更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年12月17日(火)
最近観た映画

ここしばらく、劇場と言えばアニメばっかり観ていた(試しに数えたら、今年劇場で観た映画34本のうち20本がアニメだった。しかも実写14本のうち2本は『はじまりのみち』と『パシフィック・リム』)ので、意識して実写映画を観るようにしている。そこから感想いくつか。

○『ハンナ・アーレント』
なんだか、すっごいひさしぶりにミニシアターでアート映画観たような気がする。私も映画観始めて長いが、意外なことに岩波ホールに行ったのはこれが初めて。各回入れ替え制ながら、昨今珍しく指定席制でも整理券制でもないので、1時間前に劇場に着いて非常階段に並ぶという懐かしい経験をさせてもらった。1日3回の上映で、いずれも上映時間の1時間前にはチケットが売り切れるという大盛況だった。正直大ヒットするような映画には見えないのだが、世の中、数少ない知的な人々は知的な映画に飢えているということかもしれない。
アイヒマン裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」という概念を提唱したことでアイヒマンを擁護していると誤解され、ユダヤ人社会はおろか世間から指弾されるアーレントの姿を描く映画。作品自体は、知的誠実さにあふれた、いわゆる「いい映画」だった。映画のクライマックスは、バルバラ・スコヴァ演じるアーレントの8分間に及ぶ演説シーン。アーレントは、人間を人間たらしめるために、自分の頭で考え続けよと訴える。
それ自体は大変感動的なのだが。
私は、映画とは絵で語るものであって、演説を聴かせるものではないと思うのだ。だから、その主張の正当性(まあアーレントに反論できる人間など地上にいないだろうが)以前にこういう作劇は好きではない。むしろこの映画の一番地に足の着いた部分は、この演説の直後。
いかに言葉を尽くそうが話の通じない相手には通じないという描写がある、という部分である。

ところで一番興味をひかれるのは、この映画、試写会にトミノ監督を呼んだのだろうか?という点だ。

○『悪の法則』
コーマック・マッカーシーを脚本に迎えて、『ノーカントリー』みたいな映画が撮りたいという野望を抱いたリドリー・スコット。
惜しむらくは、コーエン兄弟のようなペーソスやユーモアや人間というものへの洞察が、これっぽっちも存在しなかった(どだい配役を見ただけでも無理っぽい)。
最大の問題は、マイケル・ファスビンダー演じる主人公「カウンセラー」が、最初からリッチなセレブにしか見えないことだろう。
『ノーカントリー』の主人公は、トレーラーハウス住まいの、本物の、逆さに振っても鼻血も出ない貧乏人だった。その彼がたまたま麻薬取引がもつれた末の銃撃戦の現場に出くわし、大金を手にする。しかも麻薬組織に追われることになる原因は、瀕死の男に水を飲ませてやるために現場に戻ったことだった。
こうした、人間の愚かさやそれ故の愛しさを重ねて描いていくのがコーエン兄弟の手つきだったのだが、『悪の法則』にはそんな繊細さがない。
『タイム』の2013年ワースト映画で8位に入っているのも納得だ。


○『少女は自転車に乗って』
なんと2週連続で岩波ホールに行ってしまった。
サウジアラビア初の女性監督作品。と言うか、サウジには映画館というものが存在しないのだそうで、撮影すべてをサウジ国内で行った初の長編映画がこれ。
主人公の少女ワジダ(映画の原題でもある)が自転車を買いたいと思い立ち(戒律の厳しいサウジで)、あの手この手で資金集めをする映画。
いろいろあって念願の自転車を手に入れるワジダ。おや、と思ったのがラストシーン。普通こういう映画であればラストは、主人公が自転車に乗って地平線の彼方へ走り去っていくという画を撮るものだ。ところが本作では、彼女の走るその先に大型トラックが猛スピードで往来する幹線道路があり、ワジダは自転車を止めてしまうのである。変わった終わり方をすると思ったら、これが監督の意図どおりだった。
パンフレットのハイファ・アル=マンスール監督インタビューより。

「サウジアラビアの女性について、バラ色だけの未来を描くつもりもありませんでした。希望は大いにあるけれど、同時に危険も感じるようなシーンにしています」

手慣れたものだ。
監督はたいそう開明的な家庭に生まれ育ち、アメリカ人外交官と結婚してオーストラリアに移り、シドニー大学で映画学を学んだという経歴の持ち主。現在はバーレーン在住とのこと。


○『鑑定士と顔のない依頼人』
『ニューシネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ作品。ずいぶんと久しぶりだと思ったのだが、コンスタントに仕事はしていたらしい。私は『海の上のピアニスト』以来15年ぶりだ。

美術品にまつわるミステリ映画ということで大いに期待して観に行ったが、期待に違わぬ出来だった。封切り2日目だというのに場内は超満員。『ハンナ・アーレント』もそうだが、潜在的な映画の-「いい映画の」観客は、決して減少してなどいない。
いわゆる「吊り店」式の詐欺映画だが(こんなのは観る前から解っていることなのでネタバレには当たるまい)、一言で言うと二次元人が三次元に関わるとろくなことにならないという映画である。

今回初めて解ったのだが、トルナトーレという作家は「夢の世界を生きてきた人間が現実に遭遇する瞬間」に興味があるらしい。
本作の主人公は美術品にしか興味のない人間だったが、生身の人間に恋をしたことで破滅していく。

『ニューシネマ・パラダイス』では一見感動的なラストシーンのせいであまり指摘されないが、主人公は映画監督として成功してはいるが、私生活はあまり恵まれていないという描写がなされている。見ようによっては、少年時代に映画という魔法にとりつかれて現実に帰ってこれなくなったのが原因である。

次作『みんな元気』では、悠々自適の生活をしていた老人がふと思い立って自分の子供達の家を巡り歩き、嘘で塗り固められていた彼らの真の姿を知るという話だ。

『海の上のピアニスト』は、言うまでもなく豪華客船という夢の世界から出ようとしない男の話だった。ラストの、スクラップ予定の廃船の中で一人隠れ住んでいるというあり得ない設定も、客船自体がファンタジーだからだと考えれば納得できる。

『マレーナ』も(未見だが)、童貞が美女に勝手に幻想を抱いて勝手に失望する話である。

ところでパンフレットを読んでいて気になったのだが、作品に関しても美術に関しても理解が浅くないか?
主人公ヴァージルがやっている不正というのは、価値の高い真作の絵画を見つけると、相棒に贋作を描かせてすり替え、贋作と偽って不当に低い評価額をつける。その相棒がオークションで格安で落札し、真作はヴァージルが着服する、というものだと思うのだが。

なお本作は、トルナトーレ初のデジタル撮影作品だそうだ。

「もはや今のフィルムの現像方式では、過去のような満足のいくプリントを期待できないんだ。熟練の技師も姿を消し、現像所での作業も正確さを望めない」

というわけで、デジタル移行の機を計っていたそうな。チネチッタの国イタリアですらそんな状況なのか・・・。

2013年12月10日(火)
最近反省したこと

○ 『陽なたのアオシグレ』を観て、芝居づけのジブリくささが酷く鼻についたのだが、キャラデザイン・作画監督の新井陽次郎がジブリ出身なのだった。なるほどと思ったが、考えてみたら『まどか☆マギカ 叛逆の物語』の絵コンテ担当・笹木信作もジブリ出身者だ。だけど画面作りはあのとおりなわけで。軽々しく「ジブリっぽい」などと口にしてはいけないなあと。

○ 『境界の彼方』9話を観た。1話で、妖夢を殺すのが怖いという未来がなぜ秋人だけ遠慮なしにぶっ刺してたのか気になってはいたのだが(観てる分には面白いから忘れていた)、9話に至ってようやく説明があった。昨今、新作TVアニメを「いかに速く見切るか」を誇るかのような風潮がある。少なくとも私はそう感じる。そういうことに血道を上げていると、こういう気長に伏線を張っているタイプの作品の評価を誤ってしまう恐れがある。

○ 『アニメビジネスがわかる』の著者・増田弘道氏のブログ記事から。

アニメの作品論、作家論を書くのに必要なのは以下のものが不可欠であろう。
① アニメに対する知識
② 映像を中心とするエンタテイメント全般に対する知識
③ 社会一般に対する知識
④ 製作・制作当事者からの直接的な情報
⑤ 当事者だけではなく、その周囲を含めた業界情報
⑥ 今までの事項を踏まえた上での自分なりの識見
⑦ 筆力


一言もありません。素人の身で④と⑤はどうしようもないから、せめて③と⑥でがんばろう。

○ 『サカサマのパテマ』
「SFは絵だ」とよく言われる。SFの真髄はセンス・オブ・ワンダー。「世界を見る目が少しばかり変わる感覚」のこととされるが、本作には確かにそれがある。
と言うか、言葉通りの意味で本当に価値観がひっくり返る力業。傑作!
縦方向の階層世界という点で、処女作『ペイルコクーン』にも通じるものがある。
それはそうと、反転世界の食糧を食べたらどうなるのかとか少し気になるな。いやつまり、摂取した食物の分子で人間の身体は絶えず構築し直されるわけで。

で、これは自戒を込めて言うのだが、もういい加減、ジュブナイルファンタジーを評価するのにいちいち『ラピュタ』をリファレンスに持ち出すのやめねえ?私もうかれこれ10年くらい観てないから知らんけど、そんなにイイかアレ?

いつまで経っても同じことを言ってるの見苦しいよ。怠慢だよ。

2013年12月3日(火)
『レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人』('11)

何となく間が開いてしまったが、再開します。

表題は、WOWOWで観た未公開映画。ご存じストップモーションアニメの巨匠にして頂点、人類の至宝ハリーハウゼンの伝記映画。

本人のインタビュー映像を基本にしつつ、スピルバーグを筆頭にジェームス・キャメロン、テリー・ギリアム、フィル・ティペット、デニス・ミューレン、ジョン・ラセター、ニック・パーク、ヘンリー・セリックなどなど、錚々たると言うか綺羅星のごとくと言うかもはや形容も思いつかないようなメンバーが、ハリーハウゼンへのあふれる愛と敬意を語り尽くすという超・豪華な映画。

至言金言の宝庫なので、印象に残ったところを摘録する。以下、「 」内は字幕による発言通り。発言者のない「 」はハリーハウゼン本人のセリフ。

「自分は単に特撮担当者でなくフィルムメーカーだと思っている。演出もするし、作品の売り込みもした」

13歳で『キング・コング』を観て、ストップモーションに興味を抱き、趣味で恐竜の動画を撮影。
18歳でレイ・ブラッドベリと出会い、8ミリの短編恐竜映画を見せる。
生物の進化の歴史を撮ろうと思っていたが、『ファンタジア』でディズニーに先を越される。
自作のテストフィルムをジョージ・パルに見せて、アシスタントに雇われる。
機械技師の父親が人形の骨格を、母親が衣装を制作。『月世界旅行』('64)までこの体制だった。

『原始怪獣現る』('53)は特撮予算5000ドル。ブラッドベリ原案(本人は屈託なさそうだった)。
「『ゴジラ』もこの映画を参考にした」ジョン・ランディス。
「(『ゴジラ』は)着ぐるみが暴れる映画だ」。

スピルバーグとフィル・ティペットは『ジュラシック・パーク』の編集スタジオにハリーハウゼンを招待。
「レイは大変感銘を受けたようだった」ティペット。

「今なら、レイもCGを使うだろう。ストップモーションは、当時はそれしかなかったから使った技法」ジェームス・キャメロン。
それに対してハリーハウゼン「当時は技術的に不可能だったから妥協もしたが、どうだろう。今でもCGより人形を使うんじゃないかな」。

『水爆と深海の怪物』('55)
撮影許可を受けるため警察に脚本を提出したら、却下された。ゴールデンゲートブリッジが破壊されるため、橋の強度に不安を抱かせるかもしれないという理由。しかたなくパン屋の車にカメラを積み、橋の上を何往復もして背景を撮影した。
予算の都合で、タコの足は6本。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のクラーケンの足が6本なのは本作へのオマージュ。

「ドクター・オクトパスは触手に表情を持たせた」スティーブ・ジョンソン(『スパイダーマン2』特殊効果担当)。

「ハリーハウゼンの特撮は、2世代先の作り手にまで影響を与えている」ピーター・ジャクソン。

『世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す』('56)
空飛ぶ円盤は金属の塊なので、独特の難しさがあった。中にいる生物の知性を感じさせなければならない。
この円盤も父親の制作。

「技法が何かは問題ではない。ストップモーションでもCGでも実写でもセル画でも、大事なのはそこに芸術性があるかどうかだ」ティム・バートン。

『地球へ2千万マイル』('57)
「『ピラニア』に登場する手足のついたクリーチャーは、本作の金星竜イーマへのオマージュ」ジョー・ダンテ

ハリーハウゼンは、自作を「モンスター」ではなく「クリーチャー」と呼ぶ。

ニューヨーク、サンフランシスコ、ワシントンにローマを破壊したので、『シンドバッド七回目の冒険』('58)へ。
自身の絵コンテが、予算も含めて製作に影響力を与えた。ハリーハウゼンはマリア・モンテスの映画(代表作は『アリババと四十人の盗賊』)を観て育った世代なので、シンドバッドには親近感があった。

アニメと言うとカートゥーンと混同され、子供の映画と思われて大人が観に来ないのでダイナメーションという言葉を作った。
サイクロプスは、ヤギの足、3本指など着ぐるみに見えないデザインに配慮した。
ピーター・ジャクソンの15歳の時の自主映画にもサイクロプスが。
骸骨剣士役に、イタリアのフェンシングの達人を起用。英国では骸骨剣士のシーンは子供が怖がるからという理由でカットされた。

ケンタウルスの撮影では、俳優に対して棒で目の位置を指示。

「俳優は目線を必要以上に遠くに置く。目線の距離を正しく測れる俳優は少ない。遠くより中間がいい」ジョー・ダンテ。

「私の役割は架け橋だと思う。(ウィリス・)オブライエンの時代から『スター・ウォーズ』の時代へね」。

「私の映画を特撮映画と呼ぶのは必ずしも正しくない。特撮は手段に過ぎず、目的はファンタジーの視覚化だ」。

「CGでなくストップモーションだから伝わることがある。人形はファンタジーに溶け込んで夢のような効果を醸し出す」。

「リアルではないが、(人形は)ファンタジーとは相性抜群だ。僕もピクサーも映画制作の上で完璧なリアリティーは求めない。レイと同様、現実からは一歩引く」ジョン・ラセター。

「ファンタジーをリアルに作りすぎると、夢の要素が失われる」。

「場面の大まかな流れが頭に入っていれば、細かい部分は想像力に従ってアドリブで作業中に加えればいい」(と、こともなげに言ってるのが天才すぎる)。

最終決定権は普通は監督にあるが、ハリーハウゼン作品ではハリーハウゼンにあった。

ギュスターブ・ドレから影響を受けた。

「本物でないのは暗黙の了解。どこまでCGを許容するか、限界を決めるのは観客。観客はCGの恐竜を受け入れた。物語の楽しみを優先したからだ。でも、観客がCGに拒否反応を示すときがきっとある。そのとき、実在のもので作った映画が人気になるだろう」スピルバーグ

「ファンタジーは映画でこそ光り輝く。映画ほどファンタジーを表現できる媒体はない」。

『SF巨大生物の島』('61) ラフな脚本→アイデアを出し合って分析→低予算で画面映えする場面をイラスト化→脚本に反映という手順で制作。

本作に登場するカニはデパートの鮮魚売り場で買った。博物館で安楽死させてもらい身を出した後、骨格を仕込んだ。

演技指導もハリーハウゼンが行う。「クリーチャーに、レイの演技が反映している」ピーター・ジャクソン。

「アニメーターは時に役者になる必要がある。1つの動きをつけるときに鏡に自分の姿を映したりビデオで撮って見たりする。自分の中の感情などいろんなことを人形に投影させる」ニック・パーク。

『アルゴ探検隊の大冒険』('63)
X指定を避けるために、死体が起き上がるシーンは骸骨剣士に変更。
先に骸骨剣士役のスタントマンで撮影し、時間を計りながら10回程度リハーサルを行う。スタントマンを外して本番。
骸骨剣士が死体を飛び越すシーンはワイヤーを使用。迂回すれば簡単なのにわざわざ飛び越えさせたのが、ハリーハウゼンのこだわり。

1つのエピソードに4ヶ月。本編の99パーセントが1テイク。
ハリーハウゼンは「予算の制約で何度も撮り直しができなかった」と言うが、
「回を重ねるごとに純粋さが失われる。頭の中で考えすぎて原形から離れていく。アイデアを素早く表現するほど元の考えに近いものができあがる。初のテイク故に混じりけがなく我々の心に長く残るのだと思う」スティーブ・ジョンソン。
クライブ・バーカーやギーガーも同じことを言っていたとか。

「『ターミネーター』のスケルトンも骸骨剣士のオマージュ」ジェームス・キャメロン。「模倣は最高の賞賛なのです」。

ハリーハウゼンはメリエスの名刺を所蔵している。

「CGは便利だが落とし穴がある。手を伸ばして何かを取る動作一つにも大げさで不要な動きを加えがちだ。余計なことをせず必要なものだけでいい。物語を率直に伝えるのが肝心だ」フィル・ティペット。

「芸術が技術に挑み、技術が芸術を産む。どの種類のアニメーションであってもそれが第一人者の道理だ。パペットでもクレイアニメでもCGでも手描きでもね。その部分は変わらない」ジョン・ラセター。

恐竜の想像画などを多く残した自然博物館の画家チャールズ・ナイトに影響された。

6~7歳ころのハリーハウゼンの娘は恐竜の人形を乳母車に乗せて遊んでいた。「父は台所のオーブンで模型を焼いていた」。

「グワンジ」は「ゴジラ」と語感が似ているため、日本映画と勘違いされた。

ハリーハウゼン作品に使用された模型やモデルは、50年来ハリーハウゼン自宅のガレージに保存されていた。フィルムの修復とデジタル化を、ピーター・ジャクソンが資金援助。


ところでこの作品は、人物紹介のロゴデザインが凄くカッコいい。
例えば、ハリーハウゼン本人はサイクロプスの意匠をあしらっている。


ジェームス・キャメロンは『アバター』。


テリー・ギリアムは『未来世紀ブラジル』。


フィル・ティペット。


なかでもセンスいいのがジョン・ランディス。


服と重なって見にくいが、ヴィンチェンゾ・ナタリ。確かに『CUBE』の監督だけど。



おまけ。ピーター・ジャクソン使用前。


ピーター・ジャクソン使用後。


本作の公開後の今年5月7日、レイ・ハリーハウゼン永眠。享年92歳。

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