更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年1月31日(火)
宣伝

なぜか私の巡回先でまったく話題になっていないので張っておく。



『トップ2』は名作!

2012年1月31日(火)
居候

年頃の男女が一つ屋根の下、というあり得ないシチュエーションを作るには、保護者の存在が障害となる。
そこで多くのフィクションが採用する方法は、2つある。
ひとつは、そもそも保護者が不在という安直なやり方(なぜか親父が考古学者で発掘に行っているという設定が多いという指摘をどこかで読んだ)。
もうひとつは、保護者がすげえバカ、というやり方だ。と言って悪ければ浮世離れしている、と言うか。代表が『Fate』の藤村大河である。私は、己の役割を自覚している大人のキャラが好きなので、こういう作劇には非常にムカつくのだが、『あの夏』2話でお姉ちゃんさんが「不在のうえバカ」というダブルコンボで怒り心頭。

この高く苦しいハードルを越えてさえしまえば、いつもの長井節。ラスト間際、わずかなカットの積み重ねで人間関係を表す手際などはほれぼれするのだが。

などと考えていて、過去作品について思いついたこと。

○『Kanon』の秋子さんは、意外と常識人(Keyにしては)。真琴が転がり込んできたとき、警察と病院に問い合わせているという描写がある(京アニ版だけだったかも知れない)。

○居候美少女の元祖(注)『うる星』のラムちゃんは、開巻いきなり全世界に向けて正体がオープンになっているという点で、実は非常に独特。しかも嫁宣言しちゃってるんだから、そりゃ同居くらい今さらどうってことあるまいよ。

この、「存在が公になっている」というのはもしかしたら唯一の事例なのではないか?私は気力も時間もないので、誰かぜひ調べて頂きたい。



注:「史上初」に関する議論は、調べればいくらでもさかのぼれるのが常。ここでは、パターンを確立したメジャー作品という程度の意味。

2012年1月30日(月)
『下女』

ここしばらくfirefoxが不調で、更新もままならない。
が、ちょっとすごいもの観てしまったので忘れないうちにメモ。

タイトルは1960年の韓国映画。キム・ギヨン監督。
昨年公開された『ハウスメイド』の原案になった作品で、日本ではDVD未発売(今amazonで検索してみたら、なぜかサントラCDだけ出ていた)。
真魚八重子女史が熱心に押していたので気になっていたのだが、劇場公開は日本では最後だというので、観てきた。

金持ちのダンナが家政婦さんに手をつけてしまって、というプロットは一緒だが、視点が『ハウスメイド』とは正反対。
『ハウスメイド』は傲慢なブルジョア階級にもてあそばれたメイドさんの復讐譚であるのに対して、こっちは完全に男視点。うっかり家に入れたメイドさんに誘惑されて堕落させられ、家庭崩壊の憂き目を見るダンナの悲劇になっている。『オールド・ボーイ』もそうだったが、韓国映画はこういう原作からの換骨奪胎がとてもうまい。
雨の降りしきるベランダから髪振り乱したメイドが室内をのぞいていたり、文法もめっきりホラー。
タイトルバックで、子どもたちがあやとりする手つきを延々と写すのだが、これがからみ合い変転する人の運命を暗示させて心憎い。
ラストでちょっとした大ネタがあって、場内から笑いが漏れた。

フィルムの状態が酷く悪い上に、いろんなプリントを寄せ集めて1本復元したらしく、途中一部だけ英語字幕が入るという点でも珍品だった。

ついでに、金持ちと言っても少し無理して自宅を2階建てに増築しました、という程度なのだが、その2階が使用人部屋になっているのがちょっと不思議。普通は主人が2階に住むような気がするのだが。屋根裏部屋の延長の感覚なのだろうか。

2012年1月23日(月)
フィルムの時代の終焉

先日、映画館の映写技師の方とお話しする機会があった。そこで伺ったのだが、近年のデジタル制作された映画は、フィルムどころかディスクですらなく、USBメモリで映画館に届くのだそうだ。
リールを掛け替える手間がないのはもちろん、ピント調節まで映写機が勝手にしてくれるのでいたって楽だとか。

いやまあ詳しい方には何を今さらな話だろうが、一映画ファンに過ぎない私には十分に衝撃的な事実であったわけで。

私はフィルム原理主義的なシネフィルではないつもりなのだが、それでも感慨はある。フィルムの時代が-フィルムという単語が映画を意味し、フィルムメーカーという言葉が映画監督のことだった時代が、今まさに終わろうとしている、ということなのだから。

まあ単語自体は、「下駄箱」とか「ソロバン勘定」のように残るだろうが、その内実を知る人間がまだいるかどうかの違いは大きかろう。


そこで話は長井龍雪監督の新作『あの夏で待ってる』に飛ぶ。
まだ2話まで観ただけだけれど、この作品では、8ミリフィルムで撮った自主映画が、かけがえのない思い出の象徴として扱われるようだ。

ちょうどフィルムの時代の終わりに合わせるかのようにこの作品が作られることは、なんだかとても示唆的-あるいは必然的なことのように思うのである。

もっともフィルムというのはもともと、時間を封じ込めたタイムカプセルのようなものであって、古くはとり・みきのSF短編『カットバック』とか細野不二彦の『あどりぶシネ倶楽部』などが思い出される。とそこまで考えてみたら、『カットバック』は単行本収録が88年。『あどりぶシネ倶楽部』は86年の作品で、すでに8ミリは「古くさいもの」として描写される。

商業アニメで「8ミリフィルムの自主映画制作」を「青春の思い出」として扱った作品が過去あったろうか?私にはにわかに思い当たらないのだが、なかったとすればそれはそれで不思議ではある(『ハルヒ』?アレは現在進行形の世界だから、ちょっと違うと思う)。
『あの夏』でそれを扱ったのは、もしかするとアニメという表現の成熟だか老成だかを意味しているのかも知れない。

2012年1月12日(木)
2011年倫理的に許せなかったアニメ

新年あけましておめでとうございます。

年末からこっち、NTT回線の故障でネット接続できなくなるわ、13年使ったLDデッキがついに成仏するわ、コミケの前日に足を挫くわでバタバタしておりました。で、新年最初の更新が毒吐きというのは少し気が引けるのだが、本来は年末に公開するつもりだったのだ。
年越しの宿題ということでご容赦を。


「倫理的に許せない」というのは、その通りの意味。面白い面白くないではない。

ワースト1 『花咲くいろは』1話
同じ安藤真裕監督作品の『CANAAN』的殺伐とした世界観を、現代日本の地方都市で展開するとこうなる、というか。これ、労働基準法やら児童福祉法やら、いろいろ違反してんじゃないの?

いやまあ、そんなことはどうでもいい。本来なら、地味な日常芝居を丁寧に見せるこういうタイプの作品は好きだし、技術的にどれほど高度かもそれなりに解るつもりだ。

しかし、どうにもこの作品は不快だ。他でもない、あの婆さんの暴力シーンのせいだ(私は普段キャラの名前はちゃんと調べて書くが、今回は公式サイト見るのもイヤ)。
ファンタジーならともかく、マンションの隣の部屋で本当にやってそうな暴力をアニメで見せられるのは辛いものがある。しかも殴られてありがとうございましたって、どこの体育会だよ。反吐が出るわ。

『CANAAN』のように、全員が対等に殴ったり殴られたり殺したり殺されたり(○C平野耕太)する作品なら、まだいい。ところが『いろは』の暴力描写は、大人→子ども、雇用主→従業員、祖母→孫という、圧倒的な非対称性がある。さらに悪質なのは、その関係が固定されているということだ。解りやすく比較すると、例えば『デッドマン・ワンダーランド』。あの作品ものっけから強烈なバイオレンスシーンがあるが、作品の構造上、ここで暴力を行使する者は悪とされており(言うまでもないが法的に、とか道徳的に、と言ってるのではない)、同じ手段で報復されることが前提される。物語あるいは作品世界自体が、やり返すことを許容するのだ。主人公が何らかの方法で反撃することが、物語の指向となる。
『いろは』はどう考えてもそうなりそうにない。グーで婆さんを殴り返したり、密かに株で儲けて旅館を買収、経営権を奪って叩き出す、なんて展開になったら拍手を惜しまないが。
そしてなによりイヤなのは、暴力が職業人の厳しさだという描写になっていることだ。そんなバカな。私も就職してかれこれ15年になるが、上司に殴られた覚えはない(逆に殴ってやりたい上司はいたが)。ガテン系のうちの会社でも、今どき新兵さんを殴ったりはしない。
社会人の一人として、こんな前近代的な強圧・理不尽・暴力を仕事だなんて言ってほしくない。私ら管理職には、「教えざる罪」という言葉がある。新人はミスするのが仕事のようなものだろう。新人が何も知らん、何もできないのは当たり前だ。今どき、どこの職場だってOJTくらいやってて当然だと思うが。新人育成システムが機能していない職場は、単に管理者が無能なのだ。それとも、旅館業というのは本当にあんなに大時代なのか?金沢の温泉観光協会がタイアップしているが、後悔してないか?


ワースト2 『バカとテストと召還獣にっ!』第10問「僕と恋路と恋愛術」
『バカテス』の主人公・吉井明久は、姫路瑞希と島田美波の2人から想いを寄せられているが気づいていない(バカだから)。美波に片思いしている清水美春は、「美波のすばらしさ」に気づかない明久を呼び出して糾弾する。

私は、この展開に猛烈に腹が立つ。ここで、美春にその役を振るのか?そのセリフを言わせるのか? これまで、彼女のその奇矯な言動をさんざんバカにし、嘲笑し、ギャグのネタにしてきたくせに?

同性愛者をバカにすること自体が悪いとは言わない。品性下劣だとは思うが、首尾一貫しているならいい。そういう低俗な作品だと思うだけのことだ。だが、『バカテス』という作品自体の、この美春の扱いは変節だ。

よろしい、本当に美波を理解し真摯に愛しているのは美春だとしよう。ならば作者は(原作者でもアニメスタッフでもいい)、ひとつ義務を負ったことになる。「ノンケに恋してしまった同性愛者の悲劇」を真っ正面から、逃げず茶化さず、描ききることである。

その覚悟と見識が本当にあるのか?私にはとうていそうは見えない。


ワースト3 『バクマン。2』6~8話
これは許せないと言うほどでもないが、『花咲くいろは』にも関連するので書いておく。
この3話は、最高が体を壊して入院し、連載続行の危機。高校を卒業するまで連載中断という編集長の判断に抗議し、マンガ家仲間がボイコットを呼びかけるというエピソード。

最高は2月18日生まれの設定だから、高校3年生の秋にはまだ17歳。法的には児童なわけでしょう。
本人が描きたがると言っても、そこを止めるのが大人の責任というものだ。連載(労働)を続行し、致命的に健康を損なったらどうなるか。もし保護者から訴訟を起こされたら、編集部はまず間違いなく負ける。編集長の判断は当然そこまで考えてなされる(べき)だろう。

さらにイヤなのがマンガ家仲間のボイコット。彼らは法的に立派な大人だから、自分のことは自分で決めればいい。しかし児童は、まだその判断力がない(と見なされる)から保護者や後見人を必要とするわけでしょ。もし最高が本当にぶっ壊れたら、彼らは責任とれるのか?どうやって?
それを仲間の団結という文脈で、「いい話」として描写するのは感心しない。

書きながらなぜこんなに神経に障るのか気がついたが、これ高校野球の投手の酷使と同じ論理なのだ。8月の午後の甲子園なんて、地球でもっとも野球に向かない場所だ。チームメイトや同級生や地元の期待を背負わされ、本人が投げたがっているからという言い訳の下に、まだ身体ができあがっていない高校生が炎天下で3日も4日も投げ続ける。それで故障したって、誰も責任をとるでもない。そんなことが教育だと言ってまかり通り、世間はそれを美談として消費する。
才能ある者が早期につぶれてしまうのは、それこそ国損だ。

ついでだが私は、『デスノート』の原作はFBIが登場したところで読むのを止めてしまった。FBIの捜査権はアメリカ国内に限定されているはずで、日本国政府の協力要請もなしに日本国内で捜査活動をしていたら立派な主権侵害、外交問題である。せめてICPOくらいにしておけばよかったものを。おまけに、容疑者の父親が捜査責任者なんて嘘くさいにもほどがある。肉親相手では捜査に公平性を期待できないんだから、関係が判明した時点で担当外されるでしょ。
少年誌の掲載作品にこんなこと期待しても仕方ないのかも知れないが、こういう脇の甘さは耐え難い。

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