更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年6月30日(水)
「環境危機をあおってはいけない」

微妙に昨日と関連する話。

ちまたで話題の
「魔王×勇者」を読んでみたのだが、というかだいぶ前に読み始めたのだが、もう2ヶ月くらい放置している。

あとどのくらいあるのかもわからない。紙媒体のいいところは、どれだけ読んであとどれくらいあるか、一目でわかることだろう。
もともとディスプレイで字を読むのが好きじゃないこともあって、たぶん読了することはあるまい。
まがりなりにもテキストサイト作ってる人間としては、己のレゾンデートルを危うくしかねない発言だがまあ気にしないように。

で、ジャガイモのエピソードとか読んでて思い出したのが標題の本。
デンマークの統計学者ビョルン・ロンボルグの著書で、「地球環境のホントの実態」という副題がついている。
公的機関が公表しているデータから冷静に地球環境の実態を読み解き、むやみと悲観したり無益な努力をするより、もっと有効にリソースを使うべきだと主張している。

詳細は省くが、強く印象に残っているのが結論のこの部分。

『「機能不全の文明」や「本当の人生の直接体験」喪失についてのゴアの定番話は、おっかないほど過去を理想化しているし、世界の発展途上国に対する目を覆うばかりの傲慢さをあらわにしている。
事実は、ぼくたちが見てきたように、この文明は過去四〇〇年で、すばらしい継続的な進歩をもたらしてくれた。人類が地球上に暮らしていた二〇〇万年のほとんどの期間、人類の期待寿命は二〇-三〇年くらいだった。過去一世紀の間に、ぼくたちは期待寿命を二倍以上に延ばし、六七年にした。
乳児はもはやハエみたいに死んだりしない−いまや死ぬ子は二人に一人ではなく、二〇人に一人だけだし、死亡率は今なお下がり続けている。ぼくたちはもうほとんど慢性的に病気だったりしないし、吐息も腐った歯のせいで臭かったりしないし、化膿性の潰瘍、湿疹、疥癬、膿の流れるただれなんかもない。食糧も昔よりずっとある−しかも地球は昔よりずっとたくさんの人を擁しているのに。第三世界の平均的な住民は、いまや三八%も多くのカロリーを摂取している。飢えている人の割合は、三五%から一八%へと劇的に減って、二〇一〇年にはこの率がさらに下がって一二%になるだろう。その頃には、ぼくたちはさらに三〇億人以上の人々にまともな食事を与えていることになる。
ぼくたちは人間の繁栄において、前例のない成長を経験してきた。過去四〇年の間に、みんな−先進国だろうと途上国だろうと−三倍以上豊かになった。もっと長い目で見ると、この成長はまったく圧倒的だ。アメリカ人たちは過去二〇〇年で三六倍も豊かになった。
ずっと多くの生活施設にアクセスできるようにもなった。これはきれいな飲料水から電話やコンピュータや自動車までさまざまだ。人類の教育もよくなった。第三世界では、非識字率は七五%から二〇%以下に下がり、また先進国でも途上国でも、教育水準はとてつもなく上がった−発展途上国の大学教育は、三〇年でほとんど四〇〇%も増加した。
余暇時間も増え、安全も高まり、事故も減り、教育も高まり、利便設備も増え、所得も上がり、飢えた人も減り、食糧は増え、健康で長生きできるようになった。これは人類のすばらしい物語だし、こんな文明を「機能不全」呼ばわりするのは、はっきりいって不道徳だ。』

ビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』山形浩生訳(文藝春秋、2003年)534-535頁。

太字は原文のまま。
500ページ以上もある大著だが、山形浩生の軽妙な訳文と相まって実に読みやすい(→訳者のサポートページ。なぜか公式ホームページからはリンクが切れている)。ついでに、この本の読みやすさに貢献しているのは図表の配置である。文中に図何番を参照とあるとき、必ず同じ見開きにその図があるのだ。理系の参考書を読んだ方は経験があると思うが、この辺の配慮のない本はその図を探してあちこちページを繰らなければならない。これ、すごく時間を食うのである。


これで終わっては芸がない。上で紹介した文中にはたまたま、2010年には飢えている人の割合がもっと減っているはずとの予測がなされている。せっかくだから調べてみた。

FAO(国連食糧農業機関)のホームページに、2009年の世界農業白書が掲載されており、「栄養不良の人の数と人口比」がある(リンク先のG3の表)。それによると、世界全体では1990-92年には16%の人が栄養不良だったのに対し、2003-05年には13%になっている。この分なら、2010年現在はもう少し減っているかもしれない。

本書の価値は、「公的機関が公表しているデータを用いている」点にある。こんな風に、農業問題なんてまったく素人の私でも、ほんの10分やそこらで検証できるのだ。議論するには、まず1次資料に当たって実情を知ることである。

上の表には、ソマリアのような破綻国家のデータは含まれていないし、まだまだ酷い状態の国はある。ルワンダは国民の40%、シエラレオネでは47%が栄養不良とされる。でも例えば、モザンビークは1990-92年には59%が栄養不良だったのに、2003-05年には38%まで改善されている。まだまだ先は険しいが、進歩には違いない。その要因は、1992年に内戦が終結したことであるのは間違いないだろう。


こうした成果は奇跡でも何でもない。世の中をもっとよくしようと地道に努力してきた人たちの血と汗の結晶だ。
「その向こうの物語」はネットの中なんぞにあるのではない。
我々がいま生きている21世紀こそが、まさにそれなのだ。

2010年6月29日(火)
「メタルカラーの時代」

私は、「プロジェクトX」が大っ嫌いである。
どんな面白そうなエピソードでも、結局最後は「みんなで力を合わせてがんばりました」という結論に持って行ってしまうからだ。

あほか。
そんなことで物事がうまくいくなら、誰も苦労しない。
私が知りたいのは、難問を解決するための技術的ブレイクスルーは何だったのか、だ。

それを面白く伝えてくれるのが、標題の「メタルカラーの時代」である。
「メタルカラー」とは、著者の山根一眞の造語で、「金属のえりを持つ者」の意味だ。日本で技術開発に当たってきた技術者たちは、従来のホワイトカラーとブルーカラーという区分では理解しづらい。管理職でも労働者でもない彼らを指す言葉である。

「メタルカラーの時代」は週刊ポスト誌上で長年続いており、文庫本で15巻まで出ている。

その15巻を読んだので、未熟児用人工呼吸器の開発談を紹介。
従来の人工呼吸器は強制的に酸素を肺に送り込むため、肺が未発達の未熟児では酸素の圧力で肺胞を傷つけてしまう欠点があった。
しかし開発者のトラン・ゴック・フック氏(ベトナムからの留学生で、ベトナム戦争の推移に伴い日本に定住)は、ある発見から未熟児の肺を損傷しない人工呼吸器の開発に成功した。

『フック 気管支は数億個の肺胞に到達するまでに、23から24分岐しているが、第15〜16分岐までは、実はガス交換は「対流」で行っているんです。
山根 対流!?
フック はい。今まで、吸った空気はすべて肺の隅々にまで入って、出ていると思い込んできましたが、違っていた。人は500ミリリッターの空気が常時、気管などにあって、そのうち、気管支の上部の150ミリリッターくらいが交換されているだけ。それが呼吸だったんです。実はかなり余裕があるんですよ。
山根 そうだったの。だったら、その上部の150ミリリッターだけを交換できる「振動人工呼吸器」を作ればいい?
フック その通り!振動で呼吸させる人工呼吸器は、口の部分で空気を振動させるだけで、ちゃんと酸素を肺胞に送り込める。しかも、肺胞にダメージを与えないですむはずだと。』

山根一眞『文庫版メタルカラーの時代15 町工場からノーベル賞まで』(小学館文庫、2009年)57-58頁。

フック氏の開発した人工呼吸器によって、1500gに満たない極低出生体重児でも存命できるようになった。いくつかの病院では、無事成長した彼らの同窓会があり、フック氏に花束を贈呈したという。




・・・・・・で話は飛ぶんだけど、某有名泣きゲーおよびそのアニメ版なんですがね。あえて名を伏せるが。
体が弱くて子供が産めないという設定はまあよしとしよう。でも、ろくな医療も受けさせなきゃそれは死ぬでしょうよ。この展開にわたしゃまるっきり同情する気にもならなくて、アニメ版の2期以降しらけっぱなしだったのよ。

この近代医療に対する不信、あるいは無知っていったい何なんだろうな。
「十兵衛ちゃん」にもそういうシーンがあって、しかもそれを美談として描いてるんだもの。それともアレはギャグか?だったらなおさら神経を疑う。おかげで私は大地丙太郎作品は色眼鏡で見るようになってしまった。

世に病の種は尽きないし、医療過誤その他の問題が多々あるのも認める。
でも、ほんの100年前にはインフルエンザでバタバタ死んでたんだよ?

もう少し医学の、ひいては科学の恩恵を自覚すべきなんじゃないかね。

2010年6月28日(月)
「フェルマーの最終定理」

前回に続いてサイモン・シンの著書、「フェルマーの最終定理」を読んだ。
この数学史上有数の難問が証明されるまでの歴史を、素人にもある程度わかりやすく解説してくれる本。ある程度というのは、そもそも証明を正確に理解できる人間は、世界で数10人しかいないため。

本書の面白さはむしろ、歴史上の数学者たちの豊富なエピソードと蘊蓄にある。

例によって印象に残った部分を抜粋。

「完全数」という数字がある。約数の総和が、その数自身になるような数字のことである。例えば6=1+2+3

『エウクレイデス(ユークリッド)は、それまでに見つかっていた完全数はつねに二つの数の積で表され、その一方は2のべき数、他方は次の2のべき数から1を引いたものになることを発見したのである。
今日ではコンピューターを使って完全数の探索が続けられており、なんと十三万桁を超える巨大な数がエウクレイデスの規則にしたがうことがわかっている。(一九九九年には419万7919桁の完全数が発見された)』
サイモン・シン『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』青木薫訳(新潮社、2000年)38頁。

2×3=(2の1乗)×(2の2乗-1)ということ。
一方でこんなのも。

『約数の和がその数自身よりも1だけ小さい数はたくさんある。ところが、約数の和がその数自身よりも1だけ大きい数は一つも存在しないようなのだ。(中略)二千五百年の時を経た今日でも、数学者たちは「わずかに過剰な数」が存在しないことを証明できずにいるのである。』39頁。


『川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比は、平均するとほぼ3.14になる。』42頁。
なぜかというと、

『川はつねに曲がろうとする傾向をもっている。というのは、少しでもカーブがあれば、そのカーブの外側では流れが速くなって浸食が進み、カーブはますます急になる。そしてカーブが急になれば、外側の流れはますます速くなる。こうして浸食が進めば進むほど、川はどんどん曲がるという循環が起こる。しかしその一方で、カオスを切り詰めようとする自然のプロセスも存在する。カーブが急になるということは、元の流れに対して折り返すことだから、そこにバイパスができやすくなる。バイパスができれば川はまっすぐになり、湾曲した部分は三日月湖となって川のわきに残される。対立するこれら二つの要因がバランスをとることによって、川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比の平均値がπに近づくのである。』42-43頁。


ジュウシチネンゼミというセミがいる。名前のとおり、17年もの間幼虫として地下で過ごし、17年に一度一斉に成虫となって地上に出てくる。彼らは、なぜ17年もの長いライフサイクルをもつようになったか。

『一説によると、やはり長いライフサイクルをもつセミの寄生虫がいて、セミはその年数を避けようとしているのではないかと言われている。寄生虫のライフサイクルが二年なら、セミは2で割り切れるライフサイクルは避けたいだろう。さもないと、寄生虫とセミは周期的に同時発生してしまうからだ。同様に、寄生虫のライフサイクルが三年だったとすると、セミは3で割り切れるライフサイクルは避けたいにちがいない。さもないと、両者はやはり定期的に同時発生してしまう。結局、寄生虫との同時発生を避けるための最良の策は、長くて、しかも素数のライフサイクルをもつことだ。なぜなら、17はどの数でも割り切れないから、ジュウシチネンゼミは滅多に寄生虫と同時発生せずにすむからである。寄生虫のライフサイクルが二年なら、両者は三十四年ごとにしか顔を合わせない。もしも寄生虫のライフサイクルがもっと長く、たとえば十六年だったとすると、両者はなんと272(16×17)年に一度しか顔を合わせないことになるのだ。
寄生虫がセミの戦略に対抗するためには、同時発生の頻度を高めるようなライフサイクルをもつしかない。つまり、一年サイクルか、セミと同じ十七年サイクルかだ。しかし、1年サイクルで十七年間立て続けに発生しながら生き延びるのは容易なことではない。というのも、はじめの十六年間は宿主になるセミはいないからだ。一方、十七年のライフサイクルをもつためには、寄生虫はまず十六年のライフサイクルに進化しなければならない。つまり、進化のある段階で、寄生虫とセミとは二百七十二年間も同時発生しなかったことになるのである。どちらの場合も、大きな素数のライフサイクルをもつことは、セミを寄生虫から守ってくれるだろう。
そんな寄生虫がこれまで発見されていないのは、以上のような理由からかもしれない。ライフサイクルをどんどん延ばしてゆくセミに遅れまいと、寄生虫もライフサイクルを延ばしていったのだろう。そして十六年のハードルに到達し、二百七十二年間もセミと同時発生できなくなって絶滅に追いこまれた。結果として、十七年のライフサイクルをもつセミが残った。しかしそのライフサイクルもいまや無用の長物である−寄生虫はもういないのだから。』
137-138頁。


フェルマーの最終定理の証明に挑戦した数学者やアマチュアの愛好家は数多い。そのほとんどは、検討するにも値しない。そこで「解法」を送りつけられる数学者も、自衛策をめぐらす。

『マーティン・ガードナーの友人は、「フェルマーの最終定理の証明」を送ってきたものに対して、こう返事を書いて送り返す。
「私はあなたの証明に対する驚くべき反例をもっていますが、残念ながらこのページは狭すぎるのでそれを書くことはできません」』173頁。
一応書いておくと、これはフェルマー本人が残したメモのパロディ。

数学者は、何でもかんでも数学で説明する。

『パスカルは、確率論を使えば信仰も正当化できるとさえ考えたほどだった。パスカルはこう述べた。『ギャンブラーが賭け事をするときに感じる興奮の大きさは、勝ったときの景品に、勝つ確率を掛けたものに等しい』そして彼はこう続けた。「永遠の幸福という景品は無限大の価値をもつ。また、高潔な人生を送ることによって天の国に入れる確率は、たとえどれほど小さいとしても有限の値をもつ」したがって、無限大の景品に有限の確率を掛けたものはやはり無限大だから、信仰は−パスカルの定義にしたがえば−無限大の興奮を得られるゲームだというのである。』73-74頁。

一面の真理ではある。

それはそうと、数学者や物理学者って、数式や定理を「美しい」と表現するんだよね。
数学の証明は、その他の自然科学と違って、一度証明されれば決して覆らない宇宙の真理となる。
そうしたこの世を支配する法則がシンプルな数式で表現される様を指して「美しい」と言いたくなるのだろうけど、こればかりは私の言語感覚と相容れない。私の感覚では、「美しい」というのは音楽や絵画に向けて使う言葉なのだ。趣味の問題だからどうしようもないが。

2010年6月22日(火)
「暗号解読」

科学ジャーナリスト、サイモン・シンの「暗号解読」を読んだ。

古今東西の暗号発達史を概観し、素人にも解りやすく教えてくれる好著。
印象的だった部分を抜粋。以下『 』内は引用。

ドイツの機械式換字暗号機「エニグマ」(「U-571」で描かれたアレ)を解読した、イギリスの暗号解読者たちの挑戦。

『エニグマ機は、スクランブラー・ユニット(暗号化装置)にキーボードをつなげた構造になっている。スクランブラー・ユニットには三つのダイヤル式ローターがついており、ローターの位置によってキーボードに打ち込んだ文字がどう暗号化されるかが決まる。エニグマ暗号の解読が難しいのは、この機械の設定の仕方が膨大な数にのぼるからである。第一に、ローターには五種類あり、そのなかから三つを選ぶことができる。暗号解読作業を攪乱するためには、ローターの組み合わせを変えればよい。第二に、それぞれのローターの位置は二十六通りに設定できる。これを計算すると、この機械にはざっと百万通りもの設定があることになる。しかも、このローターの組み替えに、機械の裏側にある配線盤の接続の組み替えも加えれば、一億五千万通りの百万倍の百万倍の百万倍もの設定が可能になるのだ。安全性を高めるために、三つのローターの設定位置はたえず変更されていた。そのため、一文字発信されるたびに機械の設定が変わり、次に入力された文字に対する暗号が変わるのである。したがって、"DODO"とタイプしたものが、たとえば"FGTB"という暗号文になる−"D"と"O"は二度送信されているにもかかわらず、異なる文字に変換されてしまうのだ。』
「フェルマーの最終定理」196-197頁。

もっとも基本的な暗号解読法に、頻度分析という方法がある。例えば英語で一番多く使われる文字はe。よって、暗号文の中にもっとも多く出てくる文字を探し、これをeと仮定して原文を類推していくのだ。しかしエニグマには、頻度分析が通用しない。だから英軍はエニグマ本体の入手に躍起になったのである。


『コードブックの作成にあたる人物は、一日ごとに、どのスクランブラーを使用するのか、それらをどう配置するのかを決定しなければならない。彼らはスクランブラーの設定が予測されないように、どのスクランブラーも二日続けて同じ位置に来ないようにしたのである。たとえば、五つのスクランブラーを1、2、3、4、5と呼ぶことにすると、ある日の配置が134だったなら、翌日の配置は215にはなっても214にはならない。なぜなら、4のスクランブラーが二日続けて同じ位置に来てはならないからである。スクランブラーの位置を必ず変更するというこの戦略は、一見すると理にかなっているようにみえる。ところがこの規則に律儀にしたがえば、逆に暗号解読者を利することになってしまうのだ。スクランブラーが同じ位置に来るのを避けるためにどれかの配列を除外することは、スクランブラーの可能な配置を半減させることだからである。それに気づいたブレッチレー(解読グループの所在地)の暗号解読者たちは、この事実を最大限に利用した。ある日のスクランブラーの配置がわかれば、翌日は配置の半分を除外することができ、彼らの作業量は半減したのである。
プラグボードを設定するときも、隣り合う文字同士は交換しないことになっていた。つまりRやTは、Sとペアにはならないのだ。すぐに気づかれそうな文字の交換は避けるという方針は理屈の上ではもっともだが、この規則に律儀にしたがえば、またしても可能な鍵の数を激減させてしまうのである。』
サイモン・シン『暗号解読−ロゼッタストーンから量子暗号まで』青木薫訳(新潮社、2001年)226-227頁。

ランダムを作為すると、ランダムでなくなってしまうという皮肉。


『暗号解読者たちはたえずボンブ(注:エニグマ解読機の愛称)を改良し、新しい戦略を考え出さなければならなかった。それでも彼らが成功できた理由の一つは、どの棟にも、数学者、科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニアといった奇抜な面々がそろっていたことである。難問は棟から棟へとまわされるうちに、それを解決するのにうってつけの頭脳をもつ人物にぶつかるか、あるいは完全に解決はできないまでも、部分的に解決できる人物にぶつかるのだった。
(中略)
ブレッチレーで行われる暗号解読の重要性を十分に理解していたウィンストン・チャーチルは、一九四一年九月六日、じきじきに暗号解読者たちを訪ねる機会をもった。何人かの暗号解読者と会ったチャーチルは、かくも価値ある情報を提供してくれているのが、なんとも異様な面々であることに驚かされた。そこには数学者や言語学者のみならず、焼き物の名人、元プラハ美術館の学芸員、全英チェス大会のチャンピオン、トランプのブリッジの名人などがいたからである。チャーチルは、秘密検察局の局長であったサー・スチュワート・メンジーズに向かってつぶやくようにこう言った。「八方手を尽くせとは言ったが、ここまで文字通りにやるとはな」』。224頁。

集合知というやつですね。


本書を読んで思い出したのが、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画「CUBE」('97)。
ある日突然、奇怪な立方体の連なる「CUBE」に閉じ込められた男女の脱出劇を描いたサスペンスの傑作。CUBEの中には罠の仕掛けられた部屋があるのだが、それを見分けるのに素因数分解が重要なアイテムになっている。

なぜ素因数分解なんだろうとずっと思っていたのだが、本書を読んで長年の謎が解けた。
暗号は、敵に読まれてはならないが、味方には確実に解読できなければならない。そのためには暗号の発信者と受信者が共通の解読「鍵」を知っていなければならないが、ここから「鍵配送問題」という本質的な問題が生じる。暗号を変更するたびに、受信者にも鍵を知らせなければならないのだ。どの時点から暗号を変更するかも正確に伝えなければならないし、もしこれが敵の手に落ちたらまた暗号を変更しなければならない。
複雑な暗号を取り扱うには、鍵を記したコードブックも分厚いものになる。広範囲に展開した軍隊がそれを使うには、膨大な数のコードブックを秘密裏に印刷し、確実に管理し(1冊でも紛失したら全部廃棄してやり直しである)、暗号変更期日までに末端の全部隊に配布しなければならないのだ。実務上、大変な労力になる。
コンピュータネットが発達してデジタル信号による通信が乱れ飛ぶようになると、この問題はさらに重大になった。傍受が容易だからである。

そこで考案されたのが、公開鍵暗号である。細部の説明は本書などを読んでもらうとして、簡単に言うと暗号化は誰にでもできるが、平文に戻すのは正規の受信者しかできない、という仕組みである。それに使われているのが、「桁数の大きな数の素因数分解は、コンピュータを使っても非常に難しい」という性質なのだ。
だから、素数と素因数を使っていること自体が公開鍵暗号のアナロジーというわけ。

2010年6月14日(月)
無題

小ネタ2題。

その1
ノンテロップEDを観て初めて気がついたんだけど、野田が肩に担いでる斧槍。



この持ち方、なんかヘンじゃねえ?



腕の内側を通すのなら解るんだが。試しに職場のデッキブラシで実験してみたところ、持てなくはないが肩から滑ってしまってかなり難しい。
刃先によほど重量があるという表現なのか、それとも槍って本当にこう持つんだろうか。


その2
7月24日公開の映画「ゾンビランド」の予告を観た。

『血肉飛び散る衝撃のホラー、スリリングな戦慄のサスペンス、興奮のバトルが連続する怒涛のアクション・ロードムービーにして、主人公の成長を描いた爽快な青春ラブストーリー、そして、随所にナンセンスなギャグとマニアックな映画ネタ・パロディを散りばめた爆笑のコメディと、これは、ただのゾンビ映画ではなく、娯楽映画の要素をすべて盛り込んだ痛快なアドベンチャー・エンタテインメント・ライドである。 』

http://www.zombieland.jp/

何がおかしいかってえと、宣伝コピーが「人を見たらゾンビと思え」。

で、公開館がヒューマントラストシネマ

え、もしかしてギャグ?

2010年6月8日(火)
「告白」

中島哲也監督の新作「告白」を観てきた。例によって原作未読。
モノトーンの画面、計算された照明に、スロー映像も効果的。
松たか子が能面のような笑顔に狂気をにじませ、すごい迫力。彼女が野太い声で号泣するシーンだけでも一見の価値有り。「四月物語」以来12年ぶりに見たが、いい役者になった。

中島哲也監督のフィルモグラフィーはわかりやすい。
「下妻物語」「嫌われ松子の一生」のころの中島監督は、基本的に役者を信用しない監督だった。おかげで、「嫌われ松子」を演じた中谷美紀は苦労したらしい。皮肉なのは、「下妻物語」が全面的に役者の力に依存した作品だったことだ。
「下妻物語」といえば土屋アンナが多くの女優賞を獲ったことで有名だが、私の思うに真の功労者は深田恭子の方である。
考えてもみてほしい。茨城県のド田舎でロリータファッションに命をかける乙女などという役柄が、深田恭子以外の誰につとまるのか。この奇跡のキャスティングを得たことで、この映画の成功は約束された。
しかしどうも、当の中島監督にはそれが解っていなかったように見受けられる。「嫌われ松子」では中谷の技術や創意を認めず、相当にキツいことも言ったらしい。
続く「パコと魔法の絵本」ではついに、ゴテゴテの特殊メイクとCGで、役者の体臭を消し去ることに専念した。
これで何か吹っ切れたのだろうか。
この「告白」は、役者の魅力を引き出すことに力を注いでいる。新境地、と言っていいだろう。

閃いた!
この流れ、初期「うる星」→「パトレイバー2」→「イノセンス」または「立喰師列伝」→「スカイ・クロラ」と同じだ!


ところでこの映画、面白さとは無関係に2、3引っかかる点がある。

基本線は、松たか子演じる教師が、自分の娘を殺した少年2人(自分の生徒!)に復讐する話である。
以下ネタバレ。
この2人の少年は、家庭に共通点がある。
不在の父親と、機能しない母親である。

少年Aの父は凡庸な人物で、再婚と同時にAを疎んじる。秀才の母はAを捨てて出て行った。
少年Bの父は単身赴任で作中に登場しない。母はBを盲目的に溺愛する。

彼らはいずれも、母親を自分の手で殺してしまうという形で報いを受ける。母親の側からすれば、怪物を育んでしまった責任をとらされるのである。

しかしこれは、「父親に存在感があり、母親が適切に役割を果たしていれば、子供はまともに育つ」というおなじみの価値観をそっくり裏返しているだけだ。これって、ものすごく保守的な思想じゃないだろうか。
問題はそれにとどまらない。松たか子は何を考えているか解らない不気味なキャラクターとして描写されてはいるが、それでも、彼女の復讐が成就するとき観客は正当な裁きが下されたことに快哉を叫んでしまう。

この物語は、少年犯罪の厳罰化を求める社会の空気なしには成立しないはずだ。そういう意味では、「300」によく似ている
何度も主張しているように、現実の少年犯罪は増加してもいなければ凶悪化もしていない。
そう考えると、この映画を評価するのにちょっと危うさを覚えてしまうのだ。

2010年6月6日(日)
ベルドゥーチ効果
先月に続いて野球の話。

今年のスワローズの不調をめぐり、野村時代を懐かしむ声が多い。
私もあれがスワローズの黄金時代だったことを認めるにやぶさかではないが、あまり野村を祭り上げるのもどうかと思う。
古顔のファンなら知っているはずだが、若く才能ある投手を次々に使い捨てていくのが、野村ID野球の実態だった。

そんなことを考えていたら、こんな記事を読んだ。以下引用。

『トム・ベルドゥーチは、スポーツ・イラストレイテッド誌の名野球ライターであるが、ここ数年、開幕前になると 「前年酷使された若手投手」のリストを発表、警告を発している。ベルドゥーチによると、「25歳以 下の投手の場合、投球イニング数が前年(あるいは自己最高記録)よりも30イニング以上増えると、 その悪影響は次の年に現れ、怪我で故障者リスト入りしたり、成績が悪化したりする」といい、酷使された翌年に悪影響が現れるこの現象を、彼は「翌年効果(the year after effect)」と呼んでいる。しかし、この現象を「翌年効果」と呼ぶ向きは少なく、一般には「ベルドゥーチ効果」の名で知られている。

ベルドゥーチによると、2009年までの4年間、「ベルドゥーチ効果」の犠牲と なることが懸念された投手は34人に上ったが、なんと、30人 が、怪我で故障者リスト入りしたり、成績が低下したりしたのである。』

野村時代の投手陣にも、この現象が当てはまるのではないだろうか?

さっそく調べてみた

もし当てはまるようなら、「スワローズの若手投手が酷使による故障で選手生命を縮める」現象をノムラ効果と命名したい。

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