更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年3月30日(水)
出藍の誉れ

気力を振り絞って、通常営業に戻ろうと思う。

神山健治監督の『攻殻機動隊 Solid State Society』の3D版が公開されている。私は3D映画には興味が持てないので観る予定はないが、ちょっと思いついたことをメモしておく。

『SSS』は、神山監督が押井守監督の弟子であることを念頭に置いてみると、いろいろ興味深い点がある。
ひとつは、荒巻課長が恩人である殿田大佐の病床を見舞うシーン。殿田は荒巻に向かって、こんなことを言う。
 「子は親に、ロボットは人に似る。だが、おまえは私に似なかったな。
  トンビが鷹を産んだようで嬉しいよ。」
師匠が弟子にかける言葉と考えると、なにやら意味深長ではないか。

さらに、この作品自体の構図を考えてみると、「姿を消していた少佐が、9課に(バトーの元に)戻ってくる」という話になっている。これは押井版『攻殻』の、「少佐が9課からネットの海という彼岸へ去ってしまう」構図の正反対である(これは誰かが指摘していたことの受け売り)。

言ってみれば、師匠に対する決別宣言のような作品なのだ。

その後『精霊の守り人』、『東のエデン』を手がけて完全に押井の影から抜け出たかのように見えていたのだが、最近になってちょっと気づいたことがある。
『東のエデン』の主人公・滝沢の描写である。
彼は二度にわたって作品中で記憶を失う。そしてそのたびに、同じ行動原理の元に同じ滝沢朗として、同じように状況に立ち向かっていく。
出典は忘れたが、神山監督自身が、「記憶を失ってゼロになっても前向きに行動していく男を現代のヒーロー像として提示したかった」という趣旨の発言をしていたように思う。

これでまた思い出されるのが、押井版『攻殻』の人形遣いのセリフ。
「人はただ記憶によってのみ個人たり得る」というテーゼだ。

神山監督の提示した、滝沢を滝沢たらしめているもの、滝沢の本質は、記憶ではない。魂だかDNAだか、とにかくもっと深い部分にある何かが、その人をその人たらしめている。ここでまた神山監督は、明確に押井守のテーゼを否定しているのだ。

ある意味では、アンチ・押井という立ち位置からまだ踏み出せていないわけだ。その分まだ伸びしろがあるとも言えるし、それこそ滝沢のように前向きに、コンスタントに作品を作り続けてほしいものだ。

2011年3月21日(月)
雑記

あんまりやる気が出なくて、更新もサボりがち。

最近動画埋め込みを覚えたので(オレが)、昔書いた氷川竜介先生の三越での講義レポートに手を入れていた。


今週は、茨城の実家に帰省してくる。なにしろ東北の被害が酷すぎるのであまり報道されないが、北茨城も被災地のひとつ。
南東北とからかわれるだけのことはある。地震から1週間、実家ではまだ断水が続いている。

そんなわけで、ポリタンクに水道水を満載してこれから出発予定。

2011年3月13日(日)
生存報告

だいぶ更新に間が空いてしまった。準備していたネタもあったのだけれど、いささか不謹慎なのでまたにする。

関東南部在住だが、地震当日はこんな感じだった。

11日1500時過ぎ
地震発生。初期微動が長くていやな感じがしていたら、やがて強烈な横揺れに。すぐに停電して非常灯に切り替わる。生まれて初めて、素で机の下にもぐってしまった。体感的に5分は揺れていたような気がする。そんなに長いわけないんだが。

ネットもTVも使えず、携帯も不通なのでさっぱり状況がつかめない。外に出てみると、機転を利かせた人がカーラジオを大音量で流していて、ようやく震源を知る。いざというときはラジオが頼りというのは真実だ。実家とは連絡が取れない。

市役所の有線放送で、津波警報。職場は高台にあって広域避難所に指定されているので、まわりの住人が三々五々―続々と言うほどではない―避難して くる。湾内を見下ろすと、船舶が次々と出航していく。仙台の被害の情報が入ってきて、各地で災害派遣がかかっている。護衛艦が一斉に出動していくのが見え る。いち早く自宅の様子を見に行っていた友人から、交通信号が停止してしまって車は危ないと聞く。ひっきりなしに救急車のサイレンが聞こえる。

1630頃
たびたび余震が来る。職場で待機していたが、停電は復旧しない。明るいうちに自宅の整理をしたいので、徒歩で帰宅(職場から10分くらい)することに。自宅も高台なので津波は大丈夫と踏んで。
途中、コンビニで懐中電灯用の電池を買う。POSが使えないので、全部手計算で会計。
帰宅中、九州の姉から電話が入っていたことに気づくが、かけ直してみるとつながらず、留守電サービスも聞けない。

自宅の惨状を覚悟していたのだが、拍子抜けするほど何ともなかった。フィギュアが2つ3つ倒れていただけ。ただ、トイレに座ったら暖房が切れていてえらい目に。水道が使えるのが救い。

1800頃
ようやく茨城の実家と連絡が取れた。母は避難所で食事をもらってきて帰宅したところだった。私の部屋は荷物が崩落してひどいことになっているとか。
姉にも無事を知らせる。TVのおかげで、私よりよほど状況に詳しかった。当事者はかえって何が起きているかわからないって本当なんだな。

1900
冷蔵庫から足の速そうなものを選んで、懐中電灯の明かりで夕食。備蓄が切れてもこのままだったらどうしようか、などと考える。

ベランダに出てみると、月が出ているので真の闇と言うほどではないが、なにしろ明かりがない。海上の漁り火と、ときおり通る自動車のライトだけ。それに赤色回転灯。できることもないので布団に入る。

12日深夜0100
早い時間に寝たら目がさえてしまって、輾転反側。ふいに、枕元で「ピッ」と電子音。空気清浄機の電源だった。約10時間ぶり―わずか10時間と言うべきか―電源が復旧。部屋を見回してみると、エアコン、ファンヒータ、パソコン、アンプとこんなにLEDがついていたんだな。
もう一度ベランダに出てみた。深夜のこととて寝静まっているのは変わらないが、そこここに街灯が点灯していてちょっと感動。


翌日はもう、いつもどおりの日常だった。
しかしTSUTAYAに行ってみると、棚が傾いて危険なので立ち入り禁止の一角があったり、西友に行ってみると皆食料を買い占めていて特に冷凍食品の棚が空っぽになっていたり、ガソリンスタンドが長蛇の列だったりで、影響がそこかしこに。
旧共産圏の暮らしというのはこんなだったのかと想像してみる。
原発の事故も気がかりだが、こんな状況でもスパムメールはちゃんと届くことに妙に感心する。いや自動送信なんだろうけど。


13日 プロジェクタのランプが(寿命で)切れた!

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