更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年12月28日(月)
最近の映画など

○「インフォーマント!」観てきた。
主演マット・デイモン、監督がソダーバーグ。ビッグネームが並ぶ割にはシネマスクエアとうきゅうと恵比寿ガーデンシネマだけの限定公開。
でも観たら納得。これは駄目だ。

FBIに、大企業が不正をはたらいているとの情報がもたらされる。FBIはその内部告発者の協力を得て内定を開始するが、実は告発者は病的な大嘘つきで−という話。
どう考えても、これは振り回されるFBIの側を主人公にすべきだろう。なのにこの映画は、告発者の側を主人公に据えてしまっているのだ。

自身も犯罪者でありながら本気で企業悪を憎んでもいる告発者が、複雑で魅力的な人物であるのは確かだし、製作者が主役にしたがった気持ちも解らなくはない。
でも、本筋とまったく関係ない上に面白くもないモノローグを延々と流して、あげく「不正を告発したのに生活を破壊された」と恨み言まで言い出す、こんな奴に感情移入し同情するなんて、どう考えたって無理でしょ。主人公の主観が真実ではないという仕掛けは、それ自体に意味があるメタフィクショナルな構成でやらないと。

脚本や構成の破綻は、パワーやスピードで押し切れることがある。
しかしそれ以前のコンセプトが間違っている場合はどうしようもない、ということがよくわかった。


○「戦場でワルツを」
パンフから抜粋。
レバノンは中東で最も西欧化が進んでいて、侵攻したイスラエル兵の多くは生まれて初めてポルノというものを目にしたそうな。そんなわけで作中でポルノシーンがあるのだが(もちろんアニメで)、公開する国によってレーティングが様々で、丸々カットしたりアメリカでは水着を着せたり。日本はボカシを入れようとしたが、監督の意向で全カット。美術監督・イラストレーターがポルノを描くのを断固拒否したので、苦労したらしい。それこそ我が国に発注してくれれば、凄いの作ってあげたのに!

監督のインタビューで感銘を受けたのはこの部分。
「この映画をいちばん憎んだのは、極左のイスラエル人です。映画の中でアラブ人が言葉を持たない単なる肉体として描かれていたのが許せなかった。私からの返答はこうです。『私は偽善を拒む。私はこれからも、アラブの視点からの映画を作ることは絶対にない。それを作るのはアラブ人自身であるべきだ。』私のようなイスラエル人、元兵士で侵略者であった者がパレスチナの人々から話を聞くのは不可能です。彼らの歴史や思いのたけを代わって叫ぶことなどできない。けがれた行為だと思っています。彼ら自身が、サブラとシャティーラで何があったのかを自分たちの視点から明らかにすることが、彼らの解放を完全なものにしていくはずです。」
日米がイーストウッドの硫黄島二部作にたどり着くまで、60年を要した。


○「牛の鈴音」
パンフから抜粋。
イ・チュンニョル監督インタビュー
本作はドキュメンタリーだが、手持ちカメラが少なく固定カメラのロングショットが多い件について。
「お爺さんと牛、牛とお婆さん、お爺さんとお婆さん。そこから発生する葛藤や事件をとらえる必要があり、そうすると自然にカメラは待たなければならず、固定された状態でのショットが多くなっていったのでした。最初から意図したわけではありません」

本作はデジタル上映だが、韓国にはデジタル上映できる映画館が少ない。サーバーがないからだ。そこでプロデューサーは、映画本編を上映するサーバーはなくても、予告編を上映するサーバーがあることに目をつけた。幸い本作の上映時間は短い。映画館と交渉して予告編サーバーを使って上映させ、それによって館数を拡大することに成功した。


○「バッタ君 町に行く」
マックス・フライシャー最後の劇場長編。
特典にもらったジブリ広報誌「熱風」2009年11月号45ページの高畑勲インタビューから。聞き手は、読売新聞社の依田謙一記者。太字は引用者による。

依田 感情移入をさせない客観的な表現は、本来ならば高畑さんの評価の対象であるべきですよね。
高畑 いやいや、感情移入をさせちゃいけないんじゃないですよ、僕が言うのは。感情移入一辺倒にならないようにするとか、シチュエーションをちゃんと客観的に描くことで、受け身の感情移入じゃなくて、主体的な感情移入をひきおこすべきだ、ということです。舞台なんかもそうでしょ。向こうから押しつけたり巻き込んだりするんじゃなくて、舞台の外にいる観客が、自分から舞台のほうへ出かけていって感情移入するんですよね。

「客観性」とは、感情移入を拒否しているということではないのですな。


○「人間失格 ディレクターズ・カット」
これも対象としている客層がまるで不明な作品だが、浅香守生監督なので観に行ってみた。
マッドハウス制作だけに、料金分の価値は十分にある。
生活無能力者のダメ人間に美女美少女がわさわさ寄って来るという展開は、完全にエロゲ。


○最近気になっているのだが、イーストウッドとポール・ニューマンは互いをどう思っていたのだろう。
意外にも共演したことはないし、ざっと手近な評伝に目を通した限りでは、互いの仕事に言及したこともないようだ。
しかし、少なくともイーストウッドは5歳年上のニューマンを意識していたと思う。

と言うのは、「グラン・トリノ」のこのシーンは、



「暴力脱獄」('67)へのオマージュなんじゃないかと思ったからだ。



「暴力脱獄」についてはこちらを。

ニューマンが亡くなったのは2008年9月26日。キリスト磔刑像はありふれたイコンだし、「グラン・トリノ」は同年12月には公開しているので、撮影時期とは重ならないようだが。


○ 31日には、幻視球さんの同人誌に寄稿させていただいた関係で、売り子のお手伝いをしております。

2009年12月24日(木)
「ハマルアニメ」から

キネ旬ムック「ハマルアニメ」をパラパラと立ち読みしたら、
「ハルヒ」特集で石原立也と武本康弘のインタビューが出ていた。この2人はあまりメディアに出てこない印象がある(某氏が露出しすぎなせいもあるが)ので、貴重な記事なんじゃないだろうか。

この記事で武本康弘が1972年生まれと判明したので、「生年一覧」に追加。同級生は高村和宏、1年先輩に今石洋之と入江泰浩、1年後輩が新海誠。
常々思っているのだが、この2人はもっと高く評価されていい。監督作だけ見ても、京アニの今日があるのは彼らのおかげと言っても過言ではあるまい。

本書からもう一つ、「東のエデン」特集。
周知の通り、本作は映画からの引用が全編に散りばめられている。で、そのモトネタ紹介的な記事があったのだが、6話「東のエデン」で、春日がカーテン付きの家具の中から現れるシーンを、「椿三十郎」からの引用ではないか、と言っている。

  

・・・・・・「椿三十郎」?押し入れを出たり入ったりするシーンのことだろうか。

私は、これは「ヒズ・ガール・フライデー」('40)からじゃないかと思う。ケーリー・グラント主演、ハワード・ホークス監督のコメディ。

 

警察詰めの記者クラブに逃げ込んできた逃亡犯を、スクープ目当てにかくまうシーン。

2009年12月18日(金)
「まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響」('72)

と、いうタイトルの映画を観た。「テハンノで売春していて以下略」の次くらいに長くて、一見意味不明のタイトルだが、ポール・ニューマンの数少ない監督作の一つ。日本未公開でDVDも発売されておらず、先日WOWOWで放送されたのが唯一の鑑賞機会と思われる。検索してみても、出てくる感想はこのとき観たものばかり。

主演はニューマン夫人であるジョアン・ウッドワードで、彼女が演じるのは2人の娘を抱えた貧乏シングルマザー。老人を引き取って世話すること(実態は娘に押しつけている)で小金を稼ぎ、喫茶店を開くだの夢みたいなことを言い出しては逐電した夫の弟宅に金の無心に押しかける。口を開けば皮肉と恨みつらみばかり。心の支えはチアリーダーだった高校時代。しかしてその実態は・・・・・・。

映画史的には、夫婦の競演といえば駄作の温床である。しかしさすがはニューマンと言うべきか、ルイジアナ州立大で演技を学んだインテリのウッドワードに、こんな嫌な女を演じさせ、ウッドワードはみごとカンヌで女優賞を射止めた。が、実際の主役は次女を演じるネル・ポッツ。
トンビが鷹を生んだ次女は科学の分野に才能を示し、学校の科学フェスティバルで大賞を射止める。その研究テーマが、ガンマ線を放射して突然変異を起こしたまだらキンセンカ(マリーゴールド)の観察記録である。このことが、ろくでなしの母のもとで健気に才能を示す次女と重なってくるという仕掛けになっている。

このネル・ポッツがサラサラの金髪に儚げな表情でロリ属性的にイイ(撮影時13歳)のだが、ちょっと調べてみたら、なんとニューマンとウッドワードの間の実の娘だった。

それを知ると、ちょっと別の様相が見えてくる。
ニューマンとウッドワードといえば、50年に渡って連れ添ったハリウッド一(唯一?)のおしどり夫婦である。2人とも人気実力を兼ね備え、私生活は品行方正(長男がドラッグで死んでいるが)、政治的にはリベラル、慈善活動にも多大な貢献をなしている。
こんなパーフェクト夫婦が、「おれたちよりすげえぜ!」と言ってるのがネルということになる。
言ってみれば、これは究極の親バカ映画だ。

そんな過大にもほどがある期待をかけられたネルのその後の人生はというと、賢明にも映画出演からはこれですっぱり足を洗ったようだ。

IMDbによると、ネルのご主人は、彼女がサーフボードを買いに入ったショップの店員だったそうである。
ついでにトリビア。ニューマンとネルは、「ペーパームーン」で親子として競演する予定だったが、監督交代に伴ってそろって降板したそうな。

2009年12月17日(木)
「アフロサムライ レザレクション」

たまにはまとめて更新してみる。

WOWOWで観た前作が結構面白かったので、観てきた。初日の午後の回だというのに、観客は15人ほど。設備の整ったシネマライズ(220席、スクリーン6.6×3.9メートル)での上映は1週間だけで、来週からはライズX(40席、3.3×1.8メートル)での公開になる。「マイマイ新子」が大ヒットに思えるくらいの冷遇っぷりだ。

12月19日にライズXで、原作者と氷川先生のトークショーが予定されているそうだが、できるんだろうか。いや、客が入るかじゃなくて、ゲスト用のイスを置くスペースがあるのかが心配。

製作はアメリカだけれど、GONZO作品で「バジリスク」の木崎文智監督なので、中身は完全に和製アニメ。1から10までケレン味とお約束だけでできてるような作品だが、参加アニメーターも豪華で(橋本浩一、結城信輝、平川哲生、和田高明、大橋誉志光、羽山淳一等々)楽しい。やっぱ私にはこういうのがお似合いだ。

サミュエル・L・ジャクソンとルーシー・リューが声をアテているのも話題になったが、その波及効果(?)でパンフレットに声優インタビューがない分、スタッフインタビューが充実しているのが嬉しい。
マーク・ハミルが端役で出演しているのが泣ける。

木崎監督インタビュー
「(ニューヨークのコンベンションに招待されてファンの熱狂を実感)サイン会では9割が黒人の方で(中略)彼らにとっては黒人初のアメコミヒーローなんですね」
ブラック・スプロイテーション・アニメという言葉が浮かんだ。

美術監督:池田繁美インタビュー
「美術には好きに描かせた方が間違いなくいいものができます。いろんな注文が入ってくると、かえって難しくなるんです。リミッター外せば、必ず絵的に良くなります」
池田は本作で、エミー賞アニメーション個人部門審査員賞を受賞。
作品自体も、作品賞長編アニメーション番組部門ノミネート。

これは雑誌の原作者インタビューに載ってた話。
「冒頭で、主人公は前作の罪を償うため仏像を彫っているのだが、アメリカ人観客に「なぜフィギュアを作っているの?」と聞かれた」
なるほど。

2009年12月17日(木)
フォーン・フリークのその後

今月7日の日記に書いたフォーン・フリークの件だが、「ハッカー(正しくはクラッカー)の前身で、電話システムの盲点を突いて無料通話をする人」のことだとmixiでご教示頂いた。
私はてっきりフリークをfreakと思い込んでいたのだが、phoneとfreakの造語でphreakなのだそうだ。

なるほど、このスペルで辞書にも出ている。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=phreak&dtype=1&stype=0&dname=1na&ref=1&index=05384200

phone phreakでググってみたら、こんなにたくさん出てきた。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja%3Aofficial&hs=SPS&q=phone+phreak&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=

日本語ページだけでも700件以上!世界は広いなあ。
中には、手口の解説も。
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/1109/vcf03.htm

もちろん今では通用しませんよ、念のため。

2009年12月16日(水)
「東のエデン劇場版T The King of Eden」

観てきた。ネタバレあり。

未来私考さんが神山監督の言う「構造」を元に本作の分析を試みていたので、私も真似してみようと思う。

以前触れたように、神山監督の言う「構造」とは、「登場人物相互の、あるいは登場人物と観客の、持てる情報量のギャップ」を指しているらしい。「神山健治の映画は撮ったことがない」で述べている定義では少し言葉足らずで、執筆当時は監督自身よくわかっていなかった、または伝える言葉を持っていなかったのではないか、と私は考えているのだが、では本作の「構造」すなわち「情報のギャップ」は何か?

1つは、ミサイル事件の真相を知っている咲と、その記憶のない滝沢。
そしてもう1つは、「ゴールデンリング」である。
ゴールデンリングのことを、滝沢は知っているが咲は知らない。

ここで、滝沢と咲の情報量の優位が逆転する。
この映画−「東のエデン」12話と言ったほうが適切だと思うが−は、いったん物語を退場した滝沢の復活を描くものである。
ミサイル事件というマクロな「構造」が、ゴールデンリングというミクロな「構造」によってひっくり返される。
公の/衆知の情報よりも、個人の/滝沢だけの記憶の方が優位に置かれる。
この瞬間、飯沼朗は、物語を駆動するにふさわしい主人公・滝沢朗としての立場を再獲得したのである。だから、この直後に物語は急激に転がり始める。

物語としての評価は完結編を待たねばならないが、本作は相変わらず刺激的だった。

ところで、この物語の結末はどんなものになるのだろう。
勝手に少し想像してみる。
まず、OTAPHYSICAさんの言うルールブレイカー理論に則って考えれば、物語の結末は「セレソンゲームをアガる」ことではなく、「ゲームのルールそのものを破壊し、ゲームの外へ脱出する」ことになる(べき)だろう。そこで問題になるのは、JUIZである。JUIZは人工知能という設定だが、私の思うに、その絶大な力は旧体制を象徴するものでしかない。「攻殻機動隊 2nd GIG」におけるプルトニウムのようなものだ。JUIZに頼っているかぎり、それはゲームのうちである。
JUIZがどれほど有能でも魅力的でも、いやそれゆえにこそ、滝沢はJUIZと訣別しなければならないと思うのだが。
作劇的には、ニートの力の集積であるエデンシステムとJUIZとの抗争が主軸となり、滝沢がそれを超克する途を示す、という構図になるのではないだろうか。
まあこの程度のことは私でも考えつくので、神山監督がどんな風に予想を裏切ってくれるか、楽しみである。

思えば神山監督は、「攻殻機動隊」シリーズでずっと「英雄の挫折」を描いてきた。今度こそ、真の英雄の誕生を描けるだろうか。

2009年12月15日(火)
もひとつ追記

昨日の続き。

木佐芳男『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』には、ドイツ側研究者の意見が紹介されているので、そのまま引用する。

「ホロコーストを他の虐殺の例と比較するのは、とても危険です。それは比較による罪の相対化、あるいは平凡化でさえあります。南京事件と比べることも不可能だと思います。もちろん、日本は中国などを攻撃しましたが、それは帝国主義的な戦争であり、(対ソ連戦争のような)絶滅戦争ではありませんでした」
「ホロコーストは特殊なものであり、南京での虐殺などどんなものとも比較したり同列に論じたりはできません。なぜなら、それは人種主義を動機としたもので、また反ユダヤ主義は宗教(キリスト教)の一部でした」*1
ベルリン自由大学ヴォルフガング・ヴィッパーマン教授。『ドイツ戦争責任論争』等邦訳あり。

「ドイツと日本を比較して議論するというのは、ほとんど不可能だと思います。ドイツで侵略戦争について議論したり、戦争と平和の博物館を建設したりすることはできません。すべてはホロコーストの影におおわれているからです。ドイツ社会は何十年ものあいだ、われわれはどうやってホロコーストをあつかえるのか、恥や痛みや罪と責任を反映する方法をどうやって見つけられるかという主要な議題を抱えてきました」*2
「シュピーゲル」誌マンフレート・エルテル編集者。政治ジャーナリストで戦後補償問題の専門家。

「ヒトラーのドイツは、1100万人のユダヤ人を殺し1000万人のスラブ人を殺すという計画を立て、それを実行に移しはじめました。日本がやったような伝統的で恐ろしい帝国主義的戦争は、18世紀にフランスやイギリスによって行われました。もちろん20世紀に行われたことは別の意味を持っており、おなじようなものだと簡単にいうことはできませんけれど。日本のは一種の犯罪的な戦争ではありましたが、ドイツ人たちが行ったほどひどいものではありません」*3
ドイツ−ロシア博物館ペーター・ヤーン館長。独ソ戦の専門家。

ドイツの戦後史は、熊野直樹「戦後ドイツにおける戦争の記憶と現在」『法制研究』2006年10月号が簡潔によくまとまっていて解りやすい。
ドイツが「賠償」と「補償」を厳密に区別していること、ホロコーストという用語は1979年アメリカの同名TV映画により定着したこと、ドイツではナチズム犯罪と戦争犯罪は別物という考え方が常識であるらしいことなど、勉強になる。

上でも触れられている「潔白な国防軍」神話がいかに形成されたかは、守屋純「国防軍潔白論の生成 −米軍「Historical Division」企画との関連において−」『軍事史学』2006年9月号に詳しい。
『国防軍潔白神話の生成』(錦正社、2009年)という近著もある。


言うまでもないと思うが、私が紹介しているのは全部二次資料なので、本気で調べたい人は自分で一次資料に当たって確かめて下さい。

脚注

*1 木佐芳男『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』(中公新書、2001年)140,143頁。
*2 同上、142頁。
*3 同上、144頁。


この3日ほど、誰にも望まれていない記事を書いてしまった。
明日から平常営業に戻ります。

2009年12月14日(月)
少し追記

研究室の同僚に『戦後責任論』と昨日の文章を読んでもらったところ、2点ほど意見をもらった。

1 出生により自動的に、本人の意思によらず国籍を得た者と、本人の選択により国籍を得た者とで、なぜ前者の方がより大きな責任を負うのか検討の余地がある。本人の意思が介在する分、後者の方が責任が大きいという可能性も、考えてみる価値があるだろう。

2 「呼びかけ」と「応答」が日常的に行われていることならば、戦争責任に対する呼びかけが、より身近な呼びかけよりも優先されるのはなぜかを、明らかにする必要がある。


さらにもうひとつ。
著者は本書の後半で、いわゆる自由主義史観に異を唱えているのだが、「自由主義史観の主張はホロコースト否定論の論法とよく似ている」と指摘している。
ちょっと考えてみれば解るが、「ホロコースト否定論の論法と似ている」ことは、「自由主義史観の主張が間違っている」ことの証明にはならない。

これは反論ではなく、単なるイメージ操作である。


’10.1.25追記

こんなのがあった。

あんたが、自分の意志でアメリカに来ることを選んで、必死で海や川を渡って来て、一生懸命頑張って市民権を取ったのなら、やっぱり「俺はアメリカ人だ!」って胸を張ってもいいぜ。それだけの苦労をしたんだからな

2009年12月13日(日)
『戦後責任論』を批判する

本日かなりの長文。引用多め。

私が愛読しているある書評サイトで、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005年)を絶賛していた。
そこで紹介される内容に非常に違和感を感じたので、私も読んでみた。政治的な問題はめんどくさくなるからこれまで言及せずにきたが、今回はちょっと書いてみる。ただ、具体的な事例の検証は私の手に余るので、あくまで著者が本書で主張している論理についてのみ述べることにする。
予めお断りしておくが、私は社会科学系の大学院に籍を置く身ではあるが、専攻は歴史研究で、法学や政治学の専門家ではない。また職業柄、右よりのバイアスがかかっていることは否定できない。本書についても、最初から批判的なスタンスで読んでいる。以下はそのつもりで読んで頂きたい。

まず最初の問題として、タイトルにもある「戦後責任」とは一体何か、が明確に定義されていない。「戦争責任」に比べると「戦後責任」とは耳慣れない言葉だ。その「戦争責任」ですら、立場によってかなり多義的な用語で、ちょっと考えただけでも、捕虜虐待や非戦闘員の殺害など「通例の戦争犯罪」の責任、開戦判断の是非に関する「開戦責任」、終戦時期の判断などに関する「終戦責任」、行政上の過失や怠慢などにより敗戦を招いた「敗戦責任」などがある*1。
著者の主張する「戦後責任」とは、誰が、何の責任を、誰に対して、どんな規範(法や規則)に基づいて負うのかが解らない。

本書からそれを説明した部分を探せば、
「戦争責任は、日本がアジア諸国を侵略し、植民地や占領地にし、さまざまな国際法違反や戦争犯罪、迫害行為を行ったことの責任ですから、これはそれ自体、ギルトに当たり(中略)単なる応答責任ではありえません」*2
と言っているので、
「戦争中に大日本帝国が犯した犯罪行為に対する賠償責任」
という意味なのであろう。以下はこの定義で考えていく。

そして著者によると、責任(responsibility)とは「応答可能性」であり、犯罪(crime)を前提とする罪責(guilt)としての責任とか、宗教的な罪を意味するsinとは違う*3。
そして、
「戦後生まれの日本人にとって戦後責任は、直接には罪責としての責任ではありません。日本の戦後責任は、日本の罪責としての戦争責任から出てくると申し上げましたが、しかし戦後生まれの日本人にとってそれは、直接には罪責としての責任ではない。戦後生まれの日本人自身が、大日本帝国の加害行為に罪を負っているわけではないからです。日本の戦争に「身に覚えのない」世代、戦争当事者とはいえない世代にとっての戦後責任は、基本的にはまさにこの応答可能性、レスポンシビリティとしての責任と考えられるのではないでしょうか」*4
と主張する。

国家と私それぞれの責任を考えると、その立場はまず国家がguiltyであるかないかに分けられ、国家がguiltyであれば、次の2つになる。

A 国家はguiltyである。よって私もguiltyである。
B 国家はguiltyである。しかし私はguiltyでない。

どちらが正しいかといえば、明白にBだ。責任とは、風が吹けば桶屋が儲かる式にいくらでも遡及が可能なものである。このような無限背進には実質的な意味がない*5。だから、法的責任は普通、その当事者と教唆した者、監督責任を有した者までしか適用されない。山本弘氏の主張などはこのBの立場だろう。
Bの立場はさらに2つに分かれる。

B−1 国家はguiltyである。私はguiltyでない。しかし、Xの理由で、現政府は責任を果たすべきである。
B−2 国家はguiltyである。私はguiltyでない。Yの理由で、現政府は責任を果たす必要はない。

著者の立場はB−1ということになる。
これに対する反論B−2の立証は容易である。全文引用になってしまうが、

「責任には、道徳的責任と法的責任とがある。相手国に対する戦争責任を日本に問うと言っても、日本にはもはや法的責任はない。なぜなら、国家としては相手国と講和条約を結び、個人レベルとしてもいわゆる戦犯の受刑はすでに終了しているからである。これ以上、いかなる根拠・法律によって裁判所を構成し、法的責任を追及することができるのか。
一方、道徳は良心の問題であるから、もし道徳的責任を感じる者は、相手国に対して、個人的に自主的に金銭提供も含めて自己が満足するまで具体的にその責任をとることである。ただし、それを自国の他者に同様にせよと要求し強制することはできない。
つまり、相手国は現在の日本国に対して、戦争責任を問うことはできないのである。
ところが、道徳的責任と法的責任とに共通する「責任」という語だけを使って、「日本は責任(道徳的)があるので責任(法的)をとれ」と、混乱しつつトリック的に主張する人が多い」*6。

以上。これで終わりにしてもいいくらいなのだが、もうすこし考えてみよう。
そもそも著者がなぜresponsibilityなどという概念を持ち出したのか邪推してみると、法的責任を問うことができず、道徳的責任は強制できないから、新しい責任観念を提示するしかなかったのではなかろうか。私には、これは一種の「事後法による断罪」のように思える。
一歩譲って著者が言うようにresponseしなければならないとしても、誰が何をしたら、responseしたことになるのだろう。国家間賠償が終了したとしても、個人の請求権を否定したわけではないという考え方はある。その場合、告発を受けた政府は、請求を門前払いすることもあるだろうが、とりあえず事実関係の調査を行う場合もあるだろう。「責任」を果たすことが「応答」することであるならば、それだって立派な「応答」である。そして調査の結果、政府に賠償責任が認められない、ということも理論的にはあり得る。しかし著者は、そんな可能性をまるで考慮していないようだ。


著者は、戦後責任に関して、日本人には「日本人としての責任」があると言う。
「「日本人」とは、「血の同一性」とかそういった非科学的なイデオロギーにもとづいて実体化されたものではありえません。また、日本語やいわゆる「日本文化」など、そういうものの共有によって定義可能だと考えられているような文化的な「日本人」でもありません。私が考えているのは、あくまで日本国家という法的に定義された「政治的」共同体に属する一員という意味での「日本人」です。具体的にいえば、国籍法によって日本国民の一員であり、日本国憲法によって日本国家の政治的主権者である人がここで私の考える「日本人」なのです」*7

「日本人は日本国家の主権者として、日本国家の政治的なあり方に責任を負っています。政府が他国の被害者に対して、また自国の被害者に対しても、当然果たすべき法的責任を果たそうとしないときには、それを果たさせる政治的な責任がある、というべきではないでしょうか。日本政府に法的責任を履行させる「日本人としての」政治的責任です」*8

先のB−1からさらに発展して、

B−1−a 国家はguiltyである。私はguiltyでない。しかし、Xの理由で、現政府は責任を果たすべきである。国民(私)は現政府に責任を果たさせる責任がある。

という主張である。

これらの指摘は間違ってはいないのだが、まず根本的な問題は「日本政府が当然果たすべき責任を果たしていない」という認識である。著者はこれを大前提としているが、先述したようにこれは自明のことではない。著者はまずこの前提を論証し、理由Xを明らかにするべきであろう。
次に、その国籍について、著者はすぐ後で
「たとえば戦後に日本に「帰化」した在日朝鮮人や中国人の人たちは、何世代も前からいわゆる「日本民族」に属している人たちと、現在の日本国家が負っている戦後責任に関して、あらゆる意味で同じ責任を負うことになるのでしょうか。私はそうは思いません。(中略)そもそも日本社会において、在日朝鮮人や外国人の日本への「帰化」を認める権限、つまり日本国民としての政治的権利をだれに認め、だれに認めないかの権限を握っているのは、圧倒的多数派であるこの「日本民族」系日本人なのですから、この人たちの責任は実質的にははるかに大きいといわざるをえないと思うのです。私はこのことを、とりあえず、「日本人」としての政治的責任を共有する人々の中での歴史的責任の相違と呼んでおこうと思います」*9
と言っている。

なるほど。しかし、日本国籍を取得した外国出身者は、なにも上記の人たちだけではない。例えば元横綱の曙はハワイ系日本人だし、ラモス瑠偉はブラジル系日本人である。彼らはどんな責任を負うのだろう。逆の場合もある。すなわち、戦時中に大日本帝国の国民であったが、戦後外国人になった場合だ。彼らは当事者であり、もしかしたら加害者であった可能性すらある。彼らは自動的に責任を免除されるのか(この指摘に対する著者の反論は容易に予想できるが)?
つまり、日本人とは日本国籍を有する者だと言いながら、著者の主張はすぐに腰砕けてしまい、同じ日本国籍を有する者の中にも差があるとしている。それでは著者の言う日本人とは、結局「血の同一性と文化的同一性を持つ日本民族」に過ぎないのではないか?こういうのをダブルスタンダードと言わないだろうか。
さらに、帰化制度に問題があるとしても、それは日本国民の総意−と言って悪ければ、少なくとも大多数が認めた日本政府によって、決定され運営されているものだ。帰化制度の問題点は、それこそ個別に論証すべきものである。

「私のいう「日本人としての責任」は、法的に日本国民の一人であることから生じる責任であるとはいえ、国家の法に服従する責任などではありません。自分の属する国家のあり方に政治的責任を負うことと、国家の法に服従することとは違います。前者には、国家の法や行為に問題がある場合、それを批判したり、拒否したり、改善すべく努力する責任が当然のこととして含まれます」*10

やや文脈から離れてしまうのを承知で一応突っ込んでおくと、法が正当な民主的手続きに則って制定されたものである限り、日本国民には日本国の法を遵守する義務がある。
民主国家において、国民は政府が国民の意に沿わない行為を行っていないか監視しコントロールする権利と義務を持つ。それと同時に、ある国の国籍を有する者は、憲法の掲げる国のあり方に共感し、その自由と独立が侵されるときは命がけで抵抗する覚悟をも要求される。国籍によって与えられる保護は、その覚悟と引き換えられるものである。著者にはその覚悟がおありだろうか。


最後に、戦後賠償に関する基本的な事実を述べておく。本書にはこうした事実は一切述べられていない。

日本は、1941年12月8日、アメリカ・イギリスに対して宣戦布告を行った。
そして1945年8月15日ポツダム宣言を受諾したときには、実に45カ国と戦争状態にあった*11。
私も今回ちゃんと調べるまで知らなかったのだが、その中にはニカラグアだのイラクだのリベリアだのが含まれる。かつて日本はボリヴィアと戦争したのだと言われても、普通はピンとくるまい。とりわけギリシャなぞは1945年6月20日に宣戦している。昭和20年6月と言ったら、沖縄が陥落して、日本の敗北は時間の問題となった時期だ。すべりこみで戦勝国の立場を得たわけである。
そして米軍の占領を経た1951年9月8日、日本はソ連、ポーランド、チェコを除く48カ国とサンフランシスコ講和条約を調印した*12。この条約を受けて、日本は29カ国と国家間賠償・個別補償の協定を結び、誠実に履行してきた。条約・取極の件数にして54件、無償供与と円借款も合わせ、支払い総額は1兆495億6240万円(当時の為替レートによる単純合算)にのぼる*13。中には「オーストリアとの請求権解決に関する取極(1966.11.29、601万2,000円)」なんてのもあって、素朴に日本がオーストリアに一体何をしたんだろうと思わないではない(まあ海外資産の接収か何かだろうが)。
フィリピンへの支払いを終えて戦後賠償を完了したのは、なんと1976年である*14。

一方、ドイツは国家間賠償を一切していない。冷戦下で東西に分裂してしまい連合国と講和条約を締結できなかったためであり、ドイツの戦後補償が個人賠償に終始しているのはこれが理由である*15。
また、当事者の責任追及にしても、
「1958年から95年までにそのような(ドイツの裁判所によるナチ犯罪の訴追)裁判において、ホロコーストへの関与の罪で有罪判決を受けた者は、全体でも500人に達していない。その他、本来訴追されてもいいはずの1万人以上の人には、何らお咎めもなかったのである」*16。

ところで、戦後賠償というと常に日独だけが問題になるが、三国同盟の一角でありファシズム発祥の地であるヘタ・・・・・・もといイタリアはどんな戦後処理をしたのだろう。昔から気になっていたのだが、いい機会なのでちょっと調べてみた。
日本語文献ではまとまった研究が乏しいが、

「(イタリアは)戦争賠償金の支払いについては、何とか問題を先送りすることに成功した。そのため、賠償金支払いについては、ほんの数年前まで繰り返し議論されてきた。イタリアが賠償を支払ったのは、ソ連に対してだけで、エチオピアやリビアなどには経済協力という形で解決した」*17
ということだそうだ。さすが、負けそうになったらさっさと寝返った、政治的に正しい国らしい身の処し方だ。それで戦後問題になったという話も聞かないし、むしろ日本が見習うべきはこちらではないか。



以下脚注

*1 鬼頭誠「Q&A・戦争責任とは何か」『中央公論』(2005年9月)80頁。
*2 高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005年)37頁。
*3 同上、30頁。
*4 同上、40頁。
*5 責任主体に関する議論は、以前も紹介した小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会、2008年)に詳しい。
*6 加地伸行「道徳的責任と法的責任」「論客17人の主張−迷路の出口を探る」『中央公論』2005年9月号73頁。
*7 高橋『戦後責任論』、53頁。
*8 同上、55頁。
*9 同上、58-59頁。
*10 同上、60頁。
*11 鹿島平和研究所編・太田一郎監修『日本外交史24 大東亜戦争戦時外交』(鹿島平和研究所出版会、1971年)32頁。
*12 鹿島平和研究所編・西村熊雄『日本外交史27 サンフランシスコ講和条約』(鹿島平和研究所出版会、1971年)410-412頁。
*13 竹前栄治「今、日本人は何をなすべきか−戦後改革と戦後補償」色川大吉編『敗戦から何を学んだか−日本・ドイツ・イタリア−』(小学館、1995年)148-151頁の表から計算。大元の出典は朝日新聞戦後補償問題取材班編『戦後補償とは何か』(朝日新聞社、1994年)。
*14 永野信利『日本外交のすべて』(行政問題研究所、1986年)232頁。Yolanda Alfaro TSUDA「日比国交回復と戦後賠償協定(1956-1986)についての一考察」『論集』53号2巻(2006年12月)では、フィリピン上院が12年も条約を批准しなかったため支払いが遅れたとの記述があるが、『日本外交のすべて』では、最初から1956年から20年払いだったとしている。TSUDA「日比国交回復と戦後賠償協定」は以下で全文が読める(英語)。
http://nels.nii.ac.jp/els/110006426985.pdf?id=ART0008435393&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1260169707&cp=
*15 鬼頭「Q&A・戦争責任とは何か」、84頁。
*16 ヘルベルト・ヴォルム(Herbert Worm)「ドイツの戦争責任問題 地域史の視点から」色川『敗戦から何を学んだか』、84頁。
*17 ジュリオ・サペッリ(Giulio Sapelli)「1945年以後のイタリア 経済再建と憲法問題」色川『敗戦から何を学んだか』、197-198頁。

2009年12月7日(月)
映画の教科書

本日小ネタにて。

大学の
図書館にジェイムズ・モナコ著「映画の教科書」(フィルムアート社、1983年)があったのでパラパラめくってみた。
中身は確かに参考になるのだが、用語集に出てくる用語がなんかヘン。

電波妨害・ジャミング TV局・ラジオのシグナルを故意に妨害すること
って、それ軍事用語なんじゃ。

モウグル・ムガール スタジオの首脳・オーナーなど、富裕で絶大な権力を有する独裁的な人物。インドのムガル帝国から。
なぜにムガル帝国。

フォーン・フリーク 電話システムの複雑さを研究し操作することを趣味にする人。
どんな人だよ!英語でググってみても1件もヒットしないけど、本当にいるのかそんな人種。

ワウ・フラッター フィルムのサントラを再生するときの音の歪み。モーターのスピードの変動によって起こる。
これはまあマトモだけど、フラッターというのは航空用語でもある。航空機の翼面・舵面に激しい振動を生じ、ときに空中分解の原因にもなる恐ろしい現象。

突然だが、F-86セイバーは亜音速機でありながら、急降下すると音速を超えるという。
昔、若い頃はセイバーに乗っていたというパイロットと話す機会があって、この説の真偽を聞いてみたことがある。その方によると、1度音速超えに挑戦してみたことがあるのだが、途中で猛烈なフラッターが始まったので怖くなってやめたそうである。「降下中の加速のし方にコツがあるんじゃないか」とのことだった。

ついでに、錯視の例として有名なこの絵だが、1915年W.E.ヒルの作で正式な原題を「私の妻と義理の母」ということを本書で初めて知りました。

2009年12月5日(土)
明石康

本業の関係で、元国連事務次長・明石康氏の講演を聴く機会があった。

その中で、印象に残った発言(大意)。

−なぜ戦争はなくならないのか?
「国家が組織的になるに従って、戦争の方法も残虐になった。それに対して、戦争を組織的に防止する方法は、まだ確立されていない」

−先進国は、他国の紛争へ介入したり停戦させたりすべきなのか?
「人道上座視できない問題があるときに、第三者的、日和見的であるべきではない。ただそのとき、heroicであったりmissionaryであったりしてはいけない」

heroicとmissionaryは原語で言っていた。
heroicは解るとして、より印象的だったのはmissionaryのほう。つまりは、宗教的使命感に基づいた態度ではいけない、というような意味だと思う。

manifest destinyを本気で信じている超大国には耳が痛いことだろう。

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