更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2020年4月27日(月)
『いばらの王』再見

ふいに思い立って、『いばらの王』を観返した。『コンテイジョン』『復活の日』の次くらいに、今観ると怖い映画。
私はこの映画大好きなのだが、その面白さ、完成度の高さとは裏腹に、公開当時から「なぜ今これを映画化?」という疑問がぬぐえず、興行的には惨敗した。2010年公開で、作中時間が2015年という点も感慨深い。

今回初めてBDの映像特典まで観たのだが、片山一良監督インタビューでインタビュアーを務めているのが、氷川竜介氏だった。
その氷川氏が指摘しているのが、「映画のファーストカットが、自由の女神の頭」。つまり、「いばらの冠」だという点。



片山監督によれば、ニューヨークのシーンは三角形のモチーフを意図的に多用しており、いばらのトゲを連想させるようになっている。

 

 

 

またクリスマス前日という設定なので、バスの側面に聖書の文句が掲示されている。


ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

これも物語の行く末を暗示する文言で、「このニューヨークのシーンのおかげで、格調高い映画になっている」(氷川氏)。

思えば、カスミとシズクの身体に刻まれた傷痕もいばらの形である(わかりやすい聖痕!)。

 

そしてラストカット、歩み去るカスミたちが進む道も、いばらをかたどっている。



ファーストカットでは冠=環だったいばらが、ここでは線となっており、苦難の道ではあってもどこかへ通じているという希望を示して、映画は終わる。
何度でも言うが、今こそ再評価されて欲しい傑作である。

2020年4月5日(日)
『ユーフォ』2期第九回

本編タイトルと同じサブタイトルの「ひびけ!ユーフォニアム」。
あすかの退部騒動に揺れるなか、久美子があすかの家に勉強を教わりに行くエピソード。
この回に、あすかの家に向かう道すがら、一緒になった香織が、あすかの靴紐がほどけているのを結び直してやるというシーンがある。

 

 

 

 

 

妙に長くて丁寧な描写の上、あすかの硬い表情も含めて、不思議なシーンだなと思ってずっと印象に残っていた。

このほど、不意に疑問が解けた。町山智浩氏の映画ムダ話で『マリッジ・ストーリー』の回を聴いていたら、ちょうど「他人のほどけた靴紐を結んでやる」描写の話が出てきたのだ。
これは、「好きな人を頭のてっぺんから足先までよく見ている」ことを象徴するシーンなのだ、という。『クレイマー・クレイマー』にも同じシーンがあるとか。

言われて観返してみたら、久美子は、あすかが新しいスニーカーを履いていることに本人が言い出すまで気づかない、という描写まである。



してみると、あすかの表情の意味も何となく察しが付く。

この一連のシーンのラストカット。



階段を下りるときの3人と手すりの位置を考えあわせ、



複雑な地形と道筋が、物語と少女たちの心の行く末を惑わせる。

演出・絵コンテ:石立太一

2020年2月29日(土)
『誓いのフィナーレ』再見

BDで観直すと、劇場で観たときよりも画面構成に凝った映画と感じた。

久美子と奏の初対面のシーン。
入り口からのぞいている奏に気づいた久美子はそちらに歩み寄るが、奏は「まだ入るかどうかも決めていない」と答える。このとき久美子は、室内と廊下を区切る線を一度越えようとして、また室内に戻ってしまう。

 


一方、奏の距離の詰め方はもっと屈折している。サンライズフェスティバルの練習中、チューバの新入生二人のどちらが好きかと問うとき、久美子に向かって一歩踏み出すと、手前の木の枝の間に挟まれた構図になる。久美子の側にあるのは、差し出された水筒だけ。答えを聞くと元の位置へ。久美子との距離を慎重に測っている感じが表現されていて良い。

 


サンフェス当日、不満を爆発させた美玲を追いかける久美子と奏。
ここはわかりやすく光と影が使われていて、ダークサイド側に歩み寄るのが奏、明るい側に引っ張り出すのが久美子。



 



以前も書いたとおり、このエピソードの処理自体は好きではない。むしろ奏のメフィストフェレス的な振る舞いの方が魅力的に映る。


奏のリボン、普段とコンクール当日は色が違う。

 

久美子に初めて本音をぶつけた結果かと思ったが、中学時代もそうなので、彼女なりのゲン担ぎかも知れない。

 


BDブックレットのスタッフ座談会で、「あがた祭のシーンは小雨が降っている」とのことだったので注意して観ていたのだが、うちのプロジェクターでは分からなかった。コマ送りしてみたら確かに降ってる(排水溝右の白い縦線)!

 


なお、その座談会に池田晶子と西屋太志両氏が参加していて胸を突かれた。2019年6月と欄外に注記がある。改めて失われたものの大きさを思う。

2020年1月16日(木)
最近の映画

ここしばらく、映画をあまり観ていない。
CGだらけのアメコミ映画は基本観ないし(『ダークナイト』を観ておけば十分だ)、ドラマの録画がなかなか消化できないので。
この正月は、良い映画がまとめて公開されたので久しぶりに2日で3本の荒行に出た。この年になるとこれでも強行軍なのだ。若い頃はオールナイト込みで2日で7本観たことがあるが、あれはおすすめしない。

『パラサイト 半地下の家族』
カンヌでグランプリ受賞の、ポン・ジュノ監督の新作。
前作の『スノーピアサー』は今ひとつだと思ったのだが、これは世評以上の面白さ。監督がネタバレ厳禁と再三言っているので詳細は省くが、どうしようもない社会階層の差を象徴するのが「臭い」だというのがうまい。最後に主人公の感情が爆発するきっかけが、思わず鼻をつまんでしまうことなのだ。ポイントは目に見えない、つまりフィルムにうつらないものだというところ。
すなわち映画では表現できないはずのものがキーになっているのである。これがはっきり目に見えるもの、例えば服装だったら陳腐になってしまったろう(ましてや肌の色だったりしたら)。

ところで、『グエムル』を観たときも気になっていたのだが、ポン・ジュノ監督は娘に冷淡である。『グエムル』は怪物にさらわれた娘を救おうと孤軍奮闘する父親の話だったが、結局娘は死に、代わりに息子を手に入れる。本作も似たような展開になる。また、『母なる証明』は息子のために殺人に手を染める母親の話。  
韓国社会の風潮の反映なのか、監督個人の資質なのか。


〇『フォードVSフェラーリ』
世評と逆に、退屈な映画だった。IMAXで観たのにクライマックスのレース中に寝てしまった。
何が退屈って、体育会系の脳筋バカしか出てこない頭の悪い映画だからである。腕と度胸のある奴が勝つ。カーレースってそんな簡単なものなのか?
パンフのインタビューによると、監督はウエスタンをやりたかったらしい。なるほど、現場と経営陣の対立は、カウボーイと東部エスタブリッシュメントの反目と見れば納得できる。だが私が観たかったのは、レースの戦略と駆け引きであり、新車開発のための知恵と工夫なのだ。作中で毛糸による気流観察をしていたが、あんなのは昔からどこでもやっていることである。

たまたま先日、NHK-BSでホンダのF1参戦を扱ったドキュメンタリーを観た。エンジン出力を上げるために回転数を上げたところ、ドライブシャフトが折損する事故が相次いだ。技術陣は、ホンダジェットを作った社内のジェットエンジン技術者にアドバイスを求めた。ジェットエンジン技術者に言わせると、「なぜこれで無事に回っていたか分からない」という代物だったそうで、ドライブシャフトの太さやベアリングの支持位置を改善して問題を解決した。
ジェットエンジン部門を持たない他のエンジンメーカーはどうしているのかという疑問も浮かぶが、これが知的興奮というものである。
この映画にそれはない。
唯一グッときたのは、フォード社長の描写。フェラーリに侮辱され、ル・マンで勝つとぶち上げるときの眼光。初めてレーシングカーに乗せられ、「父にも体験させてやりたかった」と涙する表情。演じたトレーシー・レッツの渋いバイプレイヤーぶりが、本作の救いである。


『ダウントン・アビー』
TVシリーズの消化が終わっていないが、観逃すわけにもいかないので観てきた。たまには大画面で観る吹き替え版も良いものだ。
パンフレットの、時代考証アラステア・ブルースのコメントが面白かった。
昔の人は免疫がなかったから、あまり他人に触れなかったのだそうだ。私は、アメリカ映画が寄ると触るとハグするのが好きじゃないのだが、あれが近代の象徴だったのだな。

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