更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年12月28日(金)
冬コミ
なんとなく書きそびれていたけど、冬コミでbonoさんの同人誌に寄稿させて頂きました。
http://xn--owt429bnip.net/

31日はお手伝いで売り子をしてます。

年内の更新はここまで。一年間おつきあいありがとうございました。
皆さま良いお年を。
2007年12月25日(火)
最近の読書から

まず「誰にも書けなかった戦争の現実」(ポール・ファッセル)。第二次世界大戦の戦勝の影であまり語られることのなかった、連合国側の数々の失策、流言飛語、軍内部の陰湿ないじめ、酒と性に溺れる兵士達、そして精神的な荒廃を活写した本。

個人的に印象深いのが、戦時中の映画に触れたこのくだり。

『一九四二年になると、本当の戦争についてそれなりに知っている兵士が映画の観客の一部を占めるようになり、そして戦時のきれいごとの仮面は少しずつはがされていく。「どちらで戦う」では、ノエル・カワードは本物の臆病者(カワード)を演じている(もちろんのちに名誉を回復するという筋である)し、アメリカ兵の戦闘を描いたはじめてのアメリカ映画である「ウェーキ島」では、海兵隊少佐と民間の土木作業班の班長との間の激しい口論が描かれる。「リアリズム」が重んじられはじめたのである。一九四三年のイギリス映画のヒット作は、公式記録映画「砂漠の勝利」だった。二館同時上映するほど人気があったアレクサンドリアでこれを見たイギリス空軍パイロットは、「こんな映画は初めてだ」と日記に書いている。「俳優も恋愛も、筋もなし。トビネズミが住むばかりの砂漠での作戦をそのまま映した実話である。イギリス人であることをとても誇りに思った」。しかし一九八一年、この映画を制作した陸軍映画班をテーマにしたBBCテレビの放送も明らかにしていたように、たとえ「ドキュメンタリー」を撮る場合でも、映画人の本能として「効果」を求め、多少事実と違っても感動的に作りたいという気持ちはなかなか抑え難いのだという。この一九八一年の番組では「煙の中、砂漠の上を銃剣をつけたままの銃をかついで暗い顔で行軍していく兵士を映した場面は、すべて歩兵部隊の基地で撮影されたもの、という事実を当時のカメラマンは隠そうともしない」と言っている。このカメラマンはさらに、こうした動機を映画の立場から説明して、制作者達は「良い画を撮るという観点から理想的な状況を設定しようとし・・・・・・われわれが歴史の本で習ったような戦争を再現しようとした」と語っている。つまり「現実」は、われわれがあらかじめ持っている枠組みにはめられる。そうでないと観客には本物らしく見えないというわけである。
(太字は引用者)

映像は決して現実を映さず、人は見たいものしか見ない。

もう一つ、「奇術師」(クリストファー・プリースト)。
映画「プレステージ」の原作。以前私はこの映画について、「奇術の映画と思いきやトンデモ科学映画」と書いているが、実はこの作者はれっきとしたSF作家で、本作は世界幻想文学大賞の受賞作だった。

その中で、主人公は奇術についてこんなことを述べている。

『エンジャはもっぱら奇術のタネに関心を抱いていた。奇術師が「ネタ(ギミック)」と呼んでいるものに。もしひとつのトリックの成否が奇術師のテーブルのうしろにある隠し棚にかかっているなら、そのことだけがエンジャの関心の焦点になり、それをどのような創意に富むやり方で見せるのかはどうでもよかった。われわれのあいだにほかにどんな反目の原因があったとしても、そこがエンジャの根本的な欠点であり、奇術技術の理解に対する限界であり、われわれの争いの中心であった。奇術のすばらしさは専門的なタネにあるのではなく、それを実演する技能にあるのだ。
(太字は引用者)

「見せ方」こそが本質。これは、奇術を映画に入れ替えてもそのまま通用する言葉である。草創期の映画が、舞台上で演じられる奇術の一種だったことを考え合わせると、なおさらに含蓄がある。

2007年12月24日(月)
「剣」('64)

標題は、市川雷蔵主演、三隅研次監督の映画。この配役、この監督、このタイトルからは想像つかないが、実は三島由紀夫原作の現代劇。主人公は大学の剣道部主将で、世俗に染まることを恐れ純粋を守りたいがゆえに死を選ぶ、といういかにも三島的な作品。風呂場で裸の男どもが組んずほぐれつのケンカになるシーンがあったりするのが、これまた三島的。

いきなり驚かされたのが、このカッコいいタイトルバック。
 

堤防の上をランニングする様子を遠景で捉えたこんなカットも。


主人公の頬についた血を百合の花びらでぬぐう、露骨にエロスと死を暗示するショット。百合は死者に捧げる花である(「吉祥天女」より)。


三隅研次といえば、子連れ狼・眠狂四郎・座頭市というイメージなので、こんなモダーンな絵を撮る人だとは知らなかった。

全然関係ないが、「ef -a tale of memories.」のタイトルバック。
 

同10話より。



2007年12月19日(水)
南北戦争

確か江藤淳だったと思うが、アメリカにとって戦争の原体験は南北戦争である(日本にとって太平洋戦争がそうであるように)と言っていた。だからアメリカは、戦争が終わると裁判をしたがるのだそうだ。南北戦争は内戦なので、戦争が終わると旧敵を国内法で裁けるのである。

アメリカ映画を観ていると、歴史の知識、特に南北戦争を知らないと理解できないと感じることがよくある。初心者向けの参考書がないかと思って探していたのだが、「アメリカの戦争」(猿谷要編・講談社 1985)という本を見つけて読んでみた。タイトル通り、アメリカが建国以来戦った主要な戦争を概観した本である。

まず衝撃的な数字を挙げよう。
南北戦争における戦死者数は、両軍合わせて62万人。
これは、アメリカが戦った全ての戦争のアメリカ兵戦死者−独立戦争、米英戦争、米西戦争、メキシコ戦争、第1次・第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争及びイラク戦争まで、全ての戦争の戦死者数の合計より多いのである。

そりゃトラウマにもなるわけだ。

また軍事的に言うと、南北戦争は日露戦争や第1次世界大戦が示した20世紀の戦争の特徴のほとんどを備えている。
例えば、
 ・電信による迅速な通信網
 ・鉄道による大量・高速輸送
 ・機関銃の発達による死傷者の激増・攻勢作戦の頓挫
 ・その結果としての塹壕戦
 ・鉄条網等の築城技術の発達
 ・輸送路確保を目指した制海権(厳密には河川交通)の争奪戦
 ・継戦能力低下を狙った後方地域への焦土作戦
 ・潜水艦の実戦投入

足りないのは戦車、航空機と毒ガスくらい。
世界に先じて終末戦争を戦った国と戦争して、勝てるわけがなかったのである。

2007年12月7日(金)
「タロットカード殺人事件」

上京シリーズ第4弾。
ウディ・アレン監督の最新作。スカーレット・ヨハンソン主演。前作「マッチポイント」が、遊ばれたあげくに殺されるというヒサンな役だったので、「もっとマシな役でもう一本作れ」という天の声により実現した映画(推定)。

アレン映画だけに安心して観ていられるが、出来栄えは完全にヨハンソンのコスプレ映画。
何しろ、ヨハンソンが水着!(それもワンピース)風呂上がり!裸Yシャツ!水に落ちて全身ずぶぬれ!かてて加えて、メガネを標準装備ときたもんだ。
それってギャルゲーじゃ・・・・。

さすが70を超えて現役スケベのウディ・アレン、よく解ってらっしゃる。

2007年12月6日(木)
「ブレードランナー ファイナル・カット」

上京シリーズ第3弾。新宿バルト9に初めて行った。

世にディレクターズ・カットや完全版というものは山ほどあるが、大抵はどうでもいいようなシーンや説明過剰なシーンが付け加えられて、冗長になるだけの代物である。
まれな例外がコーエン兄弟の初監督作を再編集した「ブラッド・シンプル/ザ・スリラー」で、カットの順番を入れ替えたりカット自体を短くしたりして逆に尺が短くなり、より完成度の高い映画になった。

この「ブレードランナー ファイナル・カット」も、印象としてそれに近い。リドリー・スコット監督は「これこそが本来撮りたかった形だ」と語っているが、今度こそ本当の最終版になりそうだ。作品自体は散々語り尽くされているので、今回気がついたことを述べるに留める。(ネタバレあり)

’91年公開の最終版との違いはまず、例のユニコーンのシーン。
最終版では、デッカードがうたた寝をして夢を見たように描写されているが、今回はユニコーンのカットが2つに分けられ、間にデッカードのアップが挟まる。つまりデッカードの意識ははっきりしていて、ユニコーンの幻影を見ているのである。

2番目は、レプリカントの目の光。





作中で、レプリカントの目は光を受けると反射で赤く光る。人間の目は光らない。ではデッカードはどうかというと、最終版では、光ったり光らなかったりしていた。これが、デッカードのアイデンティティの揺らぎを表しているのだろうと思っていたのだが、ファイナル・カットではデッカードの目は光らないのである。
ただ、これはわざわざ修正したのか私の記憶違いか、あまり自信がない。

3つ目は完全版にのみ収録されていたバイオレンスシーンの復活。バッティがタイレル社長の目をつぶすシーンと、プリスがデッカードの鼻の穴に指を突っ込む(!)というシーンがある。私は完全版は未見だったので、このシーンは結構ショッキングだった。すげえ痛そう。

最後に、大きな違いがバッティの最期。バッティが息絶えた時、その手から離れた鳩が空へ飛び立つカットがある。



最終版までは上図のように、このとき作中でただ一度青空が写って鮮烈な印象を残すのだが、このシーンは曇天に変わっている。ベタ過ぎという判断なのかもしれないが、これはちょっと残念。



’09.2.3追記
上の図が、ファイナル・カットの鳩のシーン。最終版と比べると一目瞭然。この図は明るめに画像補整したもので、本当はもっと暗い。

他に、大画面+DLP上映のおかげで気がついたこと。
・フクロウのモチーフの多用。デッカードの部屋に置物があったり、タイレル社長が着ているナイトガウンの胸のロゴもフクロウの意匠。
・デッカードの部屋には観葉植物がたくさんある。

字幕・セリフの変更。
・最終版でバッティがタイレル社長に向かって「長生きしたいんだよ、ちくしょう!」というシーン。これが「長生きしたいんだ、父よ」に変わっている。これ、以前の字幕担当者が「father」を「fucker」に聞き間違えたんじゃなかろうか(確かに素人の耳にはそう聞こえる)。最終版DVDの英語字幕を見てみたら、ちゃんと「father」と言っていた。
バッティのタイレル社長殺害は「被造物が造物主を殺す」行いなのだから、これは「父」が圧倒的に正しい。
また、タイレル社長を殺した後、JF・セバスチャンに迫るバッティが「Sorry, Sebastian」と呟くセリフが追加されている。総じて、バッティがより人間くさく描写されているようだ。

・・・なんだけど、ラストの「like tears in rain」は従来の訳のまま。これはこれで好きですが。

2007年12月5日(水)
「いのちの食べかた」

上京シリーズ第2弾。渋谷イメージフォーラムにて。
主としてヨーロッパの、食料生産の現場を写したドキュメンタリー映画。この上なく地味な題材なのに、土曜最初の回で立ち見が出ていた。
この映画は、よくある声高な環境問題告発映画ではない。ひたすら、現代の農業、畜産業の現場の光景を、凝った構図で美しく写していくだけである。セリフどころか、字幕もBGMさえもない。なのに、一瞬たりとも退屈しない。

これは、SF映画である。

日常のすぐ隣にあるのに誰も見たことのない世界へ観客を誘う、センス・オブ・ワンダーに満ちた映画だ。それは例えば、散水車が片側20mもあろうかというアームを展張していくカッコよすぎてしびれる絵だったり(「エイリアン2」のドロップシップそっくり)、ベルトコンベアの上を猛烈な勢いで流れていって、箱に仕分けされる生きたヒヨコだったり、豚足を切り落とす高圧エア駆動の巨大なハサミだったり、豚の皮をはぐドラムロールだったり、種付け用の牛の精子を採取するこれも巨大なコンドームだったり、地下深くの真っ四角な坑道を掘り進む岩塩採掘用のパワーショベルだったり、機械のアームが木の幹を挟むので当然伐採するものと思ったら、えらい勢いで木を揺すって実を落とす装置だったり(落ちた実は別の車が回収するのだ)、鮭のワタを吸い取るパイプだったり(吸い残しがないよう、大中小3本ある)する。

そんなシュールとしか言いようのない光景の中で、淡々と作業する人たちがいる。映画は時折、彼らが自分の弁当を広げるシーンを、説明も主張もなく、ただ写す。

ここに、農業という言葉から連想する牧歌的な風景は一切ない。よく誤解されていることだが、農業と自然の間には何の関係もない。農業は極めて高度な文明の所産であり、農業と工業、という区分自体が誤りなのだ。
60億の胃袋はこうして養われる。人類はまだまだ滅びはしないでしょう。

参考までに、面白い記事。
http://cruel.org/economist/poverty/salaimartin.html
http://cruel.org/economist/famine.html
http://cruel.org/reading/skeptenv.html
この「環境危機をあおってはいけない」は、あまりのデカさと分厚さにちょっと見は引くけど、大変読みやすく、面白い。毀誉褒貶あるのは承知の上で、必読。

一つ蛇足を。グロ好きには牛の帝王切開のシーンがお薦め。脇腹をかっさばいて、子牛を引っぱり出す!母牛、立ったまま!獣医さん、素手!(マジ)

2007年12月4日(火)
「空の境界」

月曜日に代休をもらって3連休になったので、週末から上京していろいろ映画を観てきました。
表題作は、公開2日目に行ってきた。初日のチケットはとっくに完売。前日に窓口に出向いたら、何とか指定席がとれた。当日は立ち見も。

さすが、ufotableが総力を上げてるだけあってハイクオリティだが、パンフレットに載っていた近藤光社長/プロデューサーのインタビューが面白かった。

「−制作にあたり、心がけたことは?
ふたつあって、まずひとつめはディテールにこだわろうということ。そのためにロケハンも細かくやっていて、背景原図に写真から拾う箇所を増やしました。あとはね、オフィスに「伽藍の堂」と同じセットを作ったんですよ。
−は?
橙子のデスク周りとか室内を、ラフの美術設定をつくって、それをもとにまんま再現したの。3ヶ月くらいかかったかなあ。古道具屋回って家具買って、大工さん呼んで柱を立ててもらったりしたんだけど、後は、テレビだな。山ほど必要で、買ってくるのはいいけど、後でまた棄てる時のことを考えると憂鬱になって、埼玉の奥地の、これから東南アジアに持っていきます、って業者を見つけて、頼んで借りてきた。さらに、あらかた出来上がった後に、壁にキャラクターの身長の対比を分かり易くするためガムテープを貼り巡らせて。その方が作画しやすいでしょう。ドアの位置とかも決めて、と徹底しました。
でもね、ここまでやっておくと描くときに、すぐに共通認識ができるからいいよ。打ち合わせも、一章で黒桐が昏倒していたソファーセットでやっているので動きとかの指示も早い。だって見ればいいんだもん(笑)。」
このデジタル制作全盛の時代になんてアナログな。しかし、アニメのためにロケハンするなら当然セット撮影があってもいいわけで、意外な盲点だったな。

「−ちなみに今回の試みは?
各監督制にしたこと。これはイイですよ。なにがいいって社内に7人の劇場監督が誕生するんですよ(笑)。(後略)」
最初聞いた時に耳を疑った「1章ずつ全7部作」の狙いはこれだったか。確かにこれは、会社の今後を考えればかけがえのない財産になるはずだ。

「−システムのお話をもう少しうかがいます。
短く説明するのは難しいけど、とにかく完成がイメージできるものを先にあげてしまえってのがコンセプトかな。毎回、作画に入る前か同時に、コンテ撮をやって、仮のカッティングやって、仮アフレコをやって、音楽発注もそこでやっちゃう。

−それって!?
普通はやんないと思いますよ。手間もお金もかかりますからね。ただ、一度つなげてみることで、リズム感がわかったり足し引きができるようになるから。この一手間をかけることで完成度がかなりちがう。一番大きいのはスタッフがいいところも悪いところも共通認識を持てること。何かを伝え、その何かを僕と監督、監督とある絵描き、その頭ん中を一緒にするってすっげえ難しいことで、それがこの作業で少し接近できているように思う。うちはテレビシリーズでもこれに近いことはやっていたし、今回はその進化型。まあ、内輪で確認するものなので声優は研究生とかにお願いするんですが。
あ、でも三章の「痛覚残留」では浅上藤乃役の能登麻美子さんが来てくれました。ギャラがどうなっているかは知らないんだけど(笑)。(後略)」
確か新海誠は、絵コンテの絵をパソコン上でつなげてパイロットフィルム的なものを作ってから本制作にはいる、という手法をとる。この方法論をさらに徹底したのがこのufotableのやり方だろう。そういえば、「モノノ怪」のDVDブックレットで、作画監督の橋本敬史が「本作はプレスコで作画した」と語ってるのだけれど、アニメスタイルのインタビューでは、「アフレコに作画が間に合わなくてコンテ撮りした後、それに合わせて作画した」と言ってるので、結果的にプレスコ方式になったということらしい。それでクオリティが上がるなら、もっと普及して欲しい技法だ。

近藤社長は’69年生まれでまだ38歳。アニメ界の未来は明るい。

以下、雑感。
・本作はサブタイトルのとおり俯瞰ショットが印象的に使われるのだが、面白いことにそれと同じくらいの比重で主観ショットが多用される。「視線」が重要なモチーフになっているからだろうと思うが、とりあえずこの話題はここまで。
・とにかく美術が美しい。スタッフを見ると、美術監督・池信孝、美術コーディネーター・東潤一とクレジットされている。どんな役割分担なんだろう。
・ピザハットに続いて、今度はハーゲンダッツかい。

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