古田の時代へのレクイエム


ひとつの時代が終わった。月並みだが、古田敦也の現役引退の報に接し、そう感じた人は多いはずだ。

'07年10月7日広島戦。
古田は、5番キャッチャーでフル出場した。試合は敗れたものの、いろいろと見所があった。

 

先発石川は初回思うように変化球が決まらず、連打で3点を失うが、2回からはストレート主体のリードに改めて、4回まで無失点。しかし、許盗塁2が古田の限界を如実に物語っていた。何しろ、セカンドベースへまともにボールが届かないのだ。見ていて痛々しかった。
その後、8回に石井一久、9回に高津との黄金バッテリーを再現してみせた。圧巻は高津である。気合い充分、絶妙のコントロールでストレートをコーナーいっぱいに投げ分け、東出、緒方を連続の見逃し三振に斬って取り、古田の最後の勇姿に花を添えた。
また、広島側の粋な計らいも嬉しかった。古田最後の打席に、これも引退を決めた佐々岡をピンポイントで送ったり、高津に対して代打で前田を出したり(スタメン落ちしていたのはこのためだったか)。
古田最後の試合は、4打席ノーヒット、犠飛1、被本塁打2、6失点で許盗塁2。6回2死1、2塁で打席がまわったときは、文字通り球場が揺れた。衰え、最後の日を迎えても、それでも古田はグラウンド上で輝いていた。

  

東京ヤクルトスワローズは、名実ともに古田のチームである。
「過去の記録を眺めると、古田が一試合でも欠場した年は、ヤクルトは優勝していない。逆に、古田が全試合出場を果たした4年間は、全てヤクルトが優勝を成し遂げている。あまりにわかりやすいこの因果関係は、野村IDにとって古田の存在がどれほど大きなものだったのかを雄弁に物語っている。」(「Number PLUS 1999 スポーツ最強伝説B プロ野球 大いなる白球の軌跡。」より)
'01年は、ただ1度古田が欠場したにもかかわらず優勝した年だった。

「古田敦也が3割打てばヤクルトはAクラスに入り、3割打てない年はBクラスに甘んじる。こんな法則を知っているだろうか。そう、古田の調子はヤクルトの成績に直結する。(中略)
古田は05年までに通算8度の3割を記録しているが、そのうちリーグ優勝が4度、Aクラスが7度ある。
逆に3割打てなかった年は8度あり、そのうち6度がBクラス。もっと細かく言えば、6度のBクラスはすべて古田の打率が2割8分に達しなかった年である。」(「ワニとライオンの野球理論」より)
'01年に古田が故障したとき、ペタジーニは自分が外野を守るから、古田をファーストで起用したらどうか、と提案した。それ程に、ペタジーニの後を打つ古田の存在感は大きかった。
スワローズの栄光は、古田とともにあった。

監督として2年目の'07年。
実力ある選手たちはFAやポストスカウティングで移籍し、満足な補強はされないのがスワローズの年中行事である。スワローズは巧みなやりくりでゲームを拾っていく野球巧者だったが、自転車操業にはいつか限界がくる。続出する故障者。つながらない打線。あっさり失点する先発。火に油を注ぐだけのリリーフ陣。衰えゆくベテラン勢。育ってこない若手。
かつて「もっと強いチームの監督をしたかった」と名言を吐いて辞任した監督がいたが、古田は今、「屈辱的低迷」の責任をただ一人で負っている。
今シーズン、スワローズ最大のアキレス腱がリリーフ陣だった。先発がそこそこ試合をつくり、非力な打線が必死で点をもぎ取ってくるのに、リリーフ陣がいとも簡単に失点してゲームを落とす場面を何度見たことか。
その最大の原因は、間違いなく捕手・古田の不在にある。スワローズの若い投手陣や、他チームをクビになったベテランたちは、古田のリードで自信をつけ、また息を吹き返してきた。田畑、吉井、入来、前田、高木ら、古田のリードで一花咲かせた投手は枚挙にいとまがない。スワローズの投手たちは、インタビューを受けると異口同音に「古田さんのリードのとおり投げるだけ」「古田さんのリードで打たれたら仕方ない」と口にする。皮肉なことに、古田のおかげで彼らは「古田抜きで打者を打ち取る方法」を学んでこなかったのである。そもそも古田の時代を知らないグライシンガーだけが安定した投球をしていることが、逆説的にそれを証明している。投手陣が打ち込まれるとき、ファンが非難するのはいつも「出場しない古田」であり、実際にリードしている捕手の福川、川本らではなかった。おそらく、経験の浅い彼らのリードは古田の足元にも及ばないだろう。しかし、それを非難する声を私は聞いたことがない(リード面は素人にはわかりにくいためもあるだろうが)。古田は、少なくともマスコミの前では、決して選手の批判をしない。野村監督が、マスコミ経由で選手を痛烈に非難するのと好対照だが、これは、若松監督の下で身につけたスタイルであろう。私は、古田が「出場しない」ことへの非難を甘んじて受けることで、若い捕手たちをかばってきたように思えてならない。

古田の不幸は、プレーイングマネージャーとして、文字通りその判断(自身が出場しないことも含めて)、そのプレー、その采配が、チームの浮沈と同一化してしまったことである。プロ野球史上、ここまでチームと同一視された選手は、存在しなかった。長島が引退しても、巨人軍は不滅だった。長島が引退し、監督に就任した年、巨人はただ一度最下位に低迷したが、それは「監督としての長島は無能である」「V9戦士の引退による」という文脈で理解され、チーム成績がただ一人の選手の存在に依存するなどという事態は生じなかった。

我々はいま、たった一人の選手の生命が尽きるのと軌を同じくして、かつて精強を誇ったチームが瓦解していく有様を、リアルタイムで目撃している。
薄い選手層、PMとしての激務、選手としての体力の限界。容赦ないファンの罵声。聡明な古田が、今の状況を予想できなかったとは思えない。あくまで監督を固辞する道も、移籍覚悟で現役を続行する選択肢もあったはずだ。だが古田は、あえて茨の道を選んだ。
古田はおそらく、「古田のスワローズ」を徹底的に破壊し尽くすことを、自身の最後の使命と定めたのである。自らの手で、その栄光の歴史に幕を引くことを。かつてここまで過酷な責任を負わされた選手を、私は寡聞にして知らない。たった一人の選手に、これほどの重責を負わせた球団を、私は嫌悪する。それを当然のことと見なし、低迷するチームに罵言を吐くファンと称する輩を、私は軽蔑する。そして私自身がそれに荷担してきたことを、深く恥じる。
古田よ、もういいんだ。たった一人で、そこまでの責任を負うことはない。



古田のファンへの挨拶は、最後に「また会いましょう」という言葉で締めくくられた。
データを駆使した配球と独特の捕球術、そして明るくも理知的なキャラクターで、捕手のイメージを変え、日本の野球を進化させた男。
選手会を率いて経営者と対決し、初のストを決行して球団削減の危機からプロ野球を救った男。
スポーツライターの二宮清純氏は、かつて古田の野球観、あるいは古田が体現する野球文化とでも言うべきものを、「古田の遺伝子」という言葉で表現したことがある。古田の遺伝子が球界にあまねく受け継がれたとき、プロ野球の明るい未来があるに違いない。そのとき、我々は古田にまた会えるのだ。
私は、そんな日を心待ちにしている。