この文章は、「雲のむこう、約束の場所」論の補遺として書いたものです。先にこちらをお読みください。



改めて「ほしのこえ」から見た新海誠論


最近になって−というのは、「雲のむこう、約束の場所」を観た後で、という意味であるが−気づいたことであるが、実は「ほしのこえ」にも、「雲のむこう〜」とよく似たモチーフが読み取れる。「ほしのこえ」は、ちっぽけな人間がそのテクノロジーで(携帯電話のメールという卑近な手段で!)、「時間と空間を超えて想いを伝える」物語である。物理的な距離というこの宇宙の摂理=神の定めたルールに人間が挑戦する、という構図に他ならない。

本作の中で不可解なのは、タルシアンの人類とコンタクトしようとしたり攻撃したり、といった矛盾した振る舞いである。これはなぜなのか?ヒントとして、菊池秀行「吸血鬼ハンターD」から引用したい。はるかな未来を舞台に、人類を凌駕する能力と科学力を持ちながら種としての衰退に入った吸血鬼と、人々を守る吸血鬼ハンターとの死闘を描いた傑作SFである。本作の中では、吸血鬼はその弱点(十字架とかニンニクとかのアレ)を、高度な科学力による記憶操作という方法で人類から隠している。ところが、吸血鬼の王が、なぜかその秘密を故意に漏らしている節があるのだ。引用するのは、登場人物が、そのことについて語るくだりである。

『「わしは、これを挑戦と見る。それも、ひとつの頂点を極めた滅びゆく種からの、いまは彼らの足元にも及ばぬが、やがて同等の高みにまで達し、さらには彼らを凌駕さえするかもしれぬ別の種への
挑戦と。──── 彼らはこう言っておるのだ。おまえたち人間がわれわれの後を継ぎたければ、自らの力でおれたちを倒し屈服させてみろ。この粉末を手に入れたら、次は「+」の謎を解いてみせろ。解いてのけたら、それを忘却の霧に閉ざされぬよう手を打ってみるがいい、と」
「まさか・・・」ドリスは、自分の口が漏らしたつぶやきを、遠いもののようにきいていた。「それじゃあ、見習ハンターを教育する師匠そっくりじゃないの・・・。」』(ソノラマ文庫版113ページ)

このセリフをタルシアンと人類に置き換えてみると、私の言いたいことはお解りいただけると思う。もう一度、タルシアンの人類との関わり方を思い起こしてほしい。
戦いのさなか、タルシアンは、成長したミカコの姿で語りかける。
「あなた達なら、きっと行ける。別の銀河にも、別の宇宙にだって。託したいのよ、あなた達に。」

神に等しい高度なテクノロジーを持ったタルシアンの真意が、人類を後継者として導くことにあるとしたら? (作中、タルシアンが造物主と明確に描かれているわけではないが)
そう考えると、タルシアンの一見矛盾した奇妙な振る舞いにも納得がいくし、宇宙戦争のさなかに、恋人にメールを出すことが、人類の存亡と同等以上の比重をもって描かれる理由も理解できる。タルシアン=神と戦って倒すのも、神の定めたルールに(携帯電話で)逆らうのも、全く等価な行為なのである。

無論、これが新海監督の意図したところだと示すものはない。ただもうひとつ、注目すべきシーンがある。物語の終盤、ミカコから8年ぶりに届いたメールを読んだ直後、ノボルのマンションの通路を照らす光。その形は、どう見ても十字架である。さらに丁寧なことに、このシーンには「これだけでも、奇蹟みたいなものだと思える。」というセリフがかぶさる。言うまでもなく、奇蹟とは本来、神が人類に対して示す力のことである。

こうして見てくると、超越的存在−神とか世界とか体制とか−への挑戦というのは、映像作家・新海誠の本質的な部分なのではないかと思える。考えてみれば、自分の創りたいものを創るために会社を辞め、たった1人でアニメを創って大ヒットさせてしまったという生き方自体がロックンロールである。実は新海を形容する言葉は、叙情とか郷愁などではなく、「反骨の人」なのかも知れない。