だ。
偶然にも細野不二彦『電波の城』もビビッドな題材を扱っているのだが、ようやくあの事件を総括できる時期が来た、ということかも知れない。

2012年6月12日(火)
『ガンダムUC』ep.5 2回目

BDが届いたのでもう一回観て、気がついたことをメモ。

○ 4話で、リディのデルタプラスがユニコーンのビームマグナムを奪って射撃するという描写があった。あれ、ガンダムの専用武装じゃないの?と思った(設定がどうこうではなくて、主人公メカ専用の特別な武器であるべきという意味)のだが、よく見ると過負荷でデルタの右腕が故障している(モニターに「MALFUNCTION」の表示が)。だから、最後にユニコーンにビームライフルを向けるときは左腕に構えているのだが、5話をもう一回観てみたら。
ラー・カイラムに収容された時点で、デルタの右腕が取り外されていた。

○ 注意して聞いていたら、セリフでちゃんと「父」と言ってる。

○ コクピット内でうなだれるバナージの左手首のあざは、4話でジンネマンと喧嘩したときのものか。これが、リディの左手のおまもりと対応している。

○ マーサが、マリーダにこと寄せて「女の復讐」と言っているのが、実際は自分のことを語っているのがよく解る。

○ 割れたシャンパングラスの破片で交渉決裂を表現するあたりが、脚色の妙。

○ そのシャンパングラスがアップになると、泡立つ音が。

○ ジンネマンがマリーダに娘の写真を見せるとき、マリーダが「両手で」写真を受け取るのがとても良い。

○ ガランシェールを見送るブライトを、副長のメランがちらりと横目で見る。相変わらず視線の芝居が巧み。

○ ラストでガランシェールが宇宙に出るとき、ユニコーンガンダムの腰にジオン系のマシンガンが。

○ ビスト財団の女性SPを演じている行成とあって、『ベルセルク』でキャスカ役に抜擢された人か!

○ オードリーをめぐって、バナージとリディという対立軸が鮮明になったエピソード。
旧秩序を守ろうとするリディに対し、わずかでも世界を変えたいと願うバナージ&オードリー。福井晴敏らしい、「少年と少女だけが世界を変えられる」という信念。それをラノベ的と言うなら、ラノベ的で大いに結構。エンタテイメント小説に、それ以上何を望むことがある?

2012年6月7日(木)
『虹色ほたる』その他

なんか久しぶりに最近のアニメの話。

○『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』
こういう作品を観るにつけ思うのだが、この田舎の風景にノスタルジーを覚える人って本当にいるのだろうか。
昭和47年生まれの私でも、実家の近くに裏山や小川くらいはあったが、あんな生活をしたことはない。実体験として懐かしめるのは、もはや当年75歳の私の母の世代だろう。この春法事で行ってきたが、母の実家は今もあんな感じだ。1日2日泊まるくらいなら我慢するが、私自身はあんなところで生活できるとは思えないししたくもない。
だから、田舎のお婆ちゃんちをとことんファンタジーなワンダーランドとして描いた本作のアプローチは正しい。
むしろ実感として懐かしいのは、冒頭のシーンでユウタがいじっている携帯電話である。折りたたみ型でも、もちろんスマホでもない、素朴な携帯電話。あれこそが実感あるノスタルジーだ。



そうそうこういう奴。
え、これですか?
これは私が今現在、現役で絶賛使用中のケータイである。えーと、確か2002年に入手したんだから、かれこれ10年ですか。
もちろんカメラなど付いていないし、ネットにもろくにつながらない。ホントなら携帯など持ちたくないくらいなのだが、急な呼び出しもあるので仕方なく使っている。しかし、電波帯域の変更に伴い、あと1ヶ月少々で使用不能になるそうだ。グッバイマイメモリー。

話を戻そう。以下箇条書きで。
作画のはなしはその筋の人に任せるが、この映画、小道具の使い方が妙にぞんざいだ。その携帯電話とか、髪留めとか。
携帯電話は父親の伝言が録音されたもので、それを持ち歩いているのは死者(過去)に囚われているということだから、作劇上手放すのは正解なのだが、落っことしてそれきりはないだろう。

その冒頭のシーン、主人公が転落するシーンで音楽も派手な効果音もないのが良い。逆にどきっとする。

基本的に引いたカメラなのだが、ケンゾーとの別れのシーンだけ突如どアップになるのが辛い。

一瞬も止まらずグニャグニャ動き続けるのが観ていて疲れる。
「動きと芝居を区別していない」という批判もあるようだが、私も同感。何かに似ていると思ったら、『消失』以降の京アニ作品だった。
キャラが崩れるか崩れないかの違いだけ。

前も言ったが、アニオタは一度『ラ・ジュテ』を観よう。


○ ところで、その京アニの『氷菓』はほとんど黙殺されているらしい。
私は原作既読ということもあって楽しく観ていた(原作ファンだからこそ怒っている向きもあるが、それは私の関知するところではない)が、先日の5話はさすがにどうかと思った。
改めて原作読んでみると、恐ろしく忠実な映像化-というか、ほとんど逐語訳のレベル
私が最近ごひいきの内海紘子絵コンテ・演出の7話は良かったです。


○ 『モーパイ』
19話まで観たけど、止めた。佐藤竜雄監督自身が脚本書いてた前半は面白かったのに。
私はこの作品、「女子高生が大人に混じって仕事する話」と思っていたし事実前半はそうだった。だから、クリハラ船長が茉莉香に対してですます調で話す、という演出が好きだった。同じプロとして認めているということだからだ。
それなのに。

後半の展開を例えて言うなら、「阪神の選手が全員食あたりで倒れたので、代わりにPL学園が巨人と試合してます」という話でしょ、これ。誰がそんなもんにカネ払うか。

たかだか女子高生に代行できちゃう宇宙海賊って一体何?
私ですら、おまえの仕事は高校生のバイトでもできると言われりゃカチンと来る。これは本気で言うが、この作品は全世界の職業人への侮辱だ。
私も給料取りの一人として、こんなものを認めることはできない。

なお、『ラグランジェ』は5話で止めた。主人公がバカだと、3話くらいしか持たんよ。
私の嫌いな作劇はたくさんあるが、「天真爛漫と無神経の区別がついていない」というのもその一つ。本作が典型だ。


○ 『宇宙兄弟』
最初は楽しく観てたんだが、選抜試験が進むにつれおかしくなってきた。
宇宙飛行士と言ったら大金かけて養成するんだから、身辺調査くらいやってて当たり前。前の職をどうして辞めたか、アル中でないか女房を殴っていないか、そりゃチェックするだろう。
そのくらいで驚くのがヘンだ-というのがまず一つ。

しかしもっと問題なのは、選考委員が自分の考えで六太一人を調べている、という点。自分でもとの職場に電話かけてるという描写だから目立たないけれど、自腹で探偵を雇って六太一人だけ調べさせた、という描写だったら誰でもおかしいと思うはず。

おかしいのは、六太一人だけに対して、異なる評価基準-前職をなぜやめたか-を適用している、ということだ。調べるなら全候補者を一律調べなければいけないし、調べないなら誰に対しても、問題にしてはいけない。それが公正な選考というものだろう。
ついでに言えば、六太を追加調査する選考委員が、少年時代の六太たちを知っているというのがもっと問題。過去に接点があったら、お世辞にも公平じゃないだろう。平たく言えば身びいきだ。
これを無自覚に、いい話みたいに描いてるのはどうなんだろう。

おまけに、また閉鎖環境試験か。(たぶん)実際にやってる試験で、しかもドラマが作りやすいと目されてるんだろうが、『プラネテス』でも『ふたつのスピカ』でもうまくいってる例を見たことがない。もう見飽きたわ。


○ 『ヨルムンガンド』と『さんかれあ』
私の脳内で同じフォルダに分類されているのがこの2作。
取り扱う題材の重さとやってることの軽さがまるで釣り合っていないという点で。

先日『マシンガン・プリーチャー』という映画を観た。紛争地帯でボランティアをするうち、武装組織に誘拐された子どもたちを救うため自身が武装集団を組織してしまった牧師の話。キモは、主人公を善意の人でありながら孤児を救うために家財を売り払い、自分の家族を顧みない狂人すれすれの人物として描いていることだ。
胸が悪くなるので詳述はしないが、児童兵士というのは、今現在各地の紛争地帯で深刻な問題になっている。そんな重いモチーフを、この死ぬほど平和な国のたかがオタ向け深夜アニメが、軽々しく題材にしていいと思えない。『虐殺器官』にも少年兵が登場するが、あれだけの思索と覚悟があるか?
同じことが『さんかれあ』にも言える。これは何とも不思議な作品だ。ときどき、はっとするほど見事な画面づくりがあるのだが、全体としてはぐだぐだという。
死体が生者に想い出を残して土に還るという、あるべき最終回にたどり着ければ傑作になるかも知れないが、掲載誌とここまでのノリからして絶対にあり得なさそうだ。
ただあの不吉なオープニング-最後に2人で墓穴に入る-が気になるところではある。
変態親父役の石塚運昇が実に楽しそうで微笑ましい。


○ うーにゃー
これ面白いか?例えば『男子高校生の日常』なんかと比べて、あまりのテンポの悪さにイライラしてたんだが、ある日気がついた。
これ、ニコ動にコメント書き込むための間なのな。
あほらし。オレには必要ない作品。


○ 『アクセル・ワールド』
快調に飛ばしている『アクセル・ワールド』。
黒雪先輩良いですなあ。
ハルユキと『さすがの猿飛』の肉丸をなぞらえる向きがある。すると黒雪先輩は魔子ちゃんに当たるが、両者には決定的な違いがある。肉丸君は最初から完成されたヒーローであり、成長するということはない。肉丸と魔子のなれそめが語られるエピソードがあるが、魔子と肉丸は冬の涸れ井戸に落ち、そこで献身的に魔子を守ろうとする肉丸の姿を見て魔子は初めて肉丸の実像に気づく。

逆に、先輩がハルユキ君に惚れてしまうのは、彼の隠れた才能を見抜いたのがきっかけだ。ハルユキには人知れず努力を重ねる意志の強さ、力に溺れぬ自制心、友を思う優しさといった、ハルユキ自身すら気づいていなかった気高さがある。
外見に惑わされずそれに気づいた黒雪先輩は、その「男の趣味の良さ」で結果的に自分のステータスをさらに上げてしまっている。


○ 『ガンダムUC ep 5』
一昨年の同人誌原稿で、一つ書き忘れたことがある。2話でバナージがユニコーンガンダムに乗って出撃するシーン。主人公ではあっても子どものバナージは、アナハイム社のアルベルトの手を借りなければ行動できない、という点を指摘したのだが、よく考えたらこのアルベルトって、父の仇ではないか!
これを言えばもっと深みのある原稿になったのになあ、と思いつつ原作未読のままこれまで観てきたのだが、このep 5で驚愕。
なに、バナージとアルベルトってそういう関係だったの!?

改めて、つくづく福井晴敏って「父と息子の関係」に囚われた作家だなあ。血縁を一切信用しない富野監督の作品にかかわっているのが不思議だ。
ふと思いついたが、何を作っても父子の物語にしてしまう今川泰宏監督と案外、相性がいいかも知れない。

2012年6月4日(月)
『「食糧危機」をあおってはいけない』





山形
浩生が絶賛していると言うので読んでみる気になったのだが、amazonにちょっと変わったレビューがあった。以下引用。

明らかな事実誤認にもかかわらず、「歴史を調べると」と、さも大量の資料に当たったかのように書いてある一節があり、果たして他のデータも十分に信じられるのか、不安に思いました。

事実誤認というのは、「不利な農地が要らなくなった」のまるまる一節です。
「日本で段々畑が広がっていったのは主に江戸時代の初期だと考えられています。」
これ、史実と全く逆です。
平野部での栽培は江戸時代からで、それ以前は平野部は農地としては見向きもされず、専ら耕されていたのは棚田(段々畑)ばかりだったのです。
なぜなら、平野部は耕作不適地だったからです。

江戸時代に入ってからでも長らく、平野部は沼地でした。
それもそのはず、地形的に平らなのですから、雨でも降れば水浸しで、コメを植えてもすべて流されてしまいます。
いつも湿度が高いですから、疫病も発生しやすく、平野部は人の住むところでなかったわけです。
このため、江戸時代までは中山間地に住み、棚田(段々畑)を耕して暮らしていました。

江戸時代に入ってから、灌漑施設と排水設備を作る技術が発達し、平野部を水田に変えることができるようになりました。
「耕作不適地」である平野部で耕作できるようになったのは、この頃からです。
大阪には鴻池新田など、新しく田んぼにした地名が残っていますが、このことからも大阪平野の広大な土地は、江戸時代からようやく水田に変えることができるようになったことを示しています。
 #歴史の名高い楠木正成は農民の水利権を決済する頭領でしたが、住んでいた場所は今から見れば中山間地です。楠木軍が敵を撃退した有名な場面が山間地であったのは、このためです。当時はまだ、大阪平野は広大な沼地でした。

平野の方が農地として優れ、中山間地の方が不利な農地であると考えるのは現代人的発想で、江戸時代までは中山間地の方がよほど耕作地に適した土地であったわけです。
筆者は憶測でこの一節を書いたのではないでしょうか。

こうした史実を知っている人間から見ると、112ページの、
「段々畑の歴史を調べると、段々畑を作るほかない山地に行ったのは、他の地に行き場のない人たちだったことが分かります。
 典型的なのが平家の落ち武者です。」
という文章を読むと、ずっこけてしまいます。
もしこれが本当なら、江戸時代以前の日本人はすべて平家の落ち武者です。

「段々畑は日本ではだいたい三、四〇〇年の歴史があるのですが」というのも、全く間違い。
「平野での田畑はだいたい三、四百年の歴史があるのですが」が正解。
筆者はどこかで全く逆の思い間違いをしてしまったようです。



これを念頭に置いて少し批判的に読んでみたのだが。
棚田の話が出てくる部分をまるまる引用する。

 近年、中山間地といわれる、傾斜地にある水田や畑が放棄されているのもそのため(平野部の生産量が増大したから)です。「中山間地での耕作放棄は、地方の疲弊と農業の衰退を示している」といった話が聞かれますが、条件の良い平地で日本人全員が食べるのに十分なお米が穫れるようになって、あえて山間部で苦労の多い作業をこなしてお米を作る必要がなくなってしまった結果なのです。
 地域振興の視点からは大きな問題だと私も思いますが、食料経済という観点から見れば、手間がかかる割に生産の上がらない高コスト地域から順に耕作が放棄されていくのは、自然な現象なのです。
 日本で段々畑が広がっていったのは主に江戸時代の初期だと考えられています。
 現在、日本の水田では一ヘクタール当たり六トンの米が生産されていますが、当時は一ヘクタール当たり一トン強と、面積当たりの収穫量がはるかに少なかったため、山間の傾斜地のように本来なら条件の悪い場所、農業の用語でいう「条件不利地」でも開墾せざるを得なかったのです。
 段々畑の歴史を調べると、段々畑をつくる他ない山地に行ったのは、他の地に行き場のない人たちだったことがわかります。
 典型的なのが平家の落ち武者です。
 社会的強者やもとからそこで耕していた人たちは平地でも一番条件の良いところを占めていて、反対に平地にいる場所がなくなってしまった社会的弱者というべき人たちは、山に逃れ、その斜面を切り拓いて生きていかざるを得なかったのです。そのようにつくられていったのが棚田であり、段々畑でした。
 段々畑は日本では大体三、四〇〇年の歴史があるのですが、戦前までそれが残っていたのは、日本の人口が明治以降急速に増え続け、一方で単収はさほど上がらなかったため、国内の農産物、特に主食である米が不足していたからです。
 しかし現在のように化学肥料が普及し、作付面積当たりの収穫量が上がってしまうと、段々畑を耕していた社会的弱者の人たちの食糧も、平地の優良な農地で生産するだけで間に合ってしまいます。すると「何もこんなところで農業をやる必要はない」ということになってくる。これは日本だけではなく、世界的に起きている現象です。
 単収の増加による世界的な穀物余りを背景とした、条件不利地での農業放棄。
 それによって作付面積が減ってきたことを、「工業化と都市化、砂漠化や農地の荒廃によってどんどん農地が狭まっている」というのは、事実とは異なる説明なのです。
『「食糧危機」をあおってはいけない』110-112ページ。


これだけ。
著者の主張を確認しよう。
この部分で議論しているのは、「都市化や砂漠化で農地面積が減少し、食糧が足らなくなるのではないか?」という疑問である。著者は、世界的に農地に利用できる土地はまだまだあり、現在利用されている農地でも、化学肥料の使用で単位収量の増加が見込める部分が多いから、そんな心配は無用だと論じている。この話の流れのなかで、ついでに山間部の農地放棄の問題が出てくるのである。
「棚田」の話なんてまったくの付け足しなのよ。
なるほど、日本の水田耕作は平地よりも棚田の方が早かった。確かにウィキペディアにもそう書いてある。それで?

言うまでもないが、「Aが誤りである」ということは、「BもCもDも誤り」とはならない。このレビュアー氏の言ってることは、それ自体は正しいかも知れないが、著者の「人口爆発による食糧危機などこない」という主張には何の影響もないだろう。まあ平家の落ち武者云々は蛇足が過ぎる、と私も思うが。

レビュアー氏はさらに2つ追記している。
1つは漁業専門家の疑問。
私も素人考えでちょっと調べてみたのだが、2010年の世界の漁獲量は漁業と養殖合わせて1億6288万トン。
それに対して、穀物(トウモロコシ・小麦・米)の合計24億9360万トン。イモ類7億3580万トン。大豆2億2320万トン。
(矢野恒太記念会『世界国勢図会2011/12年版』より)
魚好きな日本人には想像しにくいが、水産物は世界の食糧需給の中で大した比重を持たない。たびたび引用しているロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』によると、人類の総摂取カロリーのうち魚の占める割合は1パーセント。タンパク質に限っても6パーセントに過ぎないという(同書182ページ)。ましてイギリスの水産物輸入なんぞ、増えようが減ろうがそれこそ何の影響もないんじゃないの。
また、淡水魚は飼料1キログラムで魚肉1キログラムが穫れるとか(川島『世界の食糧生産とバイオマスエネルギー』)。

批判に備えて、でもないんだろうが、著者は本文中でこんなことも書いている。

日本人の思考方法は一つのものを突きつめていくことに偏り、考え方がシステム的でないところがあります。
日本人は「この道一筋何十年で、一芸を極めて」という生き方がすごく好きで、何かというと「何とか道」にしてしまう。
東京大学にも「システム何とか」という学科はたくさんあるのですが、そういう名前をつけておきながら、ある一つの分野の追求をはじめてしまう。日本には職人気質というか、一つのことにのめり込むのを良しとする文化があって、「この道何十年、ついに奥義を極めた」という人が尊敬される。
反対に冷静な多元的な分析は「専門性がない」とあまり好感を持たれない。
「私はこれ一筋」という熱い言い方をする人に対して、システム的なものの見方で分析すると、「評論家」と言われて嫌われます。
「全体のなかで君のやっていることはこのぐらいの重さだよ」と相対化されるのは、日本人はすごく嫌なのです。
私のシステム分析の先生は西村肇先生という、今は東大の名誉教授になった方ですが、その西村先生がその頃大学院生だった私に、「本当に日本人は、周りとの関連で見るという思考法が不得意だよねえ」と嘆いておられたのを、今も覚えています。
第二次大戦中、日本の陸軍参謀本部の作戦課は、現実の情報とその分析を始終軽んじて、自らの信じる世界観で戦い続け、日本を敗戦に導きました。
川島博之『「食糧危機」をあおってはいけない』文藝春秋、2009年、202-203ページ。

これは私の本業の分野とも関係があって、たとえば木村英紀『ものつくり敗戦』(日経新聞社、2009年)にもほぼ同様の指摘がある。



もう1つはオガララ帯水層の件。
それこそ資料の出典が解らないから何とも言えないのだが、「わずか5パーセントの農地」から、「米国の小麦の3割」が穫れる、とは常識的に考えてちょっと信じられない。
どっちかが間違えているのか?なぜそちらを信じるのか?という問題になりそうだ。

検索してみたらこんなのが出てきた。(リンク先PDF。農水省の説明資料)

30ページ目に、オガララ帯水層分布地域の小麦生産量の割合が約30パーセントと確かに書いてあるのだが。
これ、「オガララ帯水層に依存している小麦の生産量」じゃなくて、「オガララ帯水層が存在する州の小麦生産量の合計」じゃないの?上の地図を見ると、ネブラスカ州は確かにほとんど帯水層と重なるが、オクラホマ州なんか西端の一部だけだ。オクラホマ州の小麦は全部ここで生産してるのか?

とまあ、レビュアー氏の言うとおり自分で考えてみました。
ナショナルジオグラフィックも、2008年にグローバル・フードクライシスというキャンペーンを張っていた。
だが実際には、世界の飢餓人口は2009年に10億2300万人で過去最悪だったのが、2010年には9億2500万まで1億人近く減った(『世界国勢図会』)。もちろんまだまだ改善すべき点は多いが、未来は決して暗くなどない。

最後に本書の記述で面白かった点。飢饉など世界史上珍しくもないが、普通、餓死するのは貧しい弱者だけで、富裕階級は何の痛痒も感じなかった。ところが日本では、戦後すぐの食糧統制が非常にうまくいった結果、上から下まで国民全員が飢えた経験を持つに至った。これは世界的に珍しい経験で、日本で食糧危機論が繰り返し取り沙汰されるのはこのためだ、という。

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