更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2008年6月24日(火)
「山のあなた 徳市の恋」

石井克人監督の最新作を観てきた。

間抜けなことに知らなかったのだが、この映画は清水宏監督の1938年作品「按摩と女」の「カヴァー(リメイクでなく。石井監督の談)」なのだそうだ。私はオリジナルの方を知らないが、構図からカット割りからセリフまで、ほぼ同じなのだそうだ。
私は石井克人を、日本人には珍しい無意味でポップなコメディが撮れる人と思って、注目していた。前作の「茶の味」も、以前よりおとなしめに見えてもやはりオフビートな味があった。それが、なぜここまで枯れ果てねばならないのか。そりゃ作家が何を目指して何をしようが勝手だが、大衆娯楽である映画にはやはり時代性というものがある。「オリジナルを超えることを目指さない(監督自身が絵コンテ・台本に書いた言葉)」カヴァーとやらに、私は何一つ意義を見いだせない。観客は正直なもので、草g君の主演作だというのに、入りは五分というところだった。

古い映画が優れていてそれを修復したいというなら、ニュープリントなり新録音でもすればいいのだ。

作中シーン22の温泉街は現存しないので、5分の1のミニチュアを作り、人物はブルーバックで合成したそうだ。怪獣映画でも普通は10分の1であり、5分の1サイズというのは破格のもの、だそうだ。私に言わせりゃ、努力の方向性を徹頭徹尾、間違えている。

ガス・ヴァン・サントが、「サイコ」をオリジナルと同じカット割りと構図でリメイクして大顰蹙を買ったのを知らなかったんだろうか。
そのヴァン・サントの新作「パラノイド・パーク」も、観念的で気取っただけの駄作でした。「エレファント」は面白かったのになあ。ところでこの「パラノイド・パーク」には、電車に轢かれて上半身だけになった男が断末魔で這いずってくる、というホラーなシーンがあるのだが、あんなこと本当に出来るのか?小泉八雲の「かけひき」という短編を思い出しました。

私は普段「〜だそうだ」という言い方をしないように気をつけているのだが(文章が安っぽくなるので)、今回は筆に任せて使ってみた。この辺にやる気のなさを汲み取って頂けるのではないかと。

2008年6月19日(木)
ソクーロフ

アレクサンドル・ソクーロフ監督の「牡牛座 レーニンの肖像」('01)を観てきた。
作品もだが、パンフレットで監督が語る映像論が実に面白い。以下、太字は引用者による。

『映画人たちがかつて色彩の映画への到来を非常に恐れたのは偶然ではありません。芸術家はそれを制御し、パレットに対する完全な支配力を持っていなければなりません。映画は無数の技術的制約によって滅びてゆくのです。技術的な新現象の数々がもたらす自由さは、実際には偽りのものです。それらは逆に、拘束と、作家の空間の狭隘化を促すのです

CGが発達すればするほど映画がつまんなくなるのも宜なるかな。


『私は「生音」、つまり現場で記録された音の支持者ではありません。(中略)「生音」は俳優を制限し、彼が登場人物に対して行なう仕事の可能性を狭めるのです。
もしも録音が撮影の後で行なわれるなら、成果は遙かに良くなります』

この録音に関する態度もちょっと意外。アニメについても、プレスコならいいというものではないんだろうな、きっと。


『私が思うに、それ(撮影のために作られた舞台装置)は一見してできが悪く、不格好に見えるべきです・・・・・・。それは肉眼であまり明確に把握できるべきではありません。その物体の本質や、その映像における諸性質や、空間的な特性指数を再解釈して初めて、それに何らかの長所を見出すことができるのです。
(中略)
私の興味をひくのは、空間の平面的な性格であって、立体的なそれではありません。しかし自分のことを、映像を学び続け、画家の職業意識がいかに成長するかを緊張しつつ追跡し続ける人間と見なすなら、私は第一に「空間の深さ」に注意を向けなければなりません。本質的に、私は全てを平面と化さねばならず、既に芸術的基盤としての平面を相手に仕事をしています』

前半は、セットがあまり完璧に作りこまれていると、レンズ越しには逆に、空疎で生気がなく、写真めいて見えるという話なのだが、後段のセリフにはホントに驚いた。私も美術史に詳しいわけじゃないが、絵画が長年追求してきた課題の一つは、「2次元平面上に3次元空間を表現すること」のはずだ。
だからこそ、遠近法は大発明だったわけだし、キュビズムもその流れの中にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%BF%91%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%A0

アニメですら、90年代以降のキャラ表現は、いかに少ない線で立体的に見せるか、を追求してきた。

ソクーロフはそれとは反対に、積極的に空間を平面に移し替える作業をしているわけだ。


『ヴィデオ技術が、感性的な芸術的イデーを伝達しそれを具現化することのできる諸手段を極めて強大に備えているというのは、作り話です』

『映画が生まれるのは、映像が、あたかも大人になるかのように、自己拡張し、成長し始める時です。後続する写真的な加工の過程で、欠点と決別し、長所を身につけるのです。最初の映像は、別の映像、別の大きさの、基礎となるべきです。一つの映像の平面上に、下塗りの上にそうするように、後に続くものを描かなければなりません』

カットの一つ一つは絵画的に「キマった」ものでありながら、次のカットを誘導するものでなくてはならない、ということかな。何となく、タミヤが試作したミリタリーモデルのフィギュアを見た大塚康生氏が、「2コマ遅い」と言った、というエピソードを思い出した。

2008年6月14日(土)
「アフタースクール」

「運命じゃない人」の内田けんじ監督待望の2作目。

「運命じゃない人」の面白さはフロックではなかった。周到な伏線、緻密なプロット。今回は時制の入れ替えは控えて、正統派の堂々たる演出ぶり。この監督はどんな映画を観て育ってきた人なのか、とても興味がある。パンフレットのインタビューではそういうところは触れていなくて、不満が残る。
ひたすら娯楽に徹した映画なのに、
「1クラスに1人くらいは、おまえみたいな奴がいるんだよ。何もかも知ってるみたいな顔して、学校がつまらないとか言いやがる。学校なんか関係ないんだよ。おまえがつまらないのは、おまえのせいだ」こんな味のあるセリフをさりげなく言わせたりするのだ。
いい映画をつくるのに、CGもスターも爆発も必要ない。
必要なのはただ、工夫だけ。

一切の事前情報を入れずに観ることをお薦めするが、2つだけ注意すべきポイントを。

1 作中で話題の人物「あゆみ」とは誰?
2 「靴」をどこで使う?

「靴」とは、始まってすぐ話題になる。何かの伏線だというのはすぐ分かるのだが、こんなところで使うか!とさすがの私も驚いた。

2008年6月11日(水)
スカウトの死

木庭教氏が亡くなった。

後藤正治の名著「スカウト」で紹介された、プロ野球の伝説的スカウトである。

『衣笠氏ら発掘、伝説のスカウト木庭氏死去
6月8日22時18分配信 日刊スポーツ

 伝説のスカウトが亡くなった。広島、大洋、オリックス、日本ハムでスカウトとして数々の名選手を発掘した、木庭教(きにわ・さとし)氏が5月23日、岡山県倉敷市内の病院で肺がんのため亡くなった。81歳だった。葬儀・告別式は親族だけで済ませた。
 広島商を卒業後、証券会社などを経て広島のスカウトに。衣笠祥雄、高橋慶彦、長嶋清幸、川口和久、大野豊、正田耕三、紀藤真琴ら名選手をスカウト。無名選手を発掘する眼力は素晴らしく、広島黄金時代の影の立役者となった。広島退団後は大洋(現横浜)、オリックス、日本ハムでも活躍。
 またスカウト活動にも革命を起こした。日本で初めてスピードガンを導入。またスカウトが携帯するメモ帳タイプのスコアブックも考案した。
 1998年、日本ハムを最後にスカウトを引退。岡山県倉敷市で夫人とともに暮らしていた。

最終更新:6月8日23時11分』

己の眼と足を頼りに無名選手を発掘していく職人技。
磨き上げた眼力に絶対の自信を持てる、男として理想とも言える一生だったと思う。

ただ近年の野球を見ていて、木庭氏の晩年がどんなものだったのか、私は一つ心配している。

この10年間でもっとも面白い野球本「マネー・ボール」は、出塁率重視、という独特の方法論をもつオークランド・アスレチックスの名物GMビリー・ビーンが、ドラフト会議に臨むシーンから始まる。

『この議論の本質は、ジェレミー・ブラウンではない。どうすればメジャー・リーガーを発掘できるかという点だ。
スカウトたちの持論によれば、10万キロを動き回って、100件の安宿に泊まり、デニーズで数えきれないほど食事をして・・・・・・という涙ぐましい努力が、未来のメジャーリーガーを見つけるための最善の策になる。高校と大学の試合を4ヶ月で200試合見て、うち199試合はまったく時間の無駄であっても我慢しなければいけない。最大の収穫は、経歴が長いスカウトどうしの情報交換から得られる。残るわずかな収穫が、200分の1の試合にかかっている。球場に足を運び、安っぽい金属板のベンチシートにすわって、捕手のまうしろ4列目の席で観戦し、よそのスカウトが見落とした何かがないかと目をこらす。どの選手もいちど見ればじゅうぶんだ。「1回見れば、わかる。スカウト界の人々はそう信じています」とエリックは説明する。たった1回で、ほかに誰も気づかない何かを見抜く。もしも見抜けたら、そのスカウトの名を一躍高めるようなスーパールーキーを探し当てたことになる。
一方、ビリー・ビーンは、独自の理論にもとづいて未来のメジャーリーガーを探す。その鍵はポールのノートパソコンのなかにある。スカウトを全員クビにして、ポールのパソコンの情報だけでドラフト指名するという方法まで、いちおう検討してみたほどだ。インターネットのおかげで、全米のあらゆる大学生選手のデータをすべて閲覧でき、ポールはすべてを把握している。もちろん、パソコンに赤ランプがついていて出塁率が4割5分を超えた者がいるとサイレンが鳴る、などというわけではないが、実質的にはそれと似た確認作業を行っている。
データに信頼を置けるところが大学生選手のありがたい点だ。高校生選手にくらべて試合数がはるかに多く、対戦相手も充実している。サンプルの規模がじゅうぶん大きいので、真の実力がより正確に表れる。高校生選手よりも、正しく把握しやすい。データを冷静に分析すれば、スカウトの偏見に惑わされずに済む。スカウトたちはつい、たとえば背の低い右投げ投手をみくびってしまう。出塁率が高くても、痩せぎすで小柄な選手だと、ろくに評価しない。そして、太った捕手も・・・・・・。
(中略)
伝統を守りたがるスカウトたちは、ビリーやポールの流儀を“実績重視型”と呼ぶ。スカウトの仲間内では軽蔑的なニュアンスの言葉だ。新人選手はあくまで心の目で見て評価すべき、というのが旧来の野球人の常識だ。なのにビリーらは、野球選手のだいじな部分はほぼすべて、場合によっては性格までも、データのなかに見いだせると断言する。』

ビーンは、自身で選んだデータアナリストの意見を容れ、旧来のスカウトたちの意見と対決する。
要するに、足で稼ぐ古いタイプのスカウト活動から、データ重視、それも出塁率やDIPSといった新しい指標を用いる方法論へ、コペルニクス的転回があったのである。
これは2001年の話であり、その後日本のプロ野球にもこうした変革の波は押し寄せてきているだろう。

木庭氏の人生の最後に、その生涯をかけて磨き上げてきた方法論を打ち捨てねばならない、などといった事態が起きなかったことを願うばかりだ。
ご冥福を祈る。

2008年6月9日(月)
「狩人の夜」

「ミスト」に続けて、サスペンス映画に見えて実は宗教的寓話、という映画をもう一本。

シネマヴェーラ渋谷の特集上映で観てきました、「狩人の夜」('55)。

公開当時は不評だったが、トリュフォーらに評価されていまやカルト作品と化した傑作スリラー映画。

「ある死刑囚から、銀行を襲って手に入れた1万ドルを子供たちに託した事を聴いたハリーは、出所するや福音伝道師を装って未亡人と子供たちの住む町へ向かう。そして言葉巧みに未亡人に取り入り、結婚してしまう。彼の凶暴な正体を知り、母までも殺された幼い兄妹・ジョンとパールはふたりだけで逃亡を企てる。小舟に乗って川を下る兄妹はやがて身寄りのない子供たちの面倒を見ているクーパー夫人の家にたどり着くが、そこにもハリーは迫っていた……」


以前、「画面内の資源の有効利用」という話を書いたが、この映画もその見本の一つ。金の隠し場所は観客にはすぐ分かってしまうのだが、あえてそこをひっぱらずに、いつハリーにバレるか、というサスペンスに切り替える手際のよさ。釣り針や戸棚、といった伏線・小道具のみごとさ。
サスペンス映画としても一流なのだが、子供たちが船に乗って逃亡するシーンから、映画は俄然宗教的な意味合いを帯びてくる。作中でも言っているとおり、旧約聖書「出エジプト記」には、赤子のモーゼが船に乗って難を逃れる場面がある。これはまるで、汚れに満ちた現世から、彼岸に渡ってイノセンスを守ろうとしているようだ。
しかし、物語はそこで終わらない。
納屋で子供たちが休んでいると、馬に乗ったハリーが地平線に姿を現す。ジョンは思わず、「あいつ、眠らないのか?」とひとりごちる。
映画館では笑いが漏れていたが、これは実は重要なシーンだ。
むろん、ハリーは眠らない。
なぜなら、彼は冷徹で理不尽で平等な、「死」そのものだからだ(コーエン兄弟の「ノー・カントリー」に登場する殺し屋シュガーは、たぶんこれが原型)。伝道師の姿をしているのも、そのためである。

死は、いつの間にか忍び寄ってくる。
死から逃れるには、クーパー夫人のように注意深く、慎ましく、慈愛をもって生きなければならない。
クーパー夫人は、兄妹に同情もしないが、仕事と生きる術を教える。
ハリーが逮捕されると、掌を返したようにリンチに向かう「良き市民」に迎合しない。
自身の身は自分で守り、子供たちを慈しみ、世間に流されず、人に迷惑をかけない。堅実で独立した、人間としてあるべき理想像の一つである。そういう者こそが善悪を見抜き、死から身を守ることができる。

ラストシーンで、ジョンはクーパー夫人に、クリスマスプレゼントとしてリンゴを渡す。
聖母に罪の果実=原罪を返したのである。


なお、この作品も、これだけ濃密でありながら93分しかない。くどいようだが、映画を2時間以内に収められない監督は、こういう作品を観て勉強し直すように。

2008年6月3日(火)
「ミスト」(いっぱいネタバレ)

かのスティーブン・キング御用達監督フランク・ダラボンの最新作「ミスト」を観てきた。




・・・いや、ほんと凄いっす。

「愛する者を我が手にかける」心理とは、いかなるものか。
「ミスト」は、それを解剖学的冷酷さで淡々と描写していく。
怪物の手にかかり、酸鼻を極める死に様をさらしていく人々。カメラは、悪趣味なほど執拗にその有り様を映していくのだが、そのことがラストシーンに重要な意味を持ってくる。

作品中盤で、重傷を負い、苦痛を長引かせるより殺してくれと懇願する者があらわれる。
彼を救うため、主人公たちは薬品をとりにドラッグストアに向かうが、大勢の犠牲を出して失敗する。けが人は、苦しみ抜いて結局死ぬ。
ドラッグストアに向かう時、主人公は心配する息子に、「トライアルだ」と軽口を叩く。字幕ではカタカナでトライアルと出るので、タイムトライアルの意味に取れるのだが、実は「trial」とは、宗教的試練の意味があるのだ。
危険を冒すのは、神の救いを求めての試練であり、それに破れた時、彼らは真の絶望に堕ちた。

そんな酷い末路をたどるくらいなら、せめて自分の手で。
それが純粋な愛に発する想いだからこそ、主人公が最後に堕ちた地獄が、より戦慄すべきものなのである。

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