ドリルは何を突破したのか

「グレンラガン」と「トップ」と山田正紀

2007年最大の収穫が「天元突破グレンラガン」だった。
ロボットアニメの皮を被った壮大かつディープな大河ロマン(「オトナアニメVOL.6」より)。本作はこの言葉で言い尽くされる。
はるかな未来、地底の村から始まった2人の男の物語は、銀河の果てまでもドリルで貫き、次元を超越して見事完結した。
しかし、本作はこれだけのすさまじい疾走感がありながら、不思議と地に足のついた印象を受ける。これは、同じく日常からはるかな未来の銀河まで駆け抜けたGAINAXの旧作「トップをねらえ!」には、なかったものである。「トップ」から20年、「グレンラガン」は何を得たのだろうか。


別冊宝島「アニメの見方が変わる本」所収の『”八○年代の正体”を暴いたエスカレートする物語』(見崎鉄)は、「トップ」についてこんな分析をしている。

「普通の高校生が経験するような学校の生活空間から、舞台は一転飛躍して果てなき宇宙空間へ。日々一日を繰り返していた生活時間から飛躍し、一つの文明の継続さえ超越する一万二千年という長大なタイムスケールへ。視聴者と等身大の日常を描き、お色気やギャグを絡めてスタートした物語が、たった三時間の作品展開で質的に転換し、主人公を時空を超えたシリアスなヒロインに変身させる。日常から非日常への、この目まいのするほどの加速感が『トップ』の持ち味である。」
「当時(八○年代後半から九〇年代の初め)の社会経済は後にバブルといわれるようになるが、物語もまた現実の手ざわりという実体を欠いてバブリーに加速していったのである。」
「『トップ』は表面に名の現れたいくつかの作品のパロディであるというばかりではなく、むしろ批評的にパロってみせるのは、際限なくエスカレートしていく八○年代的な物語の構造それ自体なのである。物語をこれ以上ないほど一挙にエスカレートさせることで、同じバブリーな構造をもつ物語の異常さをあらわにし、自らが道化となることでそのおかしさを笑ってみせるのである。それは同時に、それを生みだした文化状況に対する笑いでもあるのだ。」

八〇年代の空虚さを象徴するのが「トップ」の疾走感だったわけだが、「トップ」の足場の不安定さを具体的に物語るのが、彼らを取り巻く社会の描写がなされない点である。ノリコたちは1万2千年を経て地球へ帰還するが、その地球がどんな世界かは描写されない。それ以前に、この時代の「地球帝国」がどんな政治体制でどんな社会なのかの描写は全くない(注1)。この点を補ったのが「トップをねらえ2!」だった。10数年を経て、ノリコたちを迎える地球側のドラマを描いたこの作品で、「トップ」はようやく80年代の宿題に回答を出した。こうして足場を固めた上でさらに先へ進んだのが、「グレンラガン」だったのである。「グレンラガン」は、その世界を構成するさまざまな要素、さまざまな人々を丹念に描写していく(注2)。ジーハ村、リットナーの村、アダイの村、カミナシティ、ヨーコの教え子たち。これらが作品に厚みを加えていった訳だが、特筆すべきはロシウとロージェノムである。
この作品に深みを与えたのは、間違いなくロシウとロージェノムの存在だった。この2人の作中での役回りは何かというと、「建設者」と「挫折した革命家」なのである。
ドラマは、現状を維持する者と変革する者の対峙によって生まれるが、往々にして、フィクションのドラマで描かれるのは「現状を変革する者=革命家」のみである。しかし革命の多くは、悲惨な歴史を紡ぐ。フランス革命がジャコバン党の独裁を、明治維新が西南戦争を引き起こしたように。革命の後には建設が必要であり、そこに求められる能力は「現状を変革する力」とは別物なのである。
「グレンラガン」でその役を担うべく設定されたのがロシウだった。ファンに評判の悪かった第3期のロシウの振る舞いは、建設者たるロシウが非常事態にあたらざるを得なくなった悲劇だったのである。逆に、「革命」を終えたシモンが第一線から身を引いたこともまた、完結後のすがすがしさに寄与しているわけだが、それもロシウの存在あってこそ可能になった作劇である。
「挫折した革命家」とは、SF作家山田正紀の処女長編にして最高傑作・「神狩り」の中に出てくる言葉である。
人類を意のままに操り、嘲弄する超越者・神。その存在を知り、戦いを挑む主人公たち。神の力をよく知るがゆえに主人公たちに敵対する霊能力者ジャクソンに、主人公たちの指導者・芳村老人はこう言い放つ。
「はっきり言おう。君の言うこと、やってることは、敗北主義者のそれ以外のなにものでもない。挫折した革命家たちが、よく君のような口ぶりをする。わけ知りの妙にシニックぶった口ぶりを、ね・・・。いや、残念だが、君の忠告をきく訳にはいかんようだ」
かつてアンチスパイラルと戦って敗れ、人類を守るために人類を弾圧するロージェノムは、まさしくジャクソンと同じ立場である。
さらに言えば、アンチスパイラルでさえ「挫折した革命家」であり、その動機は「宇宙を守ること」なのだ!
革命に敗れ、現状維持を己の使命と定めた者に挑む、新たな革命家。
それがシモンたちだ。ロージェノムはシモン達に後を託し、もう一度革命の炎に身を投じて生命を燃焼し尽くす(注3)。

「トップ」にはじまった壮大な旅は、「トップ2」で地球へ戻り、美しく円環を描いた。
そして「グレンラガン」で、さらに1歩を踏み出した。狂騒の八十年代と停滞の九十年代を超えて。そう、まさしく螺旋の1回転が先へ進むように。
その「トップ2」と「グレンラガン」を手がけたのが、それぞれGAINAX期待の監督である鶴巻和哉と今石洋之であることが、とても嬉しい。


一方で、「グレンラガン」でさえもついに超えることができなかった壁がある。それが、「進化」という概念である。
「グレンラガン」はドリル=螺旋=進歩=進化という命題を一貫して貫いた明快な作品だが、よく見るとここには概念の混乱がある。

本作の命題は「螺旋力を恐れ抑圧するアンチスパイラルを倒して、人類は未来へ進む。それは進歩であり幸福である」というものだ。
「進歩」=「人類の繁栄」=「幸福」=「進化」
しかし残念ながら、この等式の最後の項は、検証なしには成り立たない。

近年の研究の成果によると、生物の進化は全く方向性を持たずにランダムに起こるらしい。
「人体 失敗の進化史」(遠藤秀紀)では、進化は、遺伝子という設計図を行き当たりばったりに書き換えていく行為だと述べている。
 「進化とはスマートで優雅な出来事ではないと改めて確信される。設計変更や小改造を彩ってくれるのは、ときにある地域の気候変動ですらあるのだ。そのくらいに安直な方法で、身体の形の進化は、止め処なく進む可能性があるのである。」
「進化といえば華麗な出来事という印象があったかもしれないが、実際にはさまざまな設計変更と改造が繰り返され、継ぎ接ぎだらけの身体で、次なる時代に生きる術を産み出そうとしてきたに過ぎない。ヒト科の始まりもまさにそうだ。二足歩行も、その後加速度的に生み出されてくるヒト科の高度化も、白紙の上に描かれた美しい設計図に基づくものではない。木の上に追いやられていた地味なサルが、たまたま二本足で立ったようなものなのである。」

生物が複雑化の志向を持つのは間違いないが、そこに進歩の意味はないのだ。複雑化は特殊化に過ぎず、やがて環境に適応できなくなり滅びてゆく。生物史はその繰り返しだ。
「人類の進化」は、SFにおける古典的なテーマであり、アニメではかの「ニュータイプ」「人の革新」という概念がその典型である。
「トップ」のLDBOX「トップをねらえ! オカエリナサイBOX」の解説に、いみじくも的確な文章があった。
「人類のニュータイプへの進化という概念は、19世紀末に登場し、そして20世紀を通して世界を支配し続けたダーウィニズム的改良主義のパラフレーズだからである。しかし、今日その観念が行き詰まっているのもまた事実であろう。」
「人類社会は進化するものであり、進化すべきだ」という概念が、歪んだ形で発展し行き着いた先が、優生思想であった。(注4)

これも山田正紀に、「最後の敵」という作品がある。人類が進化を遂げて次代の地球を担うことができるか、挑戦者たる生物と争うことになるのだが、その相手というのはこともあろうに大腸菌なのだ。あげくに、主人公は戦いを放棄してしまう。
これは「2001年宇宙の旅」のグロテスクなパロディである。「2001年」のHALに相当するのが大腸菌というところに、深い悪意を感じる。SFは今なお、「進化」に代わるテーマを見つけていない。(注5)
「ニュータイプ(人の革新)」という概念は、「伝説巨神イデオン」を頂点にガンダムシリーズの中で迷走を続け、93年の「Vガンダム」でトドメを刺されてしまう。95年の「エヴァンゲリオン」が人類全体ではなく個人の内面に目を向けていったのは、この「進化に対するスタンス」の行き詰まりから理解しなければならない。
鬼頭莫宏の短編連作集「ヴァンデミエールの滑走」の中で、登場人物がこのようなモノローグをする。
「神は空から追い落とされた」
「神を存在たらしめたもの 我らの意識」
「それが今や空に棲むモノ−」
「もはや神も世界も意識の被造物にすぎない」
「神の言葉を捨てた時」
「我らの前にひろがったのは空漠たる不安 深遠なる秘密」
「それは我ら 自意識と無意識の確立の端緒」
「思考しなければならない」
「この渾沌の中から新たな認識を引きあげる」
「老人よ 時代は変わりました」
「我らを支配してきた概念 上への指向性」
「しかしそれは相対的なモノにすぎなかったのです」
「我らの向かうべきところ」
「絶対的であるそれは」
「内」 
これは97年、劇場版「エヴァ」と前後する作品である。その是非はともかく、心の中へ向いていく心情を見事に言い表している。
「グレンラガン」は再び、巨大ロボットアニメの方法論で未来への希望を描いてみせたが、「進化」という概念に代わる何かを提示することはできなかった。

以上を考えると、否が応でも期待してしまうのが「エヴァンゲリヲン 新劇場版」である。新「エヴァ」は、今度こそ「新しい何か」を提示してくれるかもしれない。それが、21世紀の表現者の責務であるはずだ。


注1 作中で描写されていない以上、膨大な裏設定の存在については考慮しない。
注2 もちろん「トップ」「トップ2」計12話と「グレンラガン」27話の尺の違いは大きな要因であるが、この際それは考慮しない。尺の中で何を表現するか、という選択が既にある。
注3 「挫折した革命家」の源流は、と考えてみると、「王立宇宙軍」の将軍がいた。将軍は歴史家になる夢を戦争で歪められ、その夢の残滓を宇宙へ向けることで命を繋いでいた。その夢をシロツグに託し、ようやく将軍は燃え尽きることができた。この役回りは、ロージェノムによく似ている。
注4 『(第1次世界大戦が避けられなかったのは)さらに、社会ダーウィニズムが徐々に受け入れられるようになっていたという背景もある。チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の適者生存の考えは、何世代にもわたる自然種の遺伝に関する統計的理論構築物としては意味があったが、これが誤って人間社会に、それも単一事象に適応されてしまった。ダーウィンの考え方が、「強者が優越すべきだ」という見方の正当化に使われたのである。もし強者が優越すべきなら、平和を気にする必要がどこにあろうか。長期の戦争はありそうもないし、短期の決定的な戦争に強者が勝つというのであれば結構な変化だと、多くの指導者たちが考えるようになっていた。』(「国際紛争 理論と歴史」ジョセフ・s・ナイ・ジュニア) 
注5 山田正紀がSFから離れ、ミステリに傾倒していくのはこのためではないか、と私は思っている。