更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年7月19日(日)
「ヱヴァ破」

とりあえず2回観ての感想。

シンジがいつも聴いているSDATに、今回初めて意味が与えられた。
「父が使っていたもの」「父が捨てていったもの」「自分を守ってくれるもの」。
これはレイが大切にしていたゲンドウの眼鏡と対応している。「破」で第10使徒から救出されたときの彼女はSDATを握りしめているが、これは「序」のこのカット−レイの手から落ちる眼鏡−と鮮やかな対比をなす。




新キャラのマリが面白い。
「新キャラを出す理由がわからない」という声は結構聞こえるが、旧作を超える・破壊するための重要キャラであることは間違いなく、そのためかいろんなキャラの役割・立ち位置を代替している。
すぐ判るのはアスカに代わって2号機に搭乗することだが、TV版で加持が果たしていた「最後にシンジの背を押す」という役割をも担っている。
それにシンジと初めて出会うシーンは、「序」のレイと相似をなしている。学校の屋上で非常呼集を告げて走り去るレイのシーンだ。多分レイアウトを共有している。



シンジのSDATに、レイ以外で唯一触れたのもマリだ。その直後、25、26でループし続けていた表示が27へ進み、物語の展開を暗示する。
シンジは何度か、作中で「匂い」に言及する。
「綾波の匂い」「潮の匂い」「土の匂い」。
そして同じように、マリだけが匂いを気にする。
「LCLの匂い」「他人の匂い」。
「匂い」は本来、映像では表現しようのないものであり、わざわざこれに言及させることは必ず意味がある。つまりはマリとシンジは同種・同格の人物なのだろう。


第10使徒との戦いで、レイとマリは対照的に描かれる。
自爆を試みるレイと獣化するマリ。
アカの他人のために命を捨てるあまりにもヒトらしいレイと、人を捨て獣と化して生き延びようとするマリ。
そしてシンジと初号機は、そのいずれでもない第三の道を選ぶ。
作中で二度、「大人」という言葉が印象的に使われる。
一度目は野菜畑での加持のセリフ「大人はずるいくらいでちょうど良い」。
二度目はゲンドウのセリフだ。「自分の願いはあらゆる犠牲を払って自分の手で掴み取るものだ。大人になれ、シンジ」。
「何が大人か判らず、ずるい大人になりたくない」シンジはどこを目指すのか。

旧作でゲンドウの果たしていた役割について大きな解釈の転換を迫った、こんな文章がある。
→「不在の父と決断する女たち
シンジを抑圧し決断を迫ったのは、実はミサトやリツコといった女たちである、という重要な指摘だ。
かつてのエヴァは父と子の物語に見えて、実は「母性の闇と虚無」に対する恐怖を描いてきたのだが、新ヱヴァは今度こそ抑圧する父を超えていく息子の物語になるかもしれない。

以下余談。
キャラに船の名前をつける伝統は健在で、「イラストリアス」はイギリスの空母の名前だが、英空母は伝統的に、アーク・ロイヤルなどの例外を除いて「形容詞を名前にする」という変わった慣習を持つ。

グロリアス、ヴィクトリアス、カレージャス、インヴィンシブル、インドミタブル、インプラカブル、インディファティゲブルなど。

しかし、illustrious 「輝かしい」はまだ解るけど、indefatigable 「疲れを知らない, 根気強い, 不撓(ふとう)不屈の」なんて、とても船の名前に思えん。implacable 「なだめられない, 執念深い, 冷酷無情な, 無慈悲な」は、確かにイギリス人ぽいですが。

2009年7月11日(土)
「季刊エス」

引用長め。

「とらドラ!」の長井龍雪監督インタビュー読みたさに買ってきた。
普段買わない雑誌なので置き場所が判らず、ずいぶん探し回ったんだけど、普通にアニメ・マンガの棚に置いてありました。

記事自体は、完成画面とレイアウト修正を比べてみたり、そこらのアニメ誌顔負けの出来。

特に16話の大河と生徒会長の決闘シーンについて、いきなり「作画アニメ」調になるのが話題になっていた件。長井監督と、キャラクターデザイン・総作画監督の田中将賀氏の談話。(60〜61ページ)

田中 十六話は、原作を読んだ時から「これはやりたい!」と思ったんです。ここは逃げたくなかったし、どこまでこの人たちの真剣さを画で出せるのかという挑戦でもありました。本当は別の人が総作画監督の話数だったんですけど、このシーンだけは!って無理にやらせてもらって。
−十六話はアニメでしかできない表現ですね。
田中 そうなんですよね。基本的に「とらドラ!」について僕がずっと思っているのは、演出アニメだということなんです。作画どうこうじゃなくて。でも、他は誤魔化せても、ここは唯一作画でちゃんと見せなきゃいけないところだと思ったんですよ。だもんで、ここは!って。
−キャラの感情が爆発する時には、絵も爆発して良いということですか?
長井 そういう意味では、「とらドラ!」は上手く積み重ねが出来ていました。冒頭はがんばってきっちり作ろうという意識でやっていたんですけど、進めるうちに、作画さんもキャラの感情をきれいに追えるような感じで、「こういう時はこういう顔をするよね」って、みんながどんどん作って来てくれたんです。みんなが表情をすごく生き生きと描いてくれた。それはもちろん原作の力だし、岡田さんのシナリオの構成が上手いからなのですが。一年間の話ですけど、ちゃんと積み重なっていって、「こういう出来事を経たからこういう顔をするようになったよね」っていうのが、みんなの中でストンと落ちて来たんだと思うんですよね。
田中 あとは監督のコンテの画のおかげですね。イメージしやすいんですよ。一話をやった時に、「あ、これだったら行けるな」って思いました。「こういう心情だから、こういう表情をする」というのが、コンテから分かりやすく伝わって来たんです。


も一つ、アフレコと作画の実態。

田中 役者さんに引っ張られたのは大きいです。制作の時間的な関係で、僕がその話数に手を付ける時には、もうアフレコまで終わっているんです。これ幸いとばかりにそれを聴きながら描いていたんで。役者さんの温度に負けないように画作りをしていかないと!って。

確か「モノノ怪」でも同じような話を聞いたが、もうアフレコに対するプレスコの優位性って怪しくなってきてるんじゃなかろうか。


偶然だがこの号では、「百合」の特集をしていた。昨今の百合ブームに対して、オタ業界のみならず色々な角度から斬り込んでいて実に読み応えがあったのだが、収穫の一つは百合の源流である「エス」という戦前の女学生文化について。

以下のインタビューの回答者・内田静枝氏は、明治末から戦後にかけて活躍した挿絵画家の作品・資料を膨大に収蔵する弥生美術館の学芸員。(49〜50ページ)

−「少女の友」をはじめ、当時の少女雑誌には少女小説が載っていて、それは女学校の上級生と下級生の恋のようなもの、いわゆる「エス」という関係性を描いた作品もありましたが、そういった関係性が一般に広まるのにも、少女雑誌が影響していた部分は大きいですか。
内田 それは言えると思います。元々「エス」のような風俗はありましたが、それが広く浸透するにはメディアの力が必要だったと思います。まず大正時代の『花物語』という吉屋信子のベストセラー小説がベースにあって、昭和十二〜三年にかけて連載された川端康成の『乙女の港』の効果も絶大だったようです。この作品は横浜の紅蘭女学校、現在の横浜雙葉が舞台だと言われていますが、横浜のミッションスクールで受け継がれてきた風俗を、川端康成がつぶさに描いて全国誌に載せたことで、地方の女学生にも広まったようですね。
−「エス」という呼び名も、小説の中で使われているのですか。
内田 『乙女の港』には、既に「エス」という言葉が出てきます。Sisterの略で「エス」。昔は、その土地土地で様々な呼ばれ方があって、例えば「おめ」なんて呼び名もあったらしいですけど(笑)。ですが最終的には一番語呂が良くて素敵な「エス」に定着したようです。昔の愛読者の方からも、『乙女の港』を呼んで自分も真似をした、というお話を聞きました。
−「エス」が浸透する背景には男女が別学だったことも関係があるのでしょうか。
内田 と、言われてますよね。男女交際は結婚まで禁止されていましたが、思春期の女の子だから色々とときめくものがあるわけです。それで女の子同士が「エス」、男の子同士がBoyの「ビー」と。でも女の子の「エス」が「レズビアン」かと言えば、それとは少し違います。上級生と下級生の関係ですから、お姉様が卒業するとそのカップルは解消されるし、下級生であった人は上級生になって新たな下級生を見つける。そして皆さん女学校を出ると普通に結婚しますから、一つの女学生風俗ですね。


スールシステムそのものだ。
つまり「マリみて」の成因と言うか独創性は、「あのお話が現代にも通用する」という判断そのものにあったのだな。

凄いのは、「レズビアン&バイセクシュアルから見た『女の子同士』」と銘打って、その道の人に取材してきてるところ。回答者はフォトグラファーの戸ア美和氏と「フリーネ」編集者だった萩原まみ氏。(59ページ)

−個人的な意見なんですが、BLや百合は、同性愛という悩みを抱えながらも愛しあう。「ジレンマのある恋愛って素敵!」という要素もあるんじゃないかと・・・・・・。
萩原 「障害を超えて惹かれ合う、運命のふたり!」みたいな?現実には「障害があるから燃える」なんて人はまずいないけどね(笑)。
戸崎 ない、ない(笑)。「障害萌え」はない。むしろムカつく。自分としては、切実なことだから表現しているわけですよ。苦しくなく、みんながハッピーに生きられたらいいなと思ってるだけなんだけど、ハッピーじゃないからこそ萌える人がいるってすごいね〜。
萩原 でも、日本ではまだ同性婚も認められていないし、男女と同じように何の障害もなく恋愛している姿を描かれても、それはそれでリアルじゃないけどね。
戸崎 男女のストーリーだと、いろんなものが出尽くして、行き着くとこまでいっていて、でも、新しい表現を探している。百合でも、せっかく女の子同士のストーリーを作るんだったら、もっと飛んじゃっていいのに!って思うんだよね。当事者が「そうきたか!」ってびっくりするようなパワフルな作品があったら読んでみたいと思うんだけど。


以前、「まりあ†ほりっく」を批判したことがあるのだが、巷に溢れる百合作品を消費する合間にでいいから、この記事は読んでおくべきだと思う。


7月19日追記

「ヴィクトリア朝の女性の友情は性愛に近いものだった」という話を聞いたことがある。
確か新聞の書評欄で読んだ話でうろ覚えなので、試しにググってみたらこんなのを見つけた。

Henry James の The Bostonians と「ボストンマリッジ」(女性どうしの物語)

上から3分の2くらいの、米文学特殊講義の欄をご覧下さい。
どこの国でも似たようなことをやってるもんだ。

2009年7月5日(日)
近況

WOWOWで「簪(かんざし)」を観た。
1941年の清水宏監督作品。

「山のあなた 徳市の恋」('08)の原点である「按摩と女」('38)を撮った人、といえば解るだろうか。
私は、このリメイクについては以前かなり強く批判したことがある。

でも今思うと、この映画がなければ私は清水宏監督を知らなかったわけで、「簪」も「按摩と女」も観ることはなかった。そう考えれば、「原作を超えることを目指さないカヴァー」というものも全くの無意味とまで言うのは言い過ぎだったかもしれない。

この「簪」は、温泉街にやってきた芸者が温泉の中に簪を落としたことで起こる出来事を追っていく映画だが、作中で画面に写った文字を観客に読ませる、という描写が繰り返される。

手紙。ボケているが画面ではちゃんと読める。


電報。


子供のつけた日記。


現在の映画やアニメだったら、たいがいその文章を書いた人の声で音読してしまうだろう。だけどここでは、本当に観客が読み終わるまでの時間、画面フィックス・無音で文面を写すだけなのだ。
私は常々、あの音読というのはダサいなあと思っていたので、このクールさには驚いた。

・・・・・・のだが、もう少し考えてみれば、これはサイレント映画の文法をまだ引きずっているのかもしれない。弁士がついている場合はどうだったか知らないが、サイレント時代の観客にとって、画面の字幕を読むのは当然のことだったわけで。
技術の進歩は実は退歩だというのは本当なのかもなあ。


按摩つながりでもう一つ。
最近スカパー!で楽しく観ている「佐武と市捕物控」のワンシーン。



虚空から現れた手が灯明皿に火を!
・・・・・・ではなくて、袖の絵を描き忘れたかフレーミングを間違えたか。
昔のアニメは、かくもおおらかでした。作画崩壊とか言う前に古典を観ようよ。


「新エヴァ 破」についてはまたそのうち。

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