魔神アスモデの裔

真田啓介




※本稿は、ケイト・サマースケイル 『最初の刑事』 (早川書房) を読了された方を読者に想定したエッセイです。したがって、同書を未読の方に対する配慮はされていませんので、ご注意ください。


 探偵小説にはとんとご無沙汰しているし、熱を上げていた頃にも犯罪実話の類には今一つ興味を持てなかったから、今回ケイト・サマースケイルの犯罪ノンフィクション 『最初の刑事』 を手に取ったのは、不思議なめぐり合せというほかない。

 ある日ふと書店でこの本を見かけ、『最後の刑事』 というのもあったっけ、あれはたしかピーター・ラヴゼイ――などと思いながら素通りしかけたとき、オビの 「サミュエル・ジョンソン賞受賞」と いう文句が目にとまった。ジョンソン博士は私の大のお気に入りである。思わず知らず手がのびてページを繰ると、今度はウィルキー・コリンズの 『月長石』 からの引用が目に飛び込んできた。『月長石』 は私の最愛の探偵小説の一つで、それはミステリ・マニアを廃業した今でも変わらない。なおパラパラとやっていくうちに、『月長石』 が著名な犯罪事件を一部下敷きにした作品であったことも思い出されてきて、登場人物一覧を見ると、たしかにその名がある。さてこそ 「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」 とは 「コンスタンス・ケント事件」 のことだった。

 ことさら 「ヴィクトリア朝の緋色の研究」 に手を染めたことのない私でも、長年ミステリを読んでいる間に、コンスタンス・ケント事件のことは何度か目にしていた。それが思春期の少女による幼児の弟殺しだというくらいのことは頭に入っていたが、さらに進んでこの事件を詳しく調べてみたいというような気は起きなかった。

 私の愛読した英国の探偵作家たちは、アントニイ・バークリーやドロシイ・L・セイヤーズを筆頭に、その多くが実在犯罪事件に深い興味を示し、自作の材料に使ったり、事件そのものの研究に取り組んだりしていたが、正直なところ、私には彼らのその方面の情熱がよく理解できなかった。その点は江戸川乱歩と同様の感覚で、犯罪実話というのは新聞の三面記事の延長にすぎない、ナマの現実を超えた次元にこそ探偵小説の面白さはある筈だ、といった考えでいたのである。シャーロック・ホームズがスコットランド・ヤードの刑事たちに過去の犯罪記録を丹念に読み込むことを勧めているのを見ても、それもけっこうだが、もっと文学を読んで想像力を養いたまえよ、なんて思ったりしていたものだ。

 そんな私であったが、『最初の刑事』 には何か惹かれるものがあった。何しろ 『月長石』 である。サミュエル・ジョンソンである。この持ち重りのする本の中には、読むに甲斐ある文章がぎっちりつまっていそうな気がした。ためらうことなく私は本を買うことにしたのだが、その判断が正しかったかどうかは何ともいえない。読み始めるや三日間にわたって私はこの本に夢中になり、挙句の果てに 〈探偵熱〉 ならぬ 〈探偵小説熱〉 のよみがえりをも感じ始めている始末なのだから。

 実によく調べて書かれた作品だ、というのが第一印象である。ノンフィクションをあまり読まない私には、膨大な資料を駆使して、事実のレンガを一つずつ積み上げるように叙述を進めてゆくこの本の手法は新鮮であり、また、圧倒的な説得力を持つように思われた。その辺の興趣を味わい尽すためには、多少煩わしいけれども、この本は詳細な注もすべて余さず読む必要があるだろう。警察や法廷のファイル、新聞、雑誌、書籍、パンフレット等々、ほこりをかぶった文書の堆積の中から生動する物語が立ち上がるさまには、目を見張る思いがする。想像力もけっこうだが――などと逆に思いたくなってしまうのは、私の無定見を暴露するだけのものだろうか。

 『最初の刑事』 は、基本的には著名犯罪事件の再検証・再構成という、これまでも多数書かれてきたタイプの作品だが、従来の類書と一線を画している (と思われる) のは、事件をめぐる諸要素の中で特に 「探偵」 のパートを重視し、それと相まって一種探偵小説仕立ての構成を採用している点である。原題 (THE SUSPICIONS OF MR. WHICHER) にも示されているように、スコットランド・ヤードの敏腕刑事ジョナサン・ウィッチャー警部の活躍に焦点が当てられ、彼を中心とした捜査側の視点が物語を貫いているのだ。

 もっとも、ウィッチャーは小説中の探偵とは違って、そう目ざましい働きを見せるわけではない。彼が現地に派遣されたのは事件後二週間も経過してからのことであり、現場はほしいままにつつき回されて、新たな手がかりの発見など望むべくもなかったし、地元警察の協力も十分には得られなかった。こうした状況の中で証拠固めが思うにまかせず、一度勾留したコンスタンス・ケントを釈放せざるを得なくなるという失態を演じるのだが、彼の直感的洞察は、当初から事件の核心を見通していたのだ。

 ウィッチャーに対しては、早い時期からディケンズが讃辞を呈しているほか、一世紀を隔てて、ジョン・ディクスン・カーもオマージュを捧げている。時代物の長篇 『ハイチムニー荘の醜聞』 (1959) がそれで、1865年 (ロード・ヒル事件の五年後。この年、コンスタンス・ケントが犯行を自白した) の英国を舞台に、成功した弁護士一家の秘密をめぐる殺人事件の探偵役としてウィッチャーを登場させている。彼は前年警察を退職し、当時は私立探偵の身分だった。もっともこの作品、凝り性のカーのことだから時代考証は行き届いているものの、ミステリとしては上乗の出来とは言いかねたので、ウィッチャーがさほど名探偵にも見えなかったのは残念である。

 捜査側の視点を中心に描かれたことにより、「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」 は、後に探偵小説の一典型として盛行した 〈カントリー・ハウス・ミステリ〉 の原型たる相貌を呈している。複雑な愛憎と秘密を抱えた家族。複数の人物に犯行が可能であった状況。屋敷の間取り図。開いていた客間の窓。消えたナイトドレス。現場に落ちていたフランネルの胸当て。「犬が吠えなかった」 事実。ヤードから来た刑事と地元警察の微妙な関係。……その後のお屋敷物ミステリのあれやこれやが髣髴としてくる道具立てである。本書の面白さの中心は、草創期の探偵の活躍する姿とともに、探偵小説の萌芽、というより、探偵小説がそこから育ってきた土壌を生き生きと描き出しているところにあるといえよう。

 加えて、「犯人」 パートの描写が十分になされている点も特筆すべきである。これは探偵小説仕立てという枠組みからは外れる部分だが、関係者のキャラクターは資料に基づきていねいに書き込まれ、厚みのあるものになっている。とりわけ 「犯人」 パートの二人 (というのはもとより推測にすぎないが) については、生涯の終わりに至るまで追跡され、「単なる探偵小説」 では味わえない複雑な余韻をもたらしている。

 この 「犯人」 パートにおいても、しかし、この叙述を成り立たせているのは 「探偵」 なのだ。ここでは著者自身が探偵となって、歴史の片隅に埋もれかけていた興味深い事実を明るみに出している。本書のキーワードは、やはり 「探偵」 (detective/detection) ということになるのではないか。

 「探偵」 とは何か。――これは、かつてミルワード・ケネディの異色作 『救いの死』 を読んだ際にも考えさせられた問題だが、本書を読み終えた後、改めてこの問いが私の頭を占めることになった。

 「「detect (看破する、探偵をする)」 という語は、ラテン語の 「de-tegere」 つまり 「おおいをはがす(unroof)」 に由来し、探偵 (detective) のもともとの姿はユダヤの悪神アスモデ、家々の屋根をはがしてその中の生活をひそかにさぐる跛行の魔神だった。(中略) ロード・ヒル殺人事件に関する著書のなかでステイプルトンは、ケント一家が暮らす家の 「プライバシーをのぞき込む」 アスモデの姿に模して、この事件への世間の熱中ぶりを表現した」(234頁)

 本書の中で最も興味深く感じた一節を引用してみたが、ここを読んだときすぐに思い及んだのは、カントリー・ハウス物を中心に探偵小説で多用された家の間取り図である。あれら平面図は、アスモデが屋根をはがしてのぞき込んだ、その目に見えたさまの表現だったのではないか。実際、本書にはこんな記述も見られた――「息子が殺されたあと何週間も、ロード・ヒル・ハウスの間取り図を警察から要求されると、サミュエルはまるで誰かが家の屋根をはずそうとしていると言わんばかりにむきになってはねつけた」(174頁)

 次いで連想したのは、江戸川乱歩の 「屋根裏の散歩者」 である。共同住宅の下宿屋の天井裏を這い回って、節穴からのぞきを繰り返す男――それはもはや犯罪者なのだが、アスモデの所為と何と似ていることか。郷田三郎と明智小五郎には、たしかにどこか似たところがあった。

 おおいをはがして秘密をさぐる者。のぞき、スパイ、詮索屋としての探偵。――探偵小説で活躍する知的ヒーロー、愛すべき個性と畏るべき能力をもった名探偵のイメージからは遠く隔たった、卑しくも下劣な存在の姿がそこにある。そして、それこそが探偵の出自だというのだ。

 本書を読み終えて間もないときのこと。2011年7月21日付の 「読売新聞」 に、「英紙、探偵使用が常態化」 という見出しの記事が載った。イギリスの某大衆新聞の盗聴疑惑に関し、同紙の元編集長が下院の特別委員会で、私立探偵を雇って 「情報収集」、すなわち盗聴で個人情報を入手したりすることは新聞業界で常態化していると証言した、という内容である。その少し前には、わが国で消費者トラブルを解決するという探偵業者についての苦情や相談が急増しているという記事も読んだ記憶がある。現実世界における探偵というのは、魔神アスモデの末裔たる血筋をあらわにしているように見える。

 草創期の名探偵ウィッチャーに対しても、アスモデの烙印が押された。これにはイギリスの階級問題によるところ――労働者階級の刑事が中産階級の問題に手出しすることへの不快感――もあったようだが、プライバシーを侵して捜査を進める彼に、轟々たる社会的非難が浴びせられたのだ。この辺の事情を、著者は次のように分析している。

 「ウィッチャーがこれほど手ひどく糾弾されたのは、生まれたての新聞読者たち多数が心の目でしていたことを彼が現にやってみせたからかもしれない――他人の罪や受難をのぞき、詮索し、つつき回して知りたがる。ヴィクトリア朝の人々はそういう刑事の中におのれの姿を見、集団自己嫌悪に駆られて彼をつまはじきにしたのだ」(256頁)

 新聞読者の欲望に直接応えるのはジャーナリズムであるから、新聞記者もまた 「おおいをはがす」 者としての detective たることを免れない。彼らもアスモデの徒なのだ。日々繰り広げられている報道合戦のあり様を見れば、detective たる性格の色合いは、刑事や探偵よりも濃いかもしれない。

 探偵というのがそうした負の価値の体現者であるとすれば、探偵小説の主人公たる名探偵たちは、そもそも探偵なんかではないかのようだ。彼らは知的な英雄であり、すぐれた能力を発揮して難解な事件の謎を解決することにより、混乱のうちに秩序を取り戻し、悪を指弾して正義を実現する。現実世界の探偵業者とは別人種なのだ。少なくとも、そう思わせるように、探偵作家たちは彼らの主人公を描いている。

 しかし、彼らの祖先たるウィッチャー警部もまた、アスモデの裔とされたのだ。探偵を名乗り、探偵としてふるまう以上、アスモデの血は彼らの体内にも流れ続けているのではないか。

 ほとんどの探偵作家が探偵の負の側面を無視し続けてきた中にあって、この問題を意識していたと思われる少数の作者の一人が、ロナルド・ノックスである。ブラウン神父が犯罪者の心理や手口にも通暁していたように、僧職にあった彼は、人間性の表も裏も知り尽くしていたのであろう。ノックスの創造した探偵役マイルズ・ブリードンは、『三つの栓』 (1927) で初めて登場した際、「不本意ながらの探偵」 として紹介されている。彼は保険会社の調査員であり、したがって職業として事件に関わることになるのだが、探偵仕事を卑劣なスパイとみなしていて、いやいやながら調査に取り組むのである。

 ブリードン物に先立って書かれた 『陸橋殺人事件』 (1925) は、ユーモアたっぷりの楽しい作品だが、探偵批判の書でもある。ブリードンとは反対に探偵をやってみたくてたまらないモーダント・リーヴズは、「秘密情報収集」 の仕事を志願していた高等遊民であり、彼の探偵の動機が奈辺にあるかがうかがわれよう。ひねり出す推理は事実に裏切られてばかり、おせっかいでハタメイワクな彼のふるまいが、笑いの対象にされる形で咎められているのだ。

 からかいや諷刺からさらに一歩を進めて、負の存在としての探偵の本質に迫ったのが、先にも言及したミルワード・ケネディの 『救いの死』 (1931) である。地方の名士グレゴリー・エイマー氏は、ヒマと金にあかせて探偵仕事に首を突っ込む。往年の人気俳優が突然引退した謎を解明しようというのだ。こうしたアマチュア探偵気取りの人物というのは昔から存在していたようで、『最初の刑事』 の中にも、事件に関する疑問点を列挙したパンフレットを作成した匿名の 「法に従う一弁護士」 のことが書かれている。彼は 「一介のアマチュア探偵、鋭い理解力と法医学の心得を持つ新聞読者、地元の詮索屋、何も見逃さない有閑人」 を自認していた (286頁) というのだから、モーダント・リーヴズやグレゴリー・エイマーの先達である。

 エイマー氏はなかなかの推理能力の持ち主ではあるのだが、うぬぼれ屋の詮索好き、不愉快で傍迷惑な、どう見ても人好きのしない人物である。表面きれいごとで取り繕ってはいるが、彼の探偵活動が下劣な欲望に発していることは、誰の目にも明らかなのだ。物語の結末では、そんな彼に対する 「報い」 が用意されている。それは 「探偵」 に与えられた罰なのか……。

 この作品は、アスモデの裔としての探偵の姿を描いて成功したものと思われるのだが、大方の読者には不評だったようだ。2000年にわが国で翻訳紹介された際には、「不愉快」 「気持悪い」 といった声が多く聞かれたように記憶している。それは、ウィッチャーが社会から糾弾されたのと同じ理由――読者がエイマーのうちにおのれの姿を見て嫌悪したことによるのではなかったか、と私は考えている。

 探偵作家も商売である。売れない作品を好んで書くつもりはなかろう。彼らの紙上探偵がアスモデと血のつながりがあることなど、決して表に出してはならないのだ。臭いものにはフタ。かくして、名探偵人物録は人気者たちのプロフィールで占められることになった。個性的な風貌や持ち物、ユニークな趣味や特技が競うように繰り出される。探偵の動機にだけは口をつぐんで。

 名探偵たちのカマトトぶり。探偵作家たちの知らんぷり。それはなるべくしてなった結果であり、それが今日の探偵小説の文運隆盛をもたらしたのでもあろうから、そのこと自体をどうこう言うつもりはない。ただ、そこに探偵小説の限界がある、とは考えてみてもよいのではないか。物語の主人公として探偵を描きながら、探偵の本質は――少なくともその一側面は――隠蔽したままなのだ。それはさながら、探偵小説が死をめぐる状況をつぶさに描きながら、死そのものについては、ほとんど何も考えてはいないのと同じことである。探偵小説が広く迎えられている理由も、時にあきたらない思いをさせられる所以も、そこにあるように思われるのだ。

 探偵小説はしょせんエンタテインメントなのだ、楽しく読めればそれでいい。そういう立場もあるだろう。というより、それが支配的なのだろう。だが、「不都合な真実」 には覆いがかけられ、我々が生を営むこの世から遊離した世界で、もっぱら商業的成功を目的に読者に迎合した作品ばかりが制作され、それがまた一時の慰みとして次々に読み捨てられる――その繰り返しにむなしさを覚えることはないか。探偵小説が――少なくともその最上のものが――単なる消閑の具以上のものであってほしい、と願うほどには、私はまだ探偵小説を愛している。

『最初の刑事』 の 「結び」 は、次のような探偵小説讃歌でしめくくられている。

 「物語の中の探偵は、わたしたちを殺人に直面させることでスタートし、わたしたちを赦免することで物語を終わらせる。探偵は、わたしたちの嫌疑を晴らしてくれる。不明確な状態からわたしたちを解放してくれる。わたしたちを、死に臨む状況から救ってくれるのである」(425頁)

 しかし、この認識は間違っていると私は思う。「死に臨む状況」 とはもちろん比喩的な意味であろうが、探偵小説の読者は、いかなる意味においても死に臨む状況などは経験しない。読者はむしろ死から最も遠いところにいるだろう。探偵小説の中には、死はないのだから。


                                         (2011.8.2掲載)

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