水 盤
ナイオ・マーシュ 清野泉訳
《ベイティ・アンド・バート》 の競売人ベイティ氏は、自ら所有する薄暗くたまらないほど陰気な店の中央に立ち、これから二時間以内に売りさばこうと考えている競売品の山を冷ややかに眺めていた。
今日は余り物の日だった。過去の競売のどうしようもない売れ残りがひと山と、競売人ベイティ氏の手腕にかしずく奇特な人々の心に、ほどほどの危険を冒す気持ちをかきたてるための品がいくつか置かれていた。小ぶりであっさりとしたデザインのたくさんの磁器、なんの変哲もない綿ギャバジンドレスが三着、時代物の蓄音機が一台あった。蓄音機はベイティ氏の助手の熱心な頼みに応じて、どうしようもないほど大昔のフォックストロットを奏でていた。古い五線紙の山と古本のコレクションもある。薄汚れた壁には、三点の油絵がわびしくかかっていた。ひとつは一見したところ、遊走腎に悩みつつ池にたたずむ下品なピンク色をした数匹のフラミンゴだった。近くから見ると睡蓮の葉だとわかる。他のふたつはぞっとするほど陰気な風景画だ。
この上品で人をもの悲しい気分にさせるがらくたの真ん中に、現在ベイティ氏の注意をひいている大理石の水盤があった。驚くほど美しい品にもかかわらず、ベイティ氏は心の底からそれを嫌悪していた。外観は見事なものだった。純粋なギリシア風の浅い器で、底の部分はふっくらと丸みがあり、縁が美しく斜めに反っている。縁の下部には、ドリス人の羊飼いが春の一日を費やして編んだような二本の花飾りに挟まれた、果実と葉の帯状の模様がついていた。縁の内側は少し平らになっていて、かつてはそこに石のニンフが腰をおろして水に足を浸し、今も水盤の脚部にうずくまるファウヌスを斜に見ていたに違いない。しかし、今はニンフの姿はなかった。
「こんなものをどうする気だ?」 ベイティ氏は助手に尋ねた。「一体なにを考えている、アーン……、おめでたい奴だ……つまり、わたしが言いたいのはだな……誰がこれを買うんだね?」
「ぼくは好きですけど」 とアーンが答えた。
「いやはや、なにがおまえの気に入ったのか、わたしにはわからんね」
もう少し世の中のことがわかっていたら、アーンも
「この水盤についてはなにも知りませんが、自分の好きなものについてはよくわかっています」
といかにも素人の言いそうな返事を返していたことだろう。だが、この手の常套句に通じていなかった彼は、ただ喧嘩腰に言い返しただけだった。「どこがいけないんですか? 素晴らしいじゃないですか」
「確かにおまえならこれで風呂にはいれるかもしれんな」
ベイティ氏はつまらない冗談を言った。「おまけに下に坐りこんでいる山羊足の代物といったら……まったく!」
客がやってきて品物を熱心に見はじめた……。
ベイティ氏がどこから客を連れてきたか、よくわからなかった。参加者のほとんどは、無駄遣いの度合いを競い合っているようなコートを身につけた女たちだった。半ダースほどの男たちは入口をうろつき、さえない冗談を飛ばしていた。いつもの午後の競売に、いつもの客がやって来て、ほじくり回し品定めをしている……顔を突きだし胡散臭そうに薄汚れた品をはねつけたり、なぜだかわからないが彼らの根深い物欲を魅了したみすぼらしい品を物欲しそうに唇をすぼめて値踏みしたりした。
小さな集団が、石の水盤のまわりに集まった。
「ミセス・クラーク、前庭にぴったりかと存じますが」
とベイティ氏が陽気に言った。
「なんに使うものなの?」 話しかけられた女が尋ねた。
「えっと……ほら、あれです……つまり、観賞用の壺です」
「まあ!」
「大変よい品です」
美術商が人込みを押し分けて進みでて、つまらなそうに水盤を眺めた。
「きみがこんなものに興味があるとは知らなかったよ」
ベイティ氏は馬鹿にしたような声に気づいたが、返事もせずに毅然として壇にあがり、鼻眼鏡をかけると、場慣れた様子で観衆を見渡した。いきなりかつ猛烈に、専門家らしい態度で口火を切った。
「さて、それではみなさん」 効果的に少し間をおくと、客たちはベンチ、椅子、荷箱、部屋の後方の階段に腰をおろした。ベイティ氏はよく言葉を選びながら、皮肉な目をこちらに向けているアーンが誰からも見えるように掲げた石炭入れの美点を詳細に語った。
「さて」 とベイティ氏が繰り返した。「美しい品です。新品同様で、二ポンドの値打ちがございます。おいくらからはじめましょうか、ご婦人がた? どうぞ、値をおつけください」
これがお約束の台詞だった。いくら下手にでてもベイティ氏に入札を始めさせることはできなかったが、いったんこの台詞が口にのぼれば、あとはいつもの流れに乗ってことは進み、五分後には
“二ポンドの値打ちがある” 石炭入れは八シリングで競り落とされた。その後にすぐに、肉料理用の盛り皿とバイロンの作品集が続いた。
ベイティ氏はどうやら絶好調らしく、激しくまくしたて、あるいはときおり軽口を交えたり、また悲しげに
「どこが気に入らないのですか、ご婦人がた?」
と尋ねたりしていたが、内心穏やかではなかった。あの石の水盤……すっかりアーンに気に入られた水盤……がベイティ氏の心をしっかり捉えていた。彼自身も認めたであろうが、そういう経験は
“好ましくなく” かつ、めったにないことだった。ベイティ氏は、どんなときでも自分の空想にふけるようなことはなかった。彼は自らの心の内には関心がなく、石造りのつまらない品に刺激されたことにかなり苛立っていた。水盤の脚部に毛むくじゃらの尻をのせてしゃがんでいる石の小さなファウヌスに、階段の一番上から射す一条の陽光がまともに当たらないでくれと思った。なんとか客に視線を注ごうとしたが、ベイティ氏の目は、ファウヌスがじっとみつめる水盤の縁のなにもない平らな部分に向けられていた。さっさと競売にかけて、この品を忘れたほうがいい。バイロンの作品集を美術商が三ポンド六シリングで競り落とすと、ベイティ氏は急いで言った。
「ロット番号五番。観賞用の壺でございます」
この仰々しい説明に、アーンが突然競りを開始した。
「いくらからはじめますか?」 彼は大声をあげた。
「おまえの役じゃない。あっちへ行ってろ」
とベイティ氏が言った。
アーンは動揺を隠しつつ、壇上から群衆の静かな忍び笑いのさざ波の中へとおりていった。ベイティ氏は客の笑いをありがたいと思った。台詞のおぼつかない喜劇役者さながら、最初の口上まで落ち着くための猶予が与えられた。言葉が見つからなくてそわそわしていたせいもあるが、ひどくいまいましい状況だった。
誰も値をつけず、水盤は彼の手に戻るかもしれない。それはまるっきり彼の望まないことであった。噴水盤、鉢、壺、なんであれ
“なんとも妙な品” であり、怪しげな感じがする。さあ、はじめよう。
「では、みなさん、とびきり素晴らしい品をご用意しました。上品な石造りです。前庭の芝生に置けば、お住まいはたちまち高級で洗練されたものになるでしょう。さて、おいくらからはじめましょう?」
ベイティ氏がまったく期待せず口をつぐむと、驚いたことに穏やかな男の声がした。
「三ポンド」
ベイティ氏は見事に冷静さを保った。おそらく目は多少うつろになっただろうが、しかしなんとか素っ気なく答えた。
「さてみなさん、どこかではじめなければなりません。三ポンドの値がつきました。では三ポンドからいきましょう……」
声を落とし、型通りにしゃべりはじめる。「三ポンド――三ポンド――三ポンド――三ポンドです」
階段の一番上でなにやら騒ぎが起きていた。射しこむ光のせいで、ベイティ氏はその方向をはっきりと見ることができなかった。ぼんやりとくすんだ人影が、金箔をはった衝立の後ろで互いに押しあっている。突然、澄んだ驚くほど若々しい声がしたが、ベイティ氏にはなにを言っているのかわからなかった。
「競り上げですか?」 ベイティ氏が尋ねた。同じ声が、同じように鳥に似た叫び声をあげた。
「三ポンド十シリング」 ベイティ氏はあたりをつけて言い、訂正されなかったのでもう一度がなり立てた。
「四ポンド」 と男の声がした。「四ポンド」
とベイティ氏が繰り返した。日の光の射しこむ方向で、青白いむき出しの腕がかすかにあがった。なんとも奇妙だ!
「五ポンド」 とベイティ氏が言った。
「十ポンド」 と最初の入札者が言った。お気に入りの品を見せびらかしたいというアーンのばかげた考えが、混乱して追い詰められたベイティ氏の頭にも浮かんだが、彼は立派に持ちこたえた。
「さらに上ですね――ありがとうございます。十ポンドです。この素晴らしい観賞用の壺に十ポンドの値がつきました。十ポンドです」
無意識に女の入札者の声のするほうに顔を向けると……あやうく卒倒しそうになった。
階段の一番上のぼんやりした人影が入り乱れているなかから姿が浮かびあがり、はっきりと見てとれた。それは愛らしい娘だった。歩いているというより、手すりの上にふわっと浮かんでいる。手すりは、石の水盤の縁の平らな部分と同じ幅だった。その手すりに娘が腰をおろし、両手に顎を乗せて、ずっと下のファウヌスを斜に見おろしている。ベイティ氏がまず感じたのは、綿ギャバジンのドレスを彼女に放り投げたいという衝動だった。
娘はまったくなにも身につけていなかった。
恵みの太陽が直接照らすと娘の肌は白く、彼女は石に刻まれた像のようにじっと坐ったまま、あたりに目をやっていた。その姿に、ベイティ氏は頭を強打したあとのひどい脳震盪のような感覚をおぼえた。彼の声、手足、頭は働き続けていた、異様に活発に……全身へとへとだった。彼は声を張りあげ続けた。娘はうなずいた。入札を受けつけて、再び大声を出す。そのとき、最初の金額を提示した学者風の年配の紳士が、正面扉の側柱にもたれているのに気がついた。「十五ポンド」
階段の上に目もくれず、男は平然と言った。
ベイティ氏はちらっと目をやった。この状況と競りの被害者である哀れなベイティ氏は、他の誰も気づいていないらしい真っ裸の娘からの入札を受け続けた。それは妙なことだった。初老の立派な婦人たちが娘を取り囲んでいたが、自分たちと同じくきちんと服を着ているかのように注意を払っていなかった。娘は狂っているのだろうか? みながおかしいのだろうか? それとも彼自身が正気でないのだろうか? 額に冷や汗が浮かんでくる。
「二十ポンド。ありがとうございます、マダム」
娘がゆっくりうなずき、ベイティ氏は視線を戻した。「さあ、お客さま、値があがりました……二十ポンド……格安です」
「二十五」
「二十五ポンドを受けつけました」 えっ、またしても彼女がうなずいている!「三十、三十ポンドです……三十ポンド……いかがですか、みなさま、どうされました?」
(いやはや、本当に!) 「三十ポンド、受けつけました!」
「ちょっと待ちなさい」 紳士が静かな声で言った。「もうひとつ像があるはずだが?」
「もうひとつですって!」 この駄目を押すような無作法に分別を失いかけたベイティ氏が叫んだ。「別の像とは! ほかにいくつあるというんですか?」
机の縁をつかんで中央あたりを睨みつけた。
「以前は、水盤の平らなところに腰をおろした女の像があったはずだ。その像はあるかね? 取りはずせるのか?」
ベイティ氏は困り果てた。いつもの仕事がすっかり反宗教的で不道徳なものになっている。像に関するこの話はなんなのだ? この厚かましい要求は、完璧な品の調達を求めているのだろうか? 客たちは彼になにをしてほしいのだ?
「像を欲しいのでしたら!」 驚愕する紳士に向かって突然怒鳴った。「それでどうですか!」
そしてベイティ氏は激しくしかし劇的に、例の不快な客を指さした。紳士は眼鏡を押しあげると、部屋の向こうをじっと見つめた。
「ふむ」 と紳士が言った。
「どういう意味ですか? 『ふむ』 とは?」
ベイティ氏がわめく。「『ふむ』 とおっしゃったと思いますが」
「競りをすすめる前に」 と紳士が言った。「わたしはこの取りはずされた部分をよく見たい……」
「ごもっともです」
「……おそらく噴水もついているんだろうな?」
「おそらく……!」 ベイティ氏は舌がもつれた。厚かましい男が欄干の娘に近づいた。娘は男を気にもとめず、相変わらず凍りついたかのように両手に顎をのせ、口もとにわずかに笑みを浮かべている。同じような微笑が鏡のように紳士の顔にも浮かんでいた。少しぼんやりした表情のアーンに目をやり、小声で言った。「あの娘をもう一度玉座につかせることはできるのか?」
にわかに色めきたったベイティ氏の目の前で、男たちが彼女を倒して階段からおろし、石の水盤に置いた。彼女はそこに落ち着くと太古の昔へと去り、日差しを受けてただただじっとしていた。
「四十ポンド……全部ひっくるめて」 と紳士が言った。
それが最後のひと言となったが、ベイティ氏はうまく処理した。
「まとめて四十ポンドより高値をつける方はいませんか?」
狂ったようにハンマーを振り回して、早口で言った。高値の声はなかった。「彼女を持っていきなさい」
息を切らしながら言った。「これで終了です、ありがとう、みなさん」
競売の短さに唖然とした客たちは、ぽつぽつ帰っていった。品物を買った男は――「あの男がなにを買ったのか、誰にもわからない」
とベイティ氏は思った――アーンに小切手を渡し、住所を告げて、ベイティ氏にうなずいてから足早に去った。
ベイティ氏とアーンは、コメディアンのように同時にしゃべりだした。ふたりは客の姿が見えなくなると、さっと向きあい、まったく同時に質問を口にした。
「どこから持ってきたんだ?」
「どこから持ってきたんですか?」
「なにが!」
「なにが!」
「像だ」
「像ですよ」
「おまえは知らないのか!」 ベイティ氏が茫然として言った。
「あなたが買ったんだと思ってました」 とアーン。ベイティ氏はうつろな表情を浮かべた。
「誰が四十ポンドまで値をあげたんですか?」
とアーンが尋ねた。「ぼくにはその人がわかりませんでした。とにかく、誰だったんです?」
「見てくれの……見てくれの悪い女だ」
「立派な服を着た年配のご婦人ですか?」
「服だって?」どうにかこうにか返事をした。「立派な服ではなかったな」
「でもベイティさん、ぼくがあれをなかなかいい品だと言ったのも、どうやらそう間違いでもなかったでしょう」
「わたしは真っ当じゃない売り立てだったと思っている。あの……値をつける像のことを考えると……」
「おっしゃっている意味がわかりませんが」
「おまえにはわからんだろうさ」 ベイティ氏は静かに言った。
(2007.11.22掲載)
「水盤 (The Figure Quoted)」 は、1927年のクリスマスに、ナイオ・マーシュが地元の新聞
《クライストチャーチ・サン》 に発表した作品。アンソロジー
《New Zealand Short Stories》 (1930) に採録されたあと、ながく埋もれたままになっていたが、ダグラス・G・グリーンが発掘して
《The Collected Short Fiction of Ngaio Marsh》
(1991) に収録した。ご覧の通り、競売場を舞台にした骨董綺譚ともいうべき内容だが、当時のマーシュはニュージーランドのクライストチャーチで演劇に関わりながら、《サン》
紙に詩や短篇小説を寄稿していた。探偵小説第一作
『アレン警部登場』 を書き上げ、本格的なデビューを飾るのはその7年後、1934年のことである。
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本棚の中の骸骨:藤原編集室通信
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