大下宇陀児論

井上良夫


        一、革命論者

 私自身も既にその傾向を持っているが、一般に純粋な探偵小説の愛好者達は、あまりに古典の味わいを恭いすぎているのではあるまいか。古典をどれほど恭っていようと、無論それは愛好者達銘々の自由ではあるけれども、その執拗の熱愛の度が一面では作家達の新しい方面への勇敢な試みを阻害することが全然ないとは云えない。探偵小説のファン達は殆んど一廉の批評家であって、各自に自信ある探偵小説理論を築き上げて持っており、しかも自分達の理論を守る上では極々好戦的である。彼等は、自分達が愛好する諸作品に共通する面白昧を外れがちな傾向の作品には動(やや)もすると一顧すら与えようとしない。剰(あまつさ)え、その様な傾向の作品を書こうとする作家の探偵小説理論を軽蔑し反駁する。

 けれども、私は考えるのだが、探偵小説の特殊な面白味を一向に取上げようとはせす、似て非なる探偵小説を書こうとする程の人は、稀にはその特殊な興味を捉え得ずにいる、狙って外れている場合もあろうけれども、多くは[充]分に理解してはいるがそれに飽足らず感じていて、似て非なることこそを狙っており、純粋の愛好者達より以上に探偵小説の欠陥に明るい人達であるのだと思う。

 わかり切ったところを記したが、大下宇陀児を見る場合、探偵小説の愛好家は先ず右の如きところは一応は考えてみることも必要ではあるまいかと思うのである。私に感受された限りでは、純粋の探偵小説のファンの多くは、大下氏の作品をひどく愛好してはいないらしい。中には軽蔑している人々さえあるかもしれない。だが大下氏にしてみればむしろそれこそが望むところなのであって、彼は生粋なファンにのみ喜ばれる探偵小説というようなものを書こうとはしていないのだ。大下氏はもう早くから、この気持を新聞雑誌にも書いて、旧来の約束に縛られている融通の利かぬ探偵小説では先が知れている、またそんなものが一人の作家にどれだけ書けるものか、そのようなせせこましい探偵小説には拘泥せすに、我々はもっとゆとりのある、ファンだけを喜ばすのでないような探偵小説を書くべきだと主張していた。しかし大下氏が作家として実際に望んだところは、探偵小説の通俗化であるよりも、一層の芸術化であったのであるが。彼はそのことについて(通俗化と、より一層の芸術化とについて)早くから意見を述べ、他の作家と論争さえしたこともある。一体大下氏の所説は論理的でない。読んでいても屢々隙を感じることがあるけれども、大下氏にしてみれば、終始論理的に意見を述べることを既に好んでいないのであろうと思う。

 だが、最近の大下宇陀児は、もうすっかりゆとりを持ち、自説に自信を持って、高い所から探偵小説を眺めている。そして純粋な探偵小説を憐んでさえいる。探偵小説には相変らず人間が描けていない、肉附けが足りないというのが探偵小説に対し今でも大下氏の不満とするところで、そういうものの欠けた探偵小説一般に憐憫の情を感じているのである。

 探偵小説の固苦しさを憐み、古色蒼然さを気の毒がって、氏はこのように云ったことがある。(「新青年」誌上)

「馬に角がないからといって馬を非難するには当らない。馬は馬としての批評で値踏出来るというような説があった。これは一応道理であるが、別な言葉を以てこれに酬ると、角のある馬が役に立つとしたら、馬に角を生やす研究も面白い。……葡萄には種があって困るが種のないアレキサンドリヤもある。ダリヤには変種が沢山あるし、ここでダリヤが木犀の如き芳香を放つようになったところで、誰もダリヤを軽蔑しはしない。……」

 この大下氏の譬え話は、その後甲賀三郎氏が取上げて反駁した。甲賀氏の如く論理的に究明してあると、その論理の力で成る程と納得せられるけれども、両者見解の相違はともかくとして、大下氏が漠然と云おうとしたことはこの譬え話でよく捉えられると思う。大下氏のつもりでは、探偵小説の持物のうち、強いて固守しなくても取除いて一層効果の上るようなものがあるならそれを取除くことに骨を折りたい、また探偵小説が従来持っていなかったものを加えてやってみてそれで一段よくなるものならそれを加える工夫をしてみたいものだ、という考えなのであろう。ここまでの主旨は至極判り易い話であるし、また大下氏の探偵小説に対する考えは殆んど右の話で窺い知ることが出来るのである。大下氏は甲賀氏とちがって、純粋な姿での探偵小説を愛することの出来ない人だ。いや、「純粋の姿」とは断じないでおこう、純粋の姿というよりも、近頃の理窟の勝って骨組だけの目立つ本格探偵小説というものを愛することの出来ない人なのである。

 しかし、この大下氏の不満なり考えなりは程度の差こそあれ恐らく多くの探偵小説の愛好家が同じように抱いているではないかと思う。他の人への憶測は措き、私自身について云っておくと、最近の本格探偵小説というものは、本場の英米にごく稀に現われる傑作や、日本のホンの一二の人の手になる傑作を除外するなら、それは読んでみようという気さえ滅多に起させはしない。私は、大下氏とは純粋の探偵小説への見方が少し違っているように思うが、目下の現象についての考えでは全然大下氏と同感のものである。大下氏が折々洩される感想文を細かく注意してみたり、私の探偵小説好みと照らし合せてみたりすれば、誰の場合でもそれは同じであるが、いろいろ反駁してみたいこと、もっと詳しく訊ねてみたいこと、など随分あるように思うが、だがそれらはいずれかの理解の不足、更には結局好みの問題に帰するところが多く、そんなことにかかわっているよりも、私は、先ず急所を突き、より一層の大局に目をつけている大下氏の所論に大いに賛意を表しておきたいのであるが。


        二、新探偵小説論の実践者

 今日の大下宇陀児は、変通自在の才を揮って大下氏流のありとあらゆる面白味のものをスラスラと書きこなしているように思われる。非常に精力的な、且つ多才な作家である。ごく飛び飛びに彼が歩いて来た道を辿ってみる。

 大下氏の処女作は「金口の巻煙草」であった。それ程いい作品ではないが、今日見る通りに話に落着きがあって、何かしらふっくりしたものを持っていた。この時から明かに他の人達とは異った線上にスタートを切っていたのだ。彼は問題を提出するというような感じの探偵小説を最初から書かなかった。問題を組立てるとが、論理的な解決を与えるとか、そうした問題(プロブレム)臭の強い探偵小説などは好まなかった。大下宇陀児は恐らく最初からバタ臭くなかった唯一人の探偵作家であったのではないか。

 「金口の巻煙草」の次に何が来るのか覚えがないが、「山野先生の死」はそれから間もなく現われたのだと思う。「山野先生の死」は、「死の倒影」と一緒に、初期の大下氏を代表し後の大下氏の姿をひそめていた作品であったと思う。私の記憶の中では「山野先生の死」は今でも興味深く、懐しい。大下氏の好きな子供達の心が素直に描いてあってその中に大人の恐ろしい犯罪が織り込まれている。無邪気な子供が或るたくらまれた犯罪を偶然大人に感づかせるのであるが、子供自身は自分の意味したことは少しも知らず大人だけが愕然とする。探偵小説の意外がここでは少しも拵えものでない。それでいて立派に一つの独特な面白味が摑まれている。子供を使ってこの種のスリルを試みた作品は他の人のものにも二三見かけたが、大下氏のこの場合は、そうしたスリルだけが目的ではなかったのだし、また全然子供を道具に使っていない点で感興を異にしている。

 「死の例影」に来る。ここでも亦(また)氏の好む探偵小説的な面白味、一見無意味なところに偶然底深い恐怖を探り当てる――そのスリルが物の見事に出されている。探偵小説に附き物とされている意外なトリックに立派に生命が与えられていた。そして作者の精進振りには並々でない真剣さを感じさせた。大下氏の月並探偵小説への反逆はもう充分の特異な境地に鍬を入れさせていたのだ。

 「死の倒影」の前頃から、大下氏は、異常心理所有者が犯罪に駆られて行く経路に興味を持ち始めた。これは前にいった「無意味の中の恐怖」と底の方で何か繫がりを持っているように思われる。とにかや、このようにして大下氏の作品は次第に「犯罪小説」の内容を強めて、犯罪への動機を探り、性格を眺め、異常心理の解剖を興味の対象として、この方面への興味と努力は今日まで燃え続けている。「星史郎懺悔録」や「死の倒影」は、初期に於けるその立派な表われであるが、「死の倒影」では前述した二つの流れの面白味が必然的な関連を持って全篇にスリルを発散させている。「山野先生の死」と共に、むしろこれは、現在の如くに細かい技巧や作家的な衒いやに煩いされていない、一層素直な真剣な大下氏の面貌が窺われるのではないかと思う。

 「情獄」は江戸川乱歩氏選の「日本探偵小説傑作選集」中にも収められていて、大下氏が最も好んで取扱う恋愛葛藤に結びついた犯罪小説である。大下氏の傾向が一番ハッキリしていて、代表作に選ばれるだけのものを持っていると思うが、他方、この方面での大下氏の力の不足もよく窺われている。取扱われているところがいかにも異常心理と犯罪の恐怖とに満ちているようであるが、その実すべてがあまりにも平凡に感じられる。こういう変てこな男である、女である、こういう恐ろしい犯罪をこんな風に遂行した、ということを作者の筆が事こまかにいろんな技巧を以て、説明して聞かせている、という程度に留まって実際にはそのような人物も恐怖も説明の如くには心に感じられて来ないのである。少し誇張もはいるかもしれないが、大下氏の描き出す世界のよさもいまの所ではこの程度を多くは越していないのではないかと思う。

 「情鬼」頃になると、大下氏はもうすっかり探偵小説臭を脱して、従来の趣味的な犯罪小説から実社会に根ざした犯罪小説に勇敢な手を伸ばす。大変痛快である。女に裏切られ通した男が悪の世界に堕ちて行く話は一向珍らしくもなんともないが、真実性と話術のうまみでよく読者の心を捉えて行く。この作の主人公は同情を覚えさせる程度によく描き出してあると思った。(それにしても大下氏は少しも高度な理智の人を描かない)しかし、彼に救われて彼にやわらいだ感情を蘇らせる若い女は、結局従来の探偵小説型を出ていないのではないか。なんだか矢張り根が着いていなかったのだ、という頼りなさを覚えた。主人公の赤色恐怖症が終りに宿命的なものを齎すのかと常套的な面白味も少し張り合いなく予感させられていると、流石にストーリイは全然別の意外に終る。各人の感情も中々複雑である。難と思うのは、最後のクライマックスのあたりは少し手際よく拵えられすぎであって、落語の落ちでも読まされたような、一沫物足りないものを感じる。作者は却ってここに一層の真実を狙っていたのかもしれぬと考えたが、私の読後感では、大下氏もやはり探偵作家を心からは抜け切れないのかと意外に思った。大下氏のよさには筋の上の拵え事はこの種のものでさえなんだが似つかわしくなく思われる。
 
 「烙印」では大下氏の持物と探偵小説とが比較的よく融和している。「老院長の幸福」はストーリイにも文章にも凝りすぎてのいやみな印象がない。「鉄管」と「偽悪病患者」。私はこのどちらをも愛読することが出来なかった。「鉄管」はひどくつまらない。探偵小説としては私達には陳腐でちっとも面白くないし、大下氏独特の面白味も出ていない。後者は克明に書いてあって読み応えはあるが、探偵小説風に運ばれているのが興味を妨げる。大下氏は探偵小説にちかづけば近づく程面白味を欠いて来るのではないか。それというのは一つには、探偵小説の形式を使用していると、なんだか物語のうち肝心な所だけは書かすに濟まされて、あとで一切を一と纏めに打ち明ける、というような傾きになり、大下氏の面白いところはこの中間に探偵小説の常套形式で隠蔽を受けているところを正面から描く場合にあるように思われるから、大下氏にはこういう探偵小説の形式折衷は向かないのではないか。「鉄管」の甚だしい張り合いなさは最も多く因をそこに置いているのだと思う。それといま一つは、大下氏が大下氏流に新しく開拓したストーリイのため取り上げる探偵小説の形式なり或はその一部分の面白味なりは、どうも古臭いもののように思われる。大下氏がいつも盛にやっつけている悪い傾向の探偵小説から態々(わざわざ)持って来ているように思われてならない。「鉄管」を例にとってもそうで、最初の一二章は大下氏が書いてもやはり探偵小説というものはこんなに面白くないものかとふと考えたのであるが、気が附いてみると、それは全く古くさい紋切型な探偵小説の冒頭の感じなのであった。また旧来の探偵小説ではよく何もかも一とまとめにされて最後で読者の目の前に陳列されることが多いが、そうした個所ではどれ程面白い事柄が含まれていても興味が稀薄なものである。「鉄管」などは大下氏流の折角面白かるべきものが、この興味の薄い最後の陳列の中にほり込まれてすまされている。こうすれば骨は折れないであろうが読んでいて少しも面白くはない。「鉄管」に限らずこの古色を帯びた傾向は氏の他の探偵小説臭ある作品にも同じように見受けられる。進歩的な大下氏の理論なり作品傾向なりとはちょっと調和していないように考えられてならない。(しかし「烙印」に取扱われている探偵小説的な面白味は新味を持っていると思う)


 甚だ纏りのない感想を述べたが、大下氏の作品についての私の考えをここに要約しておくと、私が小範囲に通読した限りでは大下氏の反逆的な新探偵小説を以って従来の探偵小説に代える、という程に私自身は強い興味を感じることは出来ない。また、探偵小説というものと引離して別個の読物としてみても、やはり或る程度の物足りなさを覚える。いや、現在横行の本格めいた探偵小説の多くよりも色んな意味で面白く読めるけれども、只それだけを別個に鑑賞してみようとするとやはり小説として物足りない、というのが適切であろうか。(通俗小説というものへの私の態度がこの場合少し妥当でないのかとあやぶまれるが)しかし私は大下氏をこのように観じている。要するに大下氏は、現在の姿の探偵小説では到底満足の出来る人ではない。大下氏が性格的に論理づくめの偏窟な探偵小説を好かないというよりも氏の能才が承知しなかろう。彼はもっともっと種々様々なものを捉え得る敏感さと消化力とを豊富に持っている。その色んな方面の物を敏感に捉えて書きこなし得る能才と豊かな感情とは、今後もっと彼[の]世界を拡げるだろう。また彼[の]芸術性は現在の自分の作物にも決して満足はさせないであろうから、大下宇陀児は現在よりはもっと純粋で、一層大きな作家になるのにちがいない。

(私は大下氏の作品を全部は読んでいないので、他のいい作品を知らずにいることであろう。他日この不備は補いたい。取り敢ず現在の知識で不遜な感想を記した)

                        (「新評論」昭和118月号)

『探偵小説のプロフィル』(国書刊行会)未収録エッセー。井上良夫が日本人作家を取りあげるのは珍しいが、英米流の本格探偵小説のファンである井上は、意外にも非-本格派の大下宇陀児の新しい取り組みに理解を示している。これは1930年代英国探偵小説が風俗小説に傾斜し(セイヤーズ)、一方で犯罪心理への関心を深めていく(バークリー/アイルズ)傾向を実感していたこともあるのではないか。このエッセーが発表されたのは、大下宇陀児が「烙印」「情鬼」(昭和10)「凧」(昭和11)などの短篇で、後に「ロマンチック・リアリズム」と自ら名付けた方向性を確立し始めた時期にあたる。(「凧」は本稿と同月の「新青年」掲載なので、井上はまだ読んでいなかったはず)

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