探偵小説が出来るまで 1
(前史篇)


これはミステリの通史などではない。ミステリの歴史を考えるための覚え書き、思いつきのメモのたぐいとお考えいただければ幸いである (通史ということなら、まずはハワード・ヘイクラフト 『娯楽としての殺人』、ジュリアン・シモンズ 『ブラッディ・マーダー』 あたりをご覧いただければと思う)。ついでに誤解のないようにお断りしておくが、下にあげたような作品も 「ミステリ」 である、と云いたいわけではもちろんない。あれもミステリこれもミステリという野放図なジャンル拡大主義には、むしろ否定的な立場をとっているのだが、ここであえてポー以前にさかのぼって 〈謎と犯罪の物語〉 の系譜を辿ろうとしているのは、ミステリの歴史的パーステクティヴを得るために、いわば補助線として、こうした作品をみておくことは有益ではないか、と思ったからだ。ジャンル内のテキストだけを近視眼的に言あげしているのでは見えてこないものがあるはず。〈謎〉を主題とし、〈驚異〉 がその目的である 「探偵小説」 という奇妙な文学ジャンルが何処からきたのか、もうすこし辿ってみたいと思う。(2002.6.20)

429-245B.C.頃 ソポクレス 『オイディプス王』
1604 ウィリアム・シェイクスピア 『オセロー』
1605 ベン・ジョンスン
『ヴォルポーネ』
1622 トマス・ミドルトン&ウィリアム・ロウリー 『チェンジリング』

◆1633 ジョン・ダン 『唄とソネット』
1663 アタナシウス・キルヒャー 『新普遍暗号術』
 【18世紀】
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429-425B.C.頃
ソポクレス 『オイディプス王 (岩波文庫他)
聖書や神話・伝説のなかに、謎や推理を扱った物語はいくつもあるけれど、文学ジャンルとしての 「ミステリ」 の源流を考えるならば、さしあたりこの作品をあげねばならないだろう。これは十数年前に起きた先王殺しの真犯人を 〈探偵〉 オイディプスが追求する 「回想の殺人」 物であり、探偵=犯人=被害者の物語でもある。たとえばマーガレット・ミラーやロス・マクドナルドの作品に、オイディプス王の物語の遥かな残響をきくことも出来るだろう。(ちなみにホームズの同時代人であるフロイトは、この物語を、まさに 「探偵小説」 のように読み解いた。精神分析と探偵小説というテーマは、近年の話題作 『アクロイドを殺したのはだれか』 [筑摩書房] で、ピエール・バイヤールが集中的に取り上げている)
事件の謎を解くことが、結局は 「世界/人間」 という謎を解くという行為につながっていくミステリの原初的光景を、ぼくたちはここで目撃することになる。この物語の前段でオイディプスが 「解決」 するスフィンクスの謎の答が 「人間」 であるのは、なかなかに示唆的だ。そして、この謎を解くことが出来ない者は死なねばならない、ということも。謎を解くことに失敗した探偵は死なねばならぬ。ポーの通常 「怪奇小説」 に分類される物語で、ぼくたちは再び、謎を解きそこなった人間の運命に出会うことになるはずだ。

1604
ウィリアム・シェイクスピア 『オセロー
(新潮文庫他)
たとえばチョーサー 『カンタベリー物語』 (1478) の 「免罪符売りの話」 など、文学史に現れた謎と殺人の物語は、拾おうと思えばまだまだたくさんあるだろうが、いちいち取り上げていては切りがないので、いきなり2000年ほど時間を下って、エリザベス朝の英国に話を移すことにしたい。
シェイクスピアの作品に殺人が数多く登場することは、よく知られている。『リチャード3世』 (1593) ではロンドン塔の幼い王子殺し (のちにジョゼフィン・テイ『時の娘』 でこの事件を再検討することになる)、『マクベス』 (1606) は家臣による王殺しを描き、また、『ハムレット』 (1601) の悲劇は過去の殺人 (毒殺方法もユニーク) に端を発しているし、あまり読まれていない史劇 『タイタス・アンドロニカス』 (1593) などは、まさに全篇、殺戮の嵐という作品だ。(ちなみに小酒井不木 『犯罪文学研究』 では、シェイクスピアと近松作品の殺人比較論を展開している。『マクベス』 の魔女の鍋の中身を検証するエッセイなども面白い)
そのなかでとくに 『オセロー』 を取り上げておきたいのは、これが純粋な個人的動機に発した殺人の物語であり、「なぜ殺人にいたったか」 という主人公の心理の動きが興味の中心となる作品だからである。たとえばマクベスの犯した殺人は、国王を殺して自分が王になりたい、という個人的欲望に発したものではあるけれど、同時に、もっと巨大な運命の歯車に動かされ、のっぴきならない状況に追い込まれた末に、犯すべくして犯した殺人でもあった。オセローの 「事件」 は違う。ムーア人でありながらヴェニス共和国の将軍となった彼は、本来、高潔で勇敢な人間だった。しかし、旗手イアーゴーの姦計によって、次第に新妻デズモーナの貞潔を疑うようになり、恐ろしい嫉妬 (緑色の目をした怪物) に取り憑かれ、激情の果てに妻を絞め殺してしまう。人種的コンプレックス、若く美しい妻への猜疑心をつのらせながら、オセローは着実に殺人へと到る道を歩んでいく。ここで描かれているのは、もはや運命の悲劇ではなく、一個の人間の悲劇なのだ。
また、イアーゴーの 「動機なき悪意」 の現代性にも注目しておきたい。一応、過去の怨恨を晴らすため、という理由を付けられてはいるが、彼のオセローに対する執拗な攻撃、悪意の激しさはいっそ不条理なほどで、これまでも様々な論議の対象になってきた。しかし、その不可解さこそが、ぼくたち現代人には、かえって身近なものに感じられる。(シェイクスピアを 「古典」 として盲目的に崇め奉るのではなく、「現代」 と重ね合わせて読み解いた、抜群に面白いシェイクスピア論として、ヤン・コット 『シェイクスピアはわれらの同時代人』 [白水社] を強力にお奨めしておきたい)
1603年にエリザベス女王が崩御、スコットランドからジェイムズ6世がやって来て、ジェイムズ1世として即位し、国中ににわかに不穏な空気が漂い始めていた。1605年には、カトリック不満分子による国王暗殺、国会議事堂爆破計画が実行前日に暴露・阻止される、という大事件も勃発している (ガイ・フォークスの火薬陰謀事件)。時代はこの先、ひとひねり内向の度を深め、やがて舞台の上にも、不条理な混沌に満ちた惨劇が次々に出現することになる。

1605
ベン・ジョンスン 『ヴォルポーネ (白水社/別訳 『古ぎつね』 国書刊行会)
ヴォルポーネ (狐) はヴェニスの大金持ち。身寄りのない老人である彼は、重病を装い、自分の選んだ人間を相続人にすると宣言して、財産目当てに彼の歓心を買おうとやってきたヴォルトーレ (禿鷹)、コーバッチオ (大鴉)、コーヴィーノ (烏) といった強欲な連中から、「贈り物」 として、次々に金品を巻き上げていく。調子に乗った彼は、コーヴィーノの美しい妻にまで手を伸ばし、あやうく馬脚をあらわしそうになるが、奸智にたけた腹心モスカ (蠅) の機転で窮地を脱する。さらにヴォルポーネは自分が死んだことにして、三人を嘲弄しようとするが、抜け目のないモスカはその計略を利用して財産乗っ取りをたくらむ……。
シェイクスピア同時代の人気劇作家ベン・ジョンスンの傑作喜劇。この芝居のテーマはコンゲーム (詐欺) である。登場人物はどいつもこいつも欲の皮の突っ張ったやつばかり。第一、その名前からしてすでに狐や禿鷹といった獣を意味している。そうした人間の皮をかぶった 〈欲〉 の権化たちが、金を手にいれるために、それぞれ知恵をしぼり、策略をめぐらして、騙し騙されの駆け引きを展開する。ベン・ジョンスンのきわめて知的かつ技巧的で、隅々にまで計算の行き届いた、抑制のきいた作劇法は、激しいpassionの暴走を許し、血みどろの愛憎劇を描いた作家たちとは対極に位置している。シェイクスピアからジャコビアン演劇へと 〈情〉 のドラマが過激さを増していく一方では、こうした 〈知〉 のドラマもまた喝采を浴びていたのである。
ところで、このあらすじをみて、どこかで読んだ (見た) ことがあると、ピンときた人は、かなりのミステリ・ファンか映画ファンだ。この名作喜劇をそっくり下敷きにして、現代のヴェニスを舞台に、インテリジェンスあふれるミステリ (もちろん、さらに一ひねりが加えてある) に仕上げたのが、トマス・スターリング 『一日の悪』 (ハヤカワ・ミステリ) で、それを原作に名匠ジョゼフ・L・マンキウィッツが撮った映画 (レックス・ハリスン怪演) が、《三人の女性への招待状》。どちらも一読一見の価値ある佳作である。

1622
トマス・ミドルトン&ウィリアム・ロウリー 『チェンジリング』
(『エリザベス朝演劇集』、筑摩書房、所収)
青年貴族アルセメロと恋におちた令嬢ビアトリスは、邪魔になった婚約者アロンゾを殺すため、常々忌み嫌い、蔑んできた下僕ディ・フローリーズを誘惑し、首尾よくアロンゾを殺させるが、その代償として醜い悪党ディ・フローリーズに処女を奪われてしまう。やがて彼女は、「蟇蛙」 「蝮」 と蔑む下劣な男との愛欲関係にのめりこんでいき、激しい情欲が死を呼び込むように、最後は屍につぐ屍の場面で幕が閉じる。シェイクスピア=エリザベス朝演劇のすぐ次の時代、ジャコビアン演劇の代表作の1つである。
この時代、死が死を呼ぶような血腥い芝居がロンドンの劇場を席巻した。もちろん前にも触れたように、シェイクスピアにも 『マクベス』 『オセロー』 など、殺人を主題にした劇は多いのだが、そこにあった崇高な悲劇性やカタルシスはもはやここにはなく、ただもう、人間のむきだしの欲望、獣性が不条理なまでの激しさで描かれ、ひたすら死の光景が積み重ねられていく。
たとえば、ジョン・ウェブスター 『モルフィ公爵夫人』 (1614) には、妹の相続財産を奪うため、狂人と共に監禁し、ついには絞殺する兄弟が登場するが、度を越した彼らの残酷さには単なる金銭欲では片付けられない、近親相姦的なドス黒い欲望がひそんでいるし、 『白い悪魔』 (1609-12) は、愛人を操縦して夫殺しを犯させる虚無的な悪のヒロインを描いて鮮烈な印象を残す。ジョン・フォード 『あわれ彼女は娼婦』 (1632頃) では、禁断の交わりによって生まれた罪の子を隠すため、策謀をめぐらした兄妹が、絶望と破滅への道をひた走る。(以上白水社刊)
17世紀初頭の閉塞感、秩序崩壊の感覚は、こうした虚無的で、抑制を失った情欲の暴走を舞台の上にもたらした。強烈なエロスとタナトス、充満する獣のイメージ、とち狂った世界のとち狂った人々。やがてこの不安に満ちた時代は清教徒革命へと突き進んでいき、血と狂気の暗黒劇は現実のものとなるだろう。暗黒小説 【ノワール】 の愛読者は、一度この時代の英国演劇に目を通してみては如何だろう。そこにはエルロイやジム・トンプスンとの意外な親近性が見て取れるはずである。
また、『皮膚の下の頭蓋骨』 の事件が 『モルフィ公爵夫人』 上演準備中に設定されていたように、P・D・ジェイムズの17世紀演劇に対する関心は、人間の 「悪」 というテーマと深く結びついている。
ちなみに、のちに秩序と理性を重んじ、〈過剰さ〉 〈不均衡〉 を忌み嫌う王立協会一派によって否定されたエリザベス/ジャコビアン演劇に熱狂したのが、18世紀末のロマン派やゴシック小説家であり、謹厳なヴィクトリア時代 (19世紀) には抑圧されていたこれらの芝居が、あらためて 「再発見」 されたのは1920年代のことである。そこにもミステリの歴史となにがしかの関連が見えはしないだろうか。

1633
ジョン・ダン 『唄とソネット』
(現代思潮社/他)
ミステリどころか小説ですらないものばかり挙げているが、この時代のことは現代のミステリを考える上で重要な手がかりを与えてくれると思うので、もう少しだけ。
ジョン・ダン (1573-1631) は、所謂 〈形而上派〉 と呼ばれる英国の詩人で、シェイクスピアとほぼ同時代の人。恋人との関係をコンパスに喩えたり (きみが軸で、ぼくはその周りをぐるぐるまわる……)、ベッドでの秘め事を新大陸発見になぞらえたりした不思議な詩をたくさん書いた。現在では英文学史上、最も偉大な詩人のひとりとされている。
この時代、奇抜な比喩や言葉遊びに満ち、まるで暗号のような解読術を求められる詩が流行した (暗号については次項参照)。愛と死をめぐる激しい情熱が、奇妙にも冷徹な知性と論理によって語られる不思議。エマヌエレ・テサウロという同時代イタリアの批評家はずばり 「文学の目的は読者を吃驚させることだ」 と宣言している。われわれの耳になじんだ 「文学」 の概念とは、まったく異なる文学観がこの時代にはあった。
スペインではゴンゴラという大詩人が、やはり謎めいたメタファーに満ちた詩を書き、「綺想詩」 と呼ばれるジャンルがヨーロッパを席巻する。真実はもはや通常のリアリズムではとらえることができない、複雑で奇矯なイメージを通してこそ、隠された神の顔――世界の真実に到達できる、という考え方がその背景にはある。すなわちこれがドイツの批評家グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』、『文学におけるマニエリスム』 で徹底的に論じた 「マニエリスム」 文学の隆盛期であった。
「読者を吃驚させること」 が目的、といえば探偵小説こそが、まさにそうした文学ジャンルではなかったか。探偵小説をマニエリスムの一形態として捉えなおすことは、現代日本のミステリを考える上でも重要な手がかりを与えてくれるはずだ。古典を論じることについて、いまさら大昔のものを取り上げて何になる、というようなことをいう人がたまにいるが、馬鹿な話である。
山田正紀 『ミステリ・オペラ』 の 「探偵小説でなければ描けない真実というものもあるんだぜ」 というライト・モティーフを、マニエリスム宣言として読むこと (その点からも山田正紀が 『黒死館』 に続いて 『僧正殺人事件』 に取り組んだのは、きわめて納得できる)。あるいはアナグラム、アクロスティックなどの言語遊戯に異常なまでの拘りをみせる倉阪鬼一郎を、マニエリストとして評価し、位置づけること。山口雅也 『奇偶』 を、偶然の魔に挑み、壊れた世界を魔術的結合術によって回復しようとする骰子一擲の冒険として受け止めること。「いま」 「ここ」 だけを近視眼的にほじくりかえしているだけでは得られない切口が、いくらも見つかるはずだ。
脱線がすぎた。話を17世紀に戻すと、形而上派詩人のあとには当然のように反動がきた。厳密・正確を旨とし、複雑さより平明さを好んだ王立協会に代表される勢力は、ジョン・ダンらの奇矯なイメージや比喩に満ちた詩を、理解しがたいものとして葬り去った (本格ミステリ隆盛のあとに必ずやって来る反動期を思い出さないだろうか)。
死後、まったく等閑視されていたジョン・ダンの詩が、T・S・エリオットらによって 「再発見」 されたのが1920年代。いわゆる探偵小説黄金時代とぴたり重なる。かけ離れたものの結びつきによって、人々に驚異を与えることを目指すという点では、この時代に登場したシュルレアリスム (アンドレ・ブルトンの 『シュルレアリスム宣言』 が1924年) に共通し、また探偵小説にも通低している。そして1930年にはウィリアム・エンプスンという学者が、『曖昧の七つの型』 (研究社) という本で、ダンをはじめとする形而上派詩のもつ 「あいまいさ」、何通りもの解釈を許す両義性を積極的に評価した。たとえばバークリー 『毒入りチョコレート事件』 (1929) に代表されるような、解釈の多様性そのものを追及した作品が出現した背後には、こうした 「あいまいさ/多義性」 評価の機運があったことは否定できないように思うのだ。
ちなみにジョン・ダンの詩を読むには、『対訳ジョン・ダン詩集』 (岩波文庫) あたりが手頃だが、「ミステリ」 として読むことは勿論できない。念のため。それよりはむしろホッケの2冊にあたってほしい。相当歯ごたえのある本なので、読み通すにはそれなりの覚悟は必要だが。

1663
アタナシウス・キルヒャー 『新普遍暗号術』
ドイツ人のイエズス会学僧が書いたラテン語の本。もちろん、現物を読んでいるわけではない。17世紀における暗号の流行の話をしておきたい、と思っただけである。16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ各国で暗号学の本が夥しく出版された。これより早く、フランシス・ベイコン『学問の進歩』 (1623) でも、「a、b、二つの文字によるアルファベット」 という暗号体系が詳細に論じられている。
まず最初に、言語というシステムへの関心が、この時代には幅広くあった。世界の分裂・対立を修復し、平和と秩序を取り戻すには、人々が同じ言葉を使えばいい、そのために英語でも仏語でも独語でもない、新しい共通語 〈普遍言語〉 を創造しよう、という試みもさかんに行なわれている。その背景には、17世紀前半から中頃にかけて、ヨーロッパが未曾有の戦争の世紀に突入していた、という事実がある。大陸では、1618年にドイツで始まった三十年戦争 (〜48) が、新教と旧教の宗教戦争にスウェーデン・フランス軍が介入して、ますます複雑・泥沼化し、オランダとスペイン、ロシアとポーランドも戦争を繰り返していた。
一方、イギリスではチャールズ1世の強権支配が反撥を招き、1642年に清教徒革命が勃発、王党派と共和派の激しい内乱状態が続いた末に、49年、共和派が勝利、チャールズ1世は処刑される。しかし、クロムウェルの共和制も長続きはせず、1660年、オランダに亡命していたチャールズ2世が復帰し、王政復古となる (この時代の複雑な政治情勢をみるには、ジョン・ディクスン・カーの歴史ミステリ 『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』 『ビロードの悪魔』 が参考になるだろう)。
数年単位で支配者が変わり、敵味方の関係もくるくる変わるこの時代に、暗号が流行したのは必然であった。スパイや陰謀が横行し、裏切り、密告は日常茶飯事。私文書でさえ、いつ反体制の証拠として利用されるかわからなかった。海軍省の役人だったサミュエル・ピープスの残した厖大な日記は、今日、時代の細部を伝える貴重な史料として知られているが、後半、暗号による記述が増えていく。
ジェラルド・カーシュ
『壜の中の手記』 所収の 「カームジンと 『ハムレット』 の台本」 では、詐欺師カームジンがフランシス・ベイコンの筆跡で書かれた暗号詩を偽造するが、シェイクスピア戯曲の真の作者に擬されたこの哲学者が、暗号理論にも通じていたことを知れば、一層の興趣が湧くだろう。まるで判じ物のような 〈謎詩〉 が流行したのもこの時代のことである。江戸川乱歩 「二銭銅貨」で、暗号には自信があるという松村が、ベイコンの暗号法やチャールズ1世時代の暗号について、得々と話しているのは、理由のないことではないのだ (この辺の事情については、高山宏の有益なエッセイ 「暗号の近代」 [『殺す・集める・読む』、創元ライブラリ、所収] を参照のこと)。
その 「二銭銅貨」 はもちろん、ポー 「黄金虫」ドイル 「踊る人形」 など、暗号は探偵小説の重要なサブテーマのひとつではあるが、探偵小説というジャンル自体を、一種の暗号文学として考えることもできるのではないか。真実はテクストの裏側に隠されている。解読の術を知らぬ者には、無秩序な混沌としか見えないが、正しい見方をする者、解読の鍵を持つ者には、隠された真実が明らかとなる (ここでアナモルフォーズという奇怪な画法にも言及したいところだが、これについてはまたあらためて)。その解読術を自在に操る者こそ、名探偵にほかならないのである。

【18世紀篇】