ここしばらく、劇場と言えばアニメばっかり観ていた(試しに数えたら、今年劇場で観た映画34本のうち20本がアニメだった。しかも実写14本のうち2本は『はじまりのみち』と『パシフィック・リム』)ので、意識して実写映画を観るようにしている。そこから感想いくつか。
○『ハンナ・アーレント』
なんだか、すっごいひさしぶりにミニシアターでアート映画観たような気がする。私も映画観始めて長いが、意外なことに岩波ホールに行ったのはこれが初めて。各回入れ替え制ながら、昨今珍しく指定席制でも整理券制でもないので、1時間前に劇場に着いて非常階段に並ぶという懐かしい経験をさせてもらった。1日3回の上映で、いずれも上映時間の1時間前にはチケットが売り切れるという大盛況だった。正直大ヒットするような映画には見えないのだが、世の中、数少ない知的な人々は知的な映画に飢えているということかもしれない。
アイヒマン裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」という概念を提唱したことでアイヒマンを擁護していると誤解され、ユダヤ人社会はおろか世間から指弾されるアーレントの姿を描く映画。作品自体は、知的誠実さにあふれた、いわゆる「いい映画」だった。映画のクライマックスは、バルバラ・スコヴァ演じるアーレントの8分間に及ぶ演説シーン。アーレントは、人間を人間たらしめるために、自分の頭で考え続けよと訴える。
それ自体は大変感動的なのだが。
私は、映画とは絵で語るものであって、演説を聴かせるものではないと思うのだ。だから、その主張の正当性(まあアーレントに反論できる人間など地上にいないだろうが)以前にこういう作劇は好きではない。むしろこの映画の一番地に足の着いた部分は、この演説の直後。
いかに言葉を尽くそうが話の通じない相手には通じないという描写がある、という部分である。
ところで一番興味をひかれるのは、この映画、試写会にトミノ監督を呼んだのだろうか?という点だ。
○『悪の法則』
コーマック・マッカーシーを脚本に迎えて、『ノーカントリー』みたいな映画が撮りたいという野望を抱いたリドリー・スコット。
惜しむらくは、コーエン兄弟のようなペーソスやユーモアや人間というものへの洞察が、これっぽっちも存在しなかった(どだい配役を見ただけでも無理っぽい)。
最大の問題は、マイケル・ファスビンダー演じる主人公「カウンセラー」が、最初からリッチなセレブにしか見えないことだろう。
『ノーカントリー』の主人公は、トレーラーハウス住まいの、本物の、逆さに振っても鼻血も出ない貧乏人だった。その彼がたまたま麻薬取引がもつれた末の銃撃戦の現場に出くわし、大金を手にする。しかも麻薬組織に追われることになる原因は、瀕死の男に水を飲ませてやるために現場に戻ったことだった。
こうした、人間の愚かさやそれ故の愛しさを重ねて描いていくのがコーエン兄弟の手つきだったのだが、『悪の法則』にはそんな繊細さがない。
『タイム』の2013年ワースト映画で8位に入っているのも納得だ。
○『少女は自転車に乗って』
なんと2週連続で岩波ホールに行ってしまった。
サウジアラビア初の女性監督作品。と言うか、サウジには映画館というものが存在しないのだそうで、撮影すべてをサウジ国内で行った初の長編映画がこれ。
主人公の少女ワジダ(映画の原題でもある)が自転車を買いたいと思い立ち(戒律の厳しいサウジで)、あの手この手で資金集めをする映画。
いろいろあって念願の自転車を手に入れるワジダ。おや、と思ったのがラストシーン。普通こういう映画であればラストは、主人公が自転車に乗って地平線の彼方へ走り去っていくという画を撮るものだ。ところが本作では、彼女の走るその先に大型トラックが猛スピードで往来する幹線道路があり、ワジダは自転車を止めてしまうのである。変わった終わり方をすると思ったら、これが監督の意図どおりだった。
パンフレットのハイファ・アル=マンスール監督インタビューより。
「サウジアラビアの女性について、バラ色だけの未来を描くつもりもありませんでした。希望は大いにあるけれど、同時に危険も感じるようなシーンにしています」
手慣れたものだ。
監督はたいそう開明的な家庭に生まれ育ち、アメリカ人外交官と結婚してオーストラリアに移り、シドニー大学で映画学を学んだという経歴の持ち主。現在はバーレーン在住とのこと。
○『鑑定士と顔のない依頼人』
『ニューシネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ作品。ずいぶんと久しぶりだと思ったのだが、コンスタントに仕事はしていたらしい。私は『海の上のピアニスト』以来15年ぶりだ。
美術品にまつわるミステリ映画ということで大いに期待して観に行ったが、期待に違わぬ出来だった。封切り2日目だというのに場内は超満員。『ハンナ・アーレント』もそうだが、潜在的な映画の-「いい映画の」観客は、決して減少してなどいない。
いわゆる「吊り店」式の詐欺映画だが(こんなのは観る前から解っていることなのでネタバレには当たるまい)、一言で言うと二次元人が三次元に関わるとろくなことにならないという映画である。
今回初めて解ったのだが、トルナトーレという作家は「夢の世界を生きてきた人間が現実に遭遇する瞬間」に興味があるらしい。
本作の主人公は美術品にしか興味のない人間だったが、生身の人間に恋をしたことで破滅していく。
『ニューシネマ・パラダイス』では一見感動的なラストシーンのせいであまり指摘されないが、主人公は映画監督として成功してはいるが、私生活はあまり恵まれていないという描写がなされている。見ようによっては、少年時代に映画という魔法にとりつかれて現実に帰ってこれなくなったのが原因である。
次作『みんな元気』では、悠々自適の生活をしていた老人がふと思い立って自分の子供達の家を巡り歩き、嘘で塗り固められていた彼らの真の姿を知るという話だ。
『海の上のピアニスト』は、言うまでもなく豪華客船という夢の世界から出ようとしない男の話だった。ラストの、スクラップ予定の廃船の中で一人隠れ住んでいるというあり得ない設定も、客船自体がファンタジーだからだと考えれば納得できる。
『マレーナ』も(未見だが)、童貞が美女に勝手に幻想を抱いて勝手に失望する話である。
ところでパンフレットを読んでいて気になったのだが、作品に関しても美術に関しても理解が浅くないか?
主人公ヴァージルがやっている不正というのは、価値の高い真作の絵画を見つけると、相棒に贋作を描かせてすり替え、贋作と偽って不当に低い評価額をつける。その相棒がオークションで格安で落札し、真作はヴァージルが着服する、というものだと思うのだが。
なお本作は、トルナトーレ初のデジタル撮影作品だそうだ。
「もはや今のフィルムの現像方式では、過去のような満足のいくプリントを期待できないんだ。熟練の技師も姿を消し、現像所での作業も正確さを望めない」
というわけで、デジタル移行の機を計っていたそうな。チネチッタの国イタリアですらそんな状況なのか・・・。
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