更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年1月26日(月)
テンエイティ

以前オーディオショウに行ったとき、会場にいたメーカーの方が、1080P出力のことをこう呼んでいて、なんかカッコ良かった。

SONYの1080P対応プロジェクタVPL-VW80を買って1ヶ月になる。
例によって、手持ちのソフトを観直してみると色々と新発見がある。

例えば「戦闘妖精雪風」(ブルーレイじゃなく最初に発売された単品DVD)を観直したときのこと。

4話の空母から離艦するシーンで、雪風のサーカスに熱狂する乗組員達。





上の画像だと左から3人目、下の画像だと右から2人目の、ゴーグルを外している人の顔をよく見て頂きたい。
目元と口元で肌の色が違うのがわかりますか?

つまり、普段ゴーグルをしているから目の周りは日焼けしていないことを表現しているのだ。
こういう芸の細かい表現て大好き。

解像度よりは色再現性が向上したから気がついたのだと思うが、こういうのがAVという趣味の醍醐味だ。

2009年1月21日(水)
「まりあ†ほりっく」を少し真面目に批判する

「まりあ†ほりっく」の第1話を見た。・・・・・・私は新房昭之監督の年来のファンだが、どうもこの作品笑えない。何が引っかかってるかというと、アレだ。この作品、セリフで「変態レズ」って言わせちゃってるでしょ。
「百合」と言うなら、まあいいのだ。やおいと同じレベルでオタのファンタジーと主張できなくもないから。
でもレズビアンてのは、広辞苑にも載ってるくらい定義の明確な概念である。
ちなみに1991年の第4版以降はこう書いてある。

   『同性愛 同性の者を性的愛情の対象とすること。また、その関係
    ホモ 同性愛
    ゲイ (主に男性の)同性愛者
    レスビアン 女性の同性愛者


で、1979年の第2版はこうだ。

   『同性愛 同性を愛し、同性に性欲を感じる異常性欲の一種
    ホモ 同性愛
    レズ・ゲイ 記載なし


私の記憶では、1991年の改訂の際に、この記述が問題になって訂正された。
ここから解るのは、「同性愛を公然と異常呼ばわりするのは、少なくとも真っ当な人間のやるべきことではない」というコンセンサスがこの時期にはできていた、ということだ。

どう考えても、「まりあ†ほりっく」の表現はギャグとして笑ってすませられるレベルを超えている。はっきり言って、自覚がないぶん暴力描写なんかよりよっぽど悪質だと思うのだが。まあこの先フォローされていくのかもしらんけど。

これまで何度も引用している「フロイト先生のウソ」(ロルフ・デーゲン 文春文庫)によると、性的嗜好は環境や体験とは何の関係もないらしい。以下、長いけど引用。

『シャーロッツヴィル大学の心理学者シャーロット・パタースンによれば、ゲイやレズビアンの人々も理想的に父親・母親の役割を果たすという。彼女の調査対象には、生まれて以来一度も「ノーマルな」親に育てられたことがない子どもも含まれている。
(中略)
アメリカでは10年ほど前から、同性愛者に育てられた子どもに関する調査がおこなわれている。全部で十数例ある調査のほとんどは、離婚して養育権を獲得したレズビアンの女性の子どもに関するものである。しかし、ゲイの男性とその子どもたちを調査対象とした三例も結果はまったく同じだった。
好きなおもちゃも、好きなテレビ番組も、憧れのヒーローも、同性愛者の親に育てられた子どもたちと他の子どもたちとで差は見られなかった。男の子らしさ・女の子らしさの点でも他の子どもと変わらないことも、心理テストによって証明された。同性愛的傾向についての差は皆無だった。ある最新の調査によれば、同性愛者の親に育てられたティーンエージャー18人の中に、自分がゲイあるいはレズビアンだと答えた者は1人もいなかった。これに対して、「ノーマルな」家庭環境に育ったグループでは、18人中1人が自分はゲイだと回答している。性格的特徴や社会的関係についても目立つ点はなかった。同年代の仲間との人間関係も良好で、からかいやいじめの対象になってもいなかった。
パタースンの最新かつ最重要のデータは、彼女が1995年から翌年にかけてサンフランシスコで37人のレズビアンの母親を対象におこなった調査の結果である。人工授精によって母親になった女性が大半を占めたが、なかには養子縁組によって子どもを得た女性もいた。子どもたち(年齢は4〜9歳)が全員、生まれてから一度もヘテロセクシャルの親の影響を受けていない点で、この調査結果は一層重要だと言える。
このような純粋な条件下でも、子どもの性的アイデンティティの確立に目立った点は見られなかった。性格的特徴や行動にも問題はなかった。それどころか、やっかいな状況での指導力を見るテストでは、レズビアンの母親はヘテロセクシャルの母親よりも好成績だった。
(中略)
特定のパートナーと同居しているレズビアンの女性は、ある点で理想的な親と言える。彼女たちは「結婚」に伴う義務を極めて公平に分担している。両者とも平等に家事を分担し、重要なことがらは必ず民主的に話し合って決める。一方がおもに生活費を稼ぎ、一方が育児をおもに担うといった役割分担はあるが、「稼ぎ手」の女性も普通の家庭の夫より子育てに積極的にかかわっている。子育てに携わる人間が多ければ、子どもの人格はそれだけ一層健全に育つ。
「親としての資質に同性愛者も異性愛者もないことは、こうしたデータから明らかである。反対意見を正当化するようなデータが今後提出されるとは考えられない」とパタースンは言う。「したがって、レズビアンやゲイの人たちが養親として不適格だという意見には、何の根拠もないのである」』(本書111-113頁)

ところで、面白いことに1955年の広辞苑第1版にはこう書いてある。

  『同性愛 性的対象として同性の者を選ぶこと。また、その愛情。
   ホモ・レズ・ゲイ 記載なし


日本はもともと同性愛に寛容なお国柄だから、この頃はむしろ鷹揚だったのかもしれない。
こんなもん、わざわざ大学図書館で昔の広辞苑調べてきた私も物好きだが。

ついでに、ウィキペディアの『ガールズラブ』の定義
これによると「百合」という呼称は1971年に伊藤文學氏が提唱したものとされているから、後からオタ業界の方が意味を付加していったわけだ。
なお、「となりの801ちゃん2」による「百合」の定義は、

  『可愛い女の子と可愛い女の子がうふふアハハきゃっきゃっ。

さすが当事者と言うべきか、恐ろしいほど正鵠を射た定義です。

2009年1月18日(日)
「殺人事件がわかる本」

先週は高踏的な本を紹介したので、今度はとことん形而下的な本を読んでみた。

題名からして三面記事的に香り立つ洋泉社ムックの「明治・大正・昭和・平成 実録殺人事件がわかる本」。



実は続巻の「この殺人事件はすごい!」を買うつもりだったのが、間違えてこっちを買ってしまったという。
もう一昔前に、「FBI心理分析官」が一大ブームを引き起こしたことがある。私は、この本を結局読んでいない。流行すると反発してしまうへそ曲がりのせいでもあるが、もう一つの理由は、この本の一見アカデミックな装いが嫌だったからだ。本そのものよりも、受容のされ方が気になった。
中身は結局のところ女性週刊誌的のぞき趣味なのに、何となく高尚なもののように見せるやり方が気にくわなかったのだ。ついでながら、この本のヒットは「羊たちの沈黙」と軌を一にしている。プロファイラーという職業もこれで一気にメジャーになった。しかし聞くところによると、プロファイラーというのはレクター博士のような精神科医や心理学者がなるのではなく、現場経験を積んだ捜査官が精神医学や心理学の勉強をしてなるものなんだとか。出典は忘れたので自信はありませんが。

・・・話が逸れたが、その点、上の本はとことん下世話で露悪的なところを隠そうとしない。ただ、下世話ではあるが下劣ではないのがポイント。

気が滅入ってくるので内容について詳述は避ける。ただ、こういうものを読んでいると、この世には邪悪というものが実在するのだ、と思わざるを得ない。

2009年1月13日(火)
「責任という虚構」

標題は、心理学者・小坂井敏晶の著書。

「責任」という概念の根拠について考察した本。東京大学出版会発行のれっきとした学術書だが、平易な文章・明快な論旨・興味深い実例の数々で、あまりの面白さにあっという間に読めてしまった。

これは恐ろしい本である。
いつだか、自己責任という言葉が流行した。
責任という言葉は、自由という概念とセットで語られることが多い。人は自由意志に基づき行為をなすので、その結果に対して個人的に責任を負う、というのが近代以降の人間観である。
だが著者はその常識に疑いを投げかけ、「責任」観念の根拠を考察する。

ミルグラムの服従実験という有名な心理学実験がある。またの名をアイヒマン実験という。
アイヒマンはホロコーストの責任者の一人であり、戦後アルゼンチンに潜伏しているところをモサドに誘拐され、イスラエルで公開裁判にかけられた。アイヒマンは何万人というユダヤ人を収容所に送った張本人でありながら、自分は命令に従っただけだと主張し続けた。

この裁判がきっかけで考案されたのがミルグラムの実験である。被験者は、監督者の命令に従って回答者に問題を出す。答えを間違うとスイッチを押して電気ショックを与える。間違うごとに電圧は上げられ、最後までいくと回答者は悲鳴をあげ、失神してしまう。・・・実は電気ショックに苦しむのは回答者の演技であり、試されているのは被験者が命令通り「拷問」を行うかどうか、である。

結果は衝撃的なものだった。

『40人の男性が実験に参加したが、そのうちの26人すなわち65%が最高電圧の450ボルトに到達し、実験者が止めるまで拷問を続けるという結果が出た。』

『「おぞましく意気消沈させる結果だった。(・・・・・・)少し前まで素朴な考えに囚われていた私は、邪悪な政府がアメリカ合衆国に生まれても、ドイツで維持されたような死の収容所を管理するために必要な道徳欠陥者は国中を探しても見つからないだろうと思っていた。しかしニューヘイヴン(実験の実施されたイェール大学の所在地)だけでも必要な人員を集められるだろうと今は思い始めている。正当な権威が発する命令だと思いさえすれば、ほとんどの人々はどんな種類の行為であろうと、やれと言われれば良心の呵責を感じることなく実行してしまうのだ。」(引用者注:「」内はミルグラムの著書から)』

人間は命令に従うことで、簡単に残酷になれる。これだけなら、人は他人や社会に影響されやすい生き物だ、という文脈でも理解できる。だが著者はさらに論考を進める。

『行為・判断が形成される過程は本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとくに推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物と言うよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。』

『理性的精神が行為を司るというデカルト的自己像は誤っている。そのような統一的視座はどこにも存在しない。意志決定があってから行為が遂行されるという構図は脳神経生理学によって否定されている。
ベンジャミン・リベットが行った有名な実験がある。手首を持ち上げるよう被験者に指示する。いつ手首を動かすかは被験者のまったく自由だ。我々の常識ではまず手首を挙げようという意志が起こり、その次に手首を動かすための信号が関係器官に送られ、少ししてから最終的に手首が実際に動く。ところが実験によると、まず手首の運動を起こす指令が脳波に生じてしばらく時間が経過した後で意志が生じ、そのまた少し経ってから手首が実際に動くという不思議な結果になった。(中略)まったく自由にかつ意識的に行為する場合でも意志が生じる前にすでに行為の指令が出ている。だからこそ、この実験結果は哲学や心理学の世界に激しい衝撃を与えたのである。』

『手首を動かすという単純な行為だけがこのような転倒した順序で生ずるのではない。「意志」は必ず無意識過程によって引き起こされるのであり、行為遂行の脳内信号が意志に先行する構図は人間の行うすべての行為に共通する。』

デカルト哲学の根本は「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉だが、その考えている「我」はすでに自由意志ではないのである。
ここまででやっと序章である。この調子で、著者は我々が信じている「自己」と「責任」という観念がいかに根拠に乏しいものであるか徹底的に暴いていく。
恐ろしい本、と言ったゆえんである。

『人間の意志から遊離する<外部>が道徳や責任体系を規定するならば、責任はどうあるべきかという問いに究極的な答えはない。社会・文化・歴史条件に拘束されながら、私たちにはこの答えが正しいと思われるという以外に、この問いに答えはありえない。
それではヒトラーやスターリンにどう対抗するのか。我々が生きる上で究極的根拠など必要ない。人間は社会的かつ歴史的な存在であり、それら外的条件を離れて人間はありえない。悪と映る行為に対して我々は怒りを覚え、悲しみを感ずる。すでに社会・歴史条件に規定された倫理観に則って我々は判断するしかない。むろん議論を尽くすことは大切だ。しかしどこまでいっても究極的な根拠は見つけられない。倫理判断は合理判断ではなく、一種の信仰だ。それゆえに道徳・社会規範は強大な力を行使する。』

<外部>とは近代以前は神であったし、近代以降は理性がとってかわった。実はそこには何もないのだとみんなが知ってしまったら、社会は立ちゆかない。だから<外部>の正体は徹底的に隠蔽される。
根拠のない世界で、それでも人間は生きていかねばならない。


『私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが主体の正体だ。比喩的にこう言えるかもしれない。プロジェクターがイメージをスクリーンに投影する。プロジェクターは脳だ。脳がイメージを投影する場所は自己の身体・集団あるいは外部の存在と状況に応じて変化する。主体は脳でもなければイメージが投影される場所でもない。イメージも、光が織りなす物理的布置と捉えるならば、それは主体ではない。主体はどこにもない。虹のある場所は客観的に同定できず、それを見る人間によってどこかに感知されるにすぎない。それと同じだ。主体は実体的に捉えられない。主体とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスを意味している。』

かみ砕いて言えば、人間は絶えず周囲からの刺激に反応しており、その相互作用の総体こそが自分なのだ、ということだろうか。だから人は、自らを「人間」と呼ぶ。
「だから人は〜」のくだりは、こやま基夫「めんたるダイバー」からの引用。さらに引用元があるのかもしれないが、一見たわけた作品でもこういうコトを言ってくれるから、こやま基夫は好きだ。

2009年1月6日(火)
見巧者

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

正月、実家に帰って本を漁っていたところ、阿刀田高の「ギリシア神話を知っていますか」(新潮文庫、昭和59年)が出てきた。阿刀田高は旧約聖書やアラビアンナイトなど海外古典文学の入門書を何冊かものしており、これもその一冊。タイトル通りギリシア神話のエピソードをいくつか紹介したものだが、その中にアンフィトリオンのエピソードがある。

アンフィトリオンの妻アルクメネは有名な美人だった。大神ゼウスは彼女に横恋慕するが、アルクメネは貞淑でも定評があり正攻法では見込みがない。そこでゼウスは、アンフィトリオンの出征中にアンフィトリオン本人に化けてアルクメネの寝室に忍び込み、想いを遂げる。一方アルクメネは、ことが済んだ後に、ゼウスが自分を狙っているとの噂を聞き、一計を案じて友人のレダと寝室を入れ替わる。案の定アンフィトリオンが現れるが、実はそれは予定より早く帰ってきた本人で・・・・・・という話。
ちなみに、このときアルクメネが身籠もったのが、かの有名なヘラクレスである。

このエピソードを基に、フランスの劇作家ジャン・ジロドゥ(1882-1944)は戯曲「アンフィトリオン38」を書いている。「38」は、「このエピソードは何度も劇化されている。自分の作品は38番目くらいだろう」とジロドゥが適当に付けた番号だとのこと。

このジロドゥ版について、阿刀田はこんな風に解説している。

『すべてが終わったあとで、ゼウスが現れ、自分が“アルクメネと関係を結び、その結果として神の子ヘラクレスが誕生する”と宣言する。
しかし、アルクメネは、ゼウスが交わったのはレダのほうだと思っているから、この宣言を信じない。
頑迷に神の言葉を拒否するアルクメネに対して、ゼウスは業を煮やして、
「強情な女だ。お前の幸福がどんな見せかけの上に組み立てられているものか、お前の操がどんな錯誤にもとづいているか、知りたくないのか。本当はこのわしがお前のなんに当るか、そのかわいいお腹になにが身籠もっているか、知りたくないのか」
と、迫る。
アルクメネは、それでもなお、
「ノン」
と叫んで、人間の矜持を守ろうとする。
劇がこのあたりまで進むと、それまでコキュ(引用者注:寝取られ男のこと)と人違いの喜劇であったものが、にわかに哲学的な様相を帯びて来る。
神が−この世を作った造物主が−どうあろうと、人間は人間の判断に従ってこの世を引き受けて行こう、という強い姿勢がうかがわれる。その判断は、はかない錯誤にしかすぎないかもしれないが、人間はそれを頼りに人間として生き抜くよりほかにないではないか。少なくとも二十世紀はそういう考え方の支配的な時代である。我々の世紀ではすでに“神は死んだ”のである。』(本書55-56頁)

私は戯曲には不勉強で、これがジロドゥ本人の意図した解釈か阿刀田によるものかは知らない。ただ、恋愛喜劇に哲学的命題を込めることができる、という点が強く印象に残った。

作品の価値は鑑賞者によって決まる−より正確に言うと、鑑賞者の「価値を読み解く能力」によって左右される。高尚な作品でなければ高尚なテーマを語れないわけではないし、逆もまたしかり。
手元にある本書は平成2年の版なので、私は大学生の頃に読んでいるはず。映画であれアニメであれ、私の創作物に対する態度はこの頃に形成されたように思う。

所詮、創作者にはなれない身である分、せめて鑑賞者として一流でありたい。



・・・とカッコ良く締めようと思ったのに、自宅に帰ってきたらスカパー!のケーブルの不調で1週間分の録画全部失敗。鑑賞力以前の問題だ!

今年もダメダメです。

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