「集大成にして最高傑作」。
うたい文句はこれだが、新海誠49歳、もはや円熟の境地。楽しく、美しく、ズシリと重い衝撃が来て、さわやかに終わる。文句の付けようがない。
災いは悪意も憎悪もなく訪れる。命はかりそめであり、無意味にあっさりと奪われるが、それでも人は一日でも永らえたいと望み、この世に生きた証を残していく。人々の想いは神をも動かす。
世界は残酷で、人は優しくて、出会い、別れ、死してなお想いを残し、人生は続いていく。
そういう映画だ。
○蝶と死者
開巻、鈴芽が目を覚ますと、2匹の蝶が飛んでいる。
窓を開けて寝ていたというエクスキューズはあるものの、冷静に考えると結構不思議な図である。一説に、蝶は死者の魂であるという。あの場面は、鈴芽がまだ死者にとらわれていることを端的に示している。
○震災
新海監督は常に自作を反省し、新作にその成果を生かす。『君の名は。』は、その面白さとは別に、災害をなかったことにしていいのか、という批判も多かった。『天気の子』では、愛する人と世界の命運を天秤にかけ世界を破滅させたことに対し、自身を犠牲にしてもより多くを救うべきではないかという声があった(本当にそう言ってる人を目の前で見た)。ちなみに『天気の子』における世界の破滅は、緩やかに水没する東京というある種ヌルいものではあった。物語上そうせざるを得なかったろうが、選択に厳しさが足りないという批判もあり得たろう。
『すずめの戸締まり』は、それらの批判を律儀なほどにクリアしている。東京の破滅を救うために好きな人を犠牲にする。避けられなかった大震災を真正面から題材にする。そしてなおもその先を描いている。あれから10年を経て達した地点、である。
3月11日を境に真っ黒に塗りつぶされた絵日記が、問答無用の恐怖と説得力。これ、モデルがあるのだろうか。想像によるものだとしたら、恐るべきイマジネーションである。
○身体的接触
新海監督の映画は、身体の接触があまりない、ように思う。もともと初期新海映画(『ほしのこえ』~『秒速5センチメートル』)は人と人の断絶を描いていた。『星を追う子ども』は正直あまり覚えていないが、『君の名は。』は運命の恋人たちを描いていながら、触れあうことができないのがポイントだった。『天気の子』でも、クライマックスを除いては身体の接触は抑制的だったような印象がある(ラブホまで入ってるのに)。情熱あふれる『言の葉の庭』は例外として。
で、『すずめの戸締まり』はハグするシーンがとても多い。鈴芽は出会う人たちみんなと抱き合って絆を結ぶ。ラストのアレを含めて。長年新海映画を追いかけてきた観客としても、感慨深い。
○母の復権
これまでの新海映画で描かれなかったことがもう一つある。それは、「母の不在」である。もともと新海映画には親があまり出てこないが、特に母親の存在が希薄だ。『君の名は。』でも『天気の子』でも母親は死別しており、そのことは作中でさほど大きな役割を果たしてはいない。しかも『天気の子』では、母の形見が陽菜を縛る枷として描かれていた。陽菜たちを苛む旧世代の一部、だったのである。
その点、本作では、鈴芽が母の死を受け入れ先へ進む姿が話の幹になっており、さらにかつて幼い鈴芽が異界で見た光景、出会った人は何者だったのかが重要な伏線になっている。欲を言えば、母がいないことによる鈴芽の悩みを冒頭でもう少し描く必要があった気もするが、ささいなことだ。
○人生は続く
宣伝コピーの「行ってきます」は、愛する人を取り戻すための決戦に向かう言葉であると同時に、生家を離れ、新しい人生に向かうための決着の言葉でもあった。
故郷を旅立った人は、やがてどこかに根を下ろし、新たな家を築くだろう。だから映画は、「お帰りなさい」で締めくくられるのである。
○雑感いろいろ
ついに女の子が男子を救うことに。しかも年上の!
微妙にフェチなところも健在で、女子高生の靴下で踏まれたい向きにもおすすめ。業の深いことである。
歴代新海映画は、パンフレットの出来が良くて読みごたえがあるのだが、今回はちょっと。インタビューは浅いし、制作にまつわる記事がないし、スタッフリストは字が小さすぎて全く読めない。まあムックを買えってことかも知れんが。入場特典の『新海誠本』の方が重厚で、資料としても貴重。
演出に下田正美、井上鋭の名がある。どういう伝手なのか、どの辺を担当したのか、興味がある。
ところで、三脚椅子の草太君を見ていて連想したこと。小学生の頃、三本脚の動く鍋が大活躍する童話だか児童文学だかを読んだ記憶があるんだが、何だったろう?
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