気力を振り絞って、通常営業に戻ろうと思う。
神山健治監督の『攻殻機動隊 Solid State Society』の3D版が公開されている。私は3D映画には興味が持てないので観る予定はないが、ちょっと思いついたことをメモしておく。
『SSS』は、神山監督が押井守監督の弟子であることを念頭に置いてみると、いろいろ興味深い点がある。
ひとつは、荒巻課長が恩人である殿田大佐の病床を見舞うシーン。殿田は荒巻に向かって、こんなことを言う。
「子は親に、ロボットは人に似る。だが、おまえは私に似なかったな。
トンビが鷹を産んだようで嬉しいよ。」
師匠が弟子にかける言葉と考えると、なにやら意味深長ではないか。
さらに、この作品自体の構図を考えてみると、「姿を消していた少佐が、9課に(バトーの元に)戻ってくる」という話になっている。これは押井版『攻殻』の、「少佐が9課からネットの海という彼岸へ去ってしまう」構図の正反対である(これは誰かが指摘していたことの受け売り)。
言ってみれば、師匠に対する決別宣言のような作品なのだ。
その後『精霊の守り人』、『東のエデン』を手がけて完全に押井の影から抜け出たかのように見えていたのだが、最近になってちょっと気づいたことがある。
『東のエデン』の主人公・滝沢の描写である。
彼は二度にわたって作品中で記憶を失う。そしてそのたびに、同じ行動原理の元に同じ滝沢朗として、同じように状況に立ち向かっていく。
出典は忘れたが、神山監督自身が、「記憶を失ってゼロになっても前向きに行動していく男を現代のヒーロー像として提示したかった」という趣旨の発言をしていたように思う。
これでまた思い出されるのが、押井版『攻殻』の人形遣いのセリフ。
「人はただ記憶によってのみ個人たり得る」というテーゼだ。
神山監督の提示した、滝沢を滝沢たらしめているもの、滝沢の本質は、記憶ではない。魂だかDNAだか、とにかくもっと深い部分にある何かが、その人をその人たらしめている。ここでまた神山監督は、明確に押井守のテーゼを否定しているのだ。
ある意味では、アンチ・押井という立ち位置からまだ踏み出せていないわけだ。その分まだ伸びしろがあるとも言えるし、それこそ滝沢のように前向きに、コンスタントに作品を作り続けてほしいものだ。
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