更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2017年12月20日(水)
『パト2』荒川モデル説の真偽 その後の展開

標記の件について先日、『アニメージュ』の記事からでは断言できないのではないか、と書いたところ、識者の方から「『ロマンアルバム攻殻機動隊PERSONA 押井守の世界』に押井監督の証言がある」と教えて頂いたので、調べてみた。しかし、今さら押井のインタビューに金を使うのは業腹なので、図書館にないか当たってみた。
残念ながら地元にも国会図書館にもなかったのだが、なんと鳥取県立図書館にあることが判明した。

すごいな鳥取県。押井推しなのか。
というわけで地元の図書館に頼んで取り寄せてもらった。

なるほど、ありました。『パト2』に関する記事ではなく、押井監督がそれまでの半生を語るインタビューの方。

2本目(に撮った映画)は50分ぐらいの一応劇映画。それは上映会もやったんだけど、そのときに組んだ男が『パト2』の荒川のモデルになった、今は防衛大助教授の荒川憲一さん、一橋大から学芸大の映研に遊びに来ていた。

アニメージュ編「押井守 自身を語る」『ロマンアルバム攻殻機動隊PERSONA 押井守の世界』徳間書店、1996年、31ページ。


インタビューは1995年10月。『パト2』公開から2年も経ってからのインタビューであることはやや気になる。
また、この記事にも『アニメージュ』の例の記事が引用されている。となると、なぜ『アニメージュ』の記事では「荒川氏がモデル」と明記していないのか?裏が取れなかったのか?とか、キャラデザインのゆうきまさみ氏はどんな指示を受けていたのか、とか新たな疑問も浮かんでくる。とは言え、大筋においてどうやら間違いなさそうだ。

ちなみに、取り寄せの運送費としてamazonマーケットプレイスの最安値の3倍の金がかかったが、後悔はしていない。

というわけで、前回の記事についてはお詫びの上、訂正します。

2017年12月12日(火)
『ローマの休日』と『アルドノア・ゼロ』

『アルドノア・ゼロ』が完結したとき、アセイラム姫が伊奈帆とスレインいずれとも結ばれない結末に『ローマの休日』みたいだと思った。検索してみたら同様の感想が多数あったので、改めて書きはしなかったのだが、最近になって思い違いをしていたことに気がついた。

思い違いとは、『アルドノア・ゼロ』についてではなく、『ローマの休日』についてである。
きっかけは、町山智浩氏の映画ムダ話『ワンダーウーマン』の回を聞いたこと。町山氏はこの中で、『ローマの休日』について触れている。
ローマを訪れたアン王女は公務の煩わしさから逃げ出し、新聞記者ジョーと様々な体験をし、やがて恋に落ちる。だが彼女は夜明けとともに元の王女に戻り、恋は悲恋で終わる-というのが一般的なこの映画の理解だ。
町山氏が指摘するのは、アン王女が作中で「祈りの壁」を訪れるシーン。「祈りの壁」とは願いごとを紙に書いて貼り、マリア像に祈りを捧げる場所である。



作中で明確に描かれてはいないが、そのメッセージの多くは戦争で死に別れた家族や恋人、友人に当てたものだという。
『ローマの休日』公開は1953年。第二次世界大戦終結からわずかに8年。戦火の記憶はまだ生々しかった。
実はアン王女の公務とは、平和のために親善大使として訪問したものであり、戦後処理の一環なのだ。彼女は市井に生きる人々の喜び悲しみを知り、恋を知り、愛する人と別れるつらさを知ったことで、己の力を自覚し、平和の実現という使命を果たそうと決意するのである。
ラストシーンの記者会見で、「人と人との友情を信じる」と言うのは密かにジョーに向けたメッセージに聞こえるが、言葉通りの意味でもある。

もうおわかりだと思うが、アセイラム姫の生き方はこれをそっくりなぞっている。『アルドノア・ゼロ』は、『ローマの休日』の本質を見事に捉えていたのである(『パタリロ!』にも『ローマの休日』をなぞったエピソードがあるが、いたって表層的な理解だった)。作者が意図してやったのか偶然なのかは私には判らない。もしかすると、女性のノブレス・オブリージュを描こうとすると自然とこうした話になるのかも知れない。

余談だが「祈りの壁」はローマのどこにあるのか定かでなく、ファンの間で今でも議論を呼んでいるらしい。

2017年12月3日(日)
『Just Because!』7話

前期の『月がきれい』同様、地味ーに胸に染みる本作。
7話で面白い演出があった。ヒロイン3人全員が、無関係な第三者の会話を漏れ聞いて心を揺らす、というシーンがあるのだ。

妹とショッピングする葉月はおしゃれな女子高生を見て、女子大生ライフに備えた服を買おうと思う。

 

美緒しか眼中にない瑛太にもやもやする恵那は、ファストフード店でいちゃつく男女を見て、自分の気持ちに気づく。

 

大雪の中でセンター試験を終えた美緒は、帰りの電車で初々しいカップルを見て(いや美緒も女子高生なんだが)、瑛太と過ごした中学時代を思い出す。

 

思春期は、自分の回りだけが世界のすべて。これからより広い世界を見、多くの人々に出会って人生が変わっていく予兆、といったところだろうか。物語はようやく折り返し点。先が楽しみだ。

絵コンテ:森田宏幸
演出:高野やよい、古賀一臣。

森田宏幸と言えば色々と前科のある人だが、ここではさすがベテランの貫禄を見せている。

私事ながら、私はセンター試験の第一世代である(それ以前は共通一次と言ったのだが、皆さん覚えてますか?)。試験当日、本作同様に季節外れの大雪で難儀したのを思い出した。

2017年11月9日(木)
『パト2』荒川のモデル説の真偽など

○ 20年目にして知った衝撃の事実。『パトレイバー2』に登場する荒川のモデルになった人物が、私の学位論文の査読者だった!
そんな情報を耳にして、早速調べてみた。確かにウィキペディアにはそう書いてある。その根拠として、『アニメージュ』'93年8月号の記事が出典とされていた。
そこで、国会図書館で件の記事を調べてみたら、拍子抜け。




控えめなサイズで載せておいたが、問題の記事には、「学生時代に押井さんと共に映画を作り、新キャラの『荒川』と同姓の方が、防衛大に勤務しているという情報を得た編集部は、『PKO』と『自衛隊』の現在、そして旧友の押井さんの事を取材するため、防衛大を訪れた」とあるだけ。
「この人物が荒川のモデルだ」などとはひとことも書いていない。モデルとなった可能性を匂わせてすらいないのだ。
これではせいぜい状況証拠だ。「この荒川氏がモデルだ」というのは、読者の早合点だろう。

もしかしたら他に証拠なり証言なりがあるのかも知れないが、少なくともこの記事は荒川モデル説の証拠にはならないし、引用のしかたとしても0点である。
ウィキペディアは信用できない伝説にまた新たな1ページが。


○ 『ブレードランナー2049』観てきた。
大変真面目に、真摯に、誠実に作られた映画だとは思う。しかし、旧作のテーマと精神を継承すればするほど、単なる答え合わせと化してしまった感がある。率直に言って、わざわざ作るほどの映画か?
ヴィルヌーヴ監督の前作『メッセージ』が超のつく傑作だったので、期待値を上げすぎたこちらの責任かも知れないが、映画とはつくづく難しいものである。
『2001年宇宙の旅』に対して、『2010年』が同じ土俵に上がるのを諦めてサスペンスものに徹したのは、今思うと案外正しい判断だったかも知れない。


○ 今期楽しく観ているのは『Just Because!』と『宝石の国』。前者は、こういう地味なオリジナル作品が作られるのは良いことだ。後者は、原作ファンなので(『星の恋人』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられない)期待していたが、期待を上回る出来映え。宝石の髪の質感と肩に落ちる光が、実に見事だ。
それはそうと、最近ついにスターチャンネルに加入してしまった。『FARGO』のTVシリーズに『フュード/確執 ベティvsジョーン』などなど、気がついたらアメリカのTVドラマを週に8本観るはめに。おかげでアニメ観る時間がない。

2017年10月17日(火)
『劇場版SAO -オーディナル・スケール-』再見 夫婦の危機はいかに乗り越えられたか

BDが出たのでとりあえず例の解禁シーンをチェックし、ついでにオーディオ・コメンタリー(以下AC)を聞いてみたら、伊藤智彦監督がその直前のシーンの演出意図を滔滔と語っている傍らで、戸松遥が「シャンプー~~」と絶叫していた。

それはともかく、私はこの映画について、何か構成要素-SAO本来のラスボスであるとか、SAOで死んだ無名の人々の思いであるとか-が未整理で咀嚼しにくい作品だと思っていたのだが、伊藤監督のコメントを聞いて、思い違いに気がついた。

この映画はあくまでキリトとアスナの感情のすれ違い、いわば夫婦の危機にフォーカスして観れば良いのであって、それ以外の要素はすべて些事なのである。
そこで改めて、キリトとアスナの心情表現に着目してみた。

01:00 冒頭、アインクラッドの夜。現実世界に帰還したら、流星を見に行くこと、そこで改めて指輪を贈るという約束を交わす。
重ねた手のアップ。アスナの薬指に指輪。


02:00 続いて現実世界、4月15日夜。日記をつけるアスナ。カレンダー、5月4日に丸が付いている。

06:45 ファミリーレストラン。ARでゲームに興じる女子連と、仲間はずれのキリト。キリトの前にはアイスコーヒー。アスナはホットコーヒー。これが、二人の(文字通り)熱意の差を示す。


監督AC(大意。発言通りではない。以下同じ)「キリトとアスナの関係はすでに完成されたものなので、ドラマを起こすには一度破壊して修復する段取りが必要」

08:30 女子のLINEで、アスナがキリトへのプレゼントを考えていること、お嬢様なのでアルバイトを禁止されていることが示される。キリトはこのことを知らない。
登場人物の間、あるいは観客と登場人物との間に生じる情報量のギャップ。神山健治監督の言う、映画の「構造」である。

10:20 拡張現実よりもフルダイブ環境の方が性に合うと言うキリトに、心配そうな目を向けるアスナ。


監督AC「キリトとアスナの日常シーンは、普通なら穏やかな音楽をつけるものだが今回はつけていない。ユナの歌が多いためもあるが、二人の会話に深刻な感じを出したかったためでもある」

24:45 ALO22層の自宅。アスナの母に会うのをためらうキリト。オーディナル・スケールのヒットでALOのログインが減っているというニュースに思案顔。「また戻ってくるよ」と慰めるアスナにも上の空。
ここで、紅茶のティーカップが写る。最初に述べた、監督が演出意図を語っているのはこのカットのこと。二人の紅茶の量が違うのが、気持ちのすれ違いを表している


監督によれば、このことは「まだ誰も言及していない」。負け惜しみになるが、BDで観たとき紅茶の量が違うのは気づいた。もう一度観れば、演出意図まで推察できたのではないかと思うのだが。悔しかったので、頭からこうして確認してみた次第。

冒頭のファミレスのシーンもそうだったが、二人の飲み物又はその量が違うという描写は、この後も反復される。

32:00 入浴中にクラインらの狩りに誘われるアスナ。一瞬ALO22層でのキリトの横顔を思い出し(これはアスナ目線の新規カット)、おやすみの挨拶をした後にもかかわらず、「行ってくるね」とメッセージを送る。このときのアスナの真面目な表情にも注目。


38:30 デート。5月4日に流星を見に行く約束をしていることが明かされる。再度アスナの母の話題。
ここでも、二人の飲み物が違う。さらに、キリトがアスナの手を握ろうとすると、急に現れたユイに阻まれる。


この「手を握ろうとして握れない」という描写も、反復される。

42:00 キリトの自宅。電話で、テントとシュラフの準備ができたことをアスナに伝える。「お父さんにお礼を言っておいて」のセリフから、アスナはキリトの家族に紹介済みであることが伺える。

49:50 アスナ、記憶を奪われる。

52:00 アスナの自宅へ送る。SAOで初めて会った時の記憶を訊ねる。
松岡禎丞はあまりの深刻なムードに、「別れ話が始まるのかと思った」とか。

57:45 病院のロビー。キリトは、アスナに対し「きっとすぐ治る」と不用意な言葉をかけてしまう。
 

アスナはこのとき、コントロールパネルを操作する仕草をするのだが、おそらく無意識にストレージを開いて、SAOでキリトにもらった指輪がちゃんとあるかどうか確認しようとしたのだろう。
現実世界だから開くわけがないことに加えて、そもそも何を探そうとしていたのかも思い出せないことに気づいて、ショックをうけた-と解釈できる。
キリトがアスナの手を握ろうとするが間に合わずに、アスナは昏倒してしまう。


この後、ALO内の思い出の場所を巡る様子が描写されるが、二人が手をつないでいないことに注意。

1:00:00 ALO22層。アスナにサンドイッチを出すキリト。このカットでキリトの左手に指輪が見えるのに対し、アスナの左手は画面に映らない。
 

ひとり泣き崩れるアスナを見るキリト。


ティーカップが割れているのに注意。

1:02:00 キリト自宅。料理をしながらクラインを見舞ったときを回想。クラインは、SAOの記憶を失ったこともすでに受け入れているかのような態度。アスナとの約束を思い、準備万端整ったシュラフを見やる。


噴きこぼれる鍋が、キリトの静かな激情を表す。


1:03:45 東京ドームシティ。「あの2年間の記憶がなくなっても、俺はアスナと変わらずにいられるか?」と自問するキリト。

1:11:30 重村教授の研究室。重村から、「SAOの辛い記憶など忘れた方が良いのではないか」と示唆される(①。後述)。

1:14:45 アスナの自宅。「SAOの記憶は大切」だと語るアスナ。

1:15:30 アスナの日記を読んでしまい、真意を知るキリト。流星を見に行くときに指輪のお返しをしたいと思っていること、アルバイトを禁止されているのでオーディナル・スケールで稼いだポイントでプレゼントを買おうとしていたこと。

1:17:00 記憶ばかりかキリトへの気持ちまでも消えてしまうのではないかと脅えつつ気丈に振る舞うアスナに、記憶を取り戻す決意を新たにするキリト。このとき、紅茶の量が同じになっている


これが二人の気持ちが一つになったことを表している(②)。

1:39:00 大混乱のユナのコンサート会場。事態を収拾するためSAOへ赴くキリトは、アスナに指輪を手渡す。再度、「手を握る」描写が。
 

1:42:00 アスナが死の恐怖を克服し、キリトたちを追ってダイブ。アスナのこの行動が、記憶を取り戻す決め手に。

1:52:00 堂平山。流星。アスナからのプレゼント。アスナの指に指輪をはめるキリト。
なお作中で描写されていないが、監督によるとアスナからキリトへのプレゼントは「バイクグローブ」とのこと。
確かに、本編途中では素手でバイクに乗っている。


以上のように、キリトとアスナの心情は大変丁寧に描写されている。飲み物や鍋など、食事にまつわる表現が多いのも面白い。
しかし同時に、この映画のドラマ上の弱点も見えてくる。
ここで言うドラマとは「葛藤の解決」を意味するが、実は、キリトはドラマの解決のためには何もしていない。
よく見るとキリトの葛藤は、上述の①のポイントで「記憶を取り戻せるか否か」から「取り戻すべきか否か」に移行している。
後者の問いは、辛い記憶なら忘れた方が幸せではないかという普遍的なテーマに発展しうる。しかし尺の都合か、本作中で突き詰めて問われることはない。
②のポイントでアスナの真意を知ることで、キリトの葛藤は解決されてしまうのである。しかもそれは、キリト自身の決断や行動の結果ではなく、アスナの日記を偶然見てしまったことによるものだ。このため、キリトの決断や闘いはドラマの役に立っていない。
もう一つ大きな問題は、「たとえSAOの記憶を失っても、キリトとアスナの愛情は変わらない」という描写になっている点。ということは逆説的に、アスナの記憶はどうしても取り戻さなくてはならないものではない、ということになってしまう。アスナは記憶を失う恐怖を日記をつけることでそれなりに消化してしまっている。アスナの私室のシーンは、キリトがアスナの記憶を取り戻す動機を補強する場面のはずなのだが、そう機能していないのだ。
これ以降のキリトのアクションが、その画面の作り込みとは別に今ひとつ切迫感がないのは、そういう理由による(娯楽映画なんだからハッピーエンドに決まっているという安心感、及びキリト自身がチート級に強いキャラという設定のせい以上に)。

純粋に映画のドラマツルギーとして考えれば、アスナはキリトのことさえ忘れてしまうという方向に持っていくべきだったのである。
そうしないのはひとえに、アスナがただ守られるだけのお姫様キャラではない、という理由による。これまでのエピソードを考えても、フェアリィ・ダンス編では本当にアスナが囚われのお姫様だったが、この手法はそうは使えない。ファントム・バレット編とマザーズ・ロザリオ編はそれぞれキリトとアスナを個別にフィーチャーしているし、アリシゼーション編でアスナが活躍する時はキリトはあの状態である(アニメ化前なので自粛)。
二人そろって活躍させるのは難しいのだ。

結局、アスナが記憶を取り戻すきっかけになるのは、死の恐怖を克服して自らダイブすることだった。すなわち最終的に葛藤を解決する決断と行動は、アスナが担っている。むしろこの映画は、ダブル主人公と解釈すべきなのであって、「記憶を取り戻すか否か」はキリトが、「いかに取り戻すか」はアスナが担当していると考えれば納得がいく。
これこそ対等な夫婦というものである。


以下は余談。
重村教授の机上に悠那の写真があるが、その手前に置かれたザクロに注目。


ギリシャ神話において、ザクロは死者の国の食べ物である。
そして死者と邂逅するのはもちろん、此岸と彼岸を結ぶ橋の上。


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