ハヤカワ・ミステリ文庫創刊ラインナップ

1976年、《ミステリマガジン》5月号(3月25日発売)に掲載されたハヤカワ・ミステリ文庫の創刊広告は、一挙30点の4月20日刊行を宣言し、ミステリ・ファンを驚かせた。新書版のハヤカワ・ミステリはすでに1100点以上を数える一大叢書となっていたが、そのころ、いわゆる「町の本屋」でハヤカワ・ミステリを置いているところはそう多くはなかったし、初期タイトルはほとんど品切・絶版だった。創元推理文庫(1959年創刊)につぐミステリ専門文庫の誕生によって、海外ミステリがぐっと身近なものになったのは間違いない。このころ《ミステリマガジン》を手にして真っ先に探したのが、ミステリ文庫の刊行予定の頁だった。創刊に際して、エラリイ・クイーン(ダネイ)、ロス・マクドナルド、ロアルド・ダール、エド・マクベイン、ディック・フランシスが祝辞を寄せている (海外からの祝辞は、早川書房の常套戦術なのだけれど)。

初期のラインナップをあらためて振り返ってみると、当時、どのような作家が売れ筋、主力商品と考えられていたのかがうかがえる。クリスティー、クイーン、ガードナー(ペリー・メイスン物)、マクベイン(87分署)、フランシス(競馬シリーズ)が毎月のように刊行され、新しいものでは〈悪党パーカー〉シリーズが目につく。創刊当初はポケミスからの文庫化がほとんどだが、古いものは改訳もされている。創刊30点に入ったカーの第一弾が『弓弦城殺人事件』という地味なタイトルなのは、当時もいまも不思議な選択。つづく『火刑法廷』『夜歩く』には快哉を叫んだものだが。なお、『弓弦城』の巻末予告頁では、『読者よ欺かるるなかれ』が6月刊予定となっていたが、結局このときは刊行されず、2002年にようやく文庫化が実現した。

ブックデザインは早川書房らしいスマートなものが多かった。なかでも北園克衛の手がけたクイーン作品の装丁は斬新で、北園の没後、他のデザイナーがそのデザインを引き継いだが、残念ながら似て非なるものだった。また、いまは山田惟史のタロウ・カードを用いたものに差し替えられてしまったが、カー作品の依光隆の装画も独特の雰囲気があって好ましい。他に真鍋博のクリスティー、金森達の87分署シリーズ、深井国のペリー・メイスン・シリーズなども印象深い。ちなみに定価は、『そして誰もいなくなった』280円(現在600円)、『長いお別れ』470円 (現在840円)、『興奮』350円(現在680円) といった感じ。(後記:2020年1月現在では、『そして誰もいなくなった』836円、『長いお別れ』1100円、『興奮』946円。税込)
 
1976年がどういう年だったかというと、1月にアガサ・クリスティーが死去。亡くなる直前に刊行され、日本でも緊急出版された『カーテン』が話題を呼んでいた。前年末封切のスピルバーグ《ジョーズ》が大ヒットを記録し、原作もべストセラーに。8月には 《ミステリマガジン》 が創刊20周年を迎え、記念増大号を刊行。このころの連載に植草甚一 「ちいさな教室で10回もやった探偵小説の歴史の講義」、小鷹信光「新パパイラスの舟」など。最近、話題のエドワード・ゴーリーもすでに当時、植草甚一の肝煎りで《ミステリマガジン》で紹介されている。
世の中の動きでは、ロッキード事件が政財界を震撼させ田中角栄元首相逮捕につながり、カンボジアではポル・ポト政権が樹立、南北ヴェトナム統一宣言、板門店事件、毛沢東の死と四人組逮捕と、東アジアで大きな動きがあり、村上龍『限りなく透明に近いブルー』がベストセラーに、新井素子がデビュー、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、森村誠一『人間の証明』の年でもあった。

★=文庫オリジナル ☆=改訳版


《ミステリマガジン》 1976年5月号の広告

1976年4月創刊 30点
「そして誰もいなくなった」 アガサ・クリスティー
「ひらいたトランプ」 アガサ・クリスティー
「葬儀を終えて」 アガサ・クリスティー
「ヘラクレスの冒険」 アガサ・クリスティー
「十日間の不思議」 エラリイ・クイーン
「緋文字」 エラリイ・クイーン
「最後の女」 エラリイ・クイーン
「どもりの主教」 E・S・ガードナー
「弓弦城殺人事件」 カーター・ディクスン
「長いお別れ」 レイモンド・チャンドラー 
「さらば愛しき女よ」 レイモンド・チャンドラー
「ウィチャリー家の女」 ロス・マクドナルド
「幻の女」 ウィリアム・アイリッシュ
「喪服のランデヴー」 コーネル・ウールリッチ
「ゴールド・フィンガー」 イアン・フレミング
「死ぬのは奴らだ」 イアン・フレミング
「興奮」 ディック・フランシス
「大穴」 ディック・フランシス
「重賞」 ディック・フランシス
「警官嫌い」 エド・マクベイン
「通り魔」 エド・マクベイン
「ディミトリオスの棺」 エリック・アンブラー
「メグレ罠を張る」 ジョルジュ・シムノン
「野獣死すべし」 ニコラス・ブレイク 
「深夜プラス1」 ギャビン・ライアル
「金曜日ラビは寝坊した」 ハリイ・ケメルマン
「死の接吻」 アイラ・レヴィン
「不死鳥を倒せ」 アダム・ホール
「あなたに似た人」 ロアルド・ダール
「悪党パーカー/人狩り」 リチャード・スターク
※こうしてみると、創刊30点には、当時入手困難だったタイトルは案外に多くない。その前にポケミスの復刊フェアや〈世界ミステリ全集〉などがあって、「そして誰もいなくなった」「幻の女」「十日間の不思議」「野獣死すべし」「死の接吻」「ディミトリオスの棺」などは既に読めるようになっていた。個人的には、このとき初めて読んだチャンドラー、ダールの印象が強い。ロス・マクは中学生にはちょっと難しかった。

◆5月刊
「メソポタミアの殺人」 アガサ・クリスティー
「クイーン警視自身の事件」 エラリイ・クイーン
「夢遊病者の姪」 E・S・ガードナー
「火刑法廷」 ジョン・ディクスン・カー ☆
「縞模様の霊柩車」 ロス・マクドナルド
「象牙色の微笑」 ロス・マクドナルド
「われらがボス」 エド・マクベイン
「真昼の翳」 エリック・アンブラー
「裁くのは俺だ」 ミッキー・スピレイン
「夜の熱気の中で」 ジョン・ボール
※この月はなんといっても「火刑法廷」につきる。当時、これほど〈幻の名作〉という呼称に相応しい本はなかったのではないか。「クイーン警視自身の事件」はポケミスからの文庫化だが、ポケミス版の「警部」が「警視」に昇進している。

◆6月刊
「予告殺人」 アガサ・クリスティー
「複数の時計」 アガサ・クリスティー
「ダブル・ダブル」 エラリイ・クイーン
「第八の日」 エラリイ・クイーン ★
「怪しい花嫁」 E・S・ガードナー
「夜歩く」 ジョン・ディクスン・カー ☆
「スイート・ホーム殺人事件」 クレイグ・ライス
「ハートの刺青」 エド・マクベイン
「本命」 ディック・フランシス
「もっとも危険なゲーム」 ギャビン・ライアル
※異色作 「第八の日」 にはびっくりした。「夜歩く」もようやく読めるようになったが、このあと創元推理文庫からも井上一夫訳が出ている。「スイート・ホーム」の長谷川修二訳はよかったね。

◆7月刊
「ゼロ時間へ」 アガサ・クリスティー
「満潮に乗って」 アガサ・クリスティー
「屠所の羊」 A・A・フェア
「度胸」 ディック・フランシス
「酔いどれ探偵街を行く」 カート・キャノン
「九マイルは遠すぎる」 ハリイ・ケメルマン
「悪党パーカー/犯罪組織」  リチャード・スターク
「殺人のためのバッジ」 ウィリアム・マッギヴァーン
「帽子から飛び出した死」  クレイトン・ロースン ☆
「帽子から飛び出した死」は待望の新訳。このころ「九マイルは遠すぎる」のミステリ界における評価はずいぶんと高かった。

◆8月刊
「親指のうずき」 アガサ・クリスティー
「杉の柩」 アガサ・クリスティー
「ガラスの村」 エラリイ・クイーン
「サンダーボール作戦」 イアン・フレミング
「麻薬密売人」 エド・マクベイン
「切断」  ジョイス・ポーター
「アンクル・アブナーの叡智」 メルヴィル・D・ポースト ★
「影の顔」  ボアロー&ナルスジャック
※当時、HMMで〈シャーロック・ホームズのライヴァルたち〉と題して、古い名探偵物が訳載されていたが、それをもとに「アンクル・アブナー」や「隅の老人」「思考機械」などが文庫化されていくことになる。のちにアンソロジー「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」全3巻も出た。

◆9月刊
「パディントン発4時50分」 アガサ・クリスティー
「さむけ」 ロス・マクドナルド
「飛越」 ディック・フランシス
「悪党パーカー/弔いの像」 リチャード・スターク
※なぜかこの月は点数が少ない。予告されていたもののうち数点が翌月に繰り越しになった。「ウィチャリー家の女」は初読の際はいまひとつピンとこなかったのだけれど、「さむけ」には圧倒された。

◆10月刊
「チムニーズ館の秘密」 アガサ・クリスティー
「バートラム・ホテルにて」 アガサ・クリスティー
「悪の起源」 エラリイ・クイーン
「おとなしい共同経営者」E・S・ガードナー
「嘲笑うゴリラ」 E・S・ガードナー
「暗闇へのワルツ」 ウィリアム・アイリッシュ
「被害者の顔」  エド・マクベイン
「時計の中の骸骨」 カーター・ディクスン
「ちがった空」 ギャビン・ライアル
「土曜日ラビは空腹だった」 ハリイ・ケメルマン
「隅の老人」 バロネス・オルツィ ★
「料理長が多すぎる」 レックス・スタウト ★
※この月買ったのは、「隅の老人」「時計の中の骸骨」「料理長が多すぎる」。「隅の老人」の畑農照男の表紙は好きだったな。

◆11月刊
「書斎の死体」 アガサ・クリスティー
「ポアロのクリスマス」 アガサ・クリスティー
「恐怖の研究」 エラリイ・クイーン
「ラム君、奮闘す」 A・A・フェア
「死者との結婚」 ウィリアム・アイリッシュ
「メグレと老婦人」 ジョルジュ・シムノン
「殺しの報酬」 エド・マクベイン
「悪党パーカー/襲撃」 リチャード・スターク
「白尾ウサギは死んだ」 ジョン・ボール
「第八の地獄」 スタンリイ・エリン
※「恐怖の研究」 はエラリイ外伝という感じだけど、わりと好き。エリン「第八の地獄」はずいぶん後になって読んで感心した。

◆12月刊
「ポケットにライ麦を」 アガサ・クリスティー
「愛国殺人」 アガサ・クリスティー
「クイーン検察局」 エラリイ・クイーン
「傾いたローソク」 E・S・ガードナー
「わたしを愛したスパイ」 イアン・フレミング
「血統」 ディック・フランシス
「レディ・キラー」 エド・マクベイン
「ファイル7」 W・P・マッギヴァーン
「死人はスキーをしない」 パトリシア・モイーズ
「五人対賭博場」 ジャック・フィニイ
※この月のタイトルは、あまり印象が残っていない。クリスティーやクイーンはすでにポケミス、世界ミステリ全集版で読んでいたし。87分署は買っていたと思う。