更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2008年7月28日(月)
「スタトル3」

スタトレ、ではない。「スターシップ・トゥルーパーズ3」のことである。
某金魚映画をスルーしてこんなもん観に行ってしまうあたり、人として激しく間違っている気がする。しかし、だ。ついにパワードスーツが出るというのに、ガンダム世代が観に行かないなどということがあってよいものだろうか。たとえ銀座シネパトス単館上映であろうとも。

いや、実際には新宿でもやってるんですがね。

さて、いきなりネタばらししてしまうと、正確にはマスタースレーブ型のパワードスーツではない。上半身に搭乗して思考制御で操る、言ってみればAT型である。せっかく手足があるのに格闘する場面はなくて、「ガンヘッド」なみに人型の意味なし。以前も書いたことあるけど、人型には兵器としての実用性は皆無なのでその辺は目をつぶろう。

物語は、重要人物を乗せたシャトルがバグの星に不時着し、パワードスーツ部隊が初の実戦投入で救出に行くという話。したがって、出番は最後だけ。

周知のように第1作は軍事独裁国家が作るプロパガンダ映画のパロディとなっていたわけだが、今回もその作風は健在。面白いのは、今回は宗教方面に走ってることだ。

不時着したクルーの中に信心深いスッチーさんがいて四六時中祈りを捧げている。クライマックス、バグの大群に取り囲まれて絶体絶命というときに祈りを捧げると、それに合わせてパワードスーツが降下してくるのだ!つまりは黙示録に出てくる神の軍団として描かれているわけだ。
私はギャグだと思って笑っちゃったんだけど、笑ってる人いませんでしたね。

ちょっと深読みすると、9.11以降キリスト教原理主義国家と化して異教徒と戦争しまくっているアメリカを笑いのめした映画なのだ。
ただ「チーム・アメリカ」みたいにギャグに徹しているわけじゃないので、そこが伝わりづらい。むしろ今アメリカで観たら、真に受けてしまう人が結構いそうである。

それにしても「宇宙の戦士」のあのイラストが「ガンダム」に影響を与えたって本当に本当なのかね?
「宇宙の戦士」は一度アニメ化されているのだが、アメコミ調のキャラとかエイリアンの造形とかあまりにアレなので、さすがにDVDも出てないらしい。映像化という意味では、きお誠児がマンガ化した「始まりの惑星」がベストだと思うのだが、どうでしょう。パワードスーツにも説得力あるし、ちゃんとクモだし。まさか作者がエロマンガ家として生き残るとは思わなかった。

しかし「宇宙の戦士」で検索かけたら「宇宙戦士バルディオス」まで出てくるのはやめてほしい。


7/29追記
昨日書きそびれたこと。

スプラッタ度も3割増し。バグが、脚に生首を突き刺したままで歩いていくグログロなシーンあり。
ところで、以前「誰にも書けなかった戦争の現実」という本を紹介した。
この本の中で、「戦争映画は長らく、そのスタンス−好戦的であれ反戦的であれ−に関わらず、損壊した死体の描写を避けてきた」という指摘がある。

このタブーを破ったのが、ご存じスピルバーグの「プライベート・ライアン」('98)である。冒頭のノルマンディ上陸戦で、首も手足も飛ぶわ内臓はもろ出しだわ、の屍山血河を見せつける。私個人としてはこういう直接的な描写はあまり上等なやり方には思えないのだが、戦争映画の歴史の中ではそれなりにエポックメイキングな出来事だったわけだ。
そこで気になったのが、第1作「スターシップ・トゥルーパーズ」である。この作品も、SF仕立てとは言え戦場における人体破壊を執拗克明に描いていた。調べてみると'97年公開で、「プライベート・ライアン」より早い。だから「プライベート・ライアン」に影響を与えたなどと短絡する気はないが、スピルバーグとバーホーベン、2人の天才が同時期に似たようなことを考えていたと思うだけでも面白い。「戦争映画のタブーを破った」という意味で、映画史上意外と重要な位置にある作品と言えるかもしれない。

それにしても、「プライベート・ライアン」ってもう10年前の映画なんですねえ。

2008年7月25日(金)
リュック・ベッソン

この人は、史上最も過大評価されている映画作家である。
あまり悪口を書かないようにしている私だが、この人については「映画作家」という言葉を使いたくないくらいだ。

先日の続きで言えば、「ジャンヌ・ダルク」がひどかった。ミラ・ジョヴォビッチの大根ぶりには目をつぶるとしても、50年前の映画とまるきり一緒というのはどうよ。史実を元にしているから同じになるというものではない。切り口次第で、いくらでも現代的な映画になりうるのだ。

あらためてこの人のフィルモグラフィーを振り返ると、ほんっっっとにロクな映画を作っていない。
「taxi」に「トランスポーター」に「ヤマカシ」に「WASABI」(笑)。実際、この人が映画作り続けられるのが不思議でしょうがない。

強いてよさげなところを探せば最初期の3〜4作品だろうけど、出世作の「グレート・ブルー」('88)にしてからが、ダイビングにも海豚にもジャン・レノにもましてロザンナ・アークェットにも興味のない私には、縁のない映画だった。
一応世評の高い「ニキータ」('90)と「レオン」('94)。けなすのも大人げないとは思うけど、この両作の意義は、「たとえ思いついても恥ずかしくて今どきやらないことを、臆面もなくやってしまった」事にある。作家リュック・ベッソンの真価は、むしろこの「臆面もなさ」にあるのだ。
中学生のとき見た夢を映画化してしまった「フィフス・エレメント」('97)がいい例である。
そんなことはデビッド・リンチクラスになってからやってくれ。


で、最新作の「リボルバー」。マドンナにとっつかまって落ちるところまで落ちてしまったガイ・リッチー監督が犯罪アクションに帰ってきて、起死回生なるか!と期待したんだが、製作がリュック・ベッソン。そのせいかどうかは知らないが、いやひどい映画でした。
この話はまたそのうち。

2008年7月23日(水)
聖女映画2本

例によってBSで、「聖処女」('43)「ジャンヌ・ダーク」('48)と古い映画を続けて観る機会があった。

「ジャンヌ・ダーク」(ダルクではなくダーク表記)は、言わずとしれた英仏百年戦争の、フランス救国の聖女の伝記映画。イングリッド・バーグマンがジャンヌを演じている。
「聖処女」は、聖地ルルドの泉で最初に聖母マリアの姿を見たと言い出した女の子の話。

「ジャンヌ・ダーク」は、戦闘シーンは前半だけで、後半は裏切りで英軍にとらわれたジャンヌの裁判の様子が描かれる。ここでのジャンヌは、ひたすらに神の啓示を受けたと繰り返すばかりで、現代人で異教徒の私には、正直デンパな人にしか見えん。あちらの人々にはこれが崇高に見えるのかもしれないが。
これに対して「聖処女」の方は、「ジャンヌ・ダーク」より5年も古い映画なのに「聖母を見た少女の話」ではなく、「聖母を見たと言い張る少女に振り回される周囲の大人たちの話」としてコメディタッチで描いているのである。聖地なんかできたら鉄道が通らなくなるので何とか証言を撤回させようとする町長。別件逮捕で取り調べる警官。精神鑑定にかける医者。出世に利用しようとする聖職者。自分には奇跡が起きないので嫉妬のあまり辛く当たる尼僧。実に現代的な視点である。
戦争中にこんな映画を作っていたアメリカの懐の深さには、つくづく頭が下がる。

それにしても、50年も後に「ジャンヌ・ダルク」('99)をそのまんま作り直したリュック・ベッソンの厚顔無恥には呆れるよ。

2008年7月17日(木)
「攻殻機動隊」2.0補足

昨日書きそびれたこと。

・ラストシーンで、バトーのセーフハウスにある小物なんですが(画像は旧作のもの)。



下から上へ向かう球体が、「上部構造へのシフト」を暗示する小道具として機能しているんですね。

・エンドクレジットに、「(魚の)アロワナCGI」という役職があって笑った。

2008年7月16日(水)
「攻殻機動隊2.0」

行ってきました。

前評判通り大々的にデジタルエフェクトをかけて、「イノセンス」の画面に似た感じになっているんだけれど、むしろいかに「セルのなまめかしい色合いを生かすか」に腐心しているような印象を受けた。

最大の変更点である人形使いの声。
家弓家正から榊原良子へ変更され、作中で人形使いを表す人称代名詞も、「彼」から「彼女」に変更になっている。前作では「結婚」が隠れモチーフだったのだが、今回は「融合」に焦点を絞ったわけだ。

パンフレットの監督インタビューより。
「人形使いを家弓さんから良子さんに変えたのは、監督として僕の求めた唯一の仕掛けといってもいいですね。絵的な仕掛け・音的な仕掛けは林君(弘幸。CGIスーパーバイザー)や江面君(久。ビジュアルエフェクツ)、ランディ(・トム。サウンドデザイナー)やトム(・マイヤーズ)に存分にやってもらった。基本的には、自分たちの好きなようにやっていいよってスタンスでした。だからせめて、僕も一つぐらいは<個人的なおみやげ>が欲しかった。以前から人形使いは『良子さんがやったらどうなるんだろう』って考えていました。一体どんな人形使いになるんだろう、どうしても見てみたいっていう非常に個人的な欲求があったんです。家弓さんがいいっていうのは分かり切っている。それとは全く別次元なんです。
 良子さんがやると、もっと何か匂ってくるものがあるんじゃないかと期待しました。結果、僕の印象としてはかなり色っぽくなった。誰かが言ってたことだけど、バトーは素子を男に寝取られるのならともかく、女に寝取られたら我慢できないんじゃないか。ムカつき度が違うはずだと。そんなこともあって、両方聞いてみたかったんです。もちろん、家弓さんは家弓さんですごくいい。でも良子さんでまた、全く違う試みが出来たということです」

何もそこまで追い込まなくても。
なお、相互ダイブのシーンで、榊原さんの声でしゃべる少佐も見られるのが、お得。

・音響がやっとマルチチャンネル化。何度もソフト化されていながら音響だけは2チャンネルのままなのは、業界七不思議の一つだと思っていた。やっとあるべき姿になった。

・不要と判断されたカットがいくつか削られているらしい。例えば、スキューバダイビングのシーンで水面に浮上してきた少佐が、横を向いてボートを眺めるカット。なんてことないけど好きなシーンだったので、ちょっと残念。にもかかわらず、上映時間は3分延びて83分。それでも83分しかない!

・ラストカットの街の夜景のシーンもCGに差し替え。このカットが、冒頭の神経繊維のカットとリンクしているのに注意。

2008年7月14日(月)
川尻善昭

待望のプラスマッドハウス2巻 『川尻善昭』から。太字は引用者による。

−イメージカラーとして青を使い始めたのも、この頃(『妖獣都市』の監督時)からですか。
イメージカラーというよりも、都会の冷たい空気感、サスペンスが感じられる空気感を表現するならやっぱり青。自分でも青が好きだったし。それから、当時はフィルムの感度が、現在と全然違うじゃないですか。現像所でいくらタイミングをいじっても、出てこない色は出てこない。中間色は現像の仕方によって、どんな色に変化するか分からない。ブルーが、一番安定して出る色なんだよ。
−そういう技術的な裏付けがあって、青を使っていたんですね。
ブルーと赤ね。何かクリアな感じ、冷たい透明感がほしい時は、これしかないみたいな感じで使ってたんです。それとセルの色も、割とブルー系は多かった。
−絵の具の種類が?
そう。だから、消去法で青を使っていたというのもある。逆に、今はほとんど使わなくなった。ちゃんと緑とかも出るようになったし。
−色が出るようになったのは、デジタルになったからですか。
デジタルになってからは、特にそうなんです。フィルムでも、「(バンパイアハンター)D」の時は、大分感度が上がって、中間色が出るようになっていた。だから、随分色の使い方が変わってるはずなんだけど。「妖獣都市」の頃にああいった色遣いだったのは、そういうハードとしての問題があったからなんです。限定されたハードの中では、非常に効果的な色だったというのが、僕にとっては一番大きかった。


あの印象的な原色の青の多用は、こんな理由で。

−作品を作るうえで「スタイリッシュである」ということは、かなり意識されてることなんでしょうか。
それは結果的にそうなっているだけで、初めっからスタイリッシュにしたいっていうことではないと思うんです。たぶん、それは必然性からきたことなんですよ。(中略)
自分が描きやすい構図、自分で気持ちいいって思う描写が集まって、結果的にそうなっている。そして、自分が画面を作ったり、カットを繋いだりするのは、自分の中の必然性の元にやっている。「こうするべきだ」と思ってやっているんです。
−アクション演出についても、当然、ご自身の中の必然性があるんですね。
いかに「見せないで感じさせるか」を大事にしている。そのへんは出崎演出から、非常に大きな影響を受けているんだと思う。客観的なカメラでバトルするシーンなんて、どんな凄い生身の人間が−まあ、ブルース・リーがやれば別かもしれないけど−やったとしても、そんなに迫力って出ない。それよりは、アクションの間を抜き取って繋げていく方が効果的に見せられる。それが自分が欲しいアクションだと思う。特に『獣兵衛』にしても『妖獣』にしても、バトルをする奴は人智を超えた凄い動きをする連中なわけで、その凄さを見せるには、動きが全部繋がったかたちで見せないで、ショットで繋いでいく。それが自分では気持ちいいなあと思える。だから、アクションの中で、ガッと踏み出す足のアップを入れることがよくあるけど、あれが自分のテンポなんだよ。大体アクションは音で繋げてるんだけど・・・・・・。
−音ですか?
音です。『獣兵衛』で夢十郎と獣兵衛がつばぜり合いをするアクションがあって−作画は三原(三千夫)君がやってくれて、格好いい動きをつけてくれたんだけど、タイミングが遅いと思った。俺のイメージだと、あれだけ凄い奴らのチャンバラっていうのは、1秒に5回打ち込むんだよ。
−(爆笑)1秒に5回ですか!
そう言ったら、三原君が「動きが繋がりません!」と言っていた。繋がらなくてもいいの。刀と刀を合わせた時の火花が飛べば、凄い奴らが戦ってると思えるから。1秒間に5回。そんな風に音でタイミングをつけていく。それが自分にとっては生理的に気持ちいい。そういったことが多分、骨格になっている。


近年のアクション作画で一番凄かったのが、『精霊の守り人』第3話のチャンバラシーンだと私は思っているのだが、このシーンについて、神山健治監督がインタビューで、本当の超一流同士の戦いというのはどんなものか、考えながら芝居を付けたという意味のことを言っていた。バルサが短槍で敵の剣を受けると、敵は短槍を握る指を狙って剣を滑らせ、バルサは槍から指を放してそれをかわす、なんて芝居が入っているのである。言われなきゃ分からんて。

それに比べると、川尻監督の方法論は極めてアニメ的−写実的でないという意味で−と、言える。とすると、川尻作品を、普段アニメを見慣れていない人でも楽しめると評する言説をよく見かけるが、これは根本的に間違えていると思う。

−リアルに描写することは、必ずしも大事じゃないんですね。
うん。実際と同じ速さだと遅く見えて、逆に嘘っぽくなってしまう。僕にはそう思える。だから「D」に出てくる馬の走りなんて、普通の馬の何倍も速い。「獣兵衛」でもそう。普通の馬のタイミングにすると、他の動きとバランスが取れなくなる。要するにアニメーション自体が、凄くデフォルメされたもんで、全てが作られたものじゃないですか。だけど、普通の映画のように観てほしいし、出てくるものを、そこに存在するものとして捉えてほしい。そのためには、全部について嘘をつく必要があるんです。馬の走りだけ本物になっちゃうと、他の全てが嘘だということが分かってしまう。だから、全部をリアルに受け止めてもらうためには、そういう統一された嘘のつき方というか、デフォルメの仕方をしなくてはいけない。自分の中で、しっかりした基準を作っていかないと気持ち悪い。それは馬だけではないんです。例えば、僕の作品は、キャラクターの足が長いじゃないですか。
−長いですね。
俺の倍はあるっていう長さでしょ(笑)。そうすると、普通のタイミングで歩くと、「ちょこまかした奴」になっちゃうのね。Dみたいな奴だと、凄く遅く歩かせないといけない。普通の歩きにしちゃうと、なんか情けなく見えちゃう。そういうバランスの取り方は気にしてるところだよ。
−一つの美意識みたいなもの。この場合、美意識という言葉が正しいかどうか分かりませんが、一つの法則に則って作品が作られてるのが理想なんですね。
やっぱり、それは必然性なんだと思う。


馬の作画については、「ハイランダー」のパンフレットでもこんな話をしていた。

−そういう中で、監督自ら原画を担当されたカットがありますが、それは何かこだわりがあったんですか。
いえ、僕はどちらかと言えば楽をしたいずるい人間ですから、こだわりはなく、別にうまい人がやってもらえば全然構わないんです。ただ原画さんの資質を見渡したときに、「じゃあ、俺がやった方がいいか」となることがあるだけで、むしろ台所事情っぽいんですよ(笑)。特に「馬」ですね。僕は『マルコポーロの冒険』という作品で馬やラクダを研究するチャンスがあったんですが、今はそもそも馬が出てくるアニメ作品が少ないんです。そうすると教科書の基本形でしかあがってこないんですが、そこにデフォルメが必要なんですよね。僕としては『駅馬車』や『七人の侍』の馬の感じとかイメージがあるわけで、乗ってるキャラクターのプロポーションで馬の等身も動かし方も変わりますから、物量をこなすには自分で描くしかなかったということです。


ついでに、『THE COCKPIT』の仕事でも、川尻監督の「成層圏気流」と今西隆志監督の「音速雷撃隊」の空戦シーンを比べると面白い。川尻監督の空中戦はものすごくスピーディなのに対し、今西監督の方は動きがのんびりとしている。実はこれは意図的なものだという。だいぶ以前にムック本で読んだ記憶があるのだが、プロペラ機同士の空中戦はこんな風に見えるはず、と故意にゆっくりとした動きをつけたのだそうだ。
どちらかが正しいというものでもなく、どちらが気持ちいいかという価値観の問題である。


最後に、『バンパイアハンターD』音響監督・三間雅文氏のインタビュー。

−1ヶ月半の間、向こうでどんな作業をされていたんですか?
効果音が全然上がってこなくて心配だというので、現地へ行ったんです。そしたら、ものの見事にハズれていて。「どうすればこんな音ができるんだ」と思うぐらいペラペラだった。(中略)最たるものが、ラストに出てくるロケットの音。川尻さんが「ロケットが飛ぶことができず、悲しい悲鳴をあげているような音を付けてくれ」と言ったら、アメリカ人スタッフが「意味が分からない。ロケットは鳴かない」って(笑)。いろいろ説明するんだけど、全然思い通りのものにならない。そしたら急に川尻さんが「おまえもなんとか言え!」と言うので、僕が「イルカとクジラの鳴き声を用意してもらっていいですか?」と言って、その音をロケットの打ち上げ音に被せたんです。川尻さんは凄く気に入ってくれて、アメリカ人も「なるほど、確かに悲しく聞こえる」と。川尻さんには「お前がいていいと思ったのは、この時が初めてだ」って言われました(笑)。(後略)

日本人の脳は虫の音や鳥の声を言語野で処理するのに対し、西洋人の脳は単に雑音として処理してしまうと言う。この話、本当は与太らしいのだが、やっぱり事実かも、と思わせるエピソード。

2008年7月7日(月)
『ef -a tale of memories. 』第5話

DVDで観返していたら、第5話「outline」に面白い表現があった。

いや、面白い表現がてんこ盛りの作品ではあるが、そういう「分かり易い」面白さではないので、紹介したい。ググってみたかぎりでは、まだ指摘されていないっぽい。

新藤景が、広野に急接近する宮村みやこに、話があると連れ出すシーン。



景は、「成績の悪い広野を邪魔しないでほしい」と、嫉妬という本心を隠して頼みごとをするが、みやこは「それは広野君自身の問題」と、あっさりといなしてしまう。

注目すべきは、背景の雲の動きである。


カメラが景を写しているときは、雲が画面下から上へ動いている(動画でお見せできなくてすんません)。

ところが、カメラが景の視点でみやこに切り替わると、雲が静止しているのだ。実写では合成でもしない限りありえない表現である。


みやこはさらに、「景は努力すべき部分を間違えている」と追い打ちをかける。

想像するに、この雲の動きが、景とみやこの心理状態を補強しているのだ。
流れる雲は、図星を衝かれた景の動揺。
不動の雲は、景に立ちはだかるみやこの絶対的優位。

また、景は横からの客観的なアングルなのに対して、みやこは景の視点で正面から、という対比も効果的。

鬼面人を驚かす奇抜な構図や色彩も面白いが、こんなところにも工夫がある。これが、『ef -a tale of memories.』という作品の懐の深さなのである。


脚本:山カツヒコ
絵コンテ:草川啓造
演出:飯村正之

え、草川啓造って、「いぬかみっ!」の人ですか!?

2008年7月5日(土)
ソフトパワーというもの

最近の勉強から。
政治学の分野で、「国力」に近い概念でパワーという言葉を使う。
しかし実は、パワーとは定量的に定義できるものではない。

「A国がB国に対して働きかけた結果、B国がそうでなければとらなかったであろう何らかの行動をとったとき、A国はB国に対してパワーを行使した」というのが、正確な定義。

なぜこんな抽象的な定義をするかというと、国力は経済におけるマネーのように比率や差異といった正確な基準がないからだ。また、マネーは、誰が、誰に対して使用しても、どのような財やサービスと交換しても常に効果は一定である。しかし、パワーの場合は、誰が持っていて、誰に対して使おうとするか(例えば国家か国際機関かテロリストか)、どのような問題に対して使うかで、その効果が異なってくる。
そういうわけで、地理的条件、天然資源、工業力、軍備、人口といった物理的リソースの合計として、定量的にパワーの大小を定めるのは難しいのである。
もちろん無関係ではないし、以上はあくまで理論上の話で、実際には国力の大小というのは、直感的に分かるとおり確かに存在する。

さて、パワーの行使態様にはハードパワーとソフトパワーがある。
ハードパワーとは、「ある国が、脅迫や報奨によって他国に働きかけ、そうでなければしなかったであろう事をさせる能力」早い話が「アメとムチで他国に言うことを聞かせる能力」である。通常国力と言えば、こういうものと理解されてきた。
一方のソフトパワーというのは、「ある国が、自国にとって好ましいことを、他国も好ましいと思うようにさせる能力」「自らの魅力によって、他国が自国の主張や行動に自然に従ってくれる可能性を高める能力」である。
もすこし分かり易く言うと、「B国が知らず知らずのうちにA国の影響を受け、それによってB国の好みや利益が変化し、A国にとって望ましいことがB国にとっても望ましいと考えるようになったとき、A国のソフトパワーがB国に及んだ」のである。

で、ここからが本題なのだが、よくあるのが「ハードパワーは軍事力で、ソフトパワーは経済力」という誤解。例えば経済制裁は、立派なハードパワーの行使である。

ソフトパワーの構成要素とは、例えば他国が憧れる社会制度や政治制度・理念であったり、魅力的なポップカルチャーであったり、多国籍企業であったり、説得力のある経済発展モデルであったりする(護送船団方式とか?)。

重要なのは、文化の魅力はソフトパワーの要素ではあるが、イコールではない、ということ。安全保障・政治学の界隈では、日本のソフトパワーはその潜在的な文化力に比べると低いレベルにある、と言われる。理由はいろいろ考えられるが、日本という国がどういう理念・価値を掲げているのか見えにくいとか、国際協力に対するプレゼンスが経済力に比べて非常に小さいとか、情報発信が不十分で、その結果他国に対して開かれているイメージがないとか、多数指摘される。
何にせよ、情報化が進むとコンテンツを有している者が有利だとは言うが、ソフトパワーという言葉を使っていたら、ちょっと眉にツバして聞いていた方がよろしい。そんなわけで−やっとホームポジションに戻ってきたが−官側主導のアニメ産業育成というのは、私はどうにもうさんくさく感じてしまうのでありました。

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