幻の鮎川哲也を尋ねて



 いまから十二年前の夏、戦前の探偵作家の埋もれた作品をまとめた 《探偵クラブ》 というシリーズを実現しようと、駒場の近代文学館や芝の三康図書館、神奈川近代文学館などに通っては、古い探偵雑誌を読みあさっていたことがある。いま振り返ってみると、現在の復刊ブームの口火を切ったような企画で、ちょっとくらいは自慢してみたい気持ちもないではないのだけれど、もちろん、戦前探偵小説の発掘自体は、自分がはじめて思いついたアイデアというわけではない。一九六〇年代の 「異端文学」 復権や、数種の 〈新青年傑作選〉、雑誌 《幻影城》 など、それまでにも何度か復刊ブームはあったのだが、ぼくがこの企画を練っていたころ、いわば精神的な拠りどころとして何度も読み返していたのが、その 《幻影城》 の連載をまとめた鮎川哲也先生の 『幻の探偵作家を求めて』 (晶文社) だった。

だから 《探偵クラブ》 の企画書が通り、収録作家がほぼ固まるとすぐに、鮎川先生に連絡をとることにしたのは当然の成り行きだった。とりあえず企画趣旨と収録案を説明し、内容見本への寄稿依頼と、葛山二郎氏の連絡先を問い合わせる手紙を出す。すると早速先生のほうから、話をしたいから一度鎌倉へ来ませんか、というお電話があった。

日取りを決めて、鎌倉駅前の喫茶店のいちばん奥の席で待ち合わせる。普段は翻訳物の仕事が中心だったから、所謂 「作家」 に会うことは滅多にない。しかも相手は 『黒いトランク』 の作者、ぼくらの世代からすればすでに歴史的人物である。かつては人嫌いで偏屈という風評もあって (これはご本人の韜晦趣味によるところも大きいのだが)、少々緊張していたのだが、やがてその場に現れた先生は、独特の慎重な物言いながら、今回の企画への期待と励ましの言葉を口にされ、気負いと不安を抱えていた若輩編集者を勇気づけてくれたのだった。

店を出ると、このあと予定はありませんか、と確認されたあとで、よかったらすこし散歩をしていきましょう、ということになった。小町通から横の路地にはいり、いくつも角を曲がって、以前綾辻さんも案内したことがあるという古い洋館の前へ出る。門の鉄格子のあいだから蔦に覆われた館が見える。いかにも探偵小説の舞台になりそうな佇まいである。説明すべきことを話してしまうと先生は、私はもう何度も見ましたから、と脇に立って待っている。こちらが見学し終った頃合を見計らって、「じゃ、行きましょうか」 とまた歩き始めるのである。

その後、何度かお誘いを受けて、鎌倉へ伺う機会があった。鎌倉山の桜をみたり、江ノ島まで足を伸ばしたり、山前譲さんも同行して伊勢原へ葛山二郎氏を訪ねたこともある。葛山氏は当時九十歳、『幻の探偵作家』 の取材以来、ほぼ十五年ぶりの再訪となった先生が、御宅をあとにしたあとで、「さすがに衰えられましたね」 と淋しそうに仰っていたのを思い出す。

その日歩くコースは先生の胸のうちでは概ね決められている様子だった。時間が余ったときはどこへ、すこし疲れたときはこう、という代替案も用意されていたようだ。そうして歩きながら、ぽつぽつといろいろな話をされる。柳香書院の探偵小説全集のこと、昔の探偵作家のこと、高木彬光氏と語らった幻のアンソロジーのこと。《探偵クラブ》 が二期・三期と巻数をのばし、やがて 《世界探偵小説全集》 が始まると、お奨めの作家・作品の話なども話題にのぼるようになった。そんなときも、けっして 「〜を出しませんか」 といった物言いはなさらない。まず 「〜という作家をご存知ですか」 と遠まわしに切り出し、「面白いと思うんですがね」 とあくまで控えめな奨め方なのである。鷲尾三郎や狩久、コニントン、ウィップル(『鍾乳洞殺人事件』)、マイヤーズ といった名前が記憶に残っている。クラシックミステリ専門のファンジン 《ROM》 のことを教えていただいたのも、そうした折のことだし、〈幻のポケミス〉 リストのコピーをわざわざ送ってくださったこともあった。

 探偵小説の話だけでなく、お好きな唱歌の話や、昔の女優や芸人の話、少しずつ記憶をたどるようなお話を聞くのが、鎌倉行きの楽しみでもあった。いま、手元にある鮎川先生からいただいた手紙をみると、「天勝のコピーをありがとう」 とある。戦前に大評判をとった女奇術師、松旭斎天勝の話を先生がされたことがあり、そのあと新聞に天勝の記事が出ていたのを見つけて、お送りしたときのものだろう。

 そういえばこんなこともあった。若宮大路からはずれてどんどん裏通りに入っていく。どこへ連れて行かれるのかと思っていると、「この先に元女優の××さん (残念ながら名前を失念。往年の美人女優だったと思う) が経営する喫茶店があります。行ってみますか」 もちろん異存のあろうはずもない。すると店に入る前にあらためてご注意がある。「いいですか。じろじろ見るのは失礼ですから、店に入ったら黙って席についてください。××さんがいらっしゃったら私が合図をします。そうしたらそちらをそっと見てください」

同行したS社のHさんとぼくが、その指示に神妙に従ったのは言うまでもない。

ワセダミステリクラブの機関誌に寄稿したものに加筆。(2003.10.3)