The Avenging Chance の謎

真田啓介


     アントニイ・バークリー 「偶然の審判」 『毒入りチョコレート事件』 の内容にふれていますので、
      未読の方はご注意ください。


Ⅰ 定まらない初出年の謎

       I-1 1925年説とその否定

 昨年 (2012年) ROM 叢書で出していただいた『英国古典探偵小説の愉しみ』には、アントニイ・バークリーの著作リストも収めたのだが、その原稿を作成していた際に一つ奇妙なことに気がついた。

 ロジャー・シェリンガム物の短篇「偶然の審判」(The Avenging Chance)の初出年月が、現在にいたるも確定していないのだ。「偶然の審判」といえば、短篇ミステリのオールタイム・ベスト級の傑作として評価の定まった作品である。その初出が分からない……?

 上記の著作リストは、国書刊行会版『第二の銃声』(1994年刊)の解説に掲げていたリストを最新の情報に基づき改訂したものだが、The Avenging Chance の発表年として旧稿では 「(1928)」 と記していたのを、「(1929 ?)」 と改めることになった。これまでのところ、1928年における雑誌発表の事実は確認されておらず、1929年9月発行の Pearson's Magazine に同作が掲載されたことは分かっているが、それ以前の発表がなかったかどうかについて、なお疑義が存するからである。ちなみに、従来、同作を長篇化したものと考えられてきた 『毒入りチョコレート事件』(The Poisoned Chocolates Case) の初刊は、1929年6月なのである。

 少々込み入った話になりそうなので、順序立てて説明していくことにしよう。まず、1994年に筆者が著作リストの旧稿をまとめる以前においては、わが国の文献では 「偶然の審判」 の発表年は1925年とされるのが一般的だった。その情報源となっていたのは、創元推理文庫の江戸川乱歩編 『世界短編傑作集3』 (1960年刊) である。同書収録の 「偶然の審判」 の前説に 「一九二五年」 と明記され 注1、同文庫版 『毒入りチョコレート事件』 (1971年刊) の中島河太郎の解説でもそれを踏襲した説明がなされていた。

 この1925年説の典拠は明らかでないが、それを確認するまでもなく、次の諸点を勘案すればその説は成り立たないと考えられる。

 (1925年説を否定する理由)
① 「偶然の審判」 は、事件発生後一週間ほど過ぎたある晩、ロンドン警視庁のモーズビー主任警部がオールバニー (ピカデリーにあるアパート) のロジャーの部屋を訪ね、彼の知恵を借りようとする場面から始まる。シェリンガム物の長篇シリーズ (第一作 『レイトン・コートの謎』 は1925年刊) において、モーズビーは第三作 『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』 (1927年2月刊) で初めて登場している。しかも、彼は同作ではまだただの警部であり、主任警部として登場するのは次作 『絹靴下殺人事件』 (1928年5月刊) からである。モーズビーが短篇で先行して登場していた可能性はあるにしても、1927年2月以前に主任警部として登場したはずはない。

② また、『絹靴下殺人事件』 によれば、ロジャーがオールバニーに部屋を借りることになったのは同書の事件が起きる数ヵ月前のことであり、この点からしても、「偶然の審判」 が1927年以前に書かれていたはずはない。

③ さらに、モーズビーがロジャーに事件について相談するという設定が成り立つためには、主任警部がしろうと探偵の才能を相当高く買っていることが前提となるが、『ヴェインの謎』 事件では (残念ながら) そのようなことにはならず、モーズビーは、『絹靴下殺人事件』 におけるロジャーの働きを見て初めて彼の探偵的才能を評価するにいたったのである。したがって、「偶然の審判」 が書かれたのは、少なくとも 『絹靴下殺人事件』 以後のことであるとしか考えられない。

④ これは確実な論拠とはいえないが、もう一つ状況証拠的な理由を付け加えるならば、1928年9月に刊行されたドロシイ・L・セイヤーズ編 『探偵・ミステリー・恐怖小説傑作集』 に 「偶然の審判」 が収録されていないという事実がある。セイヤーズがこのアンソロジーの編纂のために払った膨大な資料博捜の努力と彼女の選択眼のたしかさを考えれば、「偶然の審判」 が1928年の上半期までに発表されていたのなら、同書に採用されたであろうことはまず間違いないと思われるのだ。このアンソロジーは第三集まで編まれることになったが、「偶然の審判」 は1931年刊の第二集に収録されている (これら三巻本とは別に、セイヤーズは1936年にエヴリマンズ・ライブラリの一冊として Tales of Detection という精選アンソロジーも編集しており、それにも採用しているから、彼女の同作に対する評価は非常に高いのである)。

       I-2 サンドーの1928年説

筆者が前記の著作リスト旧稿をまとめた1994年以前においては、海外の文献でも、「偶然の審判」 の初出について明確に記しているものはほとんどなかった。

 一例をあげれば、スタインブラナー&ペンズラーの Encyclopedia of Mystery and Detection (1976年刊) のバークリーの項には、

 The Poisoned Chocolates Case (1929) was the expanded version of a short story, “The Avenging Chance,” written earlier that year.

という記述が見えるが、「earlier that year」 というのがいつのことかは教えてくれないのである。

 他の諸文献においても、『毒入りチョコレート事件』 は先行の 「偶然の審判」 を 「expand」 したものとして説明されている場合が多いが注2、後者の初出に関する情報は乏しく、書誌等で同作について記述がある場合でも、書籍形態での初出を示すにとどまっている。書籍での初出が、1930年、Faber 社刊の The Best Detective Stories of the Year 1929 であることについては諸説一致しており、疑問の余地がない。

 1993年にエアサム・ジョーンズがまとめた The Anthony Berkeley Cox Files: Notes Towards a Bibliography (Ferret Fantasy) は、その時点における最も詳細なバークリー書誌で (その後も情報量の点でこれを超えるものは出ていない)、筆者が著作リスト旧稿を作成するうえで最も頼りにした文献だが、同書においても 「偶然の審判」 の雑誌初出は明らかにされなかった。「Contributions to Books」 の項において、The Avenging Chance については上記 Faber 社刊のアンソロジーの名が掲げられ、「the basis of“The Poisoned Chocolates Case”」 と説明されているが、「Details of prior periodical publication not available.」 と付記されているのである。

 このような曖昧模糊とした状況の中にあって、筆者の知る限りでは唯一、「偶然の審判」 の発表年を明記している文献があった。カリフォルニア大学のミステリ・ライブラリ版 The Poisoned Chocolates Case (1979年刊) に付された、ジェイムズ・サンドーによる序文と注釈付著作目録 (A Checklist, With Some Notes) がそれである。

 同書には「偶然の審判」 と 『毒入りチョコレート事件』 のテキストのほか、クリスチアナ・ブランドによる 「新たな解決」、バークリーによるシェリンガム伝、ジョン・ディクスン・カーの 「コックス頌」、そしてサンドーの Checklist 等々、充実した付録が収められていた。実は、筆者が1992年に 「ROM」 第82号 (アントニイ・バークリー特集第二) を編集した際の種本の一つがこれで、その時サンドーの Checklist も拙訳により掲載していたのだった。該当部分を原文のまま引用してみると、

 “The Avenging Chance,” by Anthony Berkeley; first appearance in 1928, first of many reprints in Best Detective Stories of the Year, Faber, 1929, last in this edition. The best of the Sheringham short stories.

と、初出が1928年であることを明記している。サンドーによる序文の中にも 「“The Avenging Chance” (1928)」 という記述が見えるから、「1928」 というのは誤植などではないだろう。

 この情報に接するに及び、筆者としては単純に 「すると創元推理文庫の1925年というのは間違いだったんだな」 と思い (当時は、先述の 「1925年説を否定する理由」 を考えつくほどバークリー作品を読み込んでいなかった)、その結果として、筆者の著作リストの旧稿には 「偶然の審判」 の初出を1928年と記すことになった。エアサム・ジョーンズの書誌にそれを裏付ける情報がないことにやや戸惑いは覚えながらも、極東の島国の一愛好家に、ミステリ書誌学者サンドーの権威を疑う理由は何もなかったのである。

       I-3 1929年説、そしてなお残る疑問

 2004年、トニイ・メダウォーとアーサー・ロビンソン共編の The Avenging Chance and Other Mysteries from Roger Sheringham's Casebook (Crippen & Landru) が出版された。当時惰性でこの本を入手はしていたものの、その頃からミステリへの熱が冷めかけていた筆者はすぐに同書をひもとくには至らず、ようやくこれに目を通したのは、昨年になって、バークリーの著作リストを改訂する必要に迫られてからのことだった。

 巻末の Checklist には、「偶然の審判」 の初出として Pearson's Magazine, September 1929」 と記されていた。雑誌の初出が明示されたのは、公刊された書物においてはこれが初めてであろう注3。編者の一人ロビンソンは、ウェブ上により完全な書誌 (Bibliography of Anthony Berkeley Cox) を掲載しており、これは絶えず更新されてきているようなのだが、そこにも同じ情報が載っている注4

 ここにおいて初めて筆者はサンドーの1928年説に疑問を抱くことになった。エアサム・ジョーンズの詳細な書誌でもふれられず、ロビンソンの最新の書誌にも採用されていないということは、1928年説には根拠がなく、海外の研究家の間ではとうに否定されていたのではなかったのか。そこで筆者は、改めてサンドーの Checklist を読み直してみた。そして、そこに明白な誤りが含まれていたことに気づいた。

 「偶然の審判」 の書籍形態での初出が The Best Detective Stories of the Year 1929 (Faber, 1930) であることは前に述べた。ところが、既に示したように、サンドーはこれをBest Detective Stories of the Year, Faber, 1929」 と記している。これ自体が間違いであるが、これがもう一つの間違いを生んだのではないか。すなわち、1929年刊の 『年間傑作探偵小説集』 であれば、その収録対象は1928年雑誌発表の作品ということになる。そこで、現物は確認せぬままに、推定で 「first appearance in 1928」 とやってしまったのではないか。――そういう目で見直すと、この部分の書き方もおかしいのである。他の短篇については、初出の雑誌ないし単行本の名前と掲載ページまで明記されているのに、The Avenging Chance だけがこの漠然とした表現で済まされているのだ。

 と、いう具合に筆者の疑惑は一気に高まったのだが、一方で、しかしサンドーが Best Detective Stories ―― の書名を読み違えるなどということがあり得るだろうか、という疑問も強く感じないではいられなかった。

 そこで、自分の目で確かめるために問題の本をアメリカの古書店から取り寄せてみたのだが 注5、届いた本を一目見るや、筆者は事情を了解した気分になった。同書の表題がどのように書かれているか、その文字の配列を示してみよう。

 (背表紙)             (タイトルページ)

  THE BEST             THE  BEST
    DETECTIVE                  DETECTIVE  STORIES
     STORIES                          OF  THE  YEAR
      OF THE
      YEAR               ★

      1929               1929

 ご覧のとおり、非常に誤解を招きやすい書き方なのである。背表紙の方は 「YEAR」 と 「1929」 の間に空白があり、一見して 「1929」 が書名の一部であるとは考えにくい。タイトルページの方ではさらに星印 (実際はもっと小さいが) がはさまったりしているのだから、なおさらである。しかし、「THE YEAR = 1929」 であって 「1929年刊」 の意味ではないことは、この本自体の刊行年は別にローマ数字で 「MCMXXX」 (=1930) と明記されているのだから、間違いない。

 してみると、1928年説はサンドーの書名の誤読に基づく根拠のない説であろうという筆者の疑惑は、あながち邪推とも思えないのである。

 ともあれ、筆者としては1928年説を維持することは困難と考えざるを得なくなったので、著作リストの改訂にあたっては、確実な裏づけのある1929年説に拠ることにして、「(1928)」 を 「(1929 ?)」 と改めた。ここでなお 「?」 を付したのは、こういうわけである。

 一つには、書誌作成者ロビンソン自身が得心していないのだ。ロビンソンのウェブ書誌の Supplement の中に、次の記述が見える。

 “The Avenging Chance” (this story is copyright 1928; if anyone knows of a publication before Sept. 1929, please contact me)

 筆者はイギリスの著作権制度についてはほとんど知識がないのだが、作品発表年の登録簿のようなものがあって、それに1928年と明記されているのだとすれば、その事実は重視されねばならぬわけである注6。ただし、公簿にも間違いがないとは言えぬから、絶対的な証拠となりうるものではないと考えられるが。

 「?」 を付したもう一つの理由は、「偶然の審判」 の初出が1929年9月に確定してしまうと、同年6月刊の 『毒入りチョコレート事件』 よりも後に発表されたことになり、後者は前者を expand したものという定説 (以下 「expand 説」 という。) と齟齬を来たすからである。この expand 説は、前記メダウォー&ロビンソン編のシェリンガム作品集においても踏襲されているのだ。

 「偶然の審判」 の初出が 『毒入りチョコレート事件』 の前であることが確定されない中で、長年にわたり expand 説が何ら疑問を持たれることなく通用してきたというのは、考えてみれば不思議な話である。

 書誌情報はひとまず考慮の外に置いて、純粋に作品の内容を見比べた場合、まず短篇が書かれ、その後これを材料ないし部分とする長篇が書かれた、と考えるのはごく自然な見方であろう注7。しかし、まず長篇が書かれ、その一部が短篇として切り出された、というのもありえない話ではない。expand 説は、単にそう考える方が自然だから、というだけの理由で行われてきたのだろうか。

 今となっては、この説がいかにして成立し、支持されてきたかを検証するのは困難だが、筆者が遡りえた範囲では、この説を最初に公にしたのはドロシイ・L・セイヤーズである。1936年に編んだアンソロジー Tales of Detection に 「偶然の審判」 を採用したセイヤーズは、その序文に次のように書いている。

Anthony Berkeley's Avenging Chance is the‘short story with a twist in the tail’; he is a master of this method, and subsequently elaborated this same plot to novel-length, giving it an extra twist in the process (Poisoned Chocolates Case).

「expand」 という言葉こそ用いていないが、同じ趣旨のことをより詳しく述べている。他の多くの論者の説が、おそらくは二次資料と推定に基づいていると思われるのに対して、セイヤーズの場合は、より確実な何か (自ら見聞した記憶を含めて) に基づいていたであろうことを考えると、この序文の記述はかなりの重みを持ってくるのである。

だが、そのことを認識したうえでなお、筆者は従来の expand 説は誤りであると考えている。

 両作品、そしてこれから取り上げるもう一つの作品のテキストを仔細に研究してみた結果、筆者は次のように考えるにいたった。―― 『毒入りチョコレート事件』 は The Avenging Chance を長篇化したものではあるが、その元となった作品は従来流布してきた 「偶然の審判」 ではなく、別ヴァージョンの未発表原稿だったのだ。

 以下、その辺の事情を明らかにしていきたい。


Ⅱ 発表されなかった原稿の謎

       II-1 中篇版 The Avenging Chance の存在

 今ではよく知られていると思われるが、「偶然の審判」 には、作者の生前発表されないままに終わった別ヴァージョンの原稿が存在していた。

 この原稿は、1990年代初め、バークリーの旧蔵にかかる書物や文書類が遺族により売却された際に発見されたもので、エアサム・ジョーンズの書誌に初めて記録されるとともに、ジョーンズの序を付して1994年に刊行された The Roger Sheringham Stories (Thomas Carnacki) に収録された。この本は百部に満たない限定出版だったので、限られた人の目にしかふれなかったが、その後、前記メダウォー&ロビンソン編の作品集にも収められたので、今ではふつうに読めるようになっている。

 同書の解説では 「A slightly longer version」 とされているが、従来流布してきた短篇の方が約6,700語であるのに対して、こちらは1万語に近いから、約1.5倍の分量の中篇である。混乱を避けるため、以下、短篇版は 「偶然の審判」 (又は略して 「偶然」) と、中篇版は The Avenging Chance (又は略して TAC) と表記する。

 「偶然の審判」 と 『毒入りチョコレート事件』 (以下 『毒入り』 と略記する場合あり) の関係を考えるにあたっては、この未発表中篇、The Avenging Chance が鍵を握っていると思われるのだ。

 筆者の結論を先に述べてしまうと、

① 『絹靴下殺人事件』 (1928年5月) の刊行後、まず、The Avenging Chance の原稿が書かれた。
② The Avenging Chance を expand して 『毒入りチョコレート事件』 が書かれ、1929年6月に刊行された。
③ その後、The Avenging Chance を縮小して 「偶然の審判」 が書かれ、1929年9月に発表された。

――という経過をたどったものと考えられる。すなわち、「偶然」 と 『毒入り』 の関係は直接的なものではなく、The Avenging Chance を介しての間接的なものだったのだ。

 以下のいささか七面倒な議論におつきあいくださるならば、筆者はこれを論証してお目にかけるであろう。

       II-2 「偶然の審判」 と The Avenging Chance

 初めに、The Avenging Chance は 「偶然の審判」 とどこがどのように違っているのかを見ておきたい。

 そこでまず、「偶然の審判」 の内容を思い起こしていただくため、そのシノプシスを次に掲げる。

§ 事件の一週間後モーズビー主任警部がオールバニーのロジャーの部屋を訪ねてロジャーに語った話――事件の概要説明
○11月15日午前10時半、レインボークラブで、サー・ウィリアム・アンストラザー (=A) は、チョコレートの小包を受け取った。
○A はそれを、グレアム・ベリズフォード (=B) に与えた。B が 「妻との賭けに負けてチョコレートを買わねばならない」 ともらしたため。
○B は自宅に帰っての昼食後、B 夫人にチョコレートを渡した。夫人は何個かを食べ、B も2個だけ食べた。
○外出後またクラブへ回った B は具合が悪くなり、やがて危険な状態に陥ったが、夜には回復した。夫人は自宅で死亡していた。
○警察は毒入りチョコレートが商品見本に偽装して送られていたことを突き止めた。

§ 説明に引き続くモーズビーとロジャーの会話
○女の嫉妬か、狂人のしわざか、等々議論が交わされるが、ロジャーは大した知恵も出せぬまま、モーズビーは失望して帰る。

§ その一週間後ロジャーが出会った偶然の出来ごと
○ロジャーはボンド通りで V 夫人に出会い、B 夫人の賭けはインチキであったことを知らされて、瞬時に事件の真相を看破する。
○推理の裏づけをとるため、ロジャーは調査活動に動き回る。

§ その翌日、ロジャーによる事件の解明
○ロジャーは裏づけ調査を完了し、ロンドン警視庁のモーズビーの部屋で事件の絵解きを行う。

 上記は The Avenging Chance のシノプシスとしても通用するから、基本的なプロットに異同はないわけだが、内容的に相違する部分が4点ある。

 (「偶然」 と TAC の相違点)
① 11月15日10時半に A と B が相前後してレインボークラブにやってくる場面で、「偶然」 では A、B の順に到着しているのが、TAC では B、A の順になっている。

② ロジャーがモーズビーから事件の概要を聞いた後、二人が意見交換する場面で、TAC ではロジャーが類似点を持ついくつかの実在事件を引き合いに出しながら事件を論じている部分が、「偶然」 にはない。

③ ロジャーが自ら事件を手がけようと思うきっかけとして、「偶然」 では V 夫人との路上での邂逅の場面があるだけだが、TAC ではそのほかに、ロジャーがクラブで B の自称旧友と昼食中に B 本人を目撃する場面がある。

④ V 夫人から必要な情報を引き出した後、ロジャーは早くその場を去りたいと思うのだが、「偶然」 では一応会話が終わるまで待つのに、TAC ではやって来たバスに知人が乗っていると偽って無理に飛び乗って脱出を図る。

 TAC は 「偶然」 と比べて描写やセリフがより細密・詳細になっているほか、上記 ②・③ のような相違があるために、5割方多い分量となっているわけである。

 さて、「偶然」 と TAC の関係であるが、前者は先に書かれていた後者を縮小して成ったものと考えられる。その根拠としては、まず、TAC が未発表原稿として残されていたという事実がある。すなわち、中篇の未発表原稿を改稿してできた短篇を完成品として発表する、という流れは自然なものとして了解できるが、その逆、完成した短篇として発表した作品に肉付けして (長篇化するというならともかく) 中篇作品の原稿を作成する (そのような原稿はふつう発表のしようがあるまい) という流れは想定しにくいからである。

 また、テキストの全体を通じて 「偶然」 は TAC より改行やコンマが多くなっているが、これは TAC を改稿するにあたって読みやすくする工夫が施された結果と見られるのである。

 それらは状況証拠的なものにすぎないが、より具体的な論拠として、上記の相違点①がある。これは一見瑣末で無意味な問題のように受け取られるかもしれないが、両テキストの先後を決定するうえで重要なポイントである。

 TAC は、10時半に B (ご記憶であろうが、この事件の犯人である) がまずクラブにやってきて手紙を受け取り、ラウンジに行く。数分後、A が来て手紙と小包を受け取り、ラウンジに行って B の近くに席を占める。と、いう流れなのだが、ここは、ミステリとしての構成の論理を考えた場合、「偶然」 におけるように、A、B の順に到着したことにすべきである。この場面で B は、偶然をよそおって A から (自分が送った) チョコレートの小包をもらい受ける計画を胸に抱いているわけである。とすれば、先に自分がラウンジに行き、後から A が来てうまく自分のそばに座るのを待つというのは、甚だまずいやり方である。A の日頃の習慣から A がどこに座るか予測できたのだとしても、その日のラウンジの状況 (他のメンバーの存在など) によっては、予測どおりに運ばないこともあり得る。確実に A のそばに席を占められるようにするには、どうしても A の後から (それもあまり間をおかずに) ラウンジに入る必要があるのである。

 すべてに周到な考えをめぐらしていた B が、その辺のことを意識していなかったはずはないから、彼はクラブの外の物かげから A がクラブに入ったのを見届けた後、何食わぬ顔でクラブに 「到着」 したはずだ。このように考えると、この場面は、TAC より 「偶然」 の方がすぐれている。それはすなわち、TAC を改稿する過程で上記の問題に気づいた作者が、両人の到着順を変更した結果であったと思われるのである。

       II-3 『毒入りチョコレート事件』 と The Avenging Chance

 「偶然の審判」 と The Avenging Chance の関係が上述のとおりであるとして、それらと 『毒入りチョコレート事件』 の関係はどのように考えたらよいであろうか。

 「偶然」 と TAC は1.5倍の分量の差があるにしても、まだ一文ずつを突き合わせての比較が可能だったが、中・短篇と長篇となると、同じ手法はとりにくい。が、事件の概要説明の部分に限ってみれば、三者のテキストは共通する部分が多いので、その部分で比較してみると、「偶然」 にはなく TAC にのみある文章が 『毒入り』 にも多く見えるのだ。

 また、前記 「偶然」 と TAC の相違点としてあげた4点のうち、①・③・④ の点で 『毒入り』 は TAC と共通している。② についても、実在事件を引き合いに出しての議論が、『毒入り』 では解決篇の全体に拡大しているものと考えれば、やはり 『毒入り』 のテキストは 「偶然」 よりも TAC のそれに近いのである。

 この段階でまず一つの結論として言えるのは、『毒入り』 は 「偶然」 より先に書かれていたはずだということである。前記相違点 ① (A、B のクラブ到着順) についても、『毒入り』 は TAC と同じなのだから (つまり、『毒入り』 が 「偶然」 の後に書かれたのであれば、当然 A、B の到着順は 「偶然」 にならって改めたであろうから)。

 そこで、問題は 『毒入り』 と TAC の関係如何にしぼられてくるわけだが、先述のとおり筆者は、『毒入り』 は TAC を expand して成ったものと考える。この場合、TAC が未発表であった事実自体は、「偶然」 と TAC の関係を考えた際とは違って、TAC が 『毒入り』 に先行したという推定の論拠とはならないだろう。長篇の成立後、その一部を切り取って短篇化するということは、十分あり得る話であり、『毒入り』 からまず TAC を作り、それを元に 「偶然」 を作ったという流れは不自然なものではないからである。しかし、テキストの細部にまで目を及ぼすと、やはり TAC が 『毒入り』 の前にあったものと考えられるのだ。具体的な論拠を4点あげる。

(TAC が 『毒入り』 に先行したと考える理由その①)
 事件の概要説明の冒頭、B と A が相次いでクラブに現れる場面の叙述において、TAC では時間の不整合が見られ、十分な推敲を経ていないことがうかがわれる。すなわち、「at half-past ten in the morning」 にまずBが来て、「a few minutes later」、A が来た、その時ポーターが確認した時刻は 「exactly half-past ten to the minute」 だったというのである。
 この部分が 『毒入り』 のテキストでは注8「at about ten-thirty」 にまず B が来て、そのうちに A が来た、その時刻は 「exactly half-past ten」 だったという具合に、不整合が解消している。これは、TAC を改稿しながら 『毒入り』 が書かれた結果と見られる。

(理由その②)
 同じく A・B の到着順に関わることであるが、この点について 『毒入り』 の中でも不整合があるのである。事件の概要説明の場面 (第2章) は上記のとおりだが、第14章の中では、

Sir Eustace (=A) is chosen because he’s known to get there (=クラブ) so punctually at half-past ten every morning ……… So Bendix (=B) arrives at ten thirty-five, and there things are.

と述べられている。到着順序が逆になり、それとともに時間も改変されているのだ。
 これは、第2章では TAC の原稿の記述に引きずられて B、A の到着順としていたものの、書き進めるうちに、構成の論理としては B は A の後に到着すべきだと作者が気づいた結果であったように思われる。(その場合、遡って第2章の叙述も改めるべきところを失念してしまったのだろう。そして、『毒入り』 刊行後にこの失敗を自覚した結果が、「偶然」 における改稿となったのであろう。)

(理由その③)
 『毒入り』 の第9章において、ロジャーはボンド通りでたまたま V 夫人に出会い、しばらく立ち話につきあわざるを得なくなるのだが、そこにこんな場面がある (セリフは V 夫人のもの)。

  “You see, Joan (=B 夫人) and I were such very close friends. Quite intimate. In fact we were at school together. ―― Did you say anything, Mr. Sheringham?”
  Roger, who had allowed a faintly incredulous groan to escape him, hastily shook his head.

 ここでロジャーは何事かをつぶやき、ちょっと不審をこめたうなり声をのどから漏らしたわけだが、それはなぜなのか。『毒入り』 をふつうに (頭から順を追って) 読んできてこの場面にさしかかった読者には、その意味が分からないはずだ。
 一方、TAC にも同様の場面があるが、こちらの読者には、ここでピンとくるものがあるのである。なぜ、このような差が生じるのか。
 TACにおいては、V 夫人との邂逅の前に、ロジャーがレインボークラブで昼食をとり、B のやつれた姿を見かける場面がある。その昼食の相手というのが、B の学友だったと自称しながら、その実さして親しくもなかったという人物なのだ。そういう前段があるものだから、ロジャーは V 夫人の 「we were at school together」 という言葉に、思わず 「またかい?」 という反応をしてしまったわけだ。
 ところが、『毒入り』 では、このクラブでの昼食の場面が V 夫人との場面の後に置かれているため、ロジャーの反応の意味が分からなくなっているのである (というより、ここでロジャーがそういう反応をしたはずはないのだ)。この両場面の入れ替えがなぜ行われたのかは不明だが 注9、文脈の整合性の観点からして、先に書かれていた TAC の二つの場面の順序を 『毒入り』 で変更したことは明らかだろう。作者としてはその際、上に引用した部分にも手を加えて、入れ替えの痕跡を消しておくべきだったのである (「偶然」 の場合はクラブでの昼食の場面自体がなくなっているのだから、もちろん痕跡はきれいに拭われている)。

(理由その④)
 TAC においてロジャーは、B 犯人説の裏づけとなる証拠の収集も基本的に自ら行うが、B がアリバイ工作に使ったはずのタクシーの捜索だけはモーズビーの力に頼り、条件を示して警察に集めてもらった運転手の中から、Bを乗せた者を特定できたのだった。
 『毒入り』 でもロジャーは同じ調査をモーズビーに依頼するが、結局そのようなタクシーは発見できず、「B はバスか地下鉄で行ったと見るほうが、これまでに彼が見せた狡猾さに相応しい」 ということにしてしまう。『毒入り』 ではロジャーの推理は誤りということになっているのだから、タクシーが見つかるはずはないわけだが、このタクシーの調査はロジャーの推理を成り立たせるために必須の要件でもないのだから、このくだりはなくもがなという感じがする。警察の力を借りること自体、犯罪研究会の各人が独立して調査活動を行うというルールに違反している疑いがあるから、なおのこと余計なものに感じられるのである。
 これは、先行するTACに書かれていた材料を 『毒入り』 も基本的に引き継いだ結果であろう。『毒入り』 が先に書かれたのであれば、あえて必要でもないタクシーの一件が盛り込まれることはなかったはずだと思われる。

 以上に述べ来たったことを論拠として、筆者は、問題のテキスト三者は The Avenging Chance、『毒入りチョコレート事件』、「偶然の審判」 の順に成立したものと考える。推測も交えつつその経過をたどってみると――

 『絹靴下殺人事件』 の刊行後、1928年の夏から1929年の初めくらいまでの時期に、まず中篇 The Avenging Chance が書かれた。これが雑誌からの注文を受けてのものだったのかどうかは不明だが、仮にそうであったとすれば、雑誌発表は当面見合わされることになった。

 原稿を書き終えてまもなく、作者がこれを長篇化する意図を抱いたからだ。この中篇自体のうちに長篇化の芽が含まれていて、ロジャーがモーズビーから事件の概要を知らされた後、二人が意見交換する場面で、ロジャーが類似点を持ついくつかの実在事件を引き合いに出しながら事件を論じている部分がそれだ。ここで言及した事件のそれぞれに対応する形の解決を考案すれば、そしてそれらを別々の探偵役に語らせることにすれば、新基軸の長篇を生み出せるではないか 注10。かくしてこの中篇原稿を元に解決篇を expand して、作者自ら 「circularly」 と称する (『第二の銃声』 序文参照) スタイルをもつ 『毒入りチョコレート事件』 が書かれ、1929年6月に出版された。

 完成した長篇の中では、元の中篇の解決は真相にあらざるものとして処理されたが、中篇の冒頭に 「Certainly he (=Roger) plumed himself more on its solution than on that of any other」 という一文が見えることからもうかがわれるように、作者はこの解決をすぐれたものと自負し、大いに気に入っていたのだろう (実際、『毒入りチョコレート事件』 における複数の解決の中でも、筆者にはロジャーのそれが最も brilliant なものとして印象に残っている)。そこで、長篇とは別に、この解決自体を独立した一つの作品として残したいという気持にかられたものと思われる。用済みとなった中篇原稿が再度取り上げられ、上記の長篇化の芽の部分などを削り、説明的な記述・セリフで省略可能な部分をかなり刈り込んで、より完成度の高い短篇に仕立てられたのである注11。そうして発表されたのが、1929年9月 Pearson's Magazine 掲載の 「偶然の審判」 であったのだろう。………


Ⅲ 発見されない初出誌の謎

 上述の筆者の推測が正しいものとすれば、『毒入りチョコレート事件』 は 「偶然の審判」 の長篇化だとする従来の expand 説は否定されることになる注12

 すると、「偶然の審判」 の1929年9月初出説に疑問を投げかけるものは、同作が 「copyright 1928」 であるという問題だけになるが、この点の究明は、英米の研究家の今後の調査に待つほかないと思われる。――が、個人的には、筆者は Ⓒ 1928 というのは何かの間違いであろうという気がしている。筆者の 「論証」 の結果と矛盾するという点はひとまず置くとしても、次のような疑問があるからだ。

 1928年初出説が正しいとすれば、「偶然の審判」 は (『絹靴下殺人事件』 刊行後の) 同年6月~12月にどこかの雑誌に発表されたことになるが、それから1年ほどの後に再度 Pearson's Magazine に掲載されたなどということがあり得るだろうか。同誌はべつに再録専門の雑誌というわけでもないし、アンコールとしても早すぎるだろう。

 また、モノは無名作家の小品ではないのだ。当時もはや人気作家の列に加わりつつあったバークリーの、短篇として十分な長さを備えた作品である。1928年 (昭和3年) は昔だが、霞のかなたの大昔ではない。その年に発表されたバークリーの代表的傑作が、今日にいたるも熱心な研究家たちの探索の目を逃れ続けているとは到底思えないのである。それはあたかも、江戸川乱歩の 「押絵と旅する男」 (昭和4年) の初出が突き止められずにいるというのと同じようなことなのだから。

 そのような不思議な事態を受け容れるよりは、筆者は自らの 「論証」 の成果を信じることにしたい。所詮それもロジャー・シェリンガム流の妄説に過ぎぬのではないかという、一抹の不安は抱きながらも。
 
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注1 江戸川乱歩編 『世界短編傑作集』 全5巻の収録各篇には、タイトルページの裏に前説が付されているが (元版の世界推理小説全集版 『世界短篇傑作集』 (一)~(三) にはなし)、その執筆者は誰だったのだろうか。多くのアンソロジーでは編者が前説も手がけるのが一般的であろうが、この場合、乱歩が自ら執筆したということは考えにくい。晩年の乱歩がこの種の細かい仕事を引き受けたとは思えないし、次のような具体的論拠もあるからである。
 ① 「偶然の審判」 の前説の文章は、バークリーの死後に一部修正されている。当初 「現在イギリス推理文壇の長老的存在である」 とあった部分が 「一九七〇年の十二月に、淋しく世を去った」 と書き換えられたのである。バークリーの死 (正しくは1971年3月) は1965年の乱歩の死より後であるから、書換えは当然乱歩以外の人の手で行われたわけだが、もし原文が乱歩の手になるものだったとすれば、このような直接の修正が行われるはずはなく、注記の形で処理されたであろう。
 ② 第1巻所収のロバート・バー 「放心家組合」 と第4巻のヒュー・ウォルポール 「銀の仮面」 の前説中に 「いわゆる奇妙な味」 という表現が見えるが、「奇妙な味」 は乱歩自身の造語なのだから、執筆者が乱歩なのであれば、そういう書き方はしなかったはずだ。


注2 創元推理文庫の 「偶然の審判」 の前説は、この点においても特異である。そこには 「本編は、その長編 「毒入りチョコレート事件」 を短編に圧縮したもので」 と書かれている。この三百字にも満たない前説の中で、1925年発表の短篇が1929年 (という年も明記されている) の長篇を圧縮したものであると書くことの矛盾に、執筆者が気づいていないのは不思議なことだ。

注3 本稿の準備をする過程で気づいたことだが、1929年説自体は、他の文献でも記載しているものがあった。ただし、書誌情報としてはきわめて不十分なものである。
 ① 講談社文庫版 『毒入りチョコレート事件』 (1977年刊) の訳者・加島祥造氏による 「あとがき」 中に、「この 『毒入りチョコレート事件』 は、……一九二九年の作品ですが、彼は同じ年の早くに、『偶然は裁く』 The Avenging Chance という短篇を発表しています」 という一文が見える。久しく 「伊那谷の老子」 としてお暮らしの加島氏に根拠を問い合わせても、たぶんお答えはいただけないだろう。
 ② バーザン&テイラーの A Catalogue of Crime (改訂増補版1989年刊) の第3616項に 「“The Avenging Chance” EQMM Apr. 1950; orig. 1929」 の記載あり。
 ③ 1996年に刊行されたマルカム・ターンブルの Elusion Aforethought: The Life and Writing of Anthony Berkeley Cox は、筆者も 『地下室の殺人』 の解説でバークリーの小伝を書く際に大いに利用させてもらったが、この本のあるページに 「“The Avenging Chance”(1929)」 という記載があったことには気がつかなかった。しかし、他のページにもそれ以上の情報はなく、巻末の Checklist でも 『毒入りチョコレート事件』 について 「the novel is an expansion of the classic short story “The Avenging Chance”」 というお決まりの説明があるだけである。この時点では新しかったはずの1929年説を採用する上で、著者がどのような根拠に基づいていたのかは分からないままである。正直なところを言えば、ディテクション・クラブの設立年をなお1928年としている誤りなどもあり、この本の書誌的情報には十分な信用を置けない感じがしている。


注4 アーサー・ロビンソンのウェブ上の書誌 Bibliography of Anthony Berkeley Cox (http://home.lagrange.edu/arobinson/coxbibliog.htm) は、本篇だけでプリントアウト14ページ分もあるうえ、9ページに及ぶ Supplement もついているという詳細なもので、エアサム・ジョーンズの書誌とともに、現在最も信頼できるバークリー書誌といえる。ウェブの利点を生かして絶えず更新されてきているところが強みで、「Last updated 3 December 2012」。

注5 同書を取り寄せたもう一つの目的は、もちろん、収録作品の初出情報を確認したいということだったのだが、同書にはそうした情報は一切記されていなかった。記載があったとしても、Pearson’s Magazine に掲載された事実が確認できたにすぎなかっただろうが。

注6 実は、ミステリ・ライブラリ版 The Poisoned Chocolates Case にも 「“The Avenging Chance,”copyright 1928 by Anthony Berkeley.」 という記載がある。サンドー説がこれに基づいていたのだとすれば、筆者の 「邪推」 は撤回せねばならないが、アンソロジーの書名の誤読という事実は残るわけである。

注7 新潮文庫版 『毒入りチョコレート事件』 (1963年刊、注3①記載の講談社文庫版の元版) の訳者・加島祥造氏による 「あとがき」 中に、「訳者は短篇と長篇のどちらが先に書かれたか、具体的な資料を持たないので断言はできないが、創作の心理的過程からいって、短篇が先だと考えている」 という一文が見える。

注8 The Avenging Chance と 「偶然の審判」 では、登場人物の氏名は同じものが使われているが、『毒入りチョコレート事件』 ではそれが変えられており、TAC におけるウィリアム・アンストラザー卿とグレアム・ベリズフォードは、『毒入り』 ではユーステス・ペンファーザー卿とグレアム・ベンディックスになっている。本文中の A・B の記号は、『毒入り』 では A はユーステス卿、B はベンディックスを指すわけである。

注9 この場面の入れ替えに伴うものなのかどうか、『毒入りチョコレート事件』 では、The Avenging Chance におけるよりもロジャーがにぶい人物になっている。TAC では、ロジャーは V 夫人から 「B 夫人はフェアプレイをしていなかった」 という話を聞くや、瞬時に事件の全体像を見通せたことになっているが、『毒入り』 では、V 夫人との会話中には閃きは来ず、その後クラブでの昼食を終えた頃になって初めて夫人から得た情報の意味に気づくのだ。(ただし、犯罪研究会での解決発表に際しては、ロジャーは V 夫人の話から即座に真相を見抜けたと話している。作者の不注意による不整合であろうが、うがった見方をすれば、それによりロジャーの虚栄心を描いてみせたのかもしれない。)

注10 このアイディアは、チタウィック氏の作成した、犯罪研究会の各メンバーによる解決の一覧表に集約されているといえるが、同表に 「類似例」 として掲げられている実在事件の過半は、TAC のロジャーとモーズビーの議論において既に言及されていたものである。

注11 The Roger Sheringham Stories の収録作品解題で、エアサム・ジョーンズは同書に初めて収録された The Avenging Chance に関し 「The text ………, which was more than a thousand words longer than the printed version, the latter having been presumably cut by the editor of the original magazine publication.」 と述べている。TAC は 「偶然の審判」 より1,000語以上どころか約3,300語も長いのだが、それを縮小したのはあくまで作者で、ジョーンズが推測しているような雑誌編集者の仕事ではなかったと思われる。TACから 「偶然」 への改稿は、単に省略可能な文章を削っただけではなく、パラグラフ単位で新たな文章が書かれた部分もあり、また、A・B のクラブ到着順の変更といった内容的な吟味も加えられたものだったからである。

注12 セイヤーズの Tales of Detection の序文については、たとえばこんなふうに考えることもできるのではないか。――バークリーと親交のあったセイヤーズは、あるとき 『毒入りチョコレート事件』 の成り立ちについて質問した。作者は、あの中のシェリンガムの解決だけで一篇に仕立てて書いた作品があって、それを発展させたのだと答えた。それから数年を経た時点では、未発表原稿の存在など知らぬセイヤーズには、バークリーの言っていた元の作品というのは、「偶然の審判」 のこととしか考えられなかった。……こんな問題は、バークリーなら何通りもの解決をひねり出してくれたことだろう。

初出:「ROM」 No.139 (2012年11月発行)

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(付記)

 本稿が初出誌の 「ROM」 に載った際、小林晋氏から次の指摘をいただいた。Ⅲ節で 「偶然の審判」 が1年ほどの間に二度も雑誌掲載されたとは考えにくい旨述べた部分に関して、初めは新聞に掲載された可能性もあるのではないかというのである。それは筆者の見落としていた可能性で、たしかに、初出が新聞だったとすれば短期間のうちに雑誌に再録されたとしてもおかしくはない。しかし、筆者としては II-3節に述べたとおり、テキストの内容から 「偶然の審判」 は 『毒入りチョコレート事件』 より後に成立したものと考えるので、やはり新聞も含めて1928年中の発表はなかったはずだと思う。ただし、未発表と考えられてきた中篇版 The Avenging Chance が、同年中に新聞に掲載 (連載) されていた可能性はあるかもしれない。そうであれば、「copyright 1928」 の問題も解決されることになって都合がよいのだが。

                                                  (2013.5.25掲載)

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(付記2)

 これも小林晋氏からのご教示だが、「偶然の審判」がセイヤーズ編『探偵・ミステリー・恐怖小説傑作集』第二集(1931)に収録された際には、「from Pearson’s Magazine, 1929」と明記されていた(注3関連)。本文の論旨に直接影響するものではないが、1929年説を裏付ける有力な傍証となろう。

(付記3)
 弾十六氏のブログ記事「バークリー「偶然の審判」初出の謎を解く?」及び「事実は驚愕すべきものだった」で重要な事実が明らかにされた。それによると、

※1929年にアメリカのFunk&Wagnalls社から出た全10巻のアンソロジー『World’s Best One Hundred Detective Stories』の第2巻にバークリーの「The Avenging Chance」が収録されている。
※そこには「copyright, 1928, by Anthony Berkeley」と明記されている。
※同作は中篇版である(現行の中篇版と一部異同がある)。

この事実は意外ではあったが、そうと知らされてみれば納得できるものである。拙稿で提示した仮説は、
① 1928年の夏から1929年の初めくらいまでの時期に、まず中篇版「The Avenging Chance」が書かれた。
② 中篇版を拡大して『毒入りチョコレート事件』が書かれた(1929年6月刊)
③ 中篇版を縮小して短編版「偶然の審判」が書かれた(1929年9月発表)
というものだから、今回の事実はまさに①の裏付けとなる。謎として残っていた「©1928」の問題も、それが中篇版のことだったとすれば謎ではなくなる(短篇版の初出は「Pearson’s Magazine, 1929年9月」で確定だろう)。中篇版の間での異同の意味、サンドーが(前記アンソロジーの存在を知らなかったと思われるのに)「©1928」と記した理由など、なお精査されるべき問題はあるが、「The Avenging Chance」をめぐる主要な謎はほぼ解明されたと考えてよいのではないかと思う。

(2024.4.15掲載)


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