翻訳権について 海外の作品を日本で翻訳して出版するには、原則として翻訳 (出版) 権というものを取得しなければなりません。原著者または著作権者と交渉し、アドバンス(前払い金)、印税率、出版期限などの条件を取り決めた契約を交わした上で、翻訳・出版することになります。しかし、ある一定の時期をすぎたものについては、翻訳権の取得は必要でなくなります。シェイクスピアやディケンズなど既に著作権の消滅した古典は言うまでもありませんが、1960年代の作品でも、条件によっては自由に出版できる場合があります。実際には、翻訳権の問題は色々な条件が関与していて複雑なのですが、ここではこうした問題に興味をお持ちの一般読者のために、基本的なところをご説明しておきます。 著作権法 この保護期間は死後30年だった時期もありました。その後50年の時期が長く続き、2018年の著作権法改定によって70年となりました。この規定は国によっても違い、現在では死後70年が主流ですが、50年の国もまだ少なくなく、逆にメキシコのように100年という国もあります。欧米諸国に日本も加わったことで、死後70年の保護期間が国際的な趨勢となっていますが、個人的にはこれには少し疑問を感じています。孫や曾孫の代まで著作権が受け継がれることが、はたして本当にいいことかどうか。たとえば著者の死後50年もたてば、それはすでに古典として、社会全体の知的共有財産として考えてもいい時期に達しているのではないでしょうか。なんでも権利が長く保護されればいい、というものではない気もします。 ベルヌ条約 戦時加算 たとえば、コナン・ドイルの 『シャーロック・ホームズの事件簿』 (1927) は、ホームズ・シリーズの中でこの短篇集だけ、戦前、改造社が翻訳権を取得して出版していたために (下記の「10年留保」 を参照)、戦後、出版するときに改めて翻訳権の取得が必要になりました。このとき翻訳権を獲得したのは新潮社と早川書房でした。創元推理文庫のホームズ・シリーズに長いあいだ 『事件簿』 だけ欠けていたのは、そういう理由からです。ドイルは1930年に亡くなっていますから、本来なら(当時の規定の)死後50年が経過した1981年には保護期間が切れるはずなのですが、戦時加算が適用されるために、日本で翻訳権取得が不要になったのは、それから10年後の1991年のことでした。創元推理文庫版 『事件簿』 はこの年に出ています。 10年留保
ということになります。かつてはベルヌ条約にこの規定があったために、おおざっぱにいえば、原著刊行後10年以内に翻訳が出ていなければ、自由に翻訳出版できる状況にありました。しかし、後の改正でこの10年留保の条項は廃止されました。すべての翻訳著作権は著者の死後50年(当時)まで保護されることになったわけです。1971年の著作権法の改正で、日本もこの新しい規定に従うことになりました。 ただし、(ここがポイントですが) この改正では、
という特例措置がとられているのです。 これはほぼ日本にだけ認められた特例なので、欧米の著者、出版社にはなかなか理解が得られないこともあり、また著作権意識の世界的な趨勢からみて、いつまで存続するかわからない条項ではあるのですが、とりあえず現状では、
ということになっています。 なぜ日本だけこの特例が認められたかといえば、欧米語から日本語への翻訳の難易度(たとえば英語から仏語への翻訳と比べれば、その難しさは歴然ですね)や、日本の翻訳出版の事情などを加味してのことだそうです。 クイーンやカーやクリスティーの初期作が数社の文庫から出たり、〈世界探偵小説全集〉をはじめクラシック・ミステリの企画が翻訳権を取得せずに出すことができるのは、この「10年留保」条項のおかげです。ミステリだけではありません。もしこの条項が完全に撤廃されると、没後70年(1967年以前に亡くなった作家の場合は没後50年)を経過していない作家の作品は、すべて翻訳権を取得して刊行しなければならなくなります。複数の社から出ているものは混乱が必至ですし、また、その時点で多くの翻訳書が絶版になることは間違いありません。【電子書籍について 追記2】 挿絵は別物 【追記2】 上記の「10年留保」は、電子書籍登場以前の時代に定められた規定に準拠したものですので、「電子書籍には適用されない」とするのが、出版界における一般的見解です(日本書籍出版協会 著作権Q&A)。10年留保条項を利用して古典作品を翻訳出版している出版社の多くが、そのタイトルの電子書籍版を製作していないのはそのためです。(一方で「適用できる」とする意見もあり、実際に、著作権の存続している作家の翻訳を刊行している電子書籍版元も存在しますが、個人的には、このような拡大解釈には慎重であるべきと考えます)
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