この文章は、新海誠監督の劇場デビュー作品「雲のむこう、約束の場所」を観た後、衝動に任せて一気呵成に書いたものです。これまでも、映画を観た後感想を書き留める、ということはずっとしていたのですが、これだけまとまった文章を書きたい、と思ったのはこれが初めてでした。
このサイトを開こうと思ったのも、この文章あってのことです。いわば当サイトの原点です。

劇場で2回観た後記憶を頼りに書いたため、細かい部分に記憶違いがありますが、考えたことは変わっていないので、あえて訂正はしていません。

なお、本文章は月刊「シナリオ」2005年4月号読者のページに掲載していただきました。




 約束の場所を遠く離れて 〜雲のむこう、約束の場所〜


この切なさ、悲しみはいったい何だろう。筋立ては甘ったるい青春純愛ドラマのはずなのに、観賞後の気分は爽やかでありつつ、ひどく苦い。
 この作品は、3つの時制からなる。中学時代、高校時代、そして見落とされやすいのが、冒頭のシーンで描写される現在である。この作品の苦さはおそらく、このシーンがあることに由来する。断片的な風景とモノローグからすると、戦争が終わり、南北統一が果たされた時代。そしてヒロキが、おそらくは平凡な大人となって生きる時代である。ふと思い立ってか、ヒロキは雨の新宿を発ち、(たぶん夜行列車で)故郷を訪れる。明るい日差しの下、故郷は何の変わりもない。塔がないことを除いて。このシーンは徹底して無人であり(新宿駅の改札でさえ!)、ヒロキの姿はいつも孤独である。

故郷の風景の中、サユリの幻影に誘われ、ヒロキの心は中学時代に戻る。中学時代の丹念な描写は、懐かしくも美しい。注意すべきは、サユリのヒロキに対する呼び方である。学校の帰り道、駅のホームで偶然一緒になったときが、おそらく初めての会話であろうが、サユリは「藤沢君」と呼ぶ。続いて、青森の書店でタクヤと会ったとき(テロップによると3ヶ月後)には、「ヒロキ君」と呼んでいる。3ヶ月間で、ある程度親密な関係になっているわけだ。塔まで連れて行くとの幼い約束、別離、東京の病院で眠り続けるサユリとの再会、夢の中での邂逅。物語が進む間、呼び名はずっと「ヒロキ君」である。夢の中で「世界にたった一人取り残されていた」サユリに、しかし、いざ約束が成就され、目覚めの予感が訪れたとき、彼女が感じたのは喜びよりも、「とても大切な、かけがえのないこと」を忘れてしまう恐怖だった。そして目覚めたサユリは、涙とともに呼びかける。「藤沢君」と。この場面が、この映画の真のクライマックスである。約束が成就され、ヒロキが現実のサユリを取り戻したとき、語られなかった言葉、伝えられなかった思いは、永遠に失われてしまった。呼び名が元に戻っているのは、その現れである。

 そして約束の場所である塔も、世界を守るために破壊されなければならなかった。この意味を、もう少し考えてみよう。
 作中では、塔はサユリとヒロキたちの間で交わされた約束の場所だが、神話的に言うと「約束の場所」とは、神によって与えられた楽園の謂でもある。作中で、塔は「憧れであり、変えられないもの、手の届かないものの象徴」と語られる。「東京からも塔が見える」というシチュエーションは、重要である。1000km離れた東京から見えるためには、塔の高さが100km以上もあることになり、物理的には考えにくいが、ヒロキにはそれこそ地球の裏側からでも見えたはずだ。塔が持つ意味は、物理的な距離とは無関係なのだから。その楽園を、人の手で破壊するのは、神の恩寵を否定するに等しい。つまりこの映画は、神殺しの寓話とも受け取れるのである。塔は自らの手で破壊されなければならなかった。それは変えられないもの、手の届かないものの象徴だから。夢から覚め、大人になるために。現実の世界に立ち向かうために。人は神を殺し、自らの足で歩き始める。孤独と絶望を受け入れて、なおその先へと。すると、ヒロキの冒頭の孤独さと、最後のモノローグが腑に落ちる。
「約束の場所を失った世界で、僕らはこれから、生き始める。」

このモノローグは、苦く切ないが、力強く響く。帰るべき楽園を自らの手で葬り、なおも前へ進む意志が観客の胸を打つ。喪失の甘美な痛みとともに。
 そういえば、約束の場所に至る手段が飛行機というのも、象徴的である。天界は洋の東西を問わず神々の住まう場所であり、イカロスの故事を引くまでもなく、空を飛ぶことはそれ自体、神への挑戦なのである。

 ここでもう一度、この作品の時制の問題に戻ろう。なぜ、この冒険物語が、リアルタイムでなく、思い出として語られたのだろう?
あり得たかもしれない過去として描くことで、我々の現実と地続き感を持たせるという作劇上の理由の他に、もう一つ考えられる。それは、神殺しは、現実の世界で「既にあったこと」だからではないだろうか。我々は近代的自我の獲得とともに、神の庇護を離れ、苦悩の中に生きることを選択した。目覚めとともに失われたサユリの思いもまた、神に「生かされていた」楽園の記憶にすぎない。だからこそ、サユリの思いは塔とともに消滅したのである。ここに至って、この物語はハッピーエンドのラブストーリーなどではなく、痛切な「幼年期の終わり」の物語であることが判明する。だからこの映画は、喪失と孤独に苛まれながらも必死で生きる、我々の心に響くのだ。

 現在に立ち戻ることなく、物語は幕を閉じる。映画を締めくくるのは、青い空にそびえる塔と、純白の飛行機。それは失われた風景だが、同時にそれ故に永遠でもある。実はこれこそ、アニメの、いや、映像作品の本質である。キャラクターも風景も、フィルムの上にしか存在しないが、そこには確かに真実があるのだから。



追記